1940 冬 ベルリン
ベルリンの冬は寒い。すでに心の故郷としか言いようのない日本の北海道よりも緯度が高いのだから、どの程度の寒さかを予想いただけるだろう。もっとも内陸であり、湿度も低いことから、豪雪地帯のように埋もれるほどの雪は降らない。
しかし夜はマイナス十度も当たり前。
そんな中、わざわざBARで酒を飲む人たちは、それ相応の理由がある。
一つ目は夜が遅くなり食事を準備することが負担となり外で取られるお客様。主にご近所の方々。
二つ目はみんなで騒ぐ場を探す一見さん。その名のとおりだが、メインストリートから外れているこの店にはあまりいらっしゃいません。
三つ目は常連の二人を筆頭とするお客様。ここでしか出ない酒、料理を目的に来られる方々。この店を気に入って頂いている大変嬉しいお客様方です。
そして四つ目は……。
「どうかいたしましたか? ベアトリス様」
カウンターでホットワインと夕食のトマトベースに鷹の爪と数種類のスパイスをつかった辛めのショートパスタと生ハムサラダを前にうんうん唸っているベアトリス様がお一人。同僚の方々と来ることもありますが、お話を伺う限り家事を放棄されているらしく、ほぼ毎日ここで食事をとっていらっしゃっています。
もちろん軍の食堂もあるようですが、どうもお気に召さないらしく夕飯はこちらと決められているようです。
さて、もう常連ともいえるベアトリス様が何時になく考えごとをされているようです。せっかくのホットワインもだいぶぬるくなってしまっているご様子。
「ん~。あっそういえばバーテンダーに相談しても他言無しでしたっけ」
「はい。酒の席のお話は本人のご了承がない限り、墓まで持っていきますよ」
私は、笑みを浮かべながら回答する。
「例えばの話ですけど。友人の上司にあたる女性が、さらにその上の上司に片思い中……ということとします」
ベアトリス様も信じていただけたのでしょう。一瞬ですがぱっと笑顔になると、すぐに神妙な顔つきになり例え話をはじめられます。
「はい、例えばのお話ですね」
「そうそう。で、その女性上司なんですけど、なんとも乙女というかなんというか。意を決して行動した結果、念願叶って片思いの男性上司の部下にまではなれたんですけど、そこからピタッとアプローチが止まっちゃったんですよ」
ベアトリス様。それ例え話になっていませんよね。しかもその女性上司は定期的にうちにいらっしゃる常連に近いお客様のことですよね。
最近では鴨のスライスを炙ったものを片手に、ビールがお気に入りなようでより一層男らしさに磨きが掛かっていらっしゃいますが。
「部下であるということに満足されてしまったとかでしょうか」
「それだったら私も気にしないんですけどね~」
「と、いいますと?」
ベアトリス様はワインを飲み干されたので、新しいワインを火にかける。今日はスペインのバレンシア産赤ワイン。香りは控えめだが、甘さと程よい渋みが特長。現在は敵国のワインにあたるのですが、まあ開戦前に地下倉庫に備蓄したものの一品ですし、食材に敵も味方もありません。そのへんを気にされないお客様にかぎりお出しさせていただいております。
「朝一番に出勤して、決められてもいないのに上司の机を掃除してるとか」
「まあ、そのぐらいでしたら気の利く部下というお話かもしれませんね」
「夜が遅い任務になると、予定も無いのに勝負下着をこっそり準備してるとか」
ワインが程よく潤滑油となったのか、女性上司の日常が暴かれつつありますね。
「例えば気が付けばその男性上司を視線で追っているとか、男性上司に褒められると端から見ても尻尾をブンブン振ってる姿が幻視できるとか。仕事の報告とか相談はさらっと出来てるくせに、毎朝の挨拶一つで嬉しそうにニヤけてるとか」
「その男性の上司って朴念仁ですか? それとも相当な奥手ですか? または相手がいるとか」
ベアトリス様が上げる数々の例を並べてみると、行き着く感想がこんなものである。
軍関係に限りませんが、人の上に立ち、その上で仕事ができる方というのは、総じてコミュニケーション能力が一定以上あるものです。そんな方の部下が例に上げられているような状況なら、普通気が付きます。そして気が付いた上で、無視されているとなれば……。
「それが相手はいないそうなんですよ。むしろ博愛主義者といいますか、全てを愛している~っていいますか」
「と、いいますと?」
