艦娘は深海棲艦との戦い、その最後の日まで人類の盾となり、矛として生きていた。まさに英雄的活躍! 彼女達がいなければ、人類は敗北を喫していただろう。
艦娘は深海棲艦戦争を語る上で欠かせない存在。しかし、戦後の艦娘の姿は霧に包まれているかのように誰も語らない。その本人達でさえも。
――艦娘は人間?
何度も、どこでも話されたことだ。そのたびに「どうなんだろう」という疑問がついた答えしか出ずに終わった話。戦争中も戦後も。
何から話したら良いかしら……。私ももう80歳です。いえ、艦だったときも含めれば、96歳。様々なことを体験してきました。艦としても、艦娘としても、人間としても。
本当に、色々なことを見て、触れて、感じてきたんです。辛いことも、悲しいことも。もちろん、楽しいことも嬉しいことも。愛だって……。
そうね、話すなら艦娘としてこの世界に生まれ変わったときからが良いかしら。あのときは不思議な感覚だった。今では何の違和感も感じないけれど、あのときは自分が鋼鉄の艦ではなく、柔らかな女の子の体っていうのが、とても不思議だった。女の子とか、男の子とか、関係なしに、自分が艦の体じゃなくて、人間の体というのがとても認められなかったの。自分の触覚だけではなくて、視覚で、この体を鏡で見たときは、やっぱり何かおかしいじゃないかって、自分の裸に目を丸くしてた。
貴方、考えてみて。ふと気付くと、自分は炉端の石ころになっていた、みたいなことを。カフカの『変身』よりも衝撃的。そんな気分だったのよ。
初めて踏みしめた絨毯の感覚は今でも思い出せる。とても、ふんわりしていて、温かかった。冷たい海やコンクリートでもなんでもなく、ただの絨毯の布……。
初めてお話しした人は女医さん。綺麗な人だったと思うわ。それまで私は男の人ばかり乗せてきたから、女の人の美醜なんてよくわからなかったけど、綺麗な人だと思ったの。
女医さんは私を椅子に座らせて、少し私の体を検診したら、部屋の外にいた軍人さんを呼んだ。軍人さんはすぐに入ってきて、女医さんの脇に置いてあった椅子に座った。階級は中将で、後に分かったけど、海軍艦娘学校の校長だった。
その軍人さんは艦娘だとか、深海棲艦とか、なんとか言っていたけど、私はその話をあんまり覚えてない。そんなことより、私は海の底に沈んだはずで、ここはどこなのか、今はいつなのか、この体は何なのか。その時はそんなことばかり考えてたの。
よく分からないまま、状況と人の言うことに流されるままに海軍艦娘学校に入学したわ。
艦娘学校には顔は知らないけれど、知っている子達がたくさんいた。私の艦名を他の子を言うと、「あなたが○○! 私は△△。あのとき、呉で停泊してたよね!」って言うのよ。そのとき、初めて安心したわ。みんな一緒だって。そのときまでずっと不安だった。自分が艦だったのが本当かどうかも、よく分からなくなっていたもの。
艦娘学校は楽しかった。士官学校とか勉強は大変だって聞くけれど、私達にとっては訓育科目も普通科目も兵術科目も、別に当たり前にできたから。この世界の情勢とか、深海棲艦とか、そういうのもすぐに覚えた。でも、なかなか覚えられなかったのは一般常識。特に「暴力はいけない」は難しかった。鉄拳制裁とか精神注入棒とか、当たり前と思っていたけど、違うのよね。辞められたのは卒業間際になってから。ベッドメイキングがなってない、って下期生を数回殴ったら、教官が飛んできて、すごく怒鳴られた。それからも何度か下期生を殴ったことがあって、その度に教官に絞られた……。常識って変えるのは難しいものよ。卒業以後は誰も殴ったことはないわ。息子と娘を叩いたことはあるけれど。
