二年以上考え続けた由比ヶ浜視点の11巻最終章。
12巻が発売される前にどうしても書き上げたかった、全力に全力を投じた渾身の一作。
11巻と見比べながら御覧じていただければ幸い。

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第1話

 観覧車(かんらんしゃ)を降りても、まだ雪は()んでなかった。

 もうすぐ。もうすぐ、この時間は終わっちゃう。

 その前に、決めなきゃいけないことがある。

 ヒッキーもゆきのんも観覧車を降りてからずっと(しゃべ)らない。あたしは前を歩いてるから今二人がどんな顔をしてるかはわからない。

 ()り返って見てみたくなる。でも、なんとなくそれはしないほうがいいような気がした。

 そのまま三人で歩く。おっきな道路を右に曲がったところで、ヒッキーが声をかけてきた。

「なぁ……」

 今度こそくるっと振り返って、二人の顔を見る。

 ヒッキーはなんか難しそうな顔してる。ゆきのんはヒッキーよりちょっと遅れてて、あたしともヒッキーとも違う方を見てた。

 あたしは黙って行き先の建物を指差す。今日の最後の目的地、海が見える展望台(てんぼうだい)

 ヒッキーがチラッと時計を見た。電車の時間を気にしてるのかな。でも、それは(こま)る。

 もし電車がなくなったとしても。このお話だけは絶対にしなきゃいけない。

「行きましょう」

 でも、心配することはなかったみたい。ゆきのんがヒッキーを後押ししてくれた。

 安心して、また歩き出す。クリスタルビューはもうすぐだ。

 

                     ×   ×   ×

 

