「――くそ」
菅野直枝は、万年筆を木の質素な机の上に置いて、そこから書きかけの手紙をひったくった。皺の寄った眉間を近付けてじっと文面を見つめる。
桜花の候。だの、若草の萌え立つ季節。だのといった春特有の書き出しがいくつもいくつも書かれて、その全てが黒い線でぐしゃぐしゃと塗りつぶされた手紙。それに何度も目を通すたびに、なんとも苛立たしいような情けないような気持ちが芽生えてくる気がする。
管野はふんと鼻を鳴らして紙面から目をそらすと、その手紙をくしゃくしゃに丸めてどこか遠く、後ろの方へと放り投げた。出入り口の扉に当たったのか、こつんと蚊の鳴くよりも小さな音がした。
「…………くそ、なんでだ」
頭を抱えて小さく唸り声を上げる。なんだって気の利いた言葉のひとつも書けないんだ。ぐぎぎともなんともつかない呻きが喉の奥から漏れ出て、どこかへと消えていった。
「……やめだ、やめ」
2枚目の白紙を取り出して机の上に拡げた段階で、ぽつりと小さく溢す。そのままうんと両腕と背中を一遍に纏めて大きく伸ばした。考えが纏まらないくせに書こうとするもんじゃない。はぁと一つ嘆息すると同時によどみきった心中をも吐き出したくなった。
ふと、窓の外を眺める。この日のペテルブルグの空は灰色。雨が降るか降らないか。と言った不安定きわまりない天気であった。荒天に弱い航空ウィッチとは言えど、こんなのっぺりと平坦な灰鼠色の空はもう見慣れているし飛びなれている。
しかし今日は珍しく哨戒のシフトは入ってないし、そめそもどうにもこうにもやる気が萎えてしまう空模様だ。
そんな日は本を読むに限る。管野はよしと姿勢を正すと本棚から適当な本を一冊、背表紙を確認することなく引っ張り出してきた。
「なんだ、こりゃ……『車輪の下に』?」
いつの間に持ち込んだのか。管野は表題を確認して、眉をひそめた。作者は、兵学校の座学の教科書にものっているくらい有名なカールスラントの作家。カールスラント文学はそれなりによんできたが、こんな本は初めてだった。
疑念を頭に浮かべつつも、何もすることがないし暇にもほどがあるからと自身を諭しながらごつい体裁の革表紙に手を掛けた。
ぱらぱらと紙を捲る音だけが、静謐な部屋の中に響く。
少しばかり読み進めたところで、こんこん。とドアを叩く音がした。
「誰だ?」
本にしおりを挟んで立ち上がる。
「管野さん。今大丈夫ですか?」
「……おう、いいぞ」
その言葉を聞いた途端、ドアの隙間から覗かせる顔をぱっと明るくした少女――雁淵ひかりは、そっと部屋の中に入り込んできた。
「まあ座れよ。……何もねえけど」
本以外はな。自嘲気味に心の中で付け足してから、どうしたんだ? と訊ねた。ベッドの端にちょこんと座ったひかりは何事か少し口ごもった後、いつになく真剣そうな顔で訊ねてきた。
「えっと……管野さん。“恐怖”って、どうやったら克服できるんですか?」
はあ? 管野は信じられないものでも見るかのようにひかりを見つめ返した。ひかりも負けじと視線に力を込めて凝視し返す。
「なんだってそんなこと聞くんだよ」
「先生からもっと接触魔眼の使用に長けるようにしろって……私が頑張れば、お姉ちゃんみたいにもっと、もっとたくさん倒せるから」
みんながそうやって期待してくれているから。ぎゅっと握りしめられた小さな拳を見て、管野は眉に皺を寄せ口を尖らせた。
「――そのために
「それじゃあ、管野さんが……管野さんだって撃墜数があるじゃないですか。ニパさんから昔はクルピンスキーさんたちと撃墜数を競うくらい敢闘精神旺盛だったって聞いてたし……」
ひかりのいつになく困ったような顔を目の前にして、あの頃は若かったなと記憶のページをぱらぱらめくる。
はあ。管野は一つ嘆息すると根負けしたかのようにぽつりともらした。
「あのな……オレだって恐くなるときくらいあるぞ?」
えっと目を丸くしたひかりに諭すようにして、口を開いた。
「サーシャに大目玉食らったときだって心臓が飛び出るかってくらい恐ろしいし、一年くらい前だったか、ニパとクルピンスキーがオレ一人逃がそうとしてくれてたときだって、オレのせいでって本当に怖かったんだからな。それに…………」
視線を虚空へと彷徨わせる。ポリポリと恥ずかしげに紅潮した頬を指先で掻いた。飛散したネウロイの破片で切った古い傷がじくりとうずいた気がした。
「その、お前を初めて相棒って言っちまったときも……」
大型のネウロイから放たれたレーザー。ひかりに気を取られていた自分自身。ニパがいなかったら、文字通り消し飛んでいた。あの時の風景が、目をつぶっただけで想起される。
「あの後お前に発破掛けられてないと、オレは臆病風に吹かれっぱなしだったかもな」
ありがとよ、相棒。頬の絆創膏を上から掻きながら、気恥ずかしげに目をそらす。ひかりも少し頬を染めて、やはり直視できないようで目を背けた。
「……それで、ネウロイに対する近接戦闘だったか?」
気まずい空気を紛らわすように、話を変える。はっと居住まいを正したひかりを見下ろす形になるよう椅子から立ち上がると、管野は腰に手を当てておもむろに口を開いた。
「……ひとまず、笑おうぜ。そんな辛気くさい顔じゃ、ネウロイだって寄りつかねえぞ?」
ほら、にっかり笑えば必ず墜とす。ってな。にやりと口角を吊り上げた管野。一瞬ぽかんと呆けていたひかりも、はいと大声で返事して破顔した。
「それでいいんだよ。今まで通りで良いんだ。難しいこと考えるな、オレたちはオレたちの最善を尽くすだけだ」
ぽんぽんとひかりの髪に掌を乗せる。こそばゆそうに瞼を閉じた彼女に笑いかけると、これで終わりだとばかりに椅子にどかりと座った。
ああ、それと。ちらりと机の上におかれた本を見て、言おうとした言葉を少し飲み込み、吐き出す。
「…………別に、オレは期待なんてしてねえからな」
「な、なんなんですか突然! 酷いですよ!?」
なんでもねえよ。管野はそう、小さく笑った。
9話のあの“変な”直ちゃんがとても可愛いなって思いました。多分に歪んでると思ってます。