森の中を、アンカーの射出音とガスの噴射音が幾重にも響き渡っていた。そのなかで、一際ワイヤーの巻取り音が速い者がいる。風のような滑らかな巻取り音は、徐々に森の出口へと移動していった。
「リヴァイ!○九、○三!」
森から飛び出してきた黒い影を見て、時計を持っていた記録係が短く叫んだ。一呼吸後、次々に同じような人影が森から飛び出してきて、地面に着地していく。
「速いな。兵団史上最速の記録だ」
入団から半年足らずの新兵を集めての立体起動術の訓練。森の中における飛行訓練を監督していた班長のミケ・ザカリアスはその記録に思わず感嘆の声を漏らした。
「ミケより?」
その呟きに驚きの声で返したのは、彼の部下であり同僚でもあるナナバだった。彼女の質問に無言で頷いたミケは、飛行訓練の最速記録の保持者であった。
「俺より○一は速い」
「……流石、エルヴィンの虎の子だね。病み上がりとは思えない」
入団当初から既に分隊長レベルの立体起動術を身につけていたリヴァイだったが、兵団における正規の訓練を受ける中で、更にその腕を上げてきていることは明らかだった。この調子でいけば、じきにミケが誇る兵団随一の巨人討伐数も軽く超えていくだろう。
――そのことに嫉妬がないとは言わないが……。
何よりそれは人類の希望だ、とミケは久方ぶりに気分が高揚するのを覚えた。
その後、ミケは戻ってきた新兵たちに今日の訓練の終わりを告げ、それぞれに装置の整備を命じて解散とした。
「リヴァイ。どうだ?調子は」
新兵たちが歓談しながら兵舎へと引き上げていくなか、ひとり立ち去ろうとした彼にミケは声をかけた。小柄な割に威圧感のある双眸が、振り返ってミケを見据えた。しかし、その視線もここ最近少し和らいでいるような気がする。いつだったか、ミケが彼の綺麗好きを指摘した日からだろうか。ひとつふたつ、彼らは顔を合わせれば会話をする仲になっていた。
「ああ。悪くない」
「それはよかった。立体起動も調子がいいみたいだな」
「……前に指摘してもらったグリップの握り方。あれを変えてみただけだが。さすが、無駄に巨人を殺してないな」
最初は辟易した口の悪さも、ようやく慣れてきたところだ。ミケはうん、と頷いて「役に立てたならよかった」と素直にその心を口にした。リヴァイはその薄氷のような瞳を少し瞬かせた後、「ああ」と頷いて、
「ナナバにも、悪かったと伝えてくれ」
「うん?」
「迷惑をかけた」
ああ、と得心する。リヴァイは決して無口な類ではないが、どうにも言葉選びが下手な気がする。数日前、彼が倒れた時にそばにいたナナバが、医務室まで運んだり、世話人として指定されたシグリ副官の部屋まで連れて行ったりしたと聞いていた。それについて言っているのだろう。
「それは本人に言ってやれ。あいつは迷惑だとは思ってないから、礼を言ってやれば喜ぶ」
「そうか」
頷けば、その小柄な男の眉間のしわが少しだけ緩んだ気がした。本当に少しずつだが、彼が警戒心を解き始めていることに、ミケはわずかに喜びを覚える。
――まるで猫を懐かせようとしてるみたいだな。
警戒心の強い黒猫を、どう懐かせようか苦心するような気分だ。今はさしづめ、冷たい態度をとっていた猫が、己の足元で喉を鳴らしたときのような昂揚感がある。
しかし、相手は当然ながら可愛らしい黒猫ではなく、れっきとした成人男性である。それもかなりアクの強い。
「今日はもう上がりか?」
問えば、彼は一気に眉間のしわを深めた。入団当初のような鋭い視線で、大きなため息を一つこぼした。
「…………いや。シグリのところだ」
「ほう」
「今日はあいつ。……なんだ、あのクソメガネだ。名前は覚えていないが、あの汚ねぇやつもいるらしい」
「ハンジだな」
汚いクソメガネといえば、それしかいない。すん、と鼻を鳴らしてミケが言えば、「それだ」とリヴァイは二度目の溜息を洩らした。綺麗好きな彼からすれば、エルヴィン分隊に所属する班長、ハンジ・ゾエの生活ぶりは目に余るものがあるだろう。ハンジの臭いは、なかなか強烈だ、とミケは頷いた。
「それもあるが……。今日はシグリとハンジで巨人発生の起源についての討論を行うそうだ」
「……それは、まあ……、すごいな。それで?今回はお前は何を頼まれてるんだ?」
「書記だ」
「…………」
思わず黙ったミケに、リヴァイは「お前もどうだ」と自嘲気味に問うてきたので、ミケは丁重にその申し出を断った。思いつく限りの労いの言葉を述べたあと、兵舎の入口の前でリヴァイと別れた。
立ち去るリヴァイの後姿に、どこか憂愁を覚えるのは気のせいではないだろう。
巨人狂いの狂犬として知られる変人、ハンジ・ゾエ。エルヴィン分隊長公認のもと、最近巨人の研究を開始したというハンジは、確かに優秀な兵士だが、その並々ならぬ熱に、周囲の人間が遠のきつつある、と同期らしいナナバが嘆いていたのはつい先日だ。
そしてエルヴィン分隊長の副官であるシグリ・アーレント。一見柔和で人当たりの良い常識人に見えるが、彼女も一癖ある。彼女もまた、分隊長の許可のもと、壁内の歴史や壁以前の文化についての研究を行なっている。最近は主として、調査兵団の歴史や巨人討伐の歴代の方法について洗い直していると聞く。ハンジが巨人を実際の研究対象として物理的な実験を行なうのに対して、シグリは文献資料を主として巨人の謎に迫る研究者だと言えよう。実際、エルヴィンが長距離索敵陣形を考案した陰には、シグリの研究の蓄積があるというのは、エルヴィン本人の言だ。
ミケもまた、彼女たちの研究の重要性と、理解されづらい彼女たちの熱意を認めたエルヴィンの采配には頭が下がる思いがある。
しかし。
巨人のこととなると昼夜を問わず思考し続けるハンジと、資料収集のためなら禁書にも手を出す犯罪ぎりぎりのシグリに、辟易しているのも確かである。種類は違えど、彼女たちは恐ろしく苛烈で、その熱はもはや狂気の域に達している。
少なくとも、ミケはそう思っている。
もう一度、ミケが振り返った廊下の先には、もうリヴァイの後姿はなかった。彼が倒れてから、シグリの研究の補佐の仕事を追加されたというのは兵団内のもっぱらの噂である。誰もがその美人副官であり兵団内の人気も高いシグリの補佐という配置に羨望を覚えると同時に、彼女の苛烈な熱の餌食とされたリヴァイへの同情を覚えただろう。
――あいつは、苦労するな。
兵舎の窓から差し込む斜光に、夜の訪れを感じたミケは同情の溜息をもらした。リヴァイは今日、寝ることも許されないかもしれない。そう思いながら、彼は彼で自分の仕事へと戻っていった。