第百四十四話 変わらぬ真理と、主なき鋼の揺り籠。あるいは千年先の正解
『エスカレード』が滑り出すと同時に、車内にはアメリアの聴いたこともない、透き通るような旋律が流れ始めた。
吟遊詩人の竪琴でも、宮廷楽団の合奏でもない。
雑音ひとつ混じらないその音色は、座席の四隅に埋め込まれた黒い格子から均等に響き、まるで空気そのものが歌っているかのように、密閉された車内を満たしていた。
「……音楽?」
アメリアは視線だけを巡らせた。
「奏者がどこにも見当たらないけれど」
「記録音声です」
向かいに座るイブリンが答える。
「『オーディオ・プレイヤー』という装置で、保存した音の波形を再生しております」
「音を保存する……
かつて用いた、軍用の偵察水晶にあるような、特有の魔力残滓はどこにもない。
「原理としては似ています。ですが魔術ではなく、物理的に記録した波形を再生しております」
「魔力を使わずに?」
「はい」
当然のように返され、アメリアはそれ以上問うのをやめた。
今日一日で、その種の問いを一つずつ拾っていては日が暮れるどころでは済まないと、既に学び始めていた。
その時、向かい側の補助席に控えていた侍女が、音もなく身を寄せた。
トレンス家独自の、装飾を抑えた濃紺の制服。
裾は短く、腕や脚の動きを邪魔しない。足元には音を立てない平底の靴を履き、走行中の微細な慣性すら、膝のわずかな撓みだけで自然に相殺している。王都の王宮や大貴族邸で見られる、ひだの多いスカートを擦り合わせる優美な所作とは根本から違っていた。
「グロースハイム伯爵夫人。長旅でお身体も冷えておいででしょう。温かい紅茶か、
「
アメリアはわずかに眉を上げた。
聞き慣れない言葉ではない。
もっとも、王都ではその種の酒を、そんなふうに一括して呼ぶ者は少なかった。
錬金術師の工房で作られる火酒。 古い修道院に伝わる霊薬酒。 山間の領地で、神の雫だの命の水だのと称して売られる秘酒。
古くから、普通の酒よりも強く、芳香の濃い液体を、そう呼ぶことはあった。
地方によって名も由来もまるで違う。 聖律院では滋養や薬効を期待して霊薬酒と呼ぶ者も多いが、アメリアの知る限り、それらに共通しているのは酒精が強く、香りが濃く、ひどく高価だという程度だった。
滅多に手に入らず、そして大抵、あまり美味しくない。
同じ製法なのかどうかすら知らない。
近頃では、そうした酒が王都でも以前より目につくようになっている。
古い蔵が失われた製法を復興した。 錬金術師が『蒸留』なる技法を改良した。 地方の秘酒が、新たに王都へ流れ込むようになった。
噂はいくつもあったが、どれが本当なのかは知らない。
ただ、喉を焼くような強い酒精と、鼻腔に残る芳香を持つ酒だけは、夜の宴席でも珍しくなくなり始めていた。
「はい。穀物を原料としたウイスキーと、葡萄酒を蒸留したブランデーがございます」
「ウイスキー……」
そちらは知らない。
侍女は、天候の移り変わりでも告げるような、至極平坦な声で説明を続けた。
「いずれも酒精は強めですので、寒さを和らげる一杯にはよろしいかと。ブランデーでしたら、キャンディもよく合います」
「……キャンディ?」
「砂糖を煮詰めて成形した菓子でございます」
そう言いながら、侍女は座席脇の収納へ手を伸ばした。
指先で小さく押し込むと、精緻なバネの跳ねる感触と共に、留め金が静かに外れる。
開かれた内部を見て、アメリアはわずかに目を細めた。
銀色の細い棒。小さな匙。形の異なる透明な杯。水を満たした瓶。茶葉を収めた缶。砂糖。小瓶に分けられた乳。焼き菓子。薄く切られたパンと肉を収めた容器。
それらが用途ごとに仕切られ、弾力のある黒い下敷きが器の輪郭に合わせて寸分違わずくり抜かれ、走行の揺れでも一つとして転がることなく、音すら立てずに収まっている。
さらに奥には、細い注ぎ口を備えた銀色の器具が固定されていた。
侍女が蓋を開けると、ふわりと白い湯気が立つ。
炉はない。炭もない。魔力を練り上げる特有の揺らぎすら感じない。
