ネクストサークルから立ち上がる。日射に照らされ、その熱気で一瞬意識がぼやけた。
ぐっと丹田に力を込め、気合で立ち上がる。
朦朧とする中スコアボードを眺め、スコアが「1-2」のビハインドであることを再確認した。
ワンナウト、ランナー三塁。
外野まで打球が飛べば、ヒットか犠牲フライになって1点。打ち損じてゴロになっても、ピッチャーゴロ以外ならほぼ1点入る。
そうすれば同点。序盤から防戦一方だった俺達が、ついに追いつける。
中盤の大一番を迎え、それに合わせてアルプスから『We will rock you』が掛かる。ブラスバンドの全ての音が、内野席を覆う「銀傘」で反響し、上空から音が降ってくるような錯覚に陥った。
太鼓の音が地面をビリビリと揺らす。
万全の状態で迎え撃つあさひが丘に対し、横浜港洋学園側は明らかに焦っているのが傍目に見ても分かった。
マウンドには内野手が集まり、ベンチから伝令を走らせ、マウンド上で作戦を打ち合わせがずっと続いている。長い。かなりモメているようだ。
一人がしきりに俺と一塁を交互に指さしたかと思えば、中島がそれを手で制し、その様子に大柄な三塁手は不満げに首を傾げる。
ずっとこんな調子だ。
やっとのことで輪が解け。中島が戻ってきた。
「タイム長いなぁ」
「こんなピンチで磯野を迎えちゃったからね。大パニックさ」
中島はそう軽口を叩いてみせたが、表情に笑みはなかった。
ここまで余裕の無い中島を見るのは初めてかもしれない。小学、中学を通しても。
バットを投手の方へ向けて呼吸を置くのと同時に、三塁を見る。
堀川くんが顔を真っ黒に汚したまま、虎視眈々とこちらを睨みつけていた。
流石にそんな目で見られたら怖いって。
その気迫に弾かれるように目線を外し、ピッチャーの方へ向けた。
ピッチャーの顔も中島と同じように、何かを決めかねているような困惑の色を浮かべていた。
初球から振ろう。迷っている相手にこっちも中途半端に迷って、ストライクをポンと取られるのは避けたい。
第1球。
投手がボールを放つタイミングに合わせて、上体に力を込めた。
投げられた球種が何かもわからないまま、ひとまず振り出す。
緩いボール。
外角へ逃げるように外れていくカーブ。いや、スピードを抜いた「超スローカーブ」だ。
「振る」と意識しすぎていたせいで振り出したバットが止まらず、無様に力の抜けたスイングで空振りした。
しまった。ワンストライクだ。
投手はニヤリと笑ってみせ、「ワンストライク」という意味合いで人差し指を立てて嘲笑ってきた。
クソっ、冷静になれ、状況はどう考えたって俺が有利だ。
打ち損じでも1点は入る。
点が入らないパターンなんてのは「内野フライ」「ピッチャーゴロ」「三振」くらいしかないんだ。
2球目、今度もカーブ。だがもう惑わされない。
ボールの軌道をよく見極め、バットを振りだす。カーブの軌道にバットを滑り込ませシンで捉えた。
ただ、惜しくもタイミングがズレて三塁アルプスにライナーで飛び込むファール。
火の出るような弾丸ライナーに、場内からどよめきが起こった。
打ちあぐねた変化球を、完璧に捉えた。
ツーストライクではあるが、追い込まれたような気はしない。
今だにどよめき止まない。凄まじい打球を目の当たりにしたバッテリーは、ここで攻め方を変えて来た。
3球目は高めに明らかなボール。
4球目も速球を高めに外して、2ボール。
明らかに「ストレート」を意識させようとした意図が感じられた。
セオリーなら「ストレート」を意識させて、カーブやチェンジアップでタイミングを外してくる。
はたまたその裏をかいて「またまたストレート」なんてこともよくあるが。
…いや、今の俺なら「ストレートでもカーブでも」当てれる。
2ストライク2ボール、ピッチャー振りかぶって第5球。
ストレートだ!
内角高めの厳しいボール、ファールにして逃げよう。
反射的に左手に力を込め、ミートを優先したスイングでバットを振り切る。
キィン!