艦娘学校で一番記憶にあるのが、ちょっと話すのが恥ずかしいけれど……エッチな本のこと。同室の子が校外で拾って帰ってきたの。その子が部屋に帰ってくると私にページを開いて見せてきた。男女の営み、生命の営みというものはこういうものなんだ、と私は初めて知ったの。いえ、本当に知るのは退役後の話で、そのときまでは授業で習ったけど、言葉としてしか知らなかったから、とても新鮮だった。その後、そのエッチな本は寮内で回って、話は教官にまで知られるところになって、持ち込んだのは誰だという話になり、同室の私まで絞られたわ。
卒業以後はすぐに戦線配置。任地はアリューシャン列島ウナラスカ島のダッチハーバー。北太平洋。アメリカの領土だけれども、2016年の6月までは日本が防衛していた。配置されたときはすでに深海棲艦の反撃も終息状態で、まれにはぐれた深海棲艦や威力偵察部隊が来るだけ。気楽だったわ。
ただ戦闘がなくても冬は辛かった。海洋性気候のおかげで最低気温は冬でもマイナス2℃くらいだけど、とにかく風が強いの。本土から取り寄せた私服なんて風が通るから寒くて着られたものじゃない。雪も水分の多い湿った雪だから、防寒マスクをしていても寒さが伝わってくる。霜焼けは当たり前。海に出たときはもっとたいへん。ベーリング海の異名を知っている? 「低気圧の墓場」よ。太平洋側でも嵐はしょっちゅうで、霧も出る。海は当然荒れているから私達は波を被るの。そして氷結。自分まで凍てつきそうだった。
でもダッチハーバーに帰ってくると、基地のみんながお風呂と温かいご飯を用意してくれてる。それがとても嬉しかった。艦隊付属の艦娘は入浴時間は長くても30分以内とか聞いたけど、私達は1時間入っていたって怒られなかった。
あと、基地の人でお茶を入れるのが上手な侍従兵がいたの。その人の入れたお茶はとても美味しかった。朝食後と出撃前、出撃後に毎回、入れてもらった……。私はその人を好きになった。今でも少し胸が熱くなるわ。もうおばあちゃんなのに。
最初は何か分からなかった。その人を見ると、こそばゆいような……そんな感じ。前までは顔を見て話せていたのに、できなくなったの。軍医さんに言うと、軍医さんは笑って言ったわ。「それは恋ってヤツだな」って。私は驚いたわ。艦だった私が男の人に、そんな感情を抱くなんて……。本で知識としては知っていたけれど、私には無縁なものだと思っていたの。だから、何をしたら良いか分からなかった。それにその人は下士官だったから、恋人とか、そういう関係になって良いものか、と思ったの。海軍では士官と兵、下士官の間に壁があったから……。だから、戦争の間、何もできなかった。
アリューシャン列島の防衛がアメリカ軍に移管されることになって、私はフィリピンのセブ島に配置替え。あの人とも別れ別れになってしまった。
夏でも平均気温が12℃くらいのウナラスカ島から、年を通して平均気温27℃くらいのセブ島に移ったから、配置されてから1週間くらいは気候に慣れなくて、風邪を引いてた。そのときは寒くてもウナラスカ島の方が良いと思ったけれど、風邪が治ってみると、セブ島の方が暮らしやすかった。海は宝石みたいに澄んで綺麗だし、着込まなくも良いから、おしゃれもできたわ。ただ虫にはなかなか慣れなかった。本土のと違って、とても大きいし、毒がある虫もいたから。
フィリピンではPT小鬼という小さな深海棲艦が敵だった。小さい図体なのに一丁前に魚雷を持っていて、厄介。貨物船や軍艦に限らず、地元の漁船まで沈めてたから、島民にもかなり憎まれてた。
私は深海棲艦戦争で27匹のPT小鬼を撃沈して、掃討記章をもらったわ。PT小鬼単独撃沈15匹でこの記章がもらえるの。戦い方としては囲い込み漁みたいなもので、1匹1匹沈めるのはとても難しいから、囮の無人監視艇を使っておびき出して、複数の艦娘と戦闘ヘリで1箇所に集めて集中砲火で撃破。地元住民がPT小鬼の巣を見つけたときには、通報してもらって、破壊しに行ったわ。
