歌に命を懸ける如月千早は、アイドルとして765プロに入って、歌の世界の頂点を目指そうとしていた。事務所で最初の挨拶を終えた彼女に、天海春香という女の子が近づいてくる。馴れ馴れしい春香の態度を前に、千早は嫌悪感を抱き、この子と関わりたくないと思っていたのであるが・・・。

 アイドルマスターの天海春香と如月千早の「はるちは」ものです。エロはないです。
 二人が出会ってから、どのようにして『ともだち』になっていったのかという「初期のはるちは」を千早視点で描きました。
 少し長いですが、是非ご一読ください。

 なおこの作品は、作者である私「ミスターN」がpixivでアップロードしたものをマルチ投稿した作品です。
 pixivURL:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8390026

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『ともだち』

 

『ともだち』

 

 1

 

 私は歌が好きだった。歌う為に生きていた。

 私、如月千早は、歌手になるのが子供の頃からの夢だった。だから私は小学生の頃からコーラス部に入り、毎日毎日練習を続けてきた。中学、そして高校もそうだった。だけど、高校のコーラス部はすぐに辞めてしまった。あまりにも次元が低かったからだ。

みんな、コーラスをただの「趣味」にしか思っていない。「歌」に自分の全て、人生までを掛けようなんて誰も思っていない。ただの部活動にそこまで期待すること自体が間違いだった。

 だから私は、芸能事務所に入って、歌手としてデビューしようと思った。歌手になるのは子供の頃からの夢だった。事務所に入るのは、高校を卒業してからと思っていたが、

自分を追い込むため、在学中に入ると決めた。私には、それだけの実力があると思っていたし、プロとしてやっていく自信もあった。

だけど、芸能界への道は狭く、そして険しい。

 無名で何のコネもない私を芸能事務所はどこも雇ってくれなかった。唯一、私を受け入れてくれたのは、『765プロダクション』という、正直聞いたこともないような弱小プロダクションだけだった。

 しかも話を聞くと、『歌手』としてではなく、歌にダンス、テレビ出演など何でもこなす『アイドル』としてのデビューだった。設立されて間もない無名の事務所に、仕事を選ぶ権利はなかったからだ。

 それでもその条件を受け入れた。どんなに小さな芽だって構わない。這い上がるチャンスはいくらでもある。私のこの実力をもってすれば、やがて大手音楽プロダクションから声が掛かるだろう。私にとって、この765プロはただの腰掛けだ。

「如月千早です。一応、『アイドル』ですけど、本当は歌手志望です。歌に命を懸けています。よろしくお願いします。」

 765プロにメンバーとして初めて訪れたこの日、社長の手引きで、私は他のメンバーの前で自己紹介をしていた。

 社長の野太い声が響く。

「如月千早くんだ。みんな、仲良くやってくれよ。」

 数人しかいないメンバーが「はーい」と返事をし、拍手で私を迎えた。

「それでは、みんな楽にしていてくれ。」

 社長がそういうと、みんながまた散り散りに去っていった。

 私は、狭い事務所の応接間で腰を下ろし、ipodを取り出した。イヤホンを両耳にはめて、私の好きなクラシックを再生する。

 目を閉じ、美しい音色に耳を傾けていたとき、トントンと私の肩を叩くものがあった。驚いて私は目を開き、その方向に目を向ける。

 目の前には、ボブヘアカットで、頭の両端に赤いリボンを付けた女の子が立っていた。何かを言いたそうにしている。私は至福の時間を邪魔されて少し不機嫌がちにイヤホンを取り外し、彼女に尋ねた。

「あの、何ですか。」

「ごめんなさい。邪魔しちゃいました?」

「見ての通りです。」

「せっかくだから、何かお話しませんか。」

 図々しくも、彼女は私の隣に腰を下ろしてきた。最初から悪い印象を持たれるのは得策ではない。やむを得ず、私は彼女の話に乗ってあげることにした。

「初めまして、天海春香です。」

「如月・・・千早です。」

「これから、よろしくお願いしますね。」

 彼女は右手を差し出して、握手を求めてくる。私はそういうなれ合いが一番嫌いなのだ。私はそれを見なかったことにして、窓の外のほうを見つめながら聞き返す。

「私に何の用ですか?」

 握手を拒否されたことに少し戸惑ったのか、天海さんはすこしどぎまぎさせながら手をひっこめたようだ。天海さんが、やや興奮した様子で尋ねてくる。

「如月さんは、歌がお上手なんですか。」

「ええ・・・。まぁ。」

 私はゆっくりと彼女の方を向いた。

「すごいです!私、歌うのは好きなんですけど、そんなに上手くないから、歌が上手い人に憧れるんです!如月さん、是非何か歌ってみてくださいよ。如月さんの歌、聞いてみたいです!」

 なんなんだこの子は。初対面でいきなり歌えと要求するなんて。

「ごめんなさい。今日はまだウォーミングアップしてないんで。」

「あっ・・・すいません。そうですよね、いきなり歌ってなんて・・・失礼しました。」

 全くだ。わかっているなら聞かないでほしいものだ。

 矢継ぎ早に彼女から質問が飛んできた。

「如月さんは、『歌手』志望なんですか。」

「ええ、そうですけど。あなたも?」

 天海さんは微笑した。

「いや、私は純粋にアイドル活動がしたくって。歌は好きですし、それでお仕事できればいいなーって思ってますけど、それだけで食べていこうとは思ってないですから。」

「そう・・・。もういいですか。」

 私は再びイヤホンを耳にはめようとした。この人とこれ以上話をしても無駄だと思ったのだ。

「あっ、歌が上手になる秘訣教えてもらっていいですか。」

 彼女は唐突にそう尋ねてきた。「歌が上手になる秘訣」なんて、一言で言えるようなものではない。とりあえず、基本中の基本であるウォーミングアップのことから聞いてみよう。

「あなた、朝どうやってウォーミングアップしてます?」

「う・・・ウォーミングアップ・・・ですか?」

 ん?なにその反応?

まさか・・・やってないというの?

「やってないんですか、朝の発声練習。声は、起きてから数時間は本調子にならないんです。特に、ウォーミングアップをしないと、午後まで引きずる。」

「へえーそうなんですか。知らなかった・・・。」

「あなた、そんなことも知らないの!?話にならないわね。」

・・・信じられない。これで歌でお金をもらおうとしていたなんて、恥知らずもいいところよ。

「すみません・・・。」

 天海さんはしょんぼりと下を向いてしまった。私はそんな彼女を無視するように、またイヤホンで両耳を覆ってしまった。

 

 2

 

 はっきり言って、天海さんへの初対面の印象は最悪だった。私はああいう人種が一番嫌いなのだ。クラスの中心に居そうな、あんな感じのうるさくて面倒な子。ああいうタイプとは「トモダチ」になりたくはない。一緒にいても疲れるだけだ。

 私に必要な「トモダチ」は、学校で一緒にいてくれる都合のいい人だ。2人1組になるときに、パートナーになってくれる「トモダチ」。学校を休んだ時に、代わりにノートを取ってくれる「トモダチ」。世間話をするときに、それに応じてくれる「トモダチ」。

 私にとって「トモダチ」とは、そういう人だ。だから私はそういう「トモダチ」に、必ずおとなしい子を選んでいた。私のように日陰者で、余り者。お互いに必要としているから、その関係は安定的で長続きする。だから私は「トモダチ」で困ったことはない。

 私が「765プロ」に入って1か月の時が経った。私はこの事務所に入ったことをだんだん後悔し始めていた。

 そもそもこの事務所には「プロデューサー」がいない。秋月律子さんという、「アイドル兼事務員兼プロデューサー」が、プロデューサー代わりをしている。一人三役を仰せつかるほど、人手が足りていないのである。

もちろん、レッスンもままならない。まず会場が押さえられない。弱小プロダクションに、レッスン枠を十分に確保できるだけの資力はない。だから、レッスンと言えばそれは自主トレという事になる。でも、これではコーラス部にいた時と変わらない。いや、それよりも状況は悪いのではないか。

 そして私は、ついにこの事務所に入ったことを強く後悔することになった。

 天海春香とユニットを組まされることになったのだ。天海さんは、私とのユニットを喜んでいたようだが、正直私は嬉しくも何でもない。むしろ嫌で嫌でたまらなかった。

私はひそかに社長に抗議することにした。ある日私は社長を喫茶店に呼びつけた。

 私は、二人分のアイスティーをテーブルの上において着席すると、早速ユニットの件を切り出した。

「社長。どうして私が天海さんとユニットを組まなければならないんですか。歌手だったら、2人よりも1人でやったほうがいいのではないですか。」

 私に呼応して、社長もストレートに聞き返してくる。

「天海くんは、嫌いかね?」

「・・・・・。」

 正直、嫌いだ。だけど、はっきりと断言してしまう事もはばかられた。

「・・・好きでは・・・ないです。」

 社長はアイスティーに口をつけた。

「君も天海くんも、歌が好きなんだろう?だったら、そんな二人がペアを組めば、とてもいいユニットができるんじゃないのかね?」

 私は直ちに反論した。

「私と天海さんでは、方向性が違いすぎます。私が目指しているのは純粋な歌手なんです。アイドルじゃない。」

 社長は朗らかに笑う。

「私はそんなに違うとは思わないがね。それに、たとえ道が違っていたとしても、二人はお互いに学びあうべきものが多い。ユニットを組んで一緒にやってみれば、見えてこなかったものも見えてくるんじゃないかね。」

「・・・・・。」

 社長が何を意図しているのか、私には全くわからなかった。

「如月くん、試しに天海くんとやってみてくれないかね。もしどうしてもダメだったら、その時はユニット解消を申し出てくれていいから、ね?」

 懇願するように頼まれて、断るわけにはいかなかった。

 それから、私たちはユニット「A.I.E.N」を組んだ。ユニットを組んだことで、ようやく私は本格的に活動を開始することができた。目指すは、デビュー曲のCD発売だ。その為に日々練習を重ねるのだが、案の定というべきか・・・、問題が生じた。

 天海さんの歌唱力が低かったのだ。自分で言うのもなんだが、私の足元にも及ばないお粗末な歌唱力、これでよく本気で歌い手を目指そうと思ったな、と感じてしまうほどに酷い有様だった。

