ハインツのモン/ハン観察日誌   作:ナッシーネコゼ

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▼レポート1:『ナーバナ森丘・殺獣事件』
現場検証


 調査終了の頃合いに地震は起こった。

 

 大陸西方に位置するナーバナ村。

 辺り一面は淡い新緑と土の匂い。水の青々とした湿気は幅広く行き届き、清く豊かな環境はヒトも動物も問わず多くの命へ平等に恵みを分け与える。共生する大地には自然と集落や縄張りが形成されていた。

 

 赤々と燃える夕焼けが西方へ沈むまで幾ばくか。

 橙に染まる地平線から覗かせる森丘の一角は、楽園を思わせる幻想的色合いを呈する時機(じき)に。観賞目的で立ち入った者ならば、例えどのような層の人間であろうとも、みな一定に心の揺らぎを感じさせるであろう光景。

 そんな時と場合次第でロマンチスト御用達のスポットになり得る場では、青年と少女がそれぞれ複雑な面持ちで何かを見つめていた。

 

 元々二人はとある生き物(・・・・・・)の求愛行動を観察するため、繁殖期に入ったこの辺境の地へ立ち寄っていた。根気のいる作業であったが、遂に二人は見届けることができたのだ。だから、せっかく目的も果たせたと言うのに。茫然と何かを見つめ続ける青年の心は、酷く曇ったものだった。

 

 二人が佇む視線の先には、未発達な一本角を持つ四足動物の変わり果てた姿。

 目の前に横たわる"ソレ"も自然の(ことわり)たる弱肉強食という、絶対的なルールの中では然程珍しくもないことだ。志半ばで倒れ、冷たくなった身体は大地へ還り新たな生命を芽吹かせるための糧となる。この森も過去から現在に至り、廻り廻ってきたのだ。今更その事実が変わることはない。

 

 

「……見事なまでに食い散らかされてる」

 

 少女はいたって落ち着いた様子で呟くが、目の前にある無残な四足動物の残骸を考え悩むように見下ろしていた。隣でうずくまる青年は直視できない様子で、口元を手で覆いながら恐る恐る視線を"ソレ"に向けようとしている。

 紅に染まる夕日が、四足動物の腹から湧き出た赤い液体をカモフラージュする。しかし、だ。眼前の死骸はどうしてもこの場では不釣り合いに鎮座するのみ。

 

「腹から内蔵を一口で……これはひど、うっおえぇ……」

 

 残骸から完全に視線をそらすと、青年は腹の底から湧き上がる不快感に耐えきれず嗚咽を漏らす。

 原因は眼前にあるスプラッタな死骸そのものであったが、なまじ温かいそよ風と生々しい血の臭いが混ざりあうことで、青年の鼻孔をより一層強烈に刺激していた。相応にこたえるものがあるのか、腹の底から熱い何かがこみ上げ、不快な感覚が青年を襲う。すかさず身体を丸め込むと、青年は溢れ出しそうなナニカを押し戻すために抵抗を試みる。

 

「無理して見なくてもいい。少し待って」

「お、おいおい……何してるんだ」

 

 喉元の酸味を飲み込んだ青年が涙を滲ませる中、少女は腰から一本の鋭利なナイフを取り出した。まさかと言った様子で声を震わせる青年に対して少女は

「ケルビの角は霊薬になる。使わない手はない」

 と、凛とした声色でさらりと言ってのける。

 

 さも当然といったような反応で、少女は腹部が食いちぎられたケルビの遺体に近づき屈むと、綺麗に残された頭部に生える一本角を手際よく切り取り始める。

 

 ああ厄日だ。厄日だと、心の中で青年は反芻した。家に帰るまでが遠足だと言うが、まさにそれだと実感する。

 

「ああ。や――たくましいな君は……。僕はまだ、直視できそうにないよ。こいつを記録に残さなきゃならないと思うと、余計に気分が……うぇ」

 

 片手で口元を押さえながら、青年はもう片方の手で大事そうに抱えるスケッチブックをちらりと覗いた。時間にして数秒ほどだろうか。視線を現実から逸していた青年だが、やがて意を決してケルビの死骸へ灰色の瞳を向けると、ちょうど生々しい傷痕部分は少女が遮り、淡々と作業を進める姿が映り込む。栗色のセミロングで隠れるその横顔から、彼女の表情・感情を窺い知ることはできない。

 ただ分かるのは、彼女が角を切り取る作業にやや時間をかけていることくらいか。まるで彼の復調を待つかのように。

 

「取れた。あとはあなたの記録だけど……?」

「……も、もう平気さ。情けないとこ見せたけど、君はそのまま見張りを頼むよ」

 

 時間をかけた分、丁寧な仕事で角を剥ぎ取り終えた少女。心配そうに覗き込む彼女に、青年も胸の灼熱感を抑えつつ、青ざめた顔でケルビの亡骸の前へ歩を進めた。

 末席ながら"王立古生物書士隊"として名を連ねる彼としても、この事態は記録・報告する義務があると感じていた。そして現状で最もわかりやすいのが、線描(クロッキー)として形に残すことにある。

 そのためには実物をじっくり観察しないとならない訳であるが、まるで鉄製の(おもり)を足にくくりつけたような感覚が、無意識に青年へと襲いかかる。これがただの思い込みであるのは重々承知しているが、終わり際の不意打ちほど憔悴するものはない。

 再三覚悟を決めることになる青年は、ようやくケルビであったものの前で黙祷を捧げると、愛用のスケッチブックを開いて大まかなクロッキーを落とし込み始めた。

 そんな無防備な彼の背中を守る少女は、ハンターとして周囲に満遍なく警戒を散らすのだ。

 

