逆行ハリー、ぼくのかんがえたりそうのせかい 作:うどん屋のジョーカー
体が痛い……。何か重いものが上に乗っかっているみたいだ。
ハリーは目を開けた。ぼんやりとした視界に、薄暗い周りの風景が輪郭をもたずに映っている。どこからかキジバトが鳴く声が聞こえた。明け方近くなのだろうか。
とりあえず、自分が死んでいないことにほっとした。命さえあれば、あとは魔法でなんとか助かるはずだ。
そう思ったとき、ハリーは違和感をおぼえた。横になっている床が、冷たくない。倒れこんだアスファルトのように硬くもない。
布の柔らかな感触がする。もしかしたら、今は病院にいて、ベッドに横になっているのかもしれない。
そう考えて、ハリーは枕元を探った。幸運にも、腹部が熱を持って重いこと以外は、体に痛みを感じない。
治療が既に行われたのだろう。聖マンゴに運び込まれているのなら、治りが早い事にも納得できるし、マグルの病院ならよほど長い間眠ってしまっていたのかもしれない。そうだったら、みんなに相当心配をかけてしまった。
しかし笑い話になるはずだ。魔法使いが自動車事故で死にかけるなんて!
枕元に眼鏡が置いてあった。ハリーはそれを取って掛ける。
そして驚いた。
部屋だ。青っぽい朝の光が差した小さな木造の部屋にハリーはいる。天井が斜めになっている。まるでグリフィンドールの寮にいるみたいに、部屋の中が赤色で埋め尽くされていた。壁には所狭しと、クィディッチ選手たちが映るポスターが貼ってあった。箒を片手に、手を振っている。彼らの来ているユニフォームの色は、目を凝らすと鮮やかなオレンジ色だと分かる。きっと、もっと日が出た頃にこの部屋を見れば、夕日に包まれているような錯覚を起こすだろう。
病院じゃない。それどころか、ここには見覚えがあるぞ。ハリーの心臓が速く脈打った。
体を起こそうとして、お腹の上あたりにベッドからずり落ちた子どもの上半身が乗っているのに気付く。赤い髪をしている。重いのはこのせいか。と納得しかけたハリーは目を見開いた。
この子は誰だ?
ハリーが身じろぎすると、その子の頭がゴロンと横を向いた。
ヒューゴ?
娘のリリーと同い年の、ウィーズリー家の長男の名を思い浮かべる。
だけど、彼じゃないとすぐに分かった。ハリーの心臓は今にも爆発しそうなくらい暴れていた。嫌な汗が背中を伝う。
まさか、ロン?
ありえない可能性をあげてみたが、しかし考えてみると、この部屋をよく知っている。昔、泊まっていたロンの部屋にそっくりだ。
嘘だ、と目を擦ろうとして持ち上げた手にハリーは度肝を抜く。
小さい。そして手の甲がつるつるしている。どう見ても子供の手だ。
これは夢だろうか。ハリーは身体の上に乗っていたロンそっくりの子をそっとどける。
立ち上がると、部屋にあった家具がやけに大きく見えた。
ドアノブの位置が高い。
「こんなことって」
呟きかけた声にハッとする。高い。声変わりもしていない。
そこでハリーはやっと自分の体が子供になっていることを認めた。
胃の中に氷が流れ込んだような気分で立ち尽くしていると、ホッホと、小さな鳴き声が聞こえた。
後ろを振り返ると、窓枠の近くに白くて美しいふくろうが留まっていた。丸い目でハリーを見て、首を傾げる。
「ヘドウィグ!」
ハリーは小さな声で歓声を上げた。足音を発てないようそっと近づくと、ヘドウィグは差し出されたハリーの人差し指を優しく噛んだ。
噛まれた部分の熱がとても愛おしく感じる。ヘドウィグの頭をゆっくり梳くと、心地よさそうに目を細めた。
「また君にこうして触れるなんて。何て言えばいいんだろう……」
ハリーの視界が滲みかけたが、「ぐがっ」という大きな鼾がそれを邪魔した。ヘドウィグが驚いて羽根をふくらませている。
鼾の出所であるロンのような、いやロンが、酷い寝相で寝ていた。
その枕元には、太った灰色のネズミがスース―と寝息を発てて眠っている。指が一本かけていた。ワームテールだ。ハリーの頭を記憶が一瞬にして駆け巡った。叫びの屋敷で起きたこと、セドリックと行った墓場での出来事、最後に、銀の手でゆっくり絞殺されていく男の顔。濁流のように流れていくそれらを受けて、ハリーは複雑な面持ちでベッドに近寄った。