 建物はもう閉まってたけど、テラスみたいになってるところは入ることが出来た。夕暮れの海がすごくキレイ。

 揺れる海の黒に近い(あお)と沈む夕陽の(うす)(あか)に、千葉ではめったに降らないキラキラ光る雪の白。

「おー」

 感動がつい口から()れてしまう。薄く積もった雪を()みしめながら、あたしは(さく)の方まで歩いて行く。

 ここにはあたしたちしかいなかった。この時間がずっと続けばいいのに、なんて。最近ずっと思っていたことを、また心の中で()り返してしまう。

 ヒッキーたちに背を向けたまま、柵から身を乗り出す。

 あたしたちの関係は、ここで変わる。

 そうなる前の最後の時間を、何があっても忘れないためにこの目に焼き付けておきたかった。

 あたしたちの最後の時間は、出来過(できす)ぎてるくらいにキレイだった。

 これから始まることを考えると、涙が出そうになる。

 あたしはきっと、ゆきのんには勝てない。

 それでも、あたしはもうちゃんと決めたんだ。

 あたしたちは前に進まなきゃならない。

 気を抜くとこぼれそうになる涙をこらえて、あたしはヒッキーとゆきのんを振り返る。

 さあ、がんばれ。あたし。

「これからどうしよっか?」

「帰るだろ」

 ヒッキーはやっぱりいつも通りのヒッキーで、あたしはちょっとだけ(かな)しくなる。

 いつも通りだなんて、そんなわけがないのに。

「そうじゃなくて……」

 一歩、近づく。真正面(まっしょうめん)から、二人を見る。

 ヒッキーの目が真剣(しんけん)になる。ゆきのんが少しだけあたしから目を()らす。

「ゆきのんのこと。それと、あたしのこと。……あたしたちのこと」

 言った。

 言ってしまった。

 これでもう戻ることはできない。

 ヒッキーは目を見開いた。ゆきのんは逸らしていた目をあたしに向ける。

「……それは、どういう意味?」

 そして、(まよ)いながらも聞いてきた。でも、あたしはそれには答えずにただ二人を見つめる。

 たすき掛けにした(かばん)が当たってる左のお腹が熱い。焼いたクッキーはとっくに冷めちゃってるはずなのに。

「ヒッキー。これ、あの時のお礼」

 手が(ふる)えてる。鞄の中から熱くて冷たい袋を取り出して、落とさないように両手で持つ。

 あたしの持ったクッキーを見てゆきのんがハッと息を飲んだ。そして肩に掛けた鞄をぐっと掴む。

 そっか。ゆきのんも持ってきてたんだね。昨日渡せなかったクッキー。いつ移し替えたんだろ。気づかなかったな。

 今日ヒッキーと三人でデートするなんて、知らなかったはずなのに。

 でも、ゆきのんは少しだけ首を振って、下を向いてしまった。

 ……ゆきのんは、踏み出さないの? きっともう、今が最後のチャンスなのに。

 ゆきのんの横を通って、あたしはヒッキーの前に立つ。

「あたしの相談、覚えてる?」

「……ああ」

 (かす)れたような声で、ヒッキーは答えてくれた。

 忘れられない、忘れるはずがない、あたしたちの二度目の出会い。

 ヒッキーにお礼するためのクッキーを焼けるようになりたくて、初めて開いた奉仕部の(とびら)

 ゆきのんはかっこよくて優しくて、ひどい失敗ばっかりするあたしに真正面から根気強く教えてくれて。

 ヒッキーはやっぱりヒッキーで、あの時はまだあたしも知らなかった斜め下な解決法(ヒッキーのやり方)を得意になって話してて。

 どうしたらヒッキーの心は揺れるのか。あたしはそれを教えてもらった。

 だから、これがあたしの答え。一年がかりのあたしの答え。

 ヒッキーは目を見開いて、あたしの差し出すクッキーを前にしたまま固まってる。

 それを見てどうしても悲しくなってしまうけど、ムリヤリ押し殺してヒッキーの手にクッキーを押し付ける。

 真剣な顔をして手の中のクッキーをじっと見つめてるヒッキーを、あたしも精一杯(せいいっぱい)の気持ちを込めて見つめる。

「手作りクッキー……。これを、ひとりで?」

 口を開いたのは横にいたゆきのんだった。ゆきのんの方を見ると、ゆきのんはあたしじゃなくてクッキーを見つめてた。

「ちょっと失敗しちゃったけどね」

 (くや)しいけど、ゆきのんみたいに完璧(かんぺき)に作ることは最後の最後まで出来なかった。今ならあたし、料理の才能がないって言ってもゆきのんに怒られないかな?

 あの時みたく、つい誤魔化(ごまか)すように笑っちゃったけど、ゆきのんは小さく首を振るだけだった。

由比ヶ浜(ゆいがはま)さん。あなた……、すごいわ」

 ゆきのんの声はすっごく優しくて、でもなんだかもどかしそうで。あたしを(まぶ)しそうに見るその(ひとみ)があたしのことを認めてくれたみたいで、泣きたくなるくらいに(うれ)しかった。

 このクッキー、ゆきのんが教えてくれたクッキーなんだよ。あたしにとって、一番大切な料理なんだよ。誰にだって教えたくない、この三人だけの大事な思い出なんだよ。

「……あたしが自分でやってみるって言って。自分なりのやり方でやってみるって言って。それがこれなの」

 このクッキーがあたしの答え。あたしが出した、あたしなりの答え。

 そして、あたしは、嘘をつく。

「……だから、ただのお礼」

 嘘だ。大嘘だ。

 あたしは笑って、胸を張る。

 ただのお礼、だけのわけがない。

 ヒッキーはあたしから目を逸らさない。

 サブレを助けてくれたお礼はもちろんのこと。今までずっとあたしたちを助けてくれてたこととか、色んなことをヒッキーだけに押し付けちゃったこととか。

 今日の日付(バレンタインデー)とか、三人の大事な思い出(手作りクッキー)とか、見ないふりしてるゆきのんの鞄の中身(ゆきのんが渡せなかったクッキー)とか。

 あたしの、恋心(こいごころ)とか。

 色んなイミやモノがあふれるほどに詰まってる。

 でも、それを言ってしまうとヒッキーはこれを受け取れなくなっちゃう。

 

 ヒッキーはきっと、あたしよりゆきのんの方が大事だから。

 