 まず基本がなっていない。腹式呼吸、歌う際の目線、力の入れ方、息の吸い方・吐き方、リズム感、何もかもが素人レベル、あるいはそれ未満だった。

そして何より・・・音痴だった。

 先生も少々あきれていたようだ。本当にこんなことで人様からお金を取れるような曲ができるのか、正直不安でしょうがなかった。

 ある日の昼下がりのこと。私と天海さんは近くのレッスン場で、ボイトレをしていた。

「あ~あ~あ~あ~あ~♪」

 先生が、天海さんを厳しく叱責する。

「ちょっと、天海さん!全然お腹から声が出ていないじゃない!それに音程も外れてる。もう一回!」

「はい!」

 もう一度天海さんは先生の指導通りに声出しをしてみるのだが、どうも音程がついてこない。

「天海さん、そこが違うんですよ。そこはシでしょ!」

「はい・・・。」

 ずっとこんな調子だ。これじゃトレーニングになるはずがない。あきれ果てたのか、先生が小休止を入れた。

「ちょっと休憩にしましょうか。」

 私と天海さんは、並んでレッスン室を出て、部屋の前の廊下のようなところで二人並んで長椅子に腰を据えた。

 天海さんが話しかける。

「相変わらず、如月さんはすごいですね。」

「あなたは、もう少し頑張った方がいいんじゃない?」

「・・・すみません。」

苛立ちのせいで、ついつい口調がきつくなってしまう。私はハッとした。

「・・・いいのよ。」

全然よくない。けれど、仕方ないのだ。所詮歌唱力なんて、8割以上生まれつきの才能で決まってしまう。上手くない人は、どんなに努力してもプロにはなれないし、うまい人は最初からプロに行ける素質を持っている。私は後者、彼女は前者。二人の道は交わりようがない。確かに練習すれば、多少はよくなるだろう。だけど、彼女が私に追いつくなんて出来ないだろうと確信していた。

 これも一時の我慢だ。社長の方針には逆らえない。だから今はとりあえず天海さんとのユニットも我慢しようと思う。でもいつか、社長もこのユニットに無理があったと気づいてくれるだろう。

 天海さんがふいに尋ねてくる。

「如月さんって、何か好きなことってあります?」

 とても唐突だ。

「好きなことって・・・音楽を聴くことぐらいですけど。天海さんは?」

「私は、お菓子作りが好きなんです。」

 そういえば、この間も事務所に、自宅で焼いたクッキーを差し入れしていた。

「そうですか。」

「如月さん、お料理はします?」

「いいえ、特には。」

「そうですか・・・。家族で料理作ったりしないんですか?お母さんと一緒に作ったりとか。」

 私は動揺して顔をしかめた。両親の話なんてしたくもない。ただ私は、あからさまに不機嫌になったのが悟られないように、作り笑いを浮かべながら適当な言い訳で取り繕った。

「うちはお惣菜が多いんですよ。両親とも共働きで時間がないんで。」

「そうなんですね。でもお料理作れるようになると楽しいですよ。好きな人にお弁当作ったりできますし。」

 余計なお世話だ。私はムスッとして無言になった。

 話題が途切れてしまったのを気にしてか、というより私が遮らせたのだが、天海さんが別の話題を振ってきた。

「音楽って、どんな音楽が好きなんですか。」

「クラシックです。」

「そうですか・・・。あっ、私クラシックもたまに聴きますよ!」

「へぇー、どんな曲を聴いているんですか。私、ドヴォルザークの『新世界より』が好きなんです。あの地平を開拓していくような力強さが好きなんです。」

「私は・・・そうですね・・・『第9』?・・・かな。」

 天海さんの目が少し泳いだ。この子、ちゃんと『第九』の意味を知っているのかしら。

「『第九』って、何だか知ってるんですか。」

 天海さんの目がまたしても泳いでいる。

「えっと・・・あれですよね。ほら、“モーツァルト”。」

「は?『第九』は、ベートーヴェンの作品ですよ。」

 なにこの子・・・こんな基礎的な音楽知識すらないなんて・・・。

 天海さんは、苦笑いして頭を掻いた。

「ほら、あれですよ。曲を聴けば思い出すんですけど、タイトルは知らないってやつ、よくあるじゃないですか。」

「そうですか、まあなんでもいいんですけど。」

 にわか未満の知識量にがっかりした私は、すっかり天海さんの話を聞く気が失せてしまった。

「そうだ!お茶買ってきます。如月さんの分も買っておくんで。」

 ばつが悪くなったのか、彼女は立ち上がると、私が飲むとも言っていないのに、勝手に自販機を探し始めた。

 はあー、と私は深いため息をついた。

 色々話してみて分かったが、多分この子は悪い子ではないのだ。ただ私とは気が合わない。それだけ。実際、この子には多くの友達がいるようだった。あの子はやはり、私がイメージしたように、クラスの中心にいるような女の子だった。事務所の中でもみんなと仲がいい。私以外のみんなと。

 だから、私はますます彼女のことが嫌いになってしまうのだ。嫉妬とかそういうものじゃない。ただただ面倒くさく感じるのだ。そういう、クラスの中心でワイワイやっているような子の相手をするのは。正直、私のことなんて放っておいてくれればいいと思う。だけど、ユニットを組んだ以上、そうもいかない。私も、彼女も。

 やがて彼女が500ミリペットボトルのお茶を2本買ってきた。私の隣に座る。

「はい、どうぞ。」

「ありがとうございます。お代は後で払いますから。」

 今は財布がない。だから後で払おうとした。

「いいんですよ、これくらい。」

「いえ、そういうわけにはいきません。こういうことはきちっとしておかないと。」

 私は頑として譲らなかった。たとえペットボトルのお茶一つとはいえ、この人に対して借りを作っておきたくはなかったのだ。

「じゃあ、後でいただいておきますね。」

 天海さんが開栓してお茶に口をつけた。

「ぷはー、やっぱりトレーニングの後のお茶はおいしいですね。」

「あまり一気に飲まない方がいいですよ。お腹の冷えにつながって、声が出せなくなりますからね。」

「さすが、如月さんですね。お茶の飲み方一つに気を遣うんですね。」

 あなたはもう少し気を使いなさい、とかそういうことを言おうとも思ったが、止めておいた。無駄に空気を悪くしたくはないし、多分この子には何をアドバイスしても意味がない。

 しばらく無言が続いていたが、天海さんが静寂を破った。

「如月さんは、どうして歌手になりたいと思ったんですか。」

「えっ・・・。」

 またしても、唐突なことに驚いた。そして少しだけ動揺したがすぐに正気を取り戻した。この手の質問は事務所に入る時から想定していたじゃないか。冷静に答えればそれでいい。それで納得してくれるはずだ、

「歌が・・・好きだから。」

「ふーん。」

 天海さんは少し不思議そうな顔をしていた。何なのか。私の顔に何かものでもついているかのようにじろじろ見ている。そして天海さんは尋ねる。

「それだけ?」

 また少しドキッとさせられる。

「悪い?」

 私は臆することなく跳ね返した。

「もっとないんですか?お金持ちになりたいとか、有名になりたいとか。そういうの。」

「ないです。そんなの。そりゃもちろん、有名になって私の歌をもっと多くの人に聞いてほしいという気持ちはあります。売れるという形で評価されるなら評価されたい。だけど、私にとってお金や名声は別に目的でも何でもないんです。純粋に私の歌を聴いてほしい、それだけなんですよ。天海さんはお金や名声のために、歌を歌っているんですか。」

 私は咎めるような口調で天海さんに迫った。

 天海さんは、否定した。

「いや、別に私も、お金持ちになりたいとか、有名になりたいからって歌を歌っているんじゃないんです。ただ単に、みんなを笑顔にしたい。私の歌や踊りで、みんなが笑顔になってほしい、だから私はアイドルを目指しているんです。」

 なるほどね、表向きの理由としては完璧だ。それを笑顔で言い切るところも、まさに「アイドル」向きなのかもしれない。

 天海さんが続ける。

「子供のころ、近所の公園でよく歌っていた女の人がいたんです。その人は、すっごく歌がうまくて、私もその人と一緒によく歌っていたんです。私たちが歌い始めると、周りの子供たちがみんな集まってきて、それでみんなで歌いあうようになって・・・すごく楽しかったなー。」

 天海さんが思い出の中で恍惚としていた。

「それで、実はそのお姉さんって、昔、アイドルをやっていたみたいなんです。」

 もうオチが見えた。そのお姉さんに憧れて自分もアイドルを目指したというところだろう。

「だから、その人に憧れて、自分もアイドルを目指したっていうんですね?」

「はい。」

 別になんということはない。よくできた話だと思う。だけど、少なくとも今の私にはどうでもいいことだった。

「如月さんが、歌手になろうとしたきっかけって何ですか?」

「き・・・きっかけ・・ですか?」

 天海さんは目を輝かせる。

「はい!きっかけです。どうして如月さんはこんなにも歌に集中できるのかなって思って。だから歌手になろうとしたきっかけが知りたいんです。」

「そんなの、あなたが知るべきことじゃないわ。」

 私は冷たくあしらった。そんなの話したくない。そして・・・話せるわけがない。

「えー、どうしてですか?そんな隠すようなことでもないじゃないですか。」

 天海さんは私におちょぼ口でしつこく迫ってきた。

「あなたには関係ないでしょ!」

 気づけば立ち上がって、天海さんを怒鳴りつけていた。

 いきなりのことで、天海さんは目を丸くして驚いている。自分がしてしまったことに気付いて、天海さんに謝った。

「ごめんなさい・・・。」

 天海さんは呆気にとられていたが、すぐに作り笑顔をこさえた。

「いいんですよ・・・。人には言いたくないことの一つや二つありますから・・・。」

 優しく笑む彼女の顔が、私には憐れんでいるように感じられた。私はそんな視線に耐え切れず、彼女の顔から目を逸らし、そして踵を返して玄関口へと向かっていく。

「どこに行くんですか?」

「一人にしてください。ちょっと散歩をしてくるだけですから。」

 私は吐き捨てるようにそう述べた。

 不快だった。天海さんも、自分も。

 天海さんのその明るくて、優しくて、お人好しな性格が嫌いだった。話せば話すほど彼女の人の良さが現れるようで、益々嫌いになっていくのだ。両親から愛情を受け、友人から愛され、そして自分も人を愛する。まさにアイドルの鏡のような子。

 それに対して私は、みんなから嫌われ、煙たがられ、だれも愛してくれることもなければ誰かを愛するわけでもない。することと言えば、今みたいに、誰かを妬むことだけ。そんな自分も嫌いだった。

 

 3

 

 それから一か月の月日が流れた。

 私はあんなド素人の歌唱力しかない天海さんなんかがプロになれるわけがない、プロはそんなに甘い世界じゃない、そしてこのユニットも、到底意味があるものになるとは思えない、そう思っていた。

