『すつう みぞの のろここ のたなあ くなはで おか のたなあ はしたわ』
図書館でうっかり閲覧禁止の棚の本に触れ、騒ぎを起こしてしまったハリーはフィルチとレギュラスの魔の手から逃れるため、ある教室に逃げ込んだ。
今は使っていない教室のようで、机や椅子は重ねて端に置かれて、ゴミ箱は逆さになっている。
しかし、この鏡だけはこの教室にそぐわず・・・何というか異質だった。
鏡は天井まで届くほど背が高く、金の装飾豊かな枠には、二本の鉤爪状の足が付いていた。見るからに高価そうな鏡だ。
ハリーは鏡に近付き、自分の姿を映した。
「なんだ・・・これ・・・? 一体どうして・・・」
鏡の中に映ったものに、思わず声が漏れた。
この鏡は、一体何なのだろう。
鏡に釘付けになったハリーは、暫くそのまま立ち尽くしていた。
次の晩、ハリーはロンもこの鏡の元に連れて行った。
「ハリー、チェスしないか?」
「しない」
「それじゃあ、下におりてハグリッドのところに行かないか?」
「うぅん・・・君が行けば・・・」
「おい。 いい加減にしろよ、ハリー。 らしくないぜ」
窓に肘をかけて物憂げな顔で雪を見つめていたハリーに、ロンは背後から呆れたように話しかけた。
「あの鏡のこと考えてるんだろ?今日は行かない方がいいよ。何だが悪い予感がするんだ」
「どうしてさ」
ハリーは口うるさいロンに少し苛立って振り向いた。しかし、ロンの顔を見るとそんな気持ちも失せた。彼は本当に心配そうな顔をしていた。
「よく考えたら、あの鏡何か怪しいぜ。 君のこと、本当に心配しているんだ。 今日は行っちゃだめだよ」
「・・・あぁ、そうするよ」
ハリーは素直に頷いた。
しかし、あの鏡に映ったものが、首席でクィディッチのキャプテンになり優勝杯を持った姿だったロンには、自分のこの気持ちは絶対にわからないだろうと思った。
ロンの忠告もむなしく、ハリーはその日も欲に負けてベッドを抜け出した。
最早、道には迷わず教室に着けた。あまりにも速く歩いたので自分でも用心が足りないくらい音を立てていた。
ハリーはフラフラと歩くと、鏡の前に座り込んだ。
ずっとここで鏡を見ていたい。誰にも自分のことは止められない--。
「また来たのか、ハリー」
ハリーは体中が氷になったかと思った。驚きすぎて、悲鳴すら出なかった。
振り返ると、セブルスが腕を組んで教室の壁にもたれかかっていた。
「セ、セブルスおじさん」
ようやく喘ぐようにそれだけ言うと、セブルスは眉を片方吊り上げた。
「学校では『スネイプ先生』だろ。 馬鹿者」
その様子にハリーは少し安心した。公私共に厳しい彼だが、今はハリーを減点したり罰則にするつもりはないらしい。
「おまえだけじゃない。 数えられないくらい多くの人がこの『みぞの鏡』の虜になった」
「この鏡、そんな名前なんだ。 セブ・・・スネイプ先生」
途中で慌てて軌道修正したハリーの言葉に、セブルスはフッと笑い眉間の皺を緩めた。
「この鏡が何を見せてくれるのか、もう理解出来ているか?」
まるで授業のようにそう質問を投げかけられ、ハリーは思わず背筋を伸ばした。
「はい。 欲しいものを見せてくれます。 ・・・何でも自分の欲しいものを」
「当たりとも外れとも言い難いな」
セブルスは苦笑してハリーの隣りに来ると、同じように鏡を見つめた。
「この鏡は、自分の心の奥底にある一番強い『のぞみ』を映すのだ。・・・私も初めて見た時、この鏡の虜になった」
セブルスは掠れた声で、何か愛おしいものを撫でるかのように鏡に触れた。
ハリーは、彼が鏡の中で未だに目覚めない
「一番強い『のぞみ』を映す・・・」
ハリーは意味を噛み締めるかのように、繰り返した。
「そうだ。 連日通っていたようだが、おまえには何が見えるのだ?」
クィディッチのワールドカップ選手になった自身の姿か、それとも意中の女性と愛を語らう姿か・・・そんなセブルスの予想は、次に紡がれたハリーの言葉でいとも簡単に裏切られた。
「母さん・・・。リリー母さんが僕に料理を作ってくれて、セーターを編んでる」
セブルスは目を見開き、思わず一瞬言葉を失った。
「リリーとジェームズが・・・おまえには見えるのか」
「うぅん、ジェームズ父さんはいないよ。 僕が見えるのは、母さんだけ」
真夜中の学校はとても静かで、会話が途切れると物音ひとつしなかった。