 だから、あたしは言い訳を作らなきゃいけない。たとえそれがバレバレの嘘でも。えくすて……だっけ? ゆきのんの言うことはときどき難しい。

 ヒッキーが納得できるタテマエが、必要なんだ。

 でも、ヒッキーはあたしから目を()らさないまま、ちょっとだけ息を吸って。

「……礼ならもう(もら)ってる」

 そう、言った。

 お腹の底から耐えられない(かな)しさと(さび)しさが(ふく)れ上がってきて、息が詰まる。

 心と体がバラバラになりそうな痛み。ヒッキーを好きだって気持ちの大きさが、そのままあたしを攻撃する。

 ああ、やっぱりダメだった。あたしはゆきのんに勝てなかった。

 理由(言い訳)があってですら。あたしのお礼(想い)はヒッキーに拒絶された。

 目の前のヒッキーが(にじ)む。泣くのはダメだ。あたしは大丈夫だ。最初からわかってたんだから。こうなるって。

「それでも、……ただのお礼だよ?」

 なんとか、声を(しぼ)り出す。

 ヒッキーがぼやけて見えなくなっていく。ダメだ。あたしは大丈夫なんだから。

 くるっと回って、海と夕陽と雪を見る。(あお)(あか)境目(さかいめ)はぐちゃぐちゃになっていて、白はもうそこにあるかもわからなかった。

 少し上を向いて、目を閉じる。あたしの弱さを落として失くす。

「あたしは全部ほしい。今も、これからも。あたし、ずるいんだ。卑怯(ひきょう)な子なんだ」

 もう、大丈夫だ。声も震えてない。あとはこの大丈夫を最後まで通すだけ。

 膨れ上がった悲しさと寂しさを白い息と一緒(いっしょ)に大きく吐き出して、目を開ける。

 もう、碧も朱も白も滲んではいなかった。

 振り返って、ヒッキーとゆきのんをまっすぐに見つめる。

「あたしはもうちゃんと決めてる」

 ほしいものがある。でも、頭がいいわけでもないし、ずるいから。自分の答えは一つだけ。

 ヒッキーは何も喋らない。ただ黙ってあたしの話をじっと聞いてる。

 ゆきのんは少しだけ目を()せて。

「そう……」

 と、小さく(つぶや)いた。

 二人の反応に、胸がしくしくと痛くなる。

 ああ、わかっている。それはきっと望まれている答えじゃないんだと思う。

 吐き出したはずの寂しさが、またお腹の底から昇ってくる。

「もし、お互いの思ってることわかっちゃったら、このままっていうのもできないと思う……。だから、たぶんこれが最後の相談。あたしたちの最後の依頼は、あたしたちのことだよ」

 あたしもヒッキーもゆきのんも、ちゃんとした言葉にしていないからこそギリギリであたしたちの今は続いてる。続いてた。

 どんなにそれしかないって思っても、本当のことは言わなかったらずっとわかんないままなんだ。

 ヒッキーは言われてもわかんないことはあるって言った。

 でもきっと、それだって言わなきゃやっぱりわかんない。言われてもわかんないことなら、言わなきゃもっとわかんないままだよ。

 そして、言ったら、お互いがわかったら、このままじゃいられない。

 あたしはヒッキーとゆきのんが大好きで、きっとゆきのんはあたしのこともヒッキーのことも大好きで。ヒッキーもたぶんあたしのことを好きだと思う。

 でも、ヒッキーが選ぶのはゆきのんだ。

 ゆきのんは目を(つむ)って(うつむ)いてた。たぶん、ゆきのんも気づいてたんだと思う。

 そしてヒッキーはそんなゆきのんを横目で見てた。また少し、悲しさが()いてくる。

 あたしは、ずるい女の子だ。

「ね、ゆきのん。例の勝負の件ってまだ続いてるよね?」

「ええ。勝った人の言うことを何でも聞く……」

 ちょっとだけ震えてるゆきのんに一歩近づいて、真正面から向かい合う。

 震えを抑えるみたいに、ゆきのんの腕にそっと触る。

「ゆきのんの今(かか)えてる問題、あたし、答えわかってるの」

 ゆっくりとその腕をさすると、ゆきのんの震えは収まった。

 今のゆきのんは、とっても弱くなっちゃってる。

 

 ゆきのんは、依存(いぞん)している。

 