 ところがだ。驚くべきことに、天海さんの歌唱力は日を追うごとによくなっていったのである。

もちろん、まだまだプロというには全然実力が足らない。お客さんに聴かせられるようなレベルには達していない。しかし、完全など素人というわけでもない。一緒に歌って、私がカバーしてあげられるぐらいの実力はついてきたのだと思う。

 それは私にとっては歓迎すべきことだ。足手纏いだったのがそうでなくなってくれるのだから、私にとっては単純に喜ぶべきことだった。

 天海さんのことも、少しは受け入れてあげようと思っていた。別に天海さんに心を開こうと思ったわけではない。同僚として、同じパートナーとして、表面的でもいいから、少しは打ち解いておかないとユニットを維持するうえで支障があると思ったからである。

確かに天海さんのことは好きじゃない。だけど、天海さんへの悪感情を引きずりながら一緒にやっても、いい歌が歌えるはずがない。だから私は、少しだけ天海さんと親しくすることにした。

 案の定だったのだが、天海さんは、私の態度が変わってから、益々ベタベタとくっついてくるようになり、それまで以上に話しかけてくることが多くなった。私は適当な相槌を打っているだけ。

最初は本当にうっとおしかったが、最近はそれほど嫌でもなくなっていた。天海さんととりあえず仲良くやっていこう、と自分に言い聞かせていたのが良かったのかもしれない。

 天海さんはどんどん歌に自信をつけていった。そしてそれと同時に、彼女の歌唱にある変化が出始めていることに気が付いた。

 ある日の午後のことだ。私たちはいつものように先生を交えて、ボイトレに精を出していた。しばらくして、先生が小休止を入れてきた。

「天海さん、最近本当によくなったわ。それに楽しそうに歌っているのも良いわ。」

 天海さんは笑顔を振りまいて一礼した。

「ありがとうございます!」

「聞いていて、こっちが楽しくなる、そういうところはまさにアイドル向きと言えるわね。」

「はい!早くみんなに私の歌を聞かせてあげたいです!」

「でも、焦りは禁物よ。確かに上手にはなってきているけど、まだまだプロとしてやっていくには未成熟。如月さんのいいところを手本としなくちゃだめよ。」

 天海さんは私の方に振り向いた。

「はい!如月さんは、最も手厳しい鬼教官ですから。」

 失礼しちゃう。先生は笑っていた。

「ハハハハハ。如月さん、天海さんをしっかりと支えてあげてね。」

「はい、しっかり指導します。」

「うん。ただ如月さん、『楽しそうに歌う』っていう姿勢は天海さんから学んだほうがよさそうね。」

「はあ・・・。」

 私は先生の言葉を訝っていた。

「如月さんの静かだけど力強い歌声は、バラードには合っているけど、今回のデビュー曲を歌うなら、『明るさ』が大事。そういうところは、天海さんから学んだほうがいいと思うわ。」

「・・・わかりました。」

 先生の言うことは間違っていないと思う。デビュー曲のジャンルを考えれば、「楽しそうに歌う」ことは必要だ。だけど正直気が向かなかった。歌のことで、私が彼女に鼻をあかされるなんて、認めたくはなかったからだ。

 私は天海さんを睨み付けるかのように一瞥した。天海さんは少し居所が悪そうに、苦笑いを浮かべて、頭を掻いていた。

 その日の夕方のことだ。ボイトレが終わって、そのまま私は事務所が使っているスポーツセンターで汗を流した。その帰り道のことだった。

 事務所の近くには河川敷がある。普段ならここを通ることはないのだが、スポーツセンターから駅までの近道になっていて、今日はたまたま通りかかっていた。

 すると河川敷の遠くの方から、誰かの発声が聞こえてきた。最初は気にも留めなかったのだが、その声が近づくにつれ、それが天海さんのモノだと気づいた。

 こんなところで一人で練習をしていたってわけね・・・。

最初は気にもせずに、そのまま彼女の遠くを通り過ぎようと思っていた。だけど彼女の表情が見える位置まで来て、私は酷く驚いた。練習で歌っている彼女の顔が・・・とても「嬉しそう」だったのだ。

 想わず私はその場で立ち止まってしまった。よくよく観察してみると、彼女はずっと笑顔だった。どうしてなんだろうか・・・。笑顔を作る練習をしているのだろうか、確かに、デビュー曲に向けてそういう練習もありかもしれない。きっとそういうことなのだろう。そうでなければ、誰もいない小川に向かって笑顔を振り撒けるはずがない。

 私は自分をそう納得させて、その場を静かに立ち去った。

 一回は納得したのだが、帰りの電車の中で、また気になりだしてしまった。

レッスンでもなんでも、彼女が歌っているときは、常に笑顔だった。今まで特に気にしになかったから気づかなかったのだが、歌唱力がついてきた最近、彼女が歌う時は常に笑顔だったのである。

 歌がうまくなったことがよっぽど嬉しいのだろう。レッスンの成果が出てきたということだ。それなら私としても教えた甲斐がある。まさか・・・誰も聞いてくれていなくても歌うことが楽しいというのだろうか。そんなバカな・・・。

それにしても、あんな所で自主トレをしていたとは知らなかった。いつから始めていたのだろうか。それに何時までやっているのだろう。確か彼女の家は、とても遠かったはず。そんなに練習していたら、家に帰るのが遅くならないのだろうか。

 何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。これだけの短期間で上達するなんて、よっぽど練習しているに違いない。現にああやって練習をしていた。人に見えないところで。普段は楽天家でちゃらんぽらんに見えるけど、実はやるべきことはしっかりやっているのだろう。

 あれやこれやと考えて、私はふと気づいた。不覚だったが、私は天海さんに少し興味を持ち始めていたのだ。

 その数日後、夕方に事務所を出た私は、駅に向かう道すがら、ふと思い立ち、あの河川敷を訪れてみることにした。彼女がどんな風に練習しているのか、覗いてみたくなったのである。

「あ~あ~あ~」

 河川敷に近づくと、あの声が近づいてきた。天海さんは、この日も練習していた。

今日は少し彼女の声に耳を傾けてみた。リラックスして、腹に力を溜めすぎず、自然な形での発声、私が、そしてコーチが教えた通りの発声法だ。彼女はここでその発声法を練習していたのだ。

 私は彼女から少し離れた木陰で、彼女の様子を見守っていた。天海さんはひとしきり発声練習をし終えると、私たちに与えられたデビュー曲「自分REST@RT」を歌い始めた。

「♪輝いたーステージにたーてば~♪」

 天海さんの声には、とても張りがある。そして何より本当に「楽しそう」だった。

誰も聞いていない小川に向かって、まるで観客に向かっているかのように笑顔で歌っている。明るくハキハキと、それでいて力強い歌声だ、必ずしもうまいというわけではないが、先生が言うように、聞いていて、こちらが楽しくなるような歌い方だった。

 最初は楽しそうに歌う練習をしていたのだと思っていた。だけどしばらく聞いていて、私にはそれが演技だとは思えなくなってきていた。

 やがて私は腕時計に目を落とした。

 彼女の歌に聞き惚れていて気付かなかったが、すでに10分以上彼女の歌に耳を傾けていたらしい。私もそろそろ帰らなくては。そう思って、木陰から道路に出て、駅へと向かおうとした。そのとき、不意に天海さんが何気なくこちらの方を振り返ったのだ。

 やばっと思ったのも束の間、天海さんにたちどころに見つかってしまった。

「あっ・・・如月さん!」

 私は焦ってどぎまぎしながらも、軽く一礼をして、逃げるようにその場から立ち去ろうとした。

「待って!」

 天海さんが全速力で私に向かって走ってきた。しまった・・・嫌な所を見られてしまった。人が密かに練習しているところを陰で覗き見していたなんて・・・。あまりにもバツが悪すぎる。とりあえず一言謝って、すぐに立ち去ってしまおう。

 やがて天海さんが私の目の前で立ち止まった。

「ずっと、聞いていたんですか?」

 私は目を臥せて答える。

「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったんです。たまたま河川敷を通ったら、天海さんの姿を見つけたから、どんなものかと・・・。」

 半分以上嘘だ。というか、全部嘘だ。

「・・・失礼します。」

 私は彼女から逃げるようにして去ろうとした。そんな私を彼女は引き留めた。

「待って!せっかくだから、お話していきましょうよ!」

 天海さんの「ひみつ」を覗き見してしまった手前、彼女の誘いをむげに断る訳にはいかない。

「・・・分かりました。でも、私も時間がないので、少しだけですよ。」

 彼女の顔が明るく咲いた。

「いいですよ。じゃあ、あそこに座りましょうか。」

 そう言って彼女は、少し離れたところにあるベンチを指さした。私たちは、そこに向かって歩き出す。私の方から声をかけてみることにした。

「こんなところで練習していたんですね。」

「自宅だとお父さんとお母さんに迷惑をかけるし、家の近くに発声練習できるところもないですから。」

「ちゃんと、私たちが言ったとおりに練習しているんですね。」

 天海さんは笑顔になる。屈託のない笑顔だ。

「ええ。せっかくプロが教えてくださるんですもの。もっと歌が上手になって、たくさんの人に聞いてもらいたいですから。あっ、あと私、ランニングも始めたんです。」

「ランニング・・・。」

 ランニングは私が勧めたものだ。歌手にとって大事なのは肺活量と持続力だ。将来、ライブやレコーディングを行うという事を考えると、数時間歌いっぱなしに耐えられるだけの体力をつけておかなければならない。だから、ランニングは、絶好のトレーニングになる。

「朝のランニングって気持ちいいですね。走っているうちに、だんだん陽が昇っていって。それで最近、近所のおじさんとランニングしているときによく出くわすんですよ。それで、その人と仲良くなって、あっ、この間はジュースをおごってもらったっけ。」

 そうつぶやく天海さんの表情は本当に華やいでいる。

 そう言っている間に、ベンチのところにたどり着き、私たちは腰を下ろした。私は天海さんの方を向いて尋ねてみた。

「朝、辛くないんですか。遠いんでしょ。ここまで。」

 天海さんは笑顔で答える。

「始発駅から電車に乗れるんですよ。だから、電車の中で座って寝てるんです。」

「そう・・・ですか。」

 とはいえ、ランニングもしてこちらに向かうとなると、朝は5時起きぐらいになってしまうはずだ。今だって、こんなに練習していたら、家に帰る時間がなくなってしまう。

「毎日、練習しているんですか?」

「毎日じゃないですけど、3日に1回くらい、ここで発声のトレーニングを1時間くらいやってから家に帰るんです。ボイトレって面白いっですね。やればやるほど、新しい発見がある。だから、それをつい試したくなっちゃうんです。」

 天海さんの顔は本当に生き生きとしている。そんな彼女に、私はついに尋ねてみた。

「天海さん、一つ聞いていいですか。」

「何でしょうか。」

 改まって尋ねるものだから、天海さんが少し顔をこわばらせた。

「天海さんって・・・どうしてあんなに楽しそうに歌を歌えるんですか。」

 それを聞いて、天海さんは不思議とキョトンとした顔をした。どうしてそんな質問をするの?という表情だった。そして、彼女から帰ってきた答えは実にシンプルだった。

「だって・・・楽しいじゃないですか、歌うの・・・。あれ?楽しく・・・ないんですか?」

 天海さんは恐る恐る尋ねてきた。私は彼女から目をそらした。

 歌うのが楽しい、そんな感覚はとっくの昔に忘れ去ってしまっていた。

「天海さん、最近歌が上達してきたから、だからそれが嬉しいのかと・・・。」

「確かに、歌が上手くなってきたのは嬉しいんですけど、それ以前に、私、歌うのが大好きですから。」

 じゃあ、あれは?あれも演技じゃないっていうの?