ロンの枕元で寝ているネズミを持ち上げて、なるべくロンから離したところに置く。安心しきっているのか、ワームテールは持ち上げられてもぐっすり寝ていた。
ヘドウィグに少しの間の別れを告げて、ロンの部屋を出たハリーはそっと下に降りた。ウィーズリー家の入り組んだ階段を降りる間、ハリーはこれが夢かどうか考えていた。
夢にしては、感覚がやけにリアルだ。
視界はクリアだし、空気の匂いや温度も感じる。さきほど、ロンの熱や重みを感じたことを思えば、ここは現実の世界なのかもしれないと結論付ける。
タイムスリップしたのだ。スキャバーズがいることと、ロンの家にいることを合わせると、二年生に上がったばかりの夏休みの頃だろう。
車にぶつかる間際、何かの魔法や魔法道具を使ったわけではない。体がもとに戻っているから、ハリーが知っている方法のタイムトラベルではないだろう。
ホグワーツに通ったばかりの頃は当たり前に持っていた「この世界では何が起こるか分からない」という感覚を忘れていた。
すっかり、魔法に慣れ切っていたのだ。いや、慣れたつもりだったようだ。
一階に差し掛かると、ダイニングの方から食欲をわかせるような匂いが鼻を擽る。
キッチンにはモリー・ウィーズリーがいた。
「あら、ハリー。早起きしたのね」
物音に気付いて振り返ったモリーがにっこり微笑む。
「おはようございます……」
最近見たモリー・ウィーズリーより三十歳は若い。
「待ってて。朝ご飯はもうすぐ出来るから」
やがて、モリーは大皿に大量のベーコン・サンドイッチを並べると、ハリーに「先に食べてていいわよ」と言い残して上へ行った。
みんなを起こしに行くようだ。
しばらくすると、上が賑やかになってきた。
ハリーが2個目のサンドイッチにかぶりついているとき、ダイニングに赤毛の男の子が眠そうな顔で現れた。着ているパジャマに、大きく「 F 」の字が刺繍されている。
「フレッド!」
ハリーは思わずサンドイッチを放り投げて、フレッドに抱きついた。
「おっと」
「会いたかった! 会いたかったよ!」
目の端に浮かぶ涙を抑えることもせずに、フレッドの体に頭を押し付ける。
今のハリーよりは大きい体格だが、娘のリリーより今の彼は年下なのだ。こんなに幼かったのか、とフレッドの戸惑う顔を見ながらハリーの視界はますます滲んだ。
「ハリー、いつから俺の熱烈なファンになったんだ? もしかして、何日か前に胸毛が生えてきたことをロンから聞いたのか?」
戸惑いつつもちゃんとジョークを言う彼にハリーは笑みをこぼした。すると、フレッドの後ろに全く同じ顔が立っているのを見つける。
「ジョージ! 耳がある!」
「ああ、目と鼻と口もあるぞ」
ジョージはそう言った後、フレッドと顔を見合わせて肩を竦めた。ハリーはようやく我に返りながらも、嬉しい気持ちが抑えきれなかった。
続々とウィーズリー家の人たちがダイニングに集まり、賑やかな食事が始まった。
奥の席に座った幼いジニーが、ハリーと目が合った途端に赤くなってそわそわしだした。
その彼女が将来ハリーの妻になっているのは、どこか奇妙な感覚だった。今の初々しい姿と、ほんの一時間前に会った大人のジニーの表情を比べると、ハリーの胸にちくりと痛みが走る。これはたぶん、罪悪感だ。何に対してのものなのかは、考えることを止めた。
また逃げているな、と心の中で大人の姿のハリーが苦い顔をした。
「ハリー!」
随分昔に聞いた声がハリーを呼んだ。ロンが欠伸をしながらダイニングに入ってきて、ハリーの隣に座る。これで家中の人が全員そろった。
「どうして早起きなんかしたの? いなくなったと思ってビックリしたよ」
「まあ、呆れた。私が逆にどうしてお寝坊するのか聞きたいくらいですよ。何日も前から今日は朝早くに出かけると言っておいたでしょう」
モリーおばさんに咎められて、ロンはばつが悪い顔をする。三十年以上たってもこの光景は変わらないことを、今のロンに言ったらどんな顔をするのだろうか。ハリーは一人でこっそり笑った。
「さぁ、みんな急いで朝食を食べて。買わなきゃいけないものがたくさんあるんだから」
モリーおばさんの言葉に、今日はダイアゴン横丁へ行く日だったのかとハリーは思い出した。