アメリアの視線に気づいた侍女が答える。
「湯沸かし器でございます」
「……湯を、ここで沸かしているの?」
「はい。走行中でも使用できます」
当然のような返答だった。
馬車の旅で湯を使うこと自体は珍しくない。
宿場で火を起こすこともある。 従者に小炉を扱わせることもある。
だがこれは違う。
必要になってから用意するのではない。
必要な時には、もうそこにある。
侍女は迷いのない手つきで、今度は下段の小さな蓋を開いた。
密閉されていた冷気が、微かに白く溢れ出る。
中には氷が並んでいた。
切り出された氷塊でも、砕いた破片でもない。一つ一つが、測ったように均一な球形に整えられている。
気泡も、濁りもない。
冬を迎えつつある北部で、氷そのものは珍しくない。
だが、ノミの跡すらなく、これほど滑らかに球体を保った氷を、アメリアは見たことがなかった。
「……これは?」
「氷でございます」
「それは見れば分かるわ」
アメリアは思わず返した。
侍女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから慣れた手つきで容器の位置を整えながら続ける。
「蒸留酒を冷やす場合に使用いたします。そのままでも、水で割っても、湯で割っても、氷を入れてもお召し上がりいただけます」
「……そこまで選ぶものなの?」
「お好みですので」
簡潔だった。
アメリアは、もう一度収納の中を見る。
酒のための道具。茶のための道具。湯。水。氷。菓子。軽食。
金細工もなければ、宝石を散らした酒器もない。
ただ、喉を潤し、腹を満たし、体温を保つために必要とされるものが、もっとも無駄のない寸法で、すべて揃っている。
その徹底した実用性が、豪奢な装飾よりも遥かに落ち着かなかった。
それから、氷へ視線を戻す。
これほどまでに整えられたものなら、一度試してみたくなった。
「では……紅茶を」
「温かいものを?」
「いいえ。冷たいものをいただくわ」
「レモンかミルクは?」
「……レモンを少し」
「かしこまりました」
紅茶にまで、これほど飲み方があるらしい。
王都では茶葉と淹れ方に一家言ある者は珍しくないが、温度や添えるものまで最初から選ばせる習慣は、少なくともアメリアには馴染みがなかった。
侍女は濃く淹れた紅茶を透明な杯へ注ぎ、少量の冷水で割る。それから薄く切ったレモンを軽く搾り、指先を小さな布で一度だけ拭う。
そのまま銀のトングへ持ち替え、球形の氷を一つ摘まんだ。
氷が杯の中へ落ちる。
からん、と。澄んだ音がした。
薄い琥珀色の液体の中で、透明な球がゆっくりと回る。
アメリアは差し出された杯を受け取った。
指先へ、鋭い冷たさが直に伝わってくる。手吹きの硝子特有のゆがみや厚みのムラがなく、唇に当たる縁まで一定の薄さで研ぎ澄まされていた。
魔法で無理に凍らせた氷特有の、チリチリとした魔力の残滓はない。
ただの氷だ。
ただの水を凍らせ、形を整え、溶かさず保存し、必要な時に取り出している。
それだけのことだった。
だが、その「それだけ」を成立させるために、どれほどの技術と規格と流通が、背後で噛み合っているのか。
考えれば考えるほど、冷気とは別の悪寒が背筋を這い上がってくる。
アメリアは杯を傾けることなく、水面を見つめた。
「……この揺れのなさ」
氷すら、ほとんど音を立てていない。
王都の最も贅を尽くした儀礼馬車であっても、石畳を走れば車軸が跳ね、液体は縁を濡らし、氷は硝子の内壁を忙しなく叩き続けるだろう。
それが、ここでは手の中に収まったまま、澄ました顔でただ浮いている。
「今、相当な速度で走っているのでしょう?」
イブリンは速度計へ一瞬だけ目を落とした。
針は31mphを指している。
「
イブリンは平然と言った。
「車体の衝撃吸収機構と舗装路の組み合わせにより、この程度であれば飲料をこぼすほどの揺れは生じません」
アメリアは窓の外へ目を向けた。
景色が流れている。
等間隔に並ぶ街路樹。数字の記された標識。巨大な倉庫。煙を上げない工場。歩道を行く人影。