「天海さん、ずっと笑顔でしたよね。誰もいない河川敷に向かって。」

「そこも見ていたんですね。」

 ちょっと通りかかっただけという嘘が、もう露呈している。だけどそんなことお構いなしだった。

「楽しいんですか?誰もいない河川敷に向かって歌うこと。だからずっと笑顔だっていうんですか?」

 天海さんはしばらくの静寂の後に「はい」とだけ答えた。

 天海さんも正面を向いて、黙り込んでいる。私も正面の川面に目を向けた。眼前には、西日に照らされた川面が輝いていた。

少し経ち、重い沈黙を破って、天海さんがこちらを向いて尋ねてきた。

「如月さんって、カラオケに行きますか?」

 私も彼女を見返す。

「カラオケですか?ええ、まあ行きますけど。」

「カラオケって楽しいですよねー。友達と馬鹿みたいにはしゃいで、好きな歌歌って、合いの手入れて、タンバリンを打ち鳴らして。友達とワイワイやっているときは本当に楽しい。だけど、私一人カラオケも好きなんです。歌っていると、なんだか気分がウキウキしてくる。たとえ誰も聞いていなくても、声を出すって楽しい。何かから解放されたみたいに気分がさわやかになるんです。」

 気分がさわやかに・・・ね。遠い昔、私もそんな気分になっていたんだっけ。長らくそんな気分になったことはなかったから、それがどんな感覚なのか、いまいちピンとこなかった。

「如月さんは、カラオケは友達と行くんですか?」

 私にそんな「トモダチ」はいない。

「いいえ。一人です。カラオケは声のセルフチェックにちょうどいいんですよ。最近は採点機能も充実していますから、歌い方の癖とか、ビブラートの出し方とか、そういうのを研究するのに向いているんです。」

「そうですか・・・。」

 天海さんは何かを言いたげだった。ただ、なんて切り出していいのかわからないという感じだった。天海さんは私のほうを見やることなく、まっすぐ川べりを眺めている。私も川の方に目を向けていた。

 しばらく無言が続いていたが、天海さんが意を決した様子で私に尋ねてきた。

「如月さん、ちょっと失礼なこと聞いちゃいますけど、ごめんなさいね。」

 彼女はそう前置きしたうえで尋ねてくる。

「如月さんって、なんか歌っているとき、すごく『苦しそう』なんです。如月さん・・・歌うの・・・歌うことが・・・『苦しい』んですか?」

 歌うことが苦しいか?それは苦しい。本気で歌えば歌うほど。でも、それはプロとして当然のこと。

「・・・苦しいですよ。少なくとも楽じゃない。でもそれは、少しでも聴者にいい歌を届けようと必死だからですよ。当たり前のことじゃないですか。歌は自分のために歌うんじゃない、少なくともプロは。私の歌を聴いてくれる人のために歌うんです。だから、私自身が苦しいのは当然ですよ。」

 天海さんが食らいついてくる。

「一緒に楽しくなっちゃダメなんでしょうか。」

「えっ?」

「自分の歌を通じて、相手を楽しませてあげたい。ライブで歌ったら、お客さんを楽しませたいし、CDを録音するなら、それを聞いてくれる人を明るく元気にするような歌を歌いたい。でも、それと同時に、自分自身も楽しみたいんです。自分自身が楽しめなかったら、きっとお客さんにもそれが伝わっちゃって、しらけちゃうって思うんです。」

 私は天海さんのほうを向いて反論した。

「天海さん、それは間違っているわ。自分が楽しめなくちゃ、相手を楽しませられる訳ないというあなたの考えは分からなくもない。だけど、プロの歌手は、歌っているときは常に聴者の気持ちだけを考えなくちゃダメなの。技巧を凝らして、どうすれば、相手の耳に、そして心に残る歌を残せるか。自分が楽しむことなんて、考える余裕なんてないのよ。」

 天海さんも私のほうを振り返る。

「それって辛くないですか?」

「辛い?」

「ええ。如月さん、歌が好きなんですよね?でも、そんなに苦しい思いをして歌い続けてたら、いつか歌嫌いになっちゃいますよ。」

「余計なお世話よ。」

 吐き捨てるようにして言い放ち、私は天海さんから目をそらした。

「でも・・・。」

「私はプロなの。私には歌しかない。好きとか嫌いとか、そんなの関係ない。」

「如月さん・・・。」

「天海さんは自分の心配をしたほうがいいんじゃないですか。あなたは、私に“アドバイス”できるくらい余裕綽々なのかしら。」

 少し厭味ったらしく述べた。そして私は立ち上がり、彼女にサヨナラさえ言わず、駅のほうに向かって歩こうとした。

「如月さん!」

 天海さんが立ちあがって私を呼び止める。

「私、あなたのこと尊敬しているんです!如月さんは、すごく歌が上手だし、日々のトレーニングにも全然ぬかりがない。それに、如月さんの歌への熱意は本当に並々ならないものがある。だから、私、少しでも早く如月さんに追いつこうと、如月さんが教えてくれたトレーニングは全部試しているし、ここでひそかに自主練もやってるんです。」

「そうですか。」

「如月さんに追いつこうと、如月さんの真似をして、如月さんのことずっと見てきて、私・・・、気になっちゃったんです。如月さんって、どうして歌を歌っているんだろうって。」

「なぜ、歌を歌っているか?」

 私は天海さんのほうを振り返った。彼女は大きくうなずいた。

「なんだか、義務感に駆られているような気がするんです。如月さんは、歌を歌いたいから歌っているんじゃなくて、歌を歌わなくちゃいけないから歌っている。歌うことを強いられている、そんな気がするんです。」

「だとしたら、なんだって言うんですか。」

 私はあえて否定しなかった。ここで否定したところで、きっと彼女は追及をやめないだろう。天海さんは、私の秘密に気付き始めている。

「どうして、楽しめないんですか!?」

 天海さんの顔には悲痛な色が浮かんでいる。私には、なぜ彼女が苦悶の表情を浮かべているのかが理解できなかった。

 天海さんと私はただの同僚に過ぎない。そんな同僚のことを、どうしてこんなにも心配しているのだろうか。

 少し考えて理解できた。天海さんは、私が歌をやめてしまうのではないかと心配しているのだ。私が歌をやめてしまえば、ユニットは解散、彼女も歌が歌えなくなってしまう。きっとそれを恐れているのだ。

 私は微笑を浮かべた。

「天海さん、安心してください。私は歌をやめたりはしませんよ。天海さん、あなたは私が歌をやめてしまうって心配しているんですよね。楽しそうじゃないから。でもね、言っておくけど、私はそんなことで歌を辞めたりはしない。私には背負うべきものがありますから。」

 私はそう言い放つと、踵を返して、歩き出そうとした。それを天海さんが引き留めた。

「待って!如月さん!」

「なんですか、いったい。」

 何度も呼び止められた私は、足を止めて不機嫌に振り返った。

「教えてくれませんか。如月さんの『秘密』。」

 秘密・・・。

「いったい何が、如月さんをそんなに苦しめているっていうんですか!?どうして、楽しく歌うことができないんですか!?その理由を教えてほしいんです!」

 そんなこと、ただの同僚に教えられるわけがない。

「私には何も『秘密』なんてありませんよ。悪いけど、もういいかしら。天海さんが私を心配してくれているのはありがたいけど、別にあなたに心配してもらわなくても大丈夫だし、天海さんに迷惑をかけたりはしないから。」

 私は彼女に背を向けると、無視するようにして歩き出した。天海さんが叫んだ。

「歌うって!本当は楽しいんだよ!辛そうにして、苦しそうにして、歌う必要なんてないんだよ!」

 私はそんな彼女の言葉を無視してその場を後にした。心には、もやもやとした感情が残っていた。

 

 4

 

 私は歌が好きだった。

 私の弟は、私が歌っている姿が好きだった。弟はいつもねだっていたのだ。

「お姉ちゃん歌って歌って!」

「うん、いいよ!」

 私は気前よく歌っていた。弟にとって、私は「アイドル」そのものだった。私は、「優」だけのアイドルだった。弟はそんな私をとても好んでいたし、私もそんな弟が好きだった。

 弟が死んだ。交通事故だった。

ある夏の昼下がり、私と優は公園で遊んでいた。私がトイレに入っていた間に、弟は車道に飛び出して、トラックに轢かれて死んだのだ。

 私が殺したようなものだ。私がもっとしっかりと優のことを見てあげていれば、こんなことにはならなかったからだ。両親は私を責めた。当然だ。私が悪いのだから。

 私は罪滅ぼしがしたかった。弟を見殺しにしてしまった私の罪を償おうと、私は自分にとって都合のいい贖罪を思いついた。それが歌手になることだった。

 当然、両親は反対した。歌手なんて誰もが成功できる道ではない。むしろ、成功できるのはほんの一握りの人間に過ぎない。だけど私も譲らなかった。優は生前言っていたのだ。

「お姉ちゃんが大きくなったら、歌手になってほしい!お姉ちゃんの歌をみんなに届けてほしい!」

 まだ幼かった私は、そんな弟の無邪気な願いを快く引き受けていたのだった。

 私は弟への償いのため、歌手になることを決意した。それからというもの、私は歌が好きではなくなった。今まで私は、歌を、自分のものとして歌っていた。だけど、歌手を志したあの日からは、もう違う。私の歌は、私の歌声を聞いてくれるみんなのもの、そして天国にいる弟のものになったのだ。私は、歌手になる夢と引き換えに、自分の「歌」を失った。私にとって、それはとても辛い「罰」だった。そして、あの子を見殺しにした私にふさわしい「罰」だった。

