◆◆◆◆◆
アオアシラの怪腕に勝るとも劣らない一撃の数々は、着実に青い巨体の体力を抉り取り、勝負の天秤は一方へ傾きつつあった。
(そろそろ終わり、かな)
彼女の見据える先には、斑模様に全身を赤く濡らす青熊獣の姿。舌を出して肩で息をするその様子は『パンティング』というのだと、青年が得意げに話していたのを思い出す。接敵当初の獰猛さは影を潜めつつあり、このまま押し切れば勝利は目前だろうと心の中で確信していた。
沈み始めていた太陽も半分以上が地平線に飲まれ、辺り一帯は紫色に変容し始める。流石に暗闇での戦闘は避けたいと考えた少女は、柄を握る手は決して緩めずに闘争心が残る獲物の眼を見て身構えた。
次はどうくる、どう攻める。タッチアンドムーブが許されないチェスのような緊張感で、少女は最後の踏み込みのタイミングを見計らう。
(……?)
ふと、アオアシラの纏う雰囲気が変わった気がした……と、少女の対獣センサーが捉える。どう仕掛けてくる、どこで隙が生まれる。注意深く観察し、コンマ一秒の世界で反応してみせると、少女は傾注してコトに備えた。
しかし、何故だか様子がおかしい。
先ほどまで闘争本能に満ちた野生の眼光が、いつの間にか歓喜のそれとなり、少女を無視するようにある一点へ顔を向けているのだ。一体何が起きたのだろうか。
思わず釣られて向かった視線の先に、彼女の顔は初めて焦りの色を滲ませた。
両者は大地を踏み込む。
◆◆◆◆◆
アオアシラの生態報告に、一つ面白い文献がある。それはアオアシラが戦闘中にも関わらず、ハンターの所持品から的確に"あるもの"を探り出し、目の前で無我夢中に貪りだしたというものだ。
青年は当時、話半分に冗談だろうと笑い捨てた記憶が頭の隅にある。なぜ今になってそんなことを思い出したのだろうか。
「おいそれっ――いや今すぐ捨てるんだっ!」
もうすでに嫌な予感はしていた。
顔から血の気が引くのは本日もう何度目か。彼の定期的に悪化する顔色は焦り半分、怒気半分と、涙目ながら脳天気に騒ぎ続けるアイルーの姿を睨みつけた。
「なーごろ? やらないって言ったばかりニャよ? あいつ独り占めするからご無沙汰だったニャ。ぜーったい、あげないのニャー!」
「いや、そうじゃなくてっ……!」
彼が言いたいのはそこじゃない。まるでイエネコかと訝しむほどに警戒心が薄く、本能には従順過ぎるアイルーの姿に、青年は呆れを超えて感嘆すら覚えつつあった。なぜ警戒しない。なぜそこまで無防備になれるのかと。ついでに癪に障るのはわざとなのかと。
とにかく、青年としては今すぐにツボを取り上げ、森の彼方へ投げ捨ててやらねばと、
何といっても、それは青年が苦渋の思いで舐めとったものと、"全くの同じもの"であったのだから。
青年が本体ごと引っ掴みにかかると、先ほどの無防備から一転。アイルーは素早い身のこなしでひらりと躱して見せると、おちょくるように再びチロチロと前足を舐めるのだ。
彼は自分の額にピクリと青筋が浮かんだのを感じ取った。同時に焦りで滲んだ脂汗の存在も。
「こ、こいつ……!」
これ以上時間をかけるわけにいかない。こうなればと、いよいよ青年も不格好を気にしていられなくなる。ずっと脇に抱えていたスケッチブックを手放してまずは身軽に。そして間髪入れずに青年は跳んだ。
文字通り、身体そのものを宙に浮かばせながらだ。獲物に飛びつきかかる彼は、このとき自分がどのような形相をしていたか気付いていない。
そんな彼の修羅のような血相にギョッとしたのか、アイルーは反応がコンマ一秒遅れ、彼の腕に盛大なハグで迎えられることとなる。青年の感情が色々と混ざった熱い抱擁は、もがくアイルーを草むらの天然クッションに叩きつけると、堅牢な檻として小さな体躯を縛り付けた。
同時に落下した青年の身体も鞭打つが、怒りのせいか対して気にするところではない。
「は、離せにゃー! あげないったらあげないのニャー!!」
「うるさいよ……やっと、捕まえた……」
残るは青年の目からみると物騒極まりない、腕の猫が後生大事そうに抱えるツボを取り上げるだけ。安堵して身体を起こそうとすると――青年はどこかから、彼の聞き覚えのある声が聴こえた気がした。
同時に、地面が脈動するのを感じる。
「――…さん!」