すべてが、滑らかな直線を描いてこちらへ迫っては後方へ消えていく。
かつて彼女が戦場で駆った軽騎種ならば、この速度を上回ることは可能だった。
彼女自身、何度もその速度を限界まで引き出している。
だが、それは疾走だった。
蹄が大地を抉り、泥を撥ね上げ、騎手も獣も全身を極限まで酷使してようやく維持できる刹那の速度。
これは違う。
恐ろしいほどに、平坦で、一定だった。
だが、これが限界ではないことくらいは分かる。
この巨大な鋼の塊には、まだ幾重もの余力が底に眠っている。
横を抜けていく、低く細い車。
対向車線を流れていく、荷台を背負った車。
形も色も用途も違うそれらが、ときにこの車より速く走っている。
こちらに気づいてわずかに速度を落とす者もいれば、気づかぬまま走り去る者もいる。
それでも、運転手は追おうともしない。
抑えているのだ。
コーサーよりも速く、デストリアよりも力があり、スレイプニルよりも揺れがない。
ユニコーンなら――いや。
速度の上限すら、見えない。
ならばきっと――。
窓の外を、一頭の六脚馬が引く荷車が後方へ消えていく。
豊かな筋肉。鼻孔から激しく吹き上がる青白い蒸気。大地を力強く蹴り立てる六本の脚。
王都の大通りであれば誰もが道を譲る、持久力と格式を備えた高級魔獣。汗を滲ませ、首を低く下げて荷台を引くその生命の躍動が、分厚い窓硝子の向こうで、まるで止まっているかのように呆気なく置き去りにされていく。
「……奇妙ね」
手元の杯の、張り詰めた水面を見つめたまま、アメリアは呟いた。
「この車は、息を切らさない」
「機械ですので」
「脚も痛めない」
「部品は摩耗します」
「恐怖もしない」
「はい」
イブリンは短く頷いた。
膝の上に置かれた革手袋の指先ひとつ動かさず、感情を削ぎ落とした声で告げる。
「この子は、動力供給と整備が続く限り、規定速度で走り続けます。生き物のような、気まぐれも、疲労も、恐怖もありません」
アメリアは、そこでゆっくりとイブリンを見た。
硝子杯を持つ指先をわずかに緩め、歴戦の竜騎士としての冷徹な光をその双眸に宿す。
「ええ」
静かな声だった。
「だから崖へ向かえと命じれば、そのまま進むのでしょう?」
イブリンの薄く金に近い瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「……閣下から、お聞きになりましたか」
「本人と議論したのよ」
アメリアは冷えた紅茶を一口含んだ。
唇を伝う鋭い冷気と、柑橘の澄んだ香り。喉を滑り落ちる感覚を確かめながら、王都の学園長室で交わした少年の横顔を思い起こす。
「馬なら、騎手が狂っていても止まることがある。機械には、その種の良心がないと」
「その通りです」
否定しなかった。
言い訳も、装飾も、主君を庇うための美辞麗句もない。
アメリアの指が止まる。
杯の縁に触れた人差し指が、わずかに白く強張った。
イブリンは続けた。
「ですので、運転手を置いております。緊急停止装置もあります。運転者が行動不能になった場合の代行手順も定められています」
「機械の欠点を、人で埋める?」
「人の欠点を、機械でも埋めます」
即答だった。
呼吸を挟む隙間すらなく、あらかじめ定められた条文を読み上げるような滑らかさだった。
アメリアは、思わず小さく笑った。手元の冷えた杯を軽く揺らす。
「……本当に、あの子の部下なのね」
「ええ。まさしく」
それからしばらく、車内には音楽だけが流れた。
四隅から染み出す、雑味のない弦の響き。
アメリアはグラスを置く。肘掛けの窪みへ、音もなく収まった。
静かすぎる。
外では分からなかった。
竜の翼音。街の機械音。人の声。風。
あまりにも多くの情報が混じっていた。
だが今は違う。
車内は密閉され、一定の音楽と、ごくわずかな機関音しかない。
遮断された空間だからこそ、耳が細かな違和感を拾い集めていく。
だからこそ、気づいた。
アメリアの視線が、向かいに座るイブリンの頭部へゆっくりと移る。