 天海さんが私を気遣ってくれているのはわかっていた。だけど私は、天海さんに全てを話すつもりは毛頭なかった。第一そんなことを話す筋合い何てないし、もしそんなことをすれば、私の決意が揺らいでしまうような気がしたからだ。天海さんは、きっと私に翻意を促すはずだ。「歌」を取り戻させようとするはずだ。「歌は楽しい」とかなんとか言って。でもそんなことは許されないし、許しはしない。

私の使命は、天国の弟の夢をかなえること。プロの歌手として活躍して、そして天国の弟に私の歌声を届けること。その為には、全てを犠牲にしなければならない。これは私が背負った十字架。誰にも触れてほしくないし、指一本触らせるつもりはない。

 あれから天海さんは私に説教をしなくなった。天海さんは歌がどんどん上達し、うまくなればなるほど、彼女は更に歌うことの楽しさを見出していくようだった。

 時が経つにつれて、私の天海さんへの感情が少しずつ変化していることに気付いた。どこか天海さんのことを「かわいい」と思えるようになったのである。こういう言い方は変だと思うが、まるで自分に妹かなにかができたかのように感じていた。不思議だった。彼女といると、心が安らぐような感じがした。

 私たちは、いつの間にかタメ口で話すようになっていた。彼女なら私の「トモダチ」にしてもいいと思ったのだ。

 私の家庭はついに崩壊した。

 私と天海さんがユニットを組んで3か月後、両親が離婚することになったのである。そして私は・・・一人暮らしをすることになった。両親に勧められたのだ。

「アイドル活動をするんだったら、もっと事務所に近い所に住んだほうがいいんじゃないか。」

 私には一瞬で分かった。私は両親から「捨てられた」のだ。父も母も、私のことを引き取りたくなかったのだろう。だから私に「一人暮らし」を勧めたのだ。

 正直な話、内心ほっとしていた。もう両親のあの醜い争い、金切り声、怒鳴り声、叫び声を聞かなくて済む、そう思うと心のつかえが取れたようだった。

 でも、それは私の心をだましたに過ぎない。自分の中でどう取り繕っても、父も母も、私のことを嫌い、そして捨てたという事実には変わりなかったからだ。

父も母も嫌いだった。私が弟の死に対してどれだけ責任を感じていたか、考えることもせず責め立て、私の気持ちなんかお構いなしに毎日けんかして、陰で泣いていたことも気づかず、常に蚊帳の外に置かれていた。そんな両親のことを、私は嫌っていた。

 私が両親のことを嫌っていたから、両親も私のことを嫌っていた。ただそれだけの事。単純なことだ。ずっとこうありたいと願ってきたではないか。両親の暗く、重たい影から自由になりたい。一人暮らしをしたい。誰にも束縛されず、私は私のことだけを考えて生きていきたい。そう願っていたはずなのに・・・。

 一人になり、狭い筈のワンルームマンションに腰を据えてみると、あまりにも部屋が広いことに気が付いた。物がないのだ。

捨てたからだ。自宅を出るときに。軽くなりたかった。引きずりたくなかった。過去の自分を、そして両親とのいさかいを。だから、いらない私物はどんどん捨ててしまった。

 そして気づけば、辺りは空っぽになっていた。そんな室内を見て、空疎な思いで身が縮こまった。まるで私の人生そのものじゃないか、と思ったのだ。

 「トモダチ」はどんどん捨てていった。小学校のころからそうだった。クラス替えで、かつての「トモダチ」と疎遠になると、廊下ですれ違って声をかけてくれても、まともに挨拶すらしなかった。

 私にとって「トモダチ」は、その時の不便さを解消してくれるなら何でもよかったのだ。「トモダチ」とは、私にとってそういう存在だった。

 私は気づいてしまった。私はずっと今まで「孤高」に生きていると思っていた。みんなが群れあって、もたれ掛って生きていた中で、私だけは違った、私は自分の力だけで生きている、そして生きていけると思っていた。そうやって、私はほかの人に対して冷淡に接してきた。

 だけど、こうやってものさみしい室内にいると、私が「孤高」だと思っていたものは、単に「孤独」なだけだったと気づかされたのだ。

 私は怖くなった。どうしてこんな恐怖心に苛まれたのかわからない。両親に捨てられたことがショックだったのか、それとも自分の身の周りのさみしさが原因なのか。歌さえあればいい。歌さえあれば生きていける、そう思ってきたのに・・・。

 私たちのユニットの記念すべきファーストシングル収録を目前に控えて、私は「声」を失った。医師の診断は失声症、精神的ストレスによるものだった。

 声の出ない歌手など、翼のもがれた鳥と同じ。地上に墜落した鳥に生きる術はない。同じように、声を失した私など・・・。

 私は家に引きこもった。学校にも行かず、事務所にもいかず、レッスンにも行かず、どこにも行かず、やることもなく、ただ家の中で引きこもっていた。

 事務所にはメールを出して、天海さんとのユニットの解消を申し出た。天海さんには大きな迷惑をかけてしまった。本当は直接会って謝らなくてはいけないのだが、臆病で卑怯な私は、彼女の前に姿を見せる勇気がなかった。あれだけ天海さんに大言壮語しておきながら、収録前に「失声症」にかかるなんて、恥ずかしくて顔向けなんてできなかった。

 どうせ私は事務所をクビになるだろう。レッスンも仕事も何もかもほっぽり出して、家から出てこないのだ。愛想が尽きるのも時間の問題だ。

 私には自分のことを心配してくれる人などいない。両親が尋ねてくることも、トモダチが尋ねてくることもない。私の存在など誰も気にするはずがない。そう思っていたのに・・・。

ピンポーン

 また今日もインターホンが鳴る。これで3日連続だ。私はインターホンのカメラのスイッチをつける。そこには、リボン頭のあの子が立っていた。

 事務所の人も何人かここを訪れた。けれど私がか細い声で、振り絞って「帰ってください」というと、もう二度と家を訪れることはなかった。あの子以外は。

「如月さん、今日はいいものを持ってきたんだよ。じゃーん!」

 そういって天海さんは、カメラに向かって、両手に持ったリンゴを見せつけていた。

「私の親戚のおじさんが青森でりんご農家をしてるんだけど、今年も豊作になったからって、送ってきてくれたんだ。私だけじゃ食べきれないし、一緒に食べない?いっぱいあるよ!」

 私はうんざりして、インターホンを切る。天海さんは、どうしても自分を中に入れてほしいらしい。

 どうもリンゴはたくさんあるらしい。ここで追い返してしまったら、またリンゴを持って帰らなければならない。どうやって持ってきたかは知らないが、天海さんにもう一度持ち帰らせるのは忍びない。

 しょうがない。彼女を中に入れよう。

 私は玄関先へと向かい、チェーンを外し、鍵を開けた。扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた天海さんが立っていた。そして地面には、段ボールいっぱいのリンゴが詰め込まれていた。これ全部私にくれるのだろうか?こんなに食べきれるはずがない。

「如月さん、久しぶり!入っていい?」

 私は少し困惑した表情を浮かべながら、首を縦に振った。

「じゃあ、お邪魔します!」

 そういうと彼女は、段ボールを重そうに抱えて中に入った。

「どこか置いていいところある?」

 1LDKの室内に入った天海さんは、段ボールの置き場所を求めていた。私はとっさにスーパーの広告チラシを取り出して、そこに置くように目で指示をした。

「じゃあ、ここに置くね。よいしょっと。」

 ドスンという音とともに、リンゴが地面に置かれた。

「如月さんの部屋、意外に広いんだね。」

 天海さんがじろじろと部屋を見渡した。

 物がないだけだ。

「ねぇ早速だけど、このリンゴ食べない?冷蔵庫で冷やしてたわけじゃないから、冷たくはないけど、味には自信があるんだ。どう?」

 こうなってしまった以上、断るのも難しいだろう。おなかが減っていないわけでもない。私は、うん、と頷いた。

「そうこなくっちゃ!キッチン借りていい?私が剥いてきてあげるから。如月さんは座って待ってて。」

 そういうとリンゴを1個取り出して、キッチンのほうに向かってしまった。

 私は四角いテーブルのところに座布団を敷いて座り込むと、深くため息をついた。そしてこの子を部屋の中に入れてしまったことをひどく後悔した。天海さんが、リンゴだけ食べておとなしく帰ってくれる性格でないことは、自分がよく知っていたはずなのだ。天海さんは、あんな手こんな手使って私を慰めようとしてくるに違いない。

たった数分前のことなのに、私の中ではわからないのだ。どうして彼女を入れてしまったのだろうか。リンゴなんて、どうせ誰かが車で運んできたに違いないのだ。持って帰らせたって、彼女が苦労するわけではないし、何の問題もないはずなのに。

 そんなことを考えていると、天海さんが1個のリンゴを、数個のかわいいうさぎ型に整えてお皿に乗せてやってきた。彼女が私の隣に座る。

「見て見て、かわいいでしょう!」

 確かに、かわいい。はしゃぐ天海さんの笑顔がまぶしい。

 私は表情を変えないまま、うん、と頷いた。

「私得意なんだ。リンゴの皮むき。昔からリンゴばっかり食べてたからね。小さい時から、お母さんにリンゴの剥き方いろいろ教わったんだ。」

 私は頷いた。だけどそれ以外の反応を見せようとは思わなかった。

 天海さんは、何かを思い出したようにハッとして、自分が持ってきたバッグの中からノートとボールペンを取り出した。

「如月さん、これでおしゃべりしようよ。」

 私に筆談しろ、ということらしい。

 私はどぎまぎしていた。天海さんとは、話したくないといえばうそになる。だけど、積極的に話したいとも思わない。

 私の無表情の沈黙を肯定と受け取ったのか、早速天海さんが話し始めた。

「如月さん、最近何してる?ずっとおうちの中にいるの?テレビとか見てる?何もしないで家にいるんじゃ、暇だよね?」

 私はしぶしぶまっさらなノートを開き、そこに書き込んだ。

〈見てない。〉

「じゃあ、何してるの?」

〈寝てる。〉

「ずっと?ずっとってことないと思うけど。」

 私はじっと睨みつけるように天海さんを見つめた。私は本当に何もしていなかった。何かをする気力が全く起きなかった。歌しか取り柄のない私から声を奪ったら、後には何も残らない。