後方に緩い打球が上がった。ファールだ。
ファールになる打球を追った視界の隅で、猛然と何かが動いたのが見えた。
中島がキャッチャーマスクを脱ぎ捨て、打球を追っていた。
そんな、間に合うはずがない。
落下地点はバックネット際。なのにも関わらず中島は加速し続けた。
バックネット付近の観客からも「危険」を察知したどよめきが起こる。
フェンスが間近に迫る。
「中島!危ない!!」
思わず声が出た。
中島が飛んだのはそれと同時だった。
フェンスなんか見えていないようで、ボールだけを凝視したまま飛びついた。
中島のミットの中にボールが消えたのと、激突したのはほぼ同時だった。
ドスッ!
鈍い激突音が響き、大きく跳ね返えされた。
痛々しく転びながらもミットを高々と掲げ、白球を確かに収めていることをアピールした。
「アウト!アウトー!」
「磯野さん!どいて!」
声に反応し振り返ると、三塁から堀川くんがタッチアップのスタートを切っていた。
反射的に慌てて走路を開ける。
「桜木!ホーム入れ!」
激突したばかりの中島は立ち上がれず、送球の体勢に移れない。上半身だけを起こし、ホームに返球する。
マウンドから駆けつけたピッチャーが送球を受け、ホームを目指す堀川くんにタッグを試みる。
堀川くんはそれをかわすように、地を這う低いヘッドスライディングでホームベースを捉えた。
タッチの勢い余って体勢を崩したピッチャーはスライディングに巻き込まれ転倒。クロスプレーは一瞬のうちに黒土の砂塵で覆われた。
タッチが先か。
ホームインが先か。
大観衆の全ての注目がこの一点に集まる。
球審は毅然とコールした。
「アウトー!!スリーアウト!」
爆発のような歓声が沸いた。
観衆は立ちあがって好守備を讃え、あさひが丘高校アルプスは落胆の溜息で溢れた。
堀川くんは地面に顔をうずめた。
大勲章となるタッチアウトを奪ったピッチャーは、ガッツポーズを何度も繰り返して叫んだ。
アウトか。惜しかった・・・。
中島、中島はどうだ。
バックネット間際。中島が居るはずの場所へ振り向くと、手を突いてゆっくり立ち上がる最中だった。一瞬苦い顔を見せたものの、すぐさま歓声に頭を下げて応える余裕を見せる。
そんな、本当に無事なのか。
クロスプレーで蹴り散らされたキャッチャーマスクを拾い上げ、わざわざ中島の元へ駆けつけた。
中島はそれに気づいたが、避けるように顔を逸らした。それを気にせずマスクを差し出すと、こちらに目もくれず素早く受け取った。
「中島、大丈夫か」
「あぁ、平気さ」
マスクの汚れをはたき落としながら、淡々と答える。
「本当に大丈夫なのか?頭打ったみたいだったし、脳震盪とか…」
そこまで言ったところで突如顔を上げ、こちらをキッと睨みつけた。
「磯野、お前は人の心配をしてる場合か?」
どういう意味か分からなかった。
「磯野はいま負けてるんだろ?それなのにボクの心配なんかしてどうする!」
「勝ちたいんだろ?本気で勝ちに来い!ボクは本気で勝とうとする磯野に勝ちたいんだ!」
マウンドで投手を勇気づけるときのように、胸をミットで強く叩いてきた。
それ以上は何も言わず、颯爽と引き上げていった。
同じ高校生だというのに、中島のその背中はどこまでも雄大に見えた。
ベンチに戻る中島。ヒーローの帰還を、チームメイトは嬉々として迎え入れようとする。
観客は惜しみない拍手で讃え、それは伝搬するように広がって行った。
その風景に思わず、見とれていた。
その背中が、ゆっくりと傾いた。
体勢を立て直すこともなく、重力に従って地面に崩れた。
陽炎のなかで地面に突っ伏したまま、動かなくなった。
甲子園から、全ての音が消えた。
◇甲子園決勝
一二三 四五六 七八九 計
あさひ丘 000 100 1
横浜港洋 020 00 2