ハリーには家族がいる。しかし、母親はいない。
赤ん坊のハリーにミルクを作り与えたのはアンであり、彼女は乳母のようなものだ。ご飯も洗濯も必要なことは、全てアンがしてくれた。
…ハリーは母親というものを知らない。
ウィーズリー家のモリーのように、お菓子や料理を作ってくれて、セーターを編んでくれる母親。子どもにとって無償の愛を与え続けてくれる絶対的な存在。
ハリー・ブラックは母性に飢え、それを望んでいるのだった。
そして、それは背景は違えど境遇は自分の娘も同じであり、セブルスはさらに胸が締め付けられた。
「ハリー、分かっていることだと思うが・・・おまえの母親リリーはおまえを守って亡くなった」
「・・・うん」
「確かにおまえには母親はいないが、シリウスはおまえを心から大切に思っている。 女癖は置いといて、あいつはいい父親だ」
「わかってるよ」
ハリーはようやく少し笑った。
セブルスは、父親そっくりの彼の髪をガシガシ撫でて、さらにくしゃくしゃにした。
どんなに大人ぶっていても、まだこの子は11歳の子どもなのだということを改めて痛感する。
セブルスはハリーの目線にしゃがむと、肩を掴み視線を合わせた。エメラルドグリーンの、リリーと同じ瞳だ。
「ハリー、おまえが色々と嗅ぎ回っていることは分かってる。 いいか、後は我々大人が解決する。 リリーが守った大切な命なんだ。 もうお遊びはここまでにして、手を引きなさい・・・いいね?」
ハリーはシリウスの手紙の返事が何処かはぐらかされているような内容だった理由が、今になって分かった。
セブルスがシリウスにそうさせたのだろう。
「で、でも・・・セブルスおじさん。 レギュラス・ブラックが何か狙っているはずなんだ。 ハロウィンの時のトロールだって」
ハリーの訴えは、途中でセブルスに遮られた。
「『ブラック先生』だろう、ハリー。 彼はそんなことをする人ではない。・・・さあ、もう寮に帰りなさい。 見逃すのは今回だけだ。 次からは減点する」
有無を言わさないセブルスに、ハリーは渋々頷くと、ベッドに戻って行った。
「・・・で、いつまで隠れているおつもりか。 ダンブルドア校長」
「おお、気付いておったか」
セブルスの言葉に、ダンブルドアは姿を現した。見事な目くらまし呪文だ。
セブルスは今更ながら、目の前のこの老人が『あの人』が唯一恐れるほどの偉大な魔法使いであることを実感する。
「彼に透明マントを渡すのは、性急すぎたと思いますが。 もう少し大人になるまで待っても良かったのでは?」
「何を言っているのじゃ、セブルス。 君も1年生の時分から、ジェームズの透明マントに入ってよく校内を彷徨いていたろうに」
痛いとこを突かれて、セブルスはぐっと黙った。
確かに透明マントを脱ぎ捨て鏡の前に現れたハリーを見て、懐かしい気持ちになったのは否定できない。
「ところで、こんな夜更けに校長は何を?」
セブルスが話を変えた。
「君と一緒の理由じゃ。 もしセブルスが現れなければ、儂がハリーに話しかけていたよ。・・・明日この鏡を、例の場所に移す。 じゃが、ハリーももうこの鏡を探しには来なかろう」
ダンブルドアは満足げに言った。しかし、セブルスの表情は晴れない。
「ハリーが『みぞの鏡』で見たものは予想外でした。 私は浅慮だった」
セブルスは、ダリアと休暇を過ごしているだろうシャルロットのことを考える。娘に会いたくてたまらなくなった。
自分はいい父親になれているだろうか。
そんなセブルスの気持ちを見透かしたかように、ダンブルドアは微笑んだ。
「セブルス。 親がどれだけ子どもを大切にしているか、それは子どもの行動を見れば分かるものじゃよ。 ミス・グレンジャーをトロールから身を挺して守ったのじゃろう? シャルロットはいい子じゃ」
教師になろうが父親になろうが、この人の中でいつまでも自分は生徒なのだろう。
セブルスはそんなことを考えた。
「・・・そうですね。 だいぶ夜も更けてきました。 先に失礼します、校長先生」
「おやすみ、セブルス」
やはりダンブルドアは、まるで生徒を相手にするように挨拶をした。
不意に、ダンブルドアならこの『みぞの鏡』で何が見えるのか気になった。
しかし、訊かなかった。
無遠慮な質問であるし、この好々爺が本当のことを言ってくれるとは思わなかったからだ。