「可哀想に……まだ子供じゃないか。オスならこの二倍は大きいだろうに」

「この傷、少なくとも中型以上の何かが食いちぎった跡。……この森にそんなのいたっけ?」

 

 カリカリと筆を進めながら、青年はポツポツとつぶやき始める。と、同時に思考が始まる。

 

 偶蹄目・ケルビ科・ケルビ。

 至って温和な性格をした動物だ。森の水辺で散見されることが多く、先に手を出さない限りは無害であるのも特徴の一つである。

 少女は事前に説明された情報を遡っている様子であるが、そのような話は聞いたことが無いと青年も確信していた。

 

 『少なくとも、ナニかがケルビを襲い、腹を満たした』

 

 この事実と詳細を一刻も早く、近隣の村へ伝える必要がある。

 

「目の前にある惨状を見るに、間違いなく何かいるだろうさ。村に戻って皆に報告しないと。迂闊に人を出入りさせるのも危険だ」

 

 筆を止めずに速写画を続ける青年の顔には、徐々に血の気が戻りつつあった。落ち着いた呼吸で撤退を仰ぐ彼に、賛同しかねると言った様子で顔をしかめるのは少女の方。

 

「このまま調査は進めないの? 原因を排除しましょう」

「いや、村への報告が先だろう。ウィンブルグさんも呼んだ方がいい。君一人でことにあたるよりも確実だ」

 

 青年は至極まっとうな意見を言ったつもりであったが、対する少女は納得しない様子で

「そんなことない。あなたもいるし、囮役がいるだけで成功率は跳ね上がる」

と、真顔で首を傾げる。

 物騒な発言をする少女の提案に、スケッチを続ける青年の筆跡が大きく乱れかける。

 

「いや君、さらっと凄いこと言うね……」

 

 緊張した場を和まそうとした少女なりのジョークなのだろうか、青年としても判断しかねてしまう。

 

「まずさ、なにが潜んでいるか候補が絞れてない。狩猟に入るにしても、情報が足りないだろ?」

「じゃあ原因がわかれば問題ない? "書士"さんなら分からない?」

 

 少女が指差す先には、青年の胸元で光る銀色のバッジがちらりと覗く。毎日手入れを欠かさないからこその輝きは、夕日を綺麗に反射させ小粒ながらも存在感を主張する。このバッジこそ、王立古生物書士隊としての隊員証のようなものであった。

 

「そうは言ってもねえ。うーん……この"腹を食べられたケルビ"だけじゃ情報が足りないんだよ。ケルビを捕食する生き物はかなりいるし、候補が多いんだ」

「じゃあ何か他に証明する手はないの?」

 

 まっすぐな少女の碧眼が、青年の瞳を覗き込んでくる。彼の灰色の瞳は即座に瞬き(照れ隠し)を要求すると、青年の背筋がピクリと反応した。

 

「い、いや。そりゃあ第一候補を絞る手段くらいあるけどさ……正直あんまやりたくないって言うか……」

 

 ここで決して会心の出来とはいえないが、大まかな全体像と傷痕の詳細が分かる程度には書き込まれたクロッキーが完成する。やや線の乱れた形跡が散見されるものの、見れないレベルのものではない。本物と見比べながら確認すると、改めて青年は少女に目を合わせる。

 クロッキー完成まで実に三分程度。この間に青年がタスクを割いて絞り出した候補を更に絞るには、あることを確認しなければならない。

 

「だからさ、一度戻って村に……」

「その証明手段は?」

「いや村に」

「方法は?」

「……」

 

 これから青年がやろうとしていることは、彼にとって苦痛なものであった。

 青年は無残にも腸を食い荒らされた、幼きケルビの前に座り込んだまま天を仰いだ。既に沈み始めている太陽が青年の目を焼くことはなく、薄紅色の空が一面に広がる。

 ほどよく生ぬるい風を感じていると、空を見上げた彼の目は恨めしげに少女ハンターへと向かった。しかし、少女に対して個人の感情と書士隊の誇りを天秤にかけるならば、それは間違いなく一方へ傾く。

 

「ほんとに追っちゃう?」

「追う。死骸の状態から見ても、時間はそこまで経ってない。まだ森にいるはず」

「君はハンターだから、そう言えるのさ。僕は何をするにしても心の準備がいるんだよ。ふう――」

 

 青年は改めて納得する。自分は非力な書士隊であるのに反して、彼女は手練のハンターであった事実を。そもそもの立場・価値観が違うのであれば、彼女の意見もまた、ハンターとしては真っ当な答えなのかもしれないと。

 

 淡々と述べる彼女の姿に対してもはや逃れられないと腹を括ったのか、徐々に青年の心も落ち着きを取り戻しつつあった。

 不意打ちで受けた視覚的な衝撃と、嗅覚を刺激する血生臭さにも体と頭が慣れ始めた頃合い。脳裏には、この事態を引き起こした犯人像の候補。そこから更に現場の状態、地域特性などの要素を統合し、仮説を組み上げて更に絞り込む。

 

「じゃあ、ちょっと確認するから待っててよ……もし判らなくても怒らないでくれよ?」

「書士さんなら、大丈夫」

 

 再び視線が腹を除いて綺麗に残された冷たい亡骸に向かうと、四度めの正直ばりに意を決した青年が深呼吸する。

 あとは、仮説の検証。そして――

 

「君の期待が重いね――はぁ……」

 

 ケルビの首筋に素早く顔を寄せると――

 

 

 ――青年の舌は、真っ先に艶のある黒い毛皮を、ひと舐めした。

 

 

 




探偵ものではないです。

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