最前線で果敢に戦うのと違って、地味な任務だったけれども、私は誇りに思っている。だって、そのときの日本の石油や資源の輸入は大陸からもしてたけど、マレーシアやインドネシアからもかなりしていた。石油なんかは特に。船はバシー海峡を通って、行き来するから、フィリピンの安全はシーレーンの安全だったの。とても大事な仕事よ。
地元住民にはとても良くしてもらった。基地の外で食事をしたときには一品おまけしてもらったこともあるし、巣を破壊した翌日にたくさんの果物を持って、お礼を言いに来た人達もいたの。でも持ってきてくれた果物がマンゴーやカラマンシーなら良いけど、ドリアンだったときは正直困ったわ。臭いがきついから、食べる私達だけが「臭う」とか何か言われないか、気になったの。だから、基地の全部署にドリアンを配ったわ。みんな、共犯者よ。
セブ島に移って2年くらいしたら、もう深海棲艦の有力拠点はハワイだけになった。私がセブ島に来た時点で、インド洋はタンカーが航行できるくらい、制海権が回復していたし、ソロモンも後方になってフィジーやサモアが最前線だからね。
ハワイは深海棲艦の太平洋における最大拠点で、世界で最後の失陥地だった。何度かアメリカ軍も日本軍も攻め入ったけど、なかなか落とすことができなかった。第5次ハワイ攻略作戦の終号作戦では全世界から部隊が集められたのは有名な話だけれど、そのときも私はセブ島でPT小鬼と戦っていた。
深海棲艦戦争の終結宣言が出された日も私はPT小鬼の巣を破壊しに出撃していた。終結宣言を聞いたのは基地に帰ってから。終結宣言を聞いたときは歓喜したわ。ようやく終わったんだと。誰ももう死ななくて良いのだと思った。でも、ハワイを奪回したからといって、すべての深海棲艦がいなくなるというわけではないの。私と数名の艦娘は終結宣言後もしばらくは、セブ島でPT小鬼掃討をやっていた……。もちろん、血も流れた。襲われた漁船の救援に間に合わないことも、誘導の戦闘ヘリが対空砲火で落とされたこともあったわ。私自身が魚雷に当たって死にかけたこともあった。終結宣言なんて嘘だと思ったわ。まだ戦争は終わっていない。終わってなかったのよ……。
「終結宣言を取り消すように進言して下さい」って他の艦娘と一緒に基地司令に言いに行ったわ。司令は上に伝えてくれたみたいだけれども、復員するまで終結宣言は取り消されなかった。
終結宣言の8ヶ月後には、もうPT小鬼の姿は見なくなったわ。タンカーや貨物船、漁船の被害報告もなくなった。住民からの通報もなかった。軍令部からは復員命令が出たけれど、もしかしたら、まだ残党が残っているかもしれないし、フィリピン政府の要請もあって、4ヶ月間は様子見として残ったわ。その4ヶ月もPT小鬼の姿は見なかった。
復員する前に現地の人が盛大に叙勲式と送別式を開いてくれたわ。たくさんの人が来てくれた。フィリピンの大統領や元帥だけじゃなく、基地の近くの住民も。
叙勲式では大統領自らがラカンドラ勲章を付けてくれた。ラカンドラ勲章って外国人としては最高の名誉よ。フィリピン解放をした艦娘にも贈られなかった名誉。それまで最前線で戦う艦娘に少し引け目を感じていたけれど、そんなことはないって、認めてくれたの。とても嬉しかった。
それと、送別式で初めて女の子らしいドレスを着たの。藍色のアフタヌーンドレスと紫色のイブニングドレス。第2種礼装のメスドレスはあったけれど、それ以外のドレスを着たのはそのときが初めて。昼も夜も最初は第1種礼装、第2種礼装を着ていたのだけれど、セブ島の人達がドレスを特注で作ってくれていたの。勧められて着たわ。とても嬉しかった。カランドラ勲章や従軍勲章にも負けないくらいに。それまでほとんど軍服か作業着だったから。自軍の将校以外にもフィリピン軍の将校や政治家とも踊ったわ。みんなが私の事を美しいと言ってくれるのが嬉しかった。何度も褒められて、ダンスを心から楽しんだわ。
そうして、私の深海棲艦戦争は海軍艦娘学校卒業から6年、戦後1年してようやく終わったの。