「その男性上司、立場もあるので社交界とかにも顔を出しているんですけど、日々言い寄る女性をみんな受け入れちゃうそうなんですよね」
「それはそれは。良く刺されませんね」
「女は駄菓子? みたいな感じで言うんですけど、まあ肩書に実績、見た目、くわえて物腰、とどめは声もいいですから、一夜だけでもって感じで引く手数多なんですよ」
ベアトリス様が若干呆れを含みつつ、カウンターに腕を組みつっぷされる。マホガニーの机は酔われた頭にはさぞ冷たく感じられることでしょう。
私は氷の入った水に、スライスレモンを浮かべたグラスをお渡しする。
「その男性上司というのもなかなか魅力的な方ですが、特定の方への愛よりも全体愛のようなものを優先される方なのかもしれませんね。ですから個人的な好意についても来るもの拒まず、でもそれ以上になることができない。だからこそ今みたいな状況なのでしょうか」
しいて言えばアイドルのようなものでしょうか?まだこの時代には新聞やラジオが主流ですので、たとえるなら映画の銀幕スターのようなものでしょうか。
とはいえ、見方次第では下種な人物にもみえますが、それが許容されるレベルとなるとある意味で突き抜けた、それこそ物語の主人公のような人物なのかもしれませんね。前世で散々見ていましたので、わざわざ見たいとまでは思いませんが。
「そんな感じですかね~。でも、それだと女性上司に芽が無いってことになっちゃいますよね」
「まあ、端的にいえば。付き合っていくうちに個人の魅力で、全体愛の価値観を超えるぐらいしか思い浮かばないですよね」
「そうですよね。でもキッカケもないんですよ」
「ああ、それなら作れますよ」
私は空いた皿を下げながら答える。しかしベアトリス様には驚きに値する内容だったのでしょうか、ガバッと上体を起こされると矢継ぎ早に質問される。
「えっどんな方法ですか?」
「たとえば、飲みに誘うんですよ」
「飲みに……ですか?」
「いまの仕事上の関係だけではキッカケもない。ならお酒を入れて、自由に会話することですこしずつプライベートの時間もつながりを作っていくんですよ。ランチは社会通念上、仕事の延長と捉えられてます。しかしディナーはプライベートも入ると判断されてますから」
「なるほど。さしものあの完璧上司もプライべートは存在するはずですからね」
社交界は立場と家の付き合い。そこはプライベートと切っても切れない領域。そのためそんな考えがあるのでしょう。未来の話ですが2000年代のアメリカの公務員も、ランチなら受益者……つまり付き合いのある業者と共にしてもよいとされるルールがあったりします。
そんなわけで夜の飲みというのは、一風変わった線引きの中にあるんですよね。
あとたとえ話という体裁が抜けてますよ。ベアトリス様。
「まあ、どんな人間でも睡眠はとりますし食事もします。仕事の裏にはプライベートの顔があるはずですから」
「ですよね……。でもどうやって誘えば。この一年近く、そんな機会なかったですから」
「そうですね」
ふと考える。
ドイツ人として生きた時代。魔導国時代。日本での時代。
仕事一筋に見える存在を引っ張り出す常套句。
「クリスマスは家族と教会でというのはポピュラーですが、仕事納めのタイミングなどはいかがですか?」
「仕事納めってだけだと弱いかな~」
「円滑な人間関係は仕事をする上でも重要。古来よりアルコールが入った場での会話というのは、コミュニケーションの常套手段。これらの言葉を組み合わせて上司を誘って職場の皆さんで繰り出すというのはいかがですか?」
「なるほど~。そして慣れてきたら人数を絞ってってことですね」
「そんな感じで少しずつ進めるってことで」
「
「はい」
その日はそんな感じで会話が終わりました。実際1940年の暮れが押し詰っており、終戦はたしか45年。軍人ということでいつどんな時にもしもがあるかわかりません。
まさしく時は金なり。
余裕がある日々はそう長くはないはずです。これから先は少しずつ戦況も悪化していくことでしょう。無事終戦を迎えられたとしても、しばらくはドイツにとっては苦しい時期。
私はそんなことを考えていました。
同時に、私にとってのapocalyptic soundsであったと気が付いたのはずいぶん先のこと
Zeit ist Geld.:訳:時は金なり
ドイツのことわざです。この言葉本当にどの国にもあるんですよね。
そんなわけでやっとこさ獣殿襲来のフラグがたちました。