黒い短髪。実用一点張りに見える、鋭く段のついた髪型。
その髪の奥。
音の位置が、わずかにおかしい。
頭蓋の側頭部にあるはずの耳の位置と、微細な空気の振動を拾い上げている筋肉の反応点。その二つが、少しだけ食い違っている。
アメリアは目を細めた。
「……メルヴィル男爵」
「はい」
「その耳」
イブリンの視線が止まる。
「本当は、そこにはないのでしょう?」
数秒。
弦楽の調べだけが、何事もなかったかのように滑り落ちていく。
侍女だけが何も言わず、静かに紅茶のポットを置いた。
イブリンは、わずかに顎を引いた。
「いつお気づきに?」
「今よ」
アメリアは平然と答える。
「外では情報が多すぎたもの」
イブリンは短く息を吐いた。
「失礼いたします」
その声と同時に、彼女の輪郭を覆っていたごく薄い魔力がほどける。
陽炎のような揺らぎが、頭部と顔面をかすかに撫でて消えた。
まず瞳の色が変わった。
ヒュームに紛れるための曖昧な琥珀色から、鋭い黄金へ。
次いで、黒髪の間からピンと張った獣の耳が立ち上がり、車内の微小な風切り音に合わせて小さく角度を変えた。腰の後ろからは豊かな毛並みの尾が現れる。
漆黒をベースに、毛先へと向かうにつれて鈍い鋼の光を帯びる黒銀の毛並み。光を反射せず、夜の闇にそのまま溶け込むような、偵察兵にふさわしい色合いだった。
ビーストの狼種。
アメリアの表情は変わらなかった。眉根一つ動かさない。
ただ、ほんの少しだけ視線が深くなる。
「……なるほど」
「驚かれませんね」
「王都にもビーストはいます」
「男爵位を持つ者は多くありません」
「それはそうね」
平民の傭兵や荷役夫なら珍しくもない。だが、王国の法体系において、獣人が世襲あるいは一代限りの爵位を得る障壁の高さは、アメリア自身が嫌というほど知っている。
アメリアは、イブリンの耳から制服へと視線を落とした。胸元に光る金属の記章。
「では、どうして隠すの?」
問いは責めるものではなかった。
ただ、合理の裏にある意図を確かめる響き。
イブリンも、その意図を違えなかった。
「偵察兵は、覚えられない方が便利です」
「それだけ?」
「政治的摩擦の軽減もあります」
即答。
「領外任務では、私が狼種であることを説明するだけで、交渉の前に余計な時間を使う場合があります」
アメリアの目がわずかに細くなる。
「男爵位まで与えられているのに?」
「爵位と外見は別です」
イブリンは淡々としていた。
「男爵としての権限と、大隊長としての権限も別です」
「……別?」
「はい」
「貴女は貴族でしょう」
「同時に軍人でもあります」
イブリンは当然のことを説明するように続けた。
「男爵位があるから部隊を指揮できるわけではありません。戦闘偵察大隊長として任命されているから、その権限を持っています」
アメリアは黙った。
爵位。家格。役割。責任。
王都では絡み合っているものが、ここでは妙に綺麗に切り離されている。
血筋が軍功を保証するのではなく、職掌が権限の範囲を区切る。貴族としての格と、兵站を回す実務者の機能が、混ざり合わずに棚へ整理されていた。
「では、その変装も命令?」
「推奨です」
アメリアの眉がわずかに動いた。
「……また、その言葉」
「便利ですので、私は採用しています」
イブリンは平然と答えた。
「必要がなければ使用しません」
「今日は?」
「伯爵夫人は正式な貴賓です。不必要な説明を一つ減らせます」
アメリアは数秒だけイブリンを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……合理的ね」
「恐縮です」
その時。
車体が静かに減速した。前傾するような乱暴な制動ではない。油圧と車軸が連携し、乗員の頭部をほとんど揺らさずに速度を削ぎ落としていく。
アメリアは窓の外を見る。
交差点に差し掛かる。前方の灯火は赤。
要人警護車両は、誰よりも重厚で、誰よりも目立つ姿をしながら、停止線の手前でぴたりと止まった。