「そう・・・。じゃあ私が見たテレビについて話すね。私ね、最近、刑事ドラマにはまってるんだ。」

 刑事ドラマ?って表情をした。

「『相棒』って刑事ドラマやってるでしょ。最近それにはまってて、レンタルショップでDVD借りて見てるんだ。あっ、もちろん本編の放送のほうも見てるよ。如月さんは、刑事ドラマとか好き?」

〈あんまり。〉

「そっかー。じゃあ、如月さんはどんなテレビを見てるの?普段。やっぱり歌番組とか?」

 私は、うん、と頷いた。

 歌番組は研究のために録画してみている。目標にしているアーティストが出演している回は、必ず永久保存しているのだ。

「私も歌番組は好きだよ。ミュージックステーションとか。如月さんも見る?」

 私は首を縦に振った。

「私、平原綾香が好きなんだよね。彼女の透き通るような声がかっこよくて、あこがれるんだ。」

 目の付け所はいいように思う。私も平原さんの歌は好きだ。私が目標としているアーティストの一人。

 私は、うん、と頷いた。その時、天海さんの顔がほころんだ。

「如月さん、やっと笑ってくれたね。」

 その時初めて気が付いた。頬が緩んでいたのだ。気づかないうちに、笑みをこぼしていたらしい。

 天海さんが爪楊枝をさしたリンゴを持ち上げた。

「はい、食べよ。長く置いとくと乾いちゃうよ。」

 私は彼女から、ウサギ型に成形されたリンゴを受け取った。彼女もリンゴが刺さった爪楊枝を持ち上げた。

「いただきまーす。」

 シャクリ

 瑞々しい音を立てて、彼女がリンゴを口に運ぶ。

「おいしい!如月さんも早く食べて食べて!」

 促されるまま私もリンゴにかじりつく。

 シャクリ

 なるほど確かにおいしい。普通のリンゴより少し甘いかもしれない。天海さんが自慢するのもよくわかる。

「これね、『弘前ふじ』っていうリンゴなんだよ。ふつうのリンゴより少し糖度が高くて、たまに蜜が入ってたりするんだよ。」

 へえー、そうなんだ。

 私は二口目にありついた。

「気に入ってもらえた?」

 私は、うん、と頷いた。

「よかったー。もし気に入らなくて、『全部持って帰れ』って言われたらどうしようかと思ったよ。」

 私は微笑して、「そんなことさせませんよ」と伝えるために首を横に振った。

「足りなかったら言ってね。また剥いてくるから。今度はハート型に切ってこようかなー。」

 天海さんは不自然なほど上機嫌だった。私を元気にしようと必死なんだろう。気持ちはうれしいけど、そんなことをされる筋合いはない。私は彼女に多大な迷惑をかけているのだ。デビュー曲のレコーディングを間近に控えておきながら、私のせいで全てが台無しになった。罵られこそすれ、心配されるような立場ではないのだ。

〈ごめんなさい。あなたに迷惑をかけて。〉

 私はそう記して、彼女に見せた。

 天海さんは、私に屈託のない笑顔を見せるのだ。

「気にしないで。ゆっくり直していこうよ。ユニット、解消しないからね。」

 えっ!どうして・・・。

私は驚いて顔をゆがませた。慌てて天海さんにその理由をノートに書いて尋ねた。

 彼女はこう答えるのだ。

「だって、ユニットを解消しちゃったら、如月さん、独りぼっちになっちゃうでしょ。」

 独りぼっち・・・。確かにその通りだ。ユニットがなくなってしまえば、私の居場所は失われる。だけどそれでいいのだ。私自身それを望んでいる。

 天海さんは続けた。

「私びっくりしちゃった。如月さんのご両親が離婚したって聞いて。だって、如月さん、自分の事何にも話してくれないんだもん。それに、一人暮らしを始めたって聞いた時にはもっと驚いた。どうして、どちらの親御さんとも同居しないんだろうって。」

 私はうつむいた。心の奥底を見透かされているような気がしたのだ。

「ねえ、如月さん。私、前からずっと気になってたんだ。前にも一度話したけど、如月さんってどうしてあんなに辛そうに歌を歌うの?もしかして、それって、如月さんのご両親が離婚したことと関係があるの?」

 私は、ノートに書いて、それを天海さんに見せた。

〈帰って〉

「帰らないよ。」

 私は力を込めて、もう一度その〈帰って〉を指さした。

「如月さんから事情を聴くまでは・・・帰らない。」

 この子、やっぱりそれが目的だったのね!

 私は勢いに任せて殴り書いた。天海さんを見つめる。

〈余計なことしないで!私のことなんて、放っておいてよ!〉

 天海さんは真剣な目を向けて、はっきりと述べる。

「放っとかない!放っておくなんて無理だよ・・・。」

 天海さん・・・。

「隣でずっと苦しんでいる人を、放っておけるわけないじゃない!ずっと一人で苦しんでたんでしょ。親にも、誰にも相談できないから・・・。だから・・・、話してほしいの。いったい何があったのか。」

 私は絞り出すようにして声を出した。

「あなたに・・・なにが・・・わか・・るって・・・いうの・・・。」

「わからないよ!わからないよ・・・、如月さんの心の中は・・・。だから、分かち合いたいの!あなたの苦しみを。」

「そんなこと・・・される・・・すじあい・・・ないわ・・・。」

「あるよ!だって・・・私たち・・・一緒に頂点を目指すパートナーでしょ。」

「パートナー・・・」

 天海さんは頷いた。

「カタルシスって聞いたことない。一人で抱え込んでる辛いことも、ほかの人に話せば楽になるって。だから・・・話してほしいの。如月さんの口から。」

 私はまた俯いた。パートナー・・・か。話したってどうにかなるとは思えない。それに、こんなこと同僚に話していい話題ではない。

 でも、話してしまいたい、話して楽になってしまいたい、そんな心の誘惑が私を襲ってくる。

 でもやっぱり怖い・・・。自分の心の中をさらけ出すのは。自分の恥部を他人に明かすのは。

「千早ちゃん。」

 天海さんが私の手を取って握った。驚いて私は天海さんの方に目をやった。

 “千早ちゃん”か。そんな風にして私を呼んでくれたのは、天海さんが初めてだ。

「千早ちゃん。私を、信じて。」

 信じる?

「千早ちゃんは、恐れているんだよね。自分の過去を語ること。」

 図星だ。私は思わず目を逸らした。

「私・・・千早ちゃんにどんな過去があったとしても、千早ちゃんの味方だから。」

 どんなことがあっても?どうしてそんなこと断言できるっていうのよ。

「きっと・・・あなたは・・・わた・・・し・・・に・・げんめつ・・・する・・・から・・・。」

 私なんて禄でもない人間だ。何が大事かも分からず、何もかも捨ててしまって、ほっぽりだしてしまった人間。そんな人に関わったって、天海さん、あなたも碌なことになりはしない。

「あまみ・・さん・・・あなたは・・・わたしが・・・いなくても・・・・・・ひとりでも・・・やっていける・・・から・・・だから・・・。」

 そう言おうとして、天海さんが遮った。

「そうじゃない。そうじゃないんだよ。これは私の願いでもあるの。私・・・千早ちゃんと・・・一緒に歌いたいの!」

 私は天海さんに顔を向けた。

「いっしょに・・・うたう・・・。」

「うん!私気づいたんだよ。一人で歌っているよりも、二人で歌った方が・・・千早ちゃんと一緒に歌っている方が、もっと楽しい。千早ちゃんと一緒に歌って、踊って、レッスンできて・・・だから私、歌のこともっと好きになれるの。だからさ、私、いつまでも待っていられるんだよ。一緒に歌いたいから。」

 天海さん・・・。

「・・・勇気を出してほしいの。苦しみを分かち合えたら、きっと、その重さも半分こにできるはずだから。ね?」

 半分こね・・・。そんなことできるわけがない。できるわけない・・・できるわけ・・・。

 天海さんは、まるで慈母のように優しく微笑んでいた。どんなことがあっても、全て受け止める、そんな決意に満ちているような笑みだった。

 もしかしたら本当に・・・この子だったら・・・、私の苦しみを、受け止めてくれるかもしれない。私の苦しみの、たとえ一割でもいい。受け止めてくれるかもしれない。

 こんな恥さらしなことはない。だけど、天海さんになら・・・晒してもいい、そんな気がした。

 私は少しだけ微笑んだ。そして、心の中の足枷を振り切って、ゆっくりと話し始めた。

「わたしには・・・おとうと・・・いたの。『優』・・・。」

「うん。」

「かわいい・・・かわいいおとうと・・・。」

「うん。」

「すきだった・・・。おとうとのことが・・・。だけど、おとうとは・・・わたしのせいで・・・しんじゃった。」

「千早ちゃんのせい?」

 胸が熱くなっていくのを感じる。こみ上げるものがひしひしと湧き出てくるのである。

「こうえんで・・・あそん・・・でいたの・・・。優といっしょに。わたしが・・・トイレに・・・はいって・・・そのときに・・・優が・・・どうろにとびだして・・・。それで・・・。」

「車に・・・轢かれた。」

 私は頷いた。気づけば、両目から涙がこぼれていた。

「りょうしんは・・・わたしを・・・せめた・・・。おまえのせい・・・おまえのせいで・・・おとうとは・・・優は・・・しんだ・・・。」

「うん。」

「なにもはんろん・・・できなかった・・・。わたしのせいで・・・おとうとは・・・しんだの・・・。」

 天海さんは小さくうなずいていた。

「それから・・・じごくのような・・・ひび・・・ちちも・・・ははも・・・まいにちのようにけんかして・・・怖かった・・・。おまえが・・・優を・・・殺したんだ・・・。そんなふうに・・・いわれた・・・。」

「うん・・・。」

「わたしは・・・弱かったから・・・うたに・・・にげたの。わたしが・・・すきだった・・・うたに・・・。」

「うん・・・。」

「おとうとは・・・優は・・・わたしのことがすきだった・・・。わたしがうたっている・・・ところ・・・おとうとのゆめだった・・・わたしが・・・かしゅになる・・・。かしゅになって・・・優に・・・とくとうせきを・・・あげるんだって・・・。」