 ヒッキーに。あたしに。奉仕部に。

 その中でもヒッキーに一番依存してる。

 何か大切なこととかしんどいこととか、そういう自分で決めなきゃいけないことを決めるとき、ヒッキーが決めたことを選んじゃってる。

 陽乃さんの言ってたことも、そういうことなんだと思う。

 ゆきのんの腕をさすり続ける。

「私は……」

 ゆきのんは迷子(まいご)の子供みたいな目であたしを(すが)るように見て、でもその視線は力なく下がっていく。

 そして、ほとんど聞こえないような小さな声で。

「わからない……」

 と、呟いた。

 わからない。どうしたらいいかわからない。

 そうだ。きっとそれが。

「たぶん、それが……あたしたちの答えだと思う」

 お互いがわかったらこのままじゃいられなくて、触らないように見ないようにして引き伸ばすのもきっともう限界だ。

 なにより、そこにあるものをないって言いながら付き合うのは、きっとヒッキーにとっては偽物なんだと思う。

 どうしたって変わってしまう。だからどうしていいかわからない。

 目を閉じる。頭を軽く振る。軽く息を吸って、止める。

「それで……」

 だから、あたしは。

 あたしの、答えは。

 下ろしたままの手の先で、強くグーを(にぎ)る。目を開けて、ヒッキーとゆきのんをまっすぐに見つめる。

「あたしが勝ったら、全部(もら)う。ずるいかもしんないけど……。それしか思いつかないんだ……。ずっと、このままでいたいなって思うの」

 どうしたらいいかわからないから。

 どうしたって変わってしまうから。

 あたしは答えを先に決めてしまう。

 大好きなヒッキーとゆきのんと。三人でずっと一緒に。

 何があってもずっと一緒に。

「どうかな……?」

 あたしは二人に笑いかける。今日のデートみたいな最高に幸せな時間がずっと続けばいいのにって。

 最近ずっと思っていたことを、また繰り返して思い、それを今度こそ言葉にする。

「どうって……、それは……」

 ずっと喋らなかったヒッキーが、あたしの問いかけに口を開いて、詰まらせる。

 あたしの言うことを聞かなきゃいけない、っていう理由(言い訳)があれば。ヒッキーが納得できる、えくすてがあれば。

 もしかしたら。もしかしたらヒッキーも。

 偽物でもいい、なんて。そんな都合(つごう)のいい夢を見てしまう。

 ヒッキーは悩んでる、ように見える。

 歯を食いしばって、目を伏せてキョドらせて、必死で考えてる。

 少なくともヒッキーの求める本物と比べても迷えるくらいには、あたしのことも大切に思ってくれているってことなんだと思う。

 そのことが、あたしの心を(ふる)わせる。

 あたしはゆきのんの手を静かに取って、語りかける。

「ゆきのん、それでいい?」

 ああ。あたしはやっぱりずるい女の子だ。

 こうするとゆきのんが断れなくなるのを知ってて。力の抜けた手を取って、じっと目を見つめる。

「わた、しは……」

 ゆきのんは逃げるみたいにあたしから目を逸らして、それでも、つっかえながらもちゃんと応えようとしてくれる。

 ゆきのんの目はあっちこっちに向いて、最後にはあたしで落ち着いた。

 迷子の子供がママを見つけたみたいなその目が、あたしのずるさを(しか)ってるように感じられた。

「私はそれでも……」

「いや」

 ヒッキーが、ゆきのんの言葉を(さえぎ)って一歩踏み込んでくる。

 驚きはなかった。

 きっと。

 きっとこうなるんだろうなって、あたしはわかってたから。

「その提案には乗れない。雪ノ下(ゆきのした)の問題は、雪ノ下自身が解決すべきだ」

 手が白くなるほど強くグーを握って、ヒッキーは正面からあたしを見つめる。

 あたしも精一杯ふんばって、真っ正面からヒッキーを見返す。

 あたしは知っていた。

 

 ヒッキーが自分から一歩を踏み出すときは、いつだってゆきのんのためだった。

 