前後には、同じ輪郭を持つ黒塗りの車両が一台ずつついている。
装飾はない。旗もない。だが、妙に一定した距離を保ち、交差点ではこちらより先にわずかに位置を変える。
路肩側からの死角を消すように、前後の車体が半車身ほど外へ張り出していた。
護衛なのだろう、とアメリアは遅れて気づいた。
アメリアは少し待った。
誰も道を空けない。
先導役の兵士もいない。横道の荷車も止められない。歩行者たちは普通に横断していく。厚い装甲をまとった巨大な塊を見ても、足を止める者すら稀だった。
「……止まるのね」
「赤ですので」
イブリンが答えた。
「私が乗っていても?」
「緊急事態ではありませんので」
あまりにも当然だった。
身分の高低ではなく、頭上の色硝子がすべての優先度を握っている。
数秒後、灯火が青へ変わる。
車両は再び滑り出した。
アメリアは窓の外へ視線を戻す。
白い巨大建築。円筒形の冷却塔。倉庫群。病院。整備施設。
整然と配置された建物の間を、一定の速度を保った荷車や車両が血管のように流れていく。
侍女が淡々と説明する。
「左手が第一魔導送伝施設です」
「その奥がヴェリタス総合病院」
「さらに先が都市物流集積区画になります」
アメリアはふと気づいた。
「……妙ね」
イブリンが見る。
「何がでしょう」
「さっきから、あの子の名前がほとんど出ないわ」
侍女がわずかに目を瞬いた。
アメリアは窓の外を指した。
「病院も、道路も、施設も。あの子が関わったのでしょう?」
「初期設計には」
イブリンが答える。
「ですが、現在の運用責任者は別です」
「道路も?」
「都市整備局です」
「病院も?」
「医療法人側の管理です」
「送伝施設も?」
「事業運用部門が担当しております」
アメリアは何も言わなかった。
ルーカス・フォン・トレンス。
本人はいない。
像もない。名を冠した大通りもない。凱旋門もない。巨大な肖像もない。
だが。
どこを見ても、思考だけが残っている。
アメリアは低く呟いた。
「……自分の名前を残す気がないのね」
イブリンは少し考えた。
「道路の通行を妨げる構造物を、閣下は嫌います」
アメリアは思わずそちらを見た。
イブリンの金色の瞳には、皮肉の色すら混じっていなかった。
冗談ではなく本気だった。
それが、何よりも可笑しく……何よりも不気味だった。
アメリアは、しばらくその景色を眺めていた。
どこまでも続く平滑な路面。等間隔の街灯。
やがて。
「……メルヴィル男爵」
「はい」
「この街は、いつからこうなの?」
イブリンはすぐには答えなかった。
問いの意味を測るように、ほんの僅かに間を置く。三角の耳が、内側へわずかに伏せられた。
「『こう』というのが、どの段階を指すかによります」
「でしょうね」
アメリアは小さく息を吐いた。
窓の外では、荷役用の重脚獣が巨大な荷車を引いている。
その脇を、低い車体の車両が追い越していった。
「私が最後にこの土地を見た頃は、もっと……」
言葉を選ぶ。援軍の指揮官として北方国境へ赴いた、十数年前の光景を手繰り寄せる。
「静かだったわ」
「貧しかった、と仰って構いません」
あまりにも平坦な声だった。
アメリアの視線がイブリンへ戻る。
「随分とはっきり言うのね」
「事実ですので」
「怒らないの?」
「何に対してでしょう」
「外から来た者に、自分の故郷を貧しかったと言われることに」
イブリンは一瞬だけ窓の外を見た。流れていく街路の敷石の端を追うように。
「昔のヴェリタスが貧しかったことを否定しても、当時飢えた者の腹は満ちません」
迷いがなかった。
「むしろ、貧しかったという事実を忘れる方が、当時を生きた者には失礼でしょう」
アメリアは黙った。
まただ。
ルーカスと似ている。美しい言葉で傷を覆わない。
覆わない代わりに、傷を治すものを置く。
誇りや歴史という美名で過去の欠乏をごまかすことを、この土地の人間は極端に嫌う。
「……あの子の影響?」
イブリンの眉が、ほんの僅かに動いた。
「どの部分を指しておられますか」
「その言い方よ」
