渓流という地形の特性上、水源の根幹から複数に分岐して各所に青の恩恵が与えられる。
彼らの見据える先で悠々と水を浴びる紫――ロアルドロスは、ドゥーヴの村から渓流の頂上に至るまでおよそ中腹に存在していた。
「間違いない。海竜目・海竜亜目・綿毛竜科目・ロアル科・ロアルドロスだ」
「魔法の呪文かニャー?」
「書士隊必須の暗記科目なの。徹夜で覚え――うぇ思い出したくない……」
「ニャー?」
対して先行するリィタの遥か後方にハインツとミエールは身を隠す。
一人と一匹が双眼鏡越しに覗くロアルドロスは長く伸びた肢体を大きくしならせると、跳ねるように震えて付着していた水を周囲に飛び散らかす姿が目に入る。行為だけ見れば一般的な動物のソレと変わらないが、ことはそう単純ではない。
飛び散る飛沫が紫色を呈しているのだ。
「うげ、あれが原因か。ここからだと丁度、ウィンブルグさんが向かった場所も含まれているな」
肌身離さず持ち歩いていたスケッチブックを下敷きにして、ハインツは古びた地図に広がる青のラインを追視した。辿る先には彼らの出発したドゥーヴの村は当然のこと、数箇所に村が点在している。地図の情報が間違っていなければ、だが。
この十数年で大規模な地殻変動でもなければ、かの紫水竜を起点として発する紫の毒は、一方通行の流れに抗うことなく下流まで運ばれるだろう。行き着く先の影響を考えると、ハインツの頭にはあの廃村の姿がよぎってしまう。
「にゃー。何かあったのかニャー」
「そう考えるのが道理だろう。無事だとは思うけど心配だね」
未だ連絡の取れないウィンブルグ。おそらく何かのトラブルに巻き込まれたことには間違いないだろう。しかし、それよりもハインツの心配は目の前にある。
「大丈夫ニャー。ご主人よりよっぽど腕が立つのニャー」
「正解だけど余計なお世話だ。そんなことよりも今は……」
「アネゴの応援だニャー!」
「残念。不正解」
「ニャー?」
「
「何をニャー?」
「君を」
ハインツを見上げるミエールの瞳は数回パチクリさせると、再び前へ向かって突き進むリィタを遠くから目を凝らして覗き込む。
「アネゴ、勝てるかニャー」
「聞かなかったフリするな」
一方で先行するリィタは、確実に獲物との距離を詰めていた。
彼女の碧眼は見開かれたまま対象から目を離すことがない。そんなロアルドロス……もとい、ロアルドロス亜種に関しての情報を彼女は思い起こしていた。この場に立つしばらく前にハインツから得た情報を。
(狙うのは……
ロアルドロスの特徴として、縦長の肢体を包み込むように顎周りから背中にかけてスポンジ状の
「……行こう」
一言呟くと、躊躇うことなくリィタは走り出した。その背に負う巨大な質量に振り回されることなく、ただ一直線に湿り気のある大地を蹴り進む。足場の悪さは渓流独特の地形。しかし彼女の
――グルォ!?
己の周囲を取り巻く風が急速に形を変える。不審に感じたであろうロアルドロスは、その野生から警戒心を露わにする、が。
「――シッ!!!」
弾着。
接敵の第一撃はリィタの重撃から始まっていた。
既に振り下ろされていた
――!!??
見事に欠けたタテガミを凝視する間もなく、ロアルドロスの瞳は鋭く血走らせる。瞬く間に頭部に存在する五本の
(距離を……)
追撃の中止を予感させた行動は、彼女をいち早く標的の正面に立たないよう位置取らせる。彼女の視線は血走った瞳と巨躯から外れることはない。たとえ、ロアルドロスの欠けた右タテガミから滴る、おびただしい量の紫を目にしても、だ。
おそらく後方で見守っているハインツは、「うげ」とでも声を漏らしているのだろうか。
続いて縦長の肢体を大きくうねらせると、紫水獣は眼前の少女に向かって突き進む。
(初速から早い……けど、避けられる)
冷静に間合いを見極めるリィタも、距離を測りながら正面から半身外した位置へと位置取り続ける。巨大な質量は彼女よりも間合い三つほどの余裕を持って通り過ぎていく。すれ違いざまに跳ねる紫の雫は
(毒で仕留めるタイプ、戦いづらい……。でも、問題ない)
センチネルから顔を覗かせたリィタの思考は回転し続ける。盤上の一手を決め、結果は行動で表す。付着した紫の毒を拭うことなく、柄を握る力はより一層強まっていた。
(……ハインツさんの話だと、この手のモンスターは大体動けなくなったところを仕留める傾向、だったかな。なら――)
相対再び。
位置取りは間違えず、
(動けなく、する)
決断した彼女の右腕は素早く
そして間髪入れずに大きく振りかぶると、球体を力任せにロアルドロスの眼前に向けて投げ付けようとみせた。
「ッ! だめだリィタさ――」
ハインツが発した後方からの声が届くはずもなく。
炸裂。閃光が広がる。
「……あれ?」
炸裂した光が閃光玉だということは、遠くから見守り一人と一匹はすぐに理解できた。しかし
「外したニャー!??」
ミエールの漏らした言葉通り、閃光玉と思しき球体は明後日の方向に消えていった。球体内で命の灯火を散らした光蟲の何たる不憫なことであろうか、広がる閃光は真昼の太陽に飲み込まれる。
当然、ロアルドロスの動きが止まることはなかった。激しい光に目を焼かれた様子もなく、再びリィタめがけて巨体をうねらせたのだ。
「変なところに飛んでったニャー……」
「ああ。リィタさんの投擲成功率は13パーセントなんだ」
「それ、ハンターとして致命的じゃないかニャー?」
そんな後方でのやり取りがリィタに聴こえることはやはりない。うねる巨体に対して身を翻すと、紫の巨躯に秘める猛毒再び大剣の腹で受け止める。続いて背を向けたロアルドロスを追走する。構えは既に変えられており、守りの方から攻めの型へと行動は移され、巨大な質量を振りかぶりながら紫に今迫らんとする。
「――シッ!!!」
剛剣なる一閃が縦に空間を薙ぎ払う。
深く背中を抉り裂いた一撃に堪えるものがあったのか、ロアルドロスの動きも鈍り始めていた。
遠くで見守る一人と一匹も双眼鏡を持つ手にも汗が握られる。
(もう、一撃……ッ!)
振り下ろされたセンチネルは再び振り上げられ、その軌道上にある巨躯が質量を受け止めきることなく、紫と赤の入り交じる液体が渓流の大地を汚染する。