 あたしとヒッキーが始まりを終わらせて、もう一度始めたときも。

 肝試(きもだめ)しで留美(るみ)ちゃんの人間関係を壊したときも。

 自分が全部の悪意を集めて、さがみんに最後まで実行委員長をさせたときも。

 全部を台無しにしてでも、体育祭を開かせようとしたときも。

 ゆきのんを、生徒会長にさせなかったときも。

 ゆきのんの誕生日プレゼントを、一緒に買いに行ったときも。

 夕暮(ゆうぐ)れの保健室で、ゆきのんの進路を聞いたときも。

 そして何より、あの、一度終わってしまった部室で。

 ヒッキーが初めて、あたしたちを頼ってくれたときのことも。

 全部、ゆきのんのためだった。

 だから。ゆきのんが弱さに流れちゃいそうになったら、その時こそ手を差し伸べるって思ってた。

「……それに、そんなの、ただの欺瞞(ぎまん)だろ」

 胸が張り裂けそうな痛み。

 あたしの答えは、他ならぬヒッキーに完全に否定された。

 なくしてしまったものを(いた)む気持ちと取り返しのつかない(あきら)めとが、心の中を切り裂いていく。

 それでも大丈夫なんだ。わかっていたことなんだから。あたしはまだきっと笑えている。

曖昧(あいまい)な答えとか、なれ合いの関係とか……そういうのはいらない」

 嘘で。欺瞞で。幸せで優しい世界。そんなものはいらないって。

 本当は、嘘でもいいって。そう思ってるあたしを、真正面から断罪(だんざい)する。

「それでも、ちゃんと考えて、苦しんで……。あがいて。俺は……」

 考えて。苦しんで。あがいて。

 ずっとヒッキーはそうしてきたんだろう。

 ずっとずっと本物だけを求めてきたんだろう。

 ヒッキーの声にならない声が、あたしには聞こえた気がした。

 今にも泣きそうなヒッキーの目を見ていると、あたしまで泣きそうになってしまう。

「……ヒッキーならそう言うと思った」

 にっこりと、笑う。笑った、つもり。ちゃんと笑えているだろうか、あたしは。

 あたしの願いとヒッキーの願いの形はとってもよく似ているのに、なんでこんなに違うんだろう。

 だから、それが一つのものになるなんてことは、きっとない。

 色んな感情を混ぜ込んだ目をあたしに向けて、ヒッキーが小さく(うなづ)く。あたしもそれに応えて、ゆきのんを見た。

 ゆきのんは不安そうに胸に当てた手をきゅっと握って、泣きそうな(ひとみ)で あたしとヒッキーをかわるがわる見た。

 あたしたちがゆきのんの答えを待っているんだって気づくと、どっちへ行ったらいいかわからない迷子の子供みたいな眼差(まなざ)しは、いつもの強いゆきのんの眼に戻った。

「……私の気持ちを勝手に決めないで」

 ゆきのんは()ねたみたいにそう言うと、涙を(ぬぐ)う。

「それに、最後じゃないわ。比企谷(ひきがや)くん、あなたの依頼が残ってる」

 ……ああ、ヒッキーの依頼。

 ヒッキーの、欲しいもの。

 本物。

 何か言いたそうなヒッキーは、あたしの顔を見て口を閉じてしまった。あたしは今、どんな顔をしてたんだろう。

 ゆきのんを見る。ゆきのんもあたしを見てる。

 ヒッキーが知らない、気づいてない、あたしとゆきのんの秘密。

 嘘をつかないゆきのんの笑顔が、(しず)んでいく太陽よりも(まぶ)しかった。

「……あと、もうひとつ」

 ゆきのんが真剣な顔になって、あたしとヒッキーを見つめる。

 あたしもヒッキーも、同じくらい真剣な顔で見つめ返す。

 ゆきのんの言葉の続きを待っていると、ゆきのんは一歩踏み込んだ。

 あたしたちのほうへ。

 そっと一歩。

「……私の依頼、聞いてもらえるかしら」

 恥ずかしそうにはにかんで、ゆきのんはそう言った。

 (うれ)しさや(いと)おしさみたいなキレイな感情と、(うらや)ましさや(ねた)ましさみたいなキタナイ感情とがぐるぐると心の中を回ってる。

 それでも、ゆきのんが好きって感情のほうがやっぱり最後には勝つんだ。

「うん、聞かせて」

 あたしからも、ゆきのんに一歩踏み込んで手を伸ばす。

 ゆきのんはあたしの手を取って、そっと胸の中に飛び込んでくる。

 涙がひとしずく、ゆきのんの(ほお)を伝っていった。それが降ってくる雪よりもずっとキレイに見えて。

 沈んでいく夕陽が映す影の世界で、あたしはその大切なものを抱きしめた。

 

                                           了



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