アメリアは薄く笑った。
「事実を先に置く。感情を否定はしない。でも、感情で事実を書き換えることも許さない」
「閣下の影響がないとは申しません」
イブリンは認めた。
「ですが、それ以前から、ここでは嘘をついている余裕がありませんでした」
その一言だけが、少し違った。彼の言葉ではない。
もっと古い。
この土地自身から染み出したような響きだった。
「余裕がなかった?」
「冬が来れば、備蓄量は数字になります」
イブリンは淡々と続ける。背筋は垂直に伸びたまま、視線だけが遠くの雪を抱いた山並みへ向いていた。
「魔獣が来れば、壁の厚みも数字になる。負傷者が出れば、包帯の枚数も、薬の瓶も、空いている寝台も数字になります」
窓の外を、巨大な荷役車両が逆方向へ走り抜けていった。
「足りないものを忠義や誇りと言い換えても、翌朝には死体が増えるだけでした」
車内には、記録された弦楽器の旋律だけが流れている。
アメリアは膝の上で組んでいた指を、ゆっくりと解いた。革手袋の縫い目が、手の甲に触れる感触。
「……昔から?」
「はい」
「ルーカス卿が生まれる前から?」
「当然です」
イブリンはそこで初めて、真正面からアメリアを見た。金色の瞳が、真っ直ぐに伯爵夫人を射抜く。
「閣下が、何もないところからトレンスを作ったわけではありません」
アメリアの目が僅かに細くなる。
「続けて」
「閣下は、速くしたのです」
「何を?」
「元々ここにあったものを」
イブリンは窓の外へ視線を戻した。
「軍制。共同備蓄。古参兵の連絡網。鍛冶師たちの修繕網。村同士の相互扶助。冬季の避難所」
「名前もなく、土地ごと、村ごと、人ごとに散らばっていた仕組みを拾い上げた」
「整理し、記録し、規格にして、繋いだ」
アメリアは黙って聞いている。
「もちろん、新しく作られたものも多くあります」
イブリンは続けた。
「道路。送伝網。通信。病院。工場。車両」
「ですが、何もない土地に、閣下が突然都市を落としたわけではありません」
一拍。タイヤが継ぎ目を越える微かな振動。
「人がいた」
もう一拍。
「ずっと、ここに」
アメリアは窓の外を見る。
規格化された窓。制服。信号。道路。車両。整然と並ぶ建物。
その向こうに、別の景色が重なった。
泥道。雪。粗末な砦。焚き火。負傷兵。痩せた家畜。荷車。老人。子供。
名もない人間たち。
寒さと飢えに耐えながら、生き延びるためだけに知恵を出し合っていた世代の積み重ね。
彼は、それらを消したのではない。
拾って繋ぎそして、速くした。
死ぬ前に届く速度へと、組み替えただけなのだ。
「……なるほど」
アメリアは小さく呟いた。
「だから、あの子だけを見ても分からないのね」
イブリンの視線が動く。
「何がでしょう」
「独り言よ」
「承知しました」
「随分と聞き分けがいいのね」
「聞かなかったことにする訓練も受けておりますので」
アメリアは思わず小さく笑った。
「便利な兵士だこと」
「恐縮です」
「褒めていないわ」
「存じております」
やはり、似ている。
アメリアは額へ指を当てた。
「……本当に嫌になるわね」
「何か不備でも?」
「貴女たち、全員あの子に似てくるの?」
「それは侮辱でしょうか」
「半分くらいは」
イブリンは少しだけ考えた。
「では、残り半分は光栄として受け取ります」
今度こそ、アメリアは声を出して笑った。
ほんの短い時間だった。
笑いが消える。
アメリアは再び窓の外を見る。
そして、少しだけ声音を変えた。
「メルヴィル男爵」
「はい」
「貴女は、ルーカス卿をどう見ているの?」
イブリンが黙った。
初めてだった。
明確に、答えるまでに時間を置いた。
口唇を結び、金色の瞳の奥に思考の層を沈めていく。
アメリアは急かさない。
車輪がアスファルトを噛む、滑らかな音だけを聴いていた。
「……難しい質問です」
「そうでしょうね」
「閣下は領主です」
「肩書きね」
「指揮官でもあります」
「役割」
「技術者」
「機能」
「雇用主」
「関係性」