「うん・・・。」

「でも・・・もう・・・そんなことは・・・できないっ・・・。わたしがっ・・・殺したっ・・・優のことをっ・・・公園なんか・・・いかなければよかったっ・・・そうすればっ・・・あの子は・・・優はっ!・・・わたしのせいでっ」

 私はボロボロと涙をこぼしていた。すると突然天海さんが私のことを抱きしめてきた。抱き寄せて、背中をさすっている。

「分かった。わかったよ、千早ちゃん。そっか・・・。千早ちゃんは、弟さんのために歌っていたんだね。天国にいる弟さんのために。」

「わたしの・・・罪ほろぼし・・・だから。」

天海さんは耳元で囁いた。

「誰も悪くない。不幸な事故だったんだよ。ご両親だって本当はわかっていたはず。わかっていて、それでも千早ちゃんのせいにしていたんだよ。そうしないと・・・心がもたなかったから、きっとそう。」

 しばらくして天海さんが続けた。

「ありがとう、話してくれて。千早ちゃんが歌手になること、それって弟さんの夢だったんだね。でも弟さんは、『歌手になること』それだけを千早ちゃんに望んでいたのかな。」

「えっ・・・どういうこと?」

「私思うんだ。優くんが千早ちゃんに歌手になってほしかったのは、そうすれば千早ちゃんが幸せになれるって思ったからなんじゃないかな。」

「わたしの・・・しあわせ・・・。」

「うん。千早ちゃんは、歌うことが好きだった。だって、歌うって楽しいじゃない。だから、弟さんは、千早ちゃんに歌手になってほしいって思ったんじゃないかな。もっと沢山歌を歌えるようにって。」

「うたうことが・・・楽しい・・・。」

 天海さんが私から離れて、両肩を揺さぶった。

「歌うって楽しいんだよ!千早ちゃん!苦しまなくたって、いいんだよ!そんなの、だれも望んでいない。優くんも、私も、リスナーも、みんなそう!」

 楽しく歌う・・・。歌うことが幸せ・・・。いいの?本当に?私なんかが・・・楽しんでしまって・・・。

「楽しく・・・歌っていいの・・・たのしんで・・・うたって・・・。それが・・・優の・・・望み?・・・」

「そうだよ!千早ちゃん!優君は、千早ちゃんが楽しんで歌っている姿を見たいんだよ!もがき苦しんでいる姿なんかじゃない!」

 楽しんで・・・笑って・・・。それが優への・・・贖罪?

「遺された者は、託した人の分まで幸せに生きなくちゃいけないんだよ!だから!もっと楽しもうよ!・・・二人で一緒に!」

 天海さんと・・・二人で・・・。

 本当に、優は許してくれるというの?私が・・・幸せになる。楽しく歌って・・・楽しんじゃって・・・本当にいいの?

 私は天を仰いだ。そこには真っ白い天井があるだけ。私は目を瞑った。瞼を閉じれば、あの頃の記憶が鮮明によみがえってくる。優と一緒に遊んだ日々、楽しかった日々、そして・・・あの日のことも。

 そして心の中で優に語り掛けるのだ。

 “優・・・お姉ちゃん、歌を楽しんでしまっていいの?・・・楽しく歌うこと、あなたは許してくれるの?優・・・あなたはきっと許してくれないでしょうね。私に怒っているから・・・。あなたを・・・見殺しにしてしまったから・・・。”

「・・・ちゃん。」

 声が聞こえる。これは・・・この声は・・・優!?

「おねえ・・ちゃん・・・。」

「優・・・。」

 暗闇の中で姿は見えない。だけど、確実にその声が聞こえるのだ!

「おねえちゃん・・・だいすき・・・。」

「優!どこにいるの!?」

 暗い闇の中で、私は手をばたつかせて、優の姿を探ろうとする。だけど、声がする方に手を伸ばしても、何の手ごたえもない。

「優!!優!!!」

「おねえちゃん・・・だいじょうぶだよ・・・。」

「優!私!あなたに、聞きたいことがっ!ねぇえ!!」

 叫んでも、手を伸ばしても、何をしても、優には届かなかった・・・。

「・・・ちゃん」

「・・・ちゃん!」

 気づくと体が揺れている。誰かが叫んでいる。私はその不快な揺れで目を覚ました。目を開けると、そこには天海さんが心配そうなまなざしで、上からのぞき込んでいた。

「千早ちゃん!大丈夫!?」

「天海さん・・・。」

 どうやら気を失ったようだ。私は仰向けに倒れ込んでいた。最近あまり食べてないから、目が眩んだのだろう。

「大丈夫!?どこか苦しいの!?」

 私は彼女の問いに答えるように、ゆっくりと体を起こした。

「大丈夫・・・。最近、ちょっと食欲が無くて。それで目が眩んだだけだから。」

「よかったー、もう、どうなったかと思ったよ・・・。」

 天海さんが安堵の声を上げていた。

「心配かけてごめんなさい。」

 私は完全復活したことをアピールするため、爪楊枝のリンゴに一口かじりついた。そして、今さっき見た不思議な光景について話すことにした。お互いに見つめ合っている。

「倒れていた時に・・・夢を見ていたの。」

「夢?」

「そう。優が、私に話しかけてくれる夢。」

「優君は、千早ちゃんに何て言っていたの?」

「・・・おねえちゃん・・・だいすき・・・だいじょうぶだよって・・・。」

 涙が胸の奥底から噴き出しそうになる。たとえ夢の中だったとしても、弟の声を聞けたことが嬉しかった。

「千早ちゃん。」

 天海さんは笑顔になった。

「きっとそれは、優君が、千早ちゃんのことを許してくれたってことなんじゃないかな?」

 許した・・・私を・・・?

「優君は千早ちゃんに、歌を楽しんでほしいって思ってた。だから、優君が、そのことを伝えに千早ちゃんの前に現れたんじゃないかな?『僕のことはもう大丈夫だよ』って伝えようとしたんじゃないかな?」

 そうなのかな。そうであってほしいな。

「優君はさぁ、そういう優しい心根の持ち主だったんだよね?」

「そうよ。」

「じゃあ、千早ちゃんのことをずっと恨んでいるなんて、あり得ないんじゃない?」

 そうか・・・そうだよね・・・。あの優しい子がそんなに恨むなんて、よく考えればありえないことだ。どうして今まで気づけなかったんだろう。

恐らく、私はずっとそう思わされていたんだろう。両親が植え付け得た贖罪意識が、優へのイメージを歪ませていたのかもしれない。

「優が・・・許してくれた。」

「そうだよ!だからもう苦しみながら歌う必要なんて無いんだよ!それで千早ちゃんはどうしたいの?楽しく歌いたいの?歌いたくないの?」

 私は・・・歌いたい。天海さんと一緒に、歌いたい。

「私は・・・あなたと一緒に・・・歌いたい。天海さんと一緒に楽しく歌いたい!」

 天海さんはニンマリと笑った。

「ちょっといいかな。」

 天海さんはそういうと、私から離れて、数歩後ろに下がった。そして目をつぶった。

「昨日までの生き方と~♪」

 天海さんは忽然と、私たちのデビュー曲『自分Rest@rt』を歌い始めた。驚いた。天海さんはさらに上達しているのだ。

 私は思わず目を丸くした。

「びっくりしたでしょ。レッスン、ちゃんと続けてたんだよ。千早ちゃんがいない間にね。いつ帰ってきてもいいように。」

「天海さん・・・あなた・・・。」

「ほら、千早ちゃん。声、戻ってきているよ。」

「えっ・・・あ~あ~、本当だ。」

 今気づいて自分でも驚いた。声が・・・出ているのだ!

「失声症の最大の治療法は、心のつかえを取ることなんだよ。千早ちゃん!」

「あなた・・・それが狙いで・・・。」

 天海さんはパアーっと明るい笑顔を見せた。

「ここまでうまくいくとは思わなかったけどね。」

 天海さん・・・。

 胸がズキズキする。間欠泉が湧き上がるように、涙が吹きあがってくるのを感じた。

「まったくもう・・・。」

 気づけば、涙がぽろぽろと頬を伝っていた。悲しみの涙ではない。嬉しさの涙だ。こんな気持ちになったのは、いつ以来なのだろうか。私は・・・独りぼっちなんかじゃなかった。空っぽじゃなかった。私には・・・歌と同じくらい・・・いや、きっとそれ以上に大事な人がいる。

「さぁ、歌おうよ、千早ちゃん!ボイトレだよ!あっ、ちょっと待って。」

 天海さんは何かを思い出すと、自分のカバンの中を探し始めた。

「どうしたの?」

「あった!」

 そういって取り出したのは、1枚のCDだ。

「それって?」

「『自分Rest@rt』の音源だよ。これを使って練習しよう!」

 天海さんが私の部屋のCDコンポを起動させる。慣れた手つきでコンポを操作して、しばらくすると、力強いメロディーがスピーカーから流れ始めてきた。

「さぁ!歌うよ!千早ちゃん!」

「ええ!」

 声が出ているのだ。これまで歌おうとしてもこわばって、喉が、お腹が動かなかったのに、今は不思議と、何もかもが復調してきているのだ。

 私はうれしくなって、天海さんのほうを向いて笑顔を向けた。天海さんもうれしそうに笑い返してくれた。

 楽しい!楽しいよ!こんなに楽しい気持ちで歌えるなんて、本当に久しぶり!

 天海さんと一緒に歌えて楽しい!天海さんともっと歌いたい!