あんなに図書館の本を片っ端から眺めていたハリーたちだったが、どこかで見た気がしていたニコラス・フラメルの名前は蛙チョコのカードに載っているという、何とも力の抜ける結果だった。
レギュラスの狙っている物が『賢者の石』だというのも分かり一歩前進だ。
次のグリフィンドール対ハッフルパフの試合で、レギュラスが審判をやることになったのでロンとハーマイオニーは心配していたが、ハリーはそうでもなかった。
シャルロットから、次の試合はセブルスも見に来れそうだということを聞いていたからだ。セブルスはハリーの話を真に受けてくれなかったが、いくらレギュラスでも彼の前で露骨に自分を攻撃しないだろう。
そして、ハリーの予想通りロンとハーマイオニーの心配も杞憂に終わった。
何と試合にはダンブルドアも来ていた。
ハリーは開始5分でスニッチを取るという偉業を成し遂げ、大歓声の中何度も何度も宙返りをして見せた。
観客席には、少し前に対レイブンクロー戦に勝利したドラコがシャルロットを連れて応援に来ていた。惜しくもグリフィンドールに敗れたものの、ドラコもまた優秀なシーカーだった。
ハリーは試合が終わると、ニンバス2000を箒置き場に戻しに行った。つい試合の余韻に浸り、遅くなってしまった。
早く談話室に行き、お祝いに加わろう。
そんなことを考えながら、更衣室を出たその時。
城の正面の階段を、フードを被った人物が降りてきた。あのせかせかとした歩き方は、レギュラスだ。明らかに人目を避けている。
ハリーは急いでニンバス2000を再び取りに行くと飛び乗り、レギュラスを追いかけた。
ハリーは箒を握りしめ、そーっと近付いた。レギュラスに見つからないよう、木々の間に隠れた。
木の下の薄暗い平地に、レギュラスは居た。1人ではない。クィレルもいた。ここからは表情は見えない。
ハリーは少し体を前のめりにして、耳をそばだてた。
「・・・な、なんで・・・よりによって、こ、こんなところで君に会わなくちゃいけないんだ、レギュラス」
「えぇ、このことは2人だけの秘密にしようと思いまして」
レギュラスの声はゾッとするほど冷たい。
「は、はて・・・なんのことやら・・・」
「とぼけるおつもりですか。 生徒たちに『賢者の石』のことを知られたらまずいでしょう」
その言葉に、思わずハリーはさらに身を乗り出した。
クィレルが何か反論したそうにどもっていたが、レギュラスをそれを遮って言葉を続けた。
「あのハグリッドの獣をどう出し抜くのか、もう分かったのですか?」
「で、でも・・・レギュラス・・・私は・・・」
「いいですか、クィレル。 私を敵にまわしたくなかったら」
レギュラスがぐっとクィレルに詰め寄るのが見えた。
「レ、レギュラス。 ど、どういうことなのか、私には・・・」
「私が何を言いたいか、あなたはよく分かっているはずです」
どこかでふくろうがホーッと鳴く。ハリーは思わず箒からずり落ちそうになった。何とかバランスを取り、レギュラスの言葉を聞き取る。
「・・・あなたの怪しげなまやかしについても、聞かせていただきましょうか」
「で、でも・・・私は何にも・・・」
「わかりました、いいでしょう。 それではまた近々あなたとはお話をする必要がありますね。 もう1度、どちらに忠誠を尽くすのがあなたにとって良いのか、よく考えなさい」
レギュラスはそれだけ言うと、マントをすっぽりと被ってその場から立ち去った。
ハリーは呆然と立ち尽くした。
やっぱり自分の考えていたことは、正しかったんた。
セブルスは騙されている。レギュラスは本当に石を狙っているんだ。
辺りはすっかり暗くなった。ハリーは、同じようにクィレルが石のように立ち尽くしているのが見えた。
屋敷しもべ妖精の名前が久しぶりに出たので、ちょっとここで整理を。
アン・・・シリウスが雇ったグリモールド・プレイスの屋敷しもべ妖精。ハリーの乳母のような存在。
メアリー・・・プリンス家の屋敷しもべ妖精。ダリアは貴族の育ちであるため、基本の家事はメアリー担当。
クリーチャー・・・皆様ご存知あの妖精。現在はレギュラスの住むプリンス家別邸に居る。レギュラス存命かつシリウスが当主のため、ブラック家そのものよりレギュラスに忠誠を誓っている。
詳しくは過去編をご参照ください。