急激に彼は、自分の中にあった怒りの感情が引いていくのを感じ取る。
「――…ツさん!!」
一時的な興奮状態で温まっていた身体は、瞬時に全身が縮み冷たい汗が噴出する。
「――…ンツさん!!!」
"恐怖"で逡巡しかけた思考がようやく、ああ、それは自分の名前だと彼が気付いた時、巨大な地震は間近まで迫っていた。
「――…逃げてっ!! ハインツさんっ!!!」
あまり感情を出さないと思っていた少女が、珍しく声を荒げていた。
青年が振り返る先には、顎から零れ落ちる唾液を滴
怪物の眼は青年など一切映していない様子で、彼の目線よりやや下を一心に見ている。
全身傷だらけで息も弱々しいはずなのに、青年は間近で見る本物の
「あ……」
「逃げろニャーッ!!!!!!!!」
腕の中の猫は、絶叫とともにアッパーカットで青年のあごを撃ち抜く。同時に青年がよろめくと、それまで彼のいた地点には覆いかぶさるような形で、アオアシラが地面を捕らえている。
視線は未だ青年――ハインツの腕の中に在り。
「~~~~っ!!」
声にならない悲鳴が漏れた。
あの巨体で、質量で押し潰されようものなら身動き一つできないだろう。青年が理性を持って胸中の猫を捉えたハグとは比べ物にならないくらい、殺傷性に優れた熱い抱擁が飛んできたのだ。
「何してるニャ!早く逃げるニャ!」
続けて二撃、三撃目と猫パンチが彼の頬を掠めると、ようやくハッとして我を取り戻した。
恐怖を押し殺して茂みから距離をとると、無心に猫の持つツボをひったくる。そして今度こそ彼方へ投げ捨てようとした、のだが。
(空っぽ?!)
ツボの中身は既にない。胸の中にいる猫の様子を確認すると、手をべったりと何かで汚していた。その弊害が自身にも及んでいることに気が付くと、彼の焦りは再度噴出しかける。
無性に甘くツンとした匂いの付着する頬やあごを拭いたい気持ちに駆られるが、彼に今そのような余裕は残されていなかった。
身体を起こしたアオアシラの視線が、今度は確実に自身の顔も観ていることに気付くと、彼は胸中の猫と運命共同体になったことを悟る。
「し、死んだふりニャ! 死んだふりするのニャ!!」
腕の中で騒ぎ立てるアイルーだが、死んだふりなどもっての外だ。何か武器はないかと天然自然を見回すも、体長四メートルに対して有効な自然物が都合良く見つかるわけもない。
アオアシラが二度目の抱擁に身体を逸らすと、ハインツは反射的に後方へ飛び退き、お断りの姿勢を見せる。片腕のみにも関わらず間近で聞こえた空気摩擦は、彼の肝をいとも容易く冷やしてくる。これで弱っている状態だと思うと失笑を禁じ得ない。
(だけど、避けられる……!)
避けただけだと言うのに、ハインツは脳内麻薬の分泌に高揚感で胸が高鳴り始めている。
「おお! 案外やるのニャ! その調子で避けるのニャー!!」
今すぐにでも怪物めがけて投げ付けてやっても良いのだぞと、青年の中の後ろ暗い部分が表出しかける。しかし、弱者が弱者を切り捨てて生き延びるなんて後味の悪いこと、ハインツの矜持が望まなかった。
アオアシラが
動きに小慣れてきたハインツは、ついつい後方を確認しないまま跳んで
「あ、あれ……?」
「おい何してるニャ!? 早く動けニャ!!」
巨大な影が立ち上がる。いくら逃げても外れない視線。今度はより間近で、より息遣いがはっきりと、瞳に映る自分の姿を確認できてしまいそうだと感じるほどの存在感が目の前にいる。
「は、ははは……うぎっっっ!!!!!」
ズシリと胸に、今まで感じたことのないような衝撃がハインツを襲う。急激に圧迫される胸郭は肺の空気を強制的に排気させると、彼の視界は白一色に乗っ取られかける。
かろうじて意識を繋いだ彼の眼には、反射的に解放していた腕から逃れたアイルーが一匹。顔は見えない。なぜなら猫は、アオアシラの豪腕に組み伏せられた自身の様子も見ないまま、恐怖に慄き走り去って行ったからだ。
(薄情な……ヤツめ……)
ハインツの思考が遅くなる。否、思考ではなく周囲の動きが途端に遅く感じ始める。アオアシラが右腕をゆっくりと振りかぶる。ああ、これが走馬灯なんだなと静かに理解すると、彼の意識は青い獣の相貌を見るとともに瞼を閉じた。
青年の名前が判明です。
クドくなってしまった感が否めない……
次回、森丘編終了(予定)です。