「天海さん、ほかの曲も歌いましょう!CDならいっぱい持ってるから!」

「うん!そうしよう!」

 ギュルギュルギュル

 そう言ったのも束の間、私の腹の虫が騒ぎ始めてしまった、歌うためにお腹を動かしたら、食欲の方も復活したみたいだった。私は恥ずかしくて思わず顔を逸らした。

「アハハ、腹が減っては戦はできぬってやつだね。」

 天海さんが時計を一瞥する。

「もう夕飯の時間だね。ねえ、ここで料理作っていい?りんごを使ったおいしいカレーを作ろうと思うんだけど。どうかな?」

 それはありがたい話だ。一人暮らしをしていても、まともに自分では料理なんてしないから、作ってくれるならこれ幸いだ。でも本当にいいのかしら、ごちそうになって。

「ありがとう・・・。でも悪いよ。わざわざ作ってもらうなんて。」

「いいのいいの、今日は千早ちゃんが元気になった記念の日なんだから。快気祝いの料理を作らせてよ。」

「そう・・・じゃあお願いしようかしら。」

「ラジャー!」

 天海さんが手で敬礼して、いくつかりんごを持ってキッチンへと向かっていく。私はそんな彼女の姿を眺めながら考えていた。

天海さんと「ともだち」になりたい。ただ2人1組を作るときの数合わせとしての「トモダチ」ではなく、楽しい時も、辛い時も一緒に過ごせる、そんな「ともだち」。

 

 5

 

 鼻孔を刺激するスパイシーな香りが、部屋全体を包んでいる。お皿の用意が終わった私は、キッチンの鍋のところへ向かい、天海さんが煮込んでいるカレーの様子を見学することにした。

「おいしそう・・・。」

「もうすぐできるから、待っててね。」

 見た目は普通のカレーだが、食べてなくても分かる。これは絶対においしい。普段の私だったらまず目にしない光景だ。

「天海さん、本当にありがとう。わざわざ夕飯まで作ってくれて。」

「いいのいいの。私がお料理得意なところを見せつけなくちゃいけないからね。」

「いったい、だれにアピールするのよ。」

 私は苦笑した。

「もちろん・・・うん。まぁ、そういうこと。」

 何も考えてないで返事をしたでしょ、この子。・・・・まぁ、いいか。

 ますますお腹の虫が鳴ってきた。天海さん曰く、普通のカレーライスではなく、すりおろしリンゴが入ったカレーだという。そんなカレーは初めてだ。

「普通のカレーにリンゴを入れると、まろやかになって甘みが出て、カレーの味が引き立つんだよ。お母さん直伝のカレーなんだ。」

 鍋をかき混ぜながら、天海さんが誇らしげに語っている。

「へぇー。天海さんのお母さん、料理が得意なのね。天海さんも上達するわけだ。」

「いやいや、うちなんて親戚がリンゴをたんまりと送ってくるから、処理に困っちゃって。それでリンゴを使った料理ばっかり上達しちゃったってわけ。」

 そういって天海さんは、目線を段ボール入りのリンゴへ移した。なるほどね、家のリンゴストックを減らすという目的もあったわけね、今日の来訪は。

「天海さんが今日来たのは、私にリンゴを押し付けたかったからって訳ね。」

「ち、違うよ。千早ちゃんを励ましたかったんだよ、うん!」

「ほんとかしらー、あやしーい。」

「本当だよ。ほら、CDだって持ってきたでしょ。」

 確かにそうだ。私は思わず吹き出してしまった。

「千早ちゃん?」

「何でもいいわ。だって、『楽しい』んだもの。」

「そうだね。」

 天海さんも笑顔になった。

「さ、もうすぐできるよ。お皿の準備はできた?」

「見てのとおりよ。」

 背の低いテーブルの上には、不揃いな食器が並んでいた。私はそれをいったん天海さんのところに運んだ。

 天海さんがごはん、そしてカレーをよそい、私がテーブルまで運ぶ。サラダはリンゴサラダ。飲み物は、生のリンゴをミキサーにかけたリンゴ100%ジュースだ。天海さんのリンゴ活用術は徹底していた。

「いただきます。」

 二人が唱和して、カレーにありつく。

「おいしーい。こんなの初めて。」

 不思議な味だった。ベースのルウが中辛だったから、リンゴを入れたら甘口になるかと思ったのだが、予想以上に辛さを生かしているのだ。それでいて、リンゴの甘みがルウのコクを引き立てている。これはおいしい!

「でしょー。うちのお母さんをなめたらあかんよ。」

「どうして、関西弁なのよ。」

「ははは、そうだね。」

 話題が途切れてしまったのか、お互い無言で黙々とカレーを食べていた。

 私は自分につけられたあだ名のことを考えていた。「千早ちゃん」か。学校ではいつも「如月さん」だったから、とても新鮮で、そしてちょっとむず痒い。天海さんは、普段なんて呼ばれているんだろう。

「天海さん。」

「うん?なに?」

「天海さんは、普段学校でなんて呼ばれているの。」

「私?そうね・・・『春香』とか『はるるん』とか、かな。如月さんは?」

「私は・・・あだ名とか、そういうのは・・・。」

「そう・・・。嫌だった?『千早ちゃん』って呼んじゃったこと。」

 私は必死で首を横に振った。

「そういうことじゃないの!ただちょっと・・・その・・・こそばゆくて。普段、ちゃん付けで呼ばれたこともなかったから・・・。」

 天海さんは少しきょとんとしていたが、すぐに笑顔になって「じゃあ、これからは『千早ちゃん』だね。」と返してきた。

「うん。じゃあ、天海さんのことは・・・その・・・えっと・・・『は・・・はるるん・・・』」

 天海さんが思わず噴き出した。

「何々どうしたの?」

 私は焦って天海さんに尋ねた。何か変なことを言ってバカにでもされたのかと思った。でもそうじゃなかった。

「ごめんね千早ちゃん、『はるるん』なんて、一人か二人くらいしか呼ばれないんだ。あとはみんな『春香』とか『春香ちゃん』だよ。」

 天海さんは、まだゲラゲラ笑っている。

「私をおちょくったわね、『春香』。」

「おーそれそれ、そっちのほうが自然だよ。『千早ちゃん。』」

「ふふふ、そうね。」

 こんなバカみたいなやり取りをしながら、楽しい夕食が進んでいた。夕ご飯の最後は、春香がハート形に剥いてくれたリンゴだった。

「本当に器用なのね、春香って。」

「リンゴの皮むきなら任せなさい!」

「いうわねー。」

 ハート形に切られたリンゴを一切れかじりついてみる。さっき食べたばっかりなのに、また食べたくなるような美味だった。

 リンゴをシャクシャク言わせながら、私は春香の方を見やった。

 春香は私の隣で、上機嫌でリンゴの皮をむいている。

 言いたい。「友達になってください。」でも、怖くておびえている自分がいることに気付いた。

所詮、私と彼女は、職場の同僚でしかない。たまたまユニットを組んで、たまたま一緒に歌うことになった、本来ならそれだけの関係だった。なのに・・・「友達になってください。」なんて、変じゃないだろうか。

 アイドルユニットなんていつ解散するかわからないのに、「ともだち」なんて。そんなの、変だよね・・・。

「千早ちゃん?どうしたの?」

 春香が私の目線に気付いて、尋ねてきた。私はどぎまぎした。

「えっと・・・その・・・。」

 春香から視線をそらし、落ち着きなく目をキョキョロさせていた。

「どうしたの、千早ちゃん。言いたいことがあるなら、言っていいよ。」

 春香はリンゴと包丁を机のまな板に置いて、純粋な目で私を見つめている。

もうこれ以上は我慢できない!言っちゃおう!もうどうなっても知ったことか!

「ねえ・・・はる・・・か。」

「何?」

 私は目をつぶって、意を決して言い放った。

「春香!私と・・・『ともだち』になってください!」

 静寂が場を支配する。あ・・・あれ?なんで返事がないんだ?

 私は恐る恐る固くつぶった目を開いた。気づけば、春香がキョトンとした顔をしている。今日一番気が抜けたような顔をしているのだ。

「なにいっているの・・・千早ちゃん・・・。」

「えっ・・・。」

 やっぱり駄目だったのか・・・。彼女と『ともだち』になるなんて。そうだよね。私たちは所詮ただの同僚で、ただのビジネスパートナー。『ともだち』になるなんてそんなの・・・。

「もう私たち、ずっと前から『ともだち』でしょ。」

「そうよね・・・・えっ!?」

 も・・もう、『ともだち』になっているの?私たち?

「まさか、千早ちゃん、そんなことでやきもきしてたの?」

「えっ・・・う・・・うん。」

 天海さんが大爆笑した。

「それって変だよ、千早ちゃん!」

「ど、どうして、笑うのよ。」

 なんだか、顔から火が出るほど恥ずかしいではないか。

「千早ちゃん、『ともだち』って作ろうと思って作るものじゃないんだよ。気づいたらできている、それがともだちなんだよ。」

「『気づいたらできている』。」

「うん。『ともだち』ってそういうものだと思うんだ。」

 そういうものなのか。私には「作ろうとして」作ったトモダチしかいない。たぶんこの子は「作ろうとして」ともだちを作ったことはないのだろう。

「そっか・・・そうだよね。」

 春香が正しいような気がした。事実、私と春香は、気づいた時には、もうともだちになっていたのだ。本当のともだちは、そうやって利害打算なく、出来ていくものなのだろう。

 それからしばらくが経った。春香が向いてくれたリンゴも食べ終わり、楽しく談笑をしていた。

「お茶、淹れてくるね。」

「うん。お願い。」

そういって私は席を立ってキッチンスペースへ足を運んだ。

 私は今、社長の言葉を反芻していた。社長は私に言った。

『二人はお互いに学びあうべきものが多い。』

 私は正直なところ、歌が下手な春香から学ぶべきことは何もないと思っていた。だけど、それはとんでもない思い違いだった。

 私は春香からいくつも大切なものを学んだ。きっと、この子と一緒でなければ学ぶことができなかったであろうことを。

 社長は、すべて理解していたのかもしれない。いつもはのほほんとして、頼りなさげに見えるけど、あの人、本当はすごい人なのかも。

 湯呑に熱い緑茶を注いだ私は、それをお盆の上に載せて、春香のもとへと運ぼうとした。すると彼女は、すやすやと寝息を立てて、胡坐をかいたまま器用に居眠りしていたのだ。

 まるで子供みたいだ。私には、そんなあどけない彼女の表情が、死んだ弟に重なって見えた。私は優しく微笑んだ。

 湯呑を彼女の前に差し出し、肩をたたく。

「春香・・・起きて。」

 すると、彼女が慌てて目を開いた。

「ごめん・・・寝てた。」

「今日一日疲れたもんね。」

「うん。でも、楽しかったよ。」

「私も。」

 一つやり残したことを思い出した。

「そうだ。握手をしましょう。あの時、私が拒んじゃったからね。」

 私は右手を差し出した。

「握手?・・・・ああ、最初に会ったときだね。」

「ええ。あの時はごめんなさい。私もつっぱてたから。」

「いいのいいの、もう過去のことなんだし。」

 春香が、がっしりと私の右手をつかんで、ぶんぶん上下に振り回した。

「春香っ、痛いって。」

「うれしいんだよ!千早ちゃんと、仲よくなれて!」

 私は痛みで少し苦悶の表情を浮かべていた。

「分かった、わかったって。春香・・・もう、春香ったら。ふふふっ」

 春香はいつまでも、私の手を嬉しそうにぶんぶんと降って放そうとしなかった。

私にできた初めての『ともだち』は、まるで子どもみたいに愛らしい人だった。

 

 完

 


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