イブリンの口元が、ほんの僅かに動いた。尻尾は不満を示すかのように先が垂れる。
「伯爵夫人は、何と答えさせたいのでしょう」
「何も」
アメリアはまっすぐイブリンを見る。
「私は、あの子が自分自身をどう扱っているのか知りたいの」
そこで、彼女の表情が僅かに硬くなった。
ほんの一瞬。
だが、アメリアは見逃さない。首筋の筋肉がわずかに緊張し、狼種の耳が後方へ寝た。
「……心当たりがあるのね」
「あります」
「話せる?」
「本人の私事について、私の立場から申し上げるべきではありません」
「賢明ね」
「ですが、一般論としてなら」
「聞きましょう」
イブリンは前方へ視線を向けた。
「閣下は、ご自身だけを運用上の資源として数える傾向があります」
アメリアの指が止まる。
「……自分まで部品の一つだと思っている?」
「本人は否定するでしょう」
「でも、そう見える」
「はい」
イブリンの声は変わらない。
だが、そこにはごく薄い苛立ちがあった。敬愛する主君への、どうしようもない焦燥の滓。
「必要なら眠らない」
「必要なら食事を削る」
「必要なら自分が危険を引き受ける」
「本人としては、合理的な配分なのでしょう」
イブリンは短く息を吐いた。
「止めないの?」
「主治医は止めます」
「効く?」
「……完全には」
「でしょうね」
「ですが、閣下が自発的に診察を受ける数少ない相手ではあります」
「自発的に?」
「限界を越えれば、ご自身で医務室へ向かわれます」
アメリアは数秒黙った。
「……壊れるつもりはないのね」
「そのようには見えません」
「でも、壊れるところまでは使う」
イブリンは、少しだけ黙った。視線をわずかに落とし、膝の上の指をわずかに握り込む。
「……それは、私から申し上げることではありません」
アメリアは数秒間、完全に黙った。
密閉された空間で、呼吸の音すら溶けていく。
それから。
「つまり」
「はい」
「この街のあらゆるものを管理しようとする少年だけは、本人の管理下に置いてはいけない、と」
イブリンは真顔のまま答えた。
「少なくとも、その点については」
アメリアは片手で額を覆った。指先で目元を隠す。
「……なんてこと」
「何か問題でも?」
「いえ」
笑っているのか。呆れているのか。自分でも分からなかった。
だが、胸の奥にあった冷たい塊が、ごくわずかに形を崩す。
「むしろ、少し安心したわ」
「そうですか」
「ええ」
少なくとも。
まだ。
誰かが、あの少年を設備として扱わずに済ませている。
道路でもない。送伝施設でもない。軍でもない。都市でもない。壊れれば交換すればいい部品でもない。
少なくとも。
あの少年は、自分が壊れることを望んでいるわけではない。
だが。
自分を壊さないことを、最優先にもしていない。
全体の循環を止めるくらいなら、自分の体力を削って帳尻を合わせる。その計算を、平然と成立させてしまう。
アメリアは窓の外へ視線を戻した。
車は、変わらぬ速度で走り続けている。
本人がいなくても。命令を受けなくても。決められた仕組みだけで。
それでも。
そして、その仕組みを作った本人だけが。
自分自身を、同じようには扱えていない。
車窓の向こうに、やがてトレンス本邸の輪郭が見え始める。
城とも、宮殿とも違う。
巨大だが、威圧するために作られた建築ではない。遠目には、かつて訪れた時と、然程変わっていない。
城壁は低く抑えられ、屋根の勾配は雪を落とすためだけに切り落とされている。
アメリアは、氷の溶けかけた紅茶を飲み干した。
手元の硝子杯に、わずかに残った氷が、からりと小さな音を立てる。
「……なるほど」
小さく呟く。
「街ではなく、本人を見に来たつもりだったのだけれど」
黄金の瞳を持つ狼種の女男爵が、静かにアメリアを見る。
「本人は王都ですが」
「ええ」
アメリアは窓の先に見える本邸を見据えた。
「だからこそ、厄介なのよ」
本人がいない。
それでも動く。
その事実こそが。
ルーカス・フォン・トレンスという少年について、これまで見た何よりも雄弁な答えだった。