満腹の夜に鳴る鐘。
町の中央に設置された鐘は文字通りの警鐘だった。とうのハインツも認識こそしていたが、気付いた頃には、それは昨日あったという出来事として。恥ずかしながらも、彼が思い返す頃には既に朝日は顔を出していたからだ。移動時の抗いようのない疲れの塊は、いついかなる時も彼と共に在る。爆睡である。
束の間の至福から醒めれば、すでに日時は二日目の朝。
ハインツが目覚めた場所は、これといって見どころのある宿屋の一室ではなく、いわゆる
そんな懐かしさに包まれながら、彼の意識は柔らかな目覚めを迎えていた――はずだった。
「なんか……クサい」
ガバリと簡易寝具から身を跳ね上げると、彼の右手は休息間もなく己の鼻をつまむという行為に対して、驚くほど瞬時に対応してみせる。
思わず口にしてしまうほど異臭が、部屋の中に充満していたのだ。見開いた目で部屋を見渡せば、いつの間にか隅っこで寝かしていたはずのミエールが姿を消している。彼よりもいち早くこの異変に気づいて遁走したのだろう。
確かに心地よい眠りについていたのだ。それこそ、移動時の疲れも吹き飛ぶような充実した休息時間だった。しかしこの瞬間、ハインツの眉間には深い深いシワが刻まれていた。
「うっ……この、なんとも言えない匂い。まるで――」
振り返るように、部屋に備え付けられた古い木目の刻まれたテーブルを見やると、そこには人の良さそうな老人から貰ったミリオンキャベツが三玉ほど。ハインツが近づくと、彼の鼻孔を逆撫でするような匂いがより一層強まる。何を隠そう、現在進行形で漂う異臭の発生源だったのである。
「……どうしよう」
鼻をつまむ手を緩めずにキャベツを覗き込むと、特に外見が傷んだ様子は見られない。明確に変わっていたのは、ハインツの嗅覚へ押し寄せるように突き進む強烈な匂いの群像のみ。それこそ、鼻を摘んでしまう強烈なものだ。
冷涼とはいいつつも、さすがにテーブルの上に放って置いたのが不味かったのだろうか。そう思いつつすぐに窓を開けるハインツは、昨日一日で回った農家たちの努力に対して、つい申し訳ない気分に浸ってしまう。
寝起きからこれでは意気消沈もいいところ。早々にやらかした自らの失態に人知れず情けなさを感じていると、やがてノックもなしに扉は開く。施錠をしないで眠るほど、ハインツも不用心ではなかった。おそらくミエールが表へ出る時に外していったのだろう、と考えていると、開かれた扉から顔を出した青年の正体は、案の定ヒューイだった。あの短くもプニプニした肉球ある五本指で開けるとは、器用な猫である。
「オーッス、おはぁ――くっさっ! おいハインツ臭えぞ! ちゃんと頭洗ってるのか!?」
威勢のいい挨拶を飛ばす、ホリの深い造形をした青年の顔はすぐさま異臭に気付き、しかめることになった。
「おいやめろ。僕じゃないしノックぐらいしてくれよ。これがもしリィタさんの部屋だったりしたら、君は鉄騎かギルドナイトあたりの世話になっているんだぞ」
当然ハインツも弁解してみせる。起こしたての頭で考えついた軽口も添えてだ。
「さすがの俺だって、拘置所の飯を食いに行くほどの探究心は持ち合わせていねえよ」
「どうだかな。探求のためなら毒キノコだって進んで食う人間の言葉だぞ。もう頭がキノコに寄生されて、おかしくなっていても不思議じゃあない」
「お前も中々言うじゃねーか。……つか、匂いの原因なんだけどよ」
軽口と軽口がぶつかり合いながらも、言葉の最後にヒューイの瞳が鋭く光ったのをハインツは見逃さなかった。もちろん、視線の先は淡い黄緑と白の球体へ。
「これ。キャベツ、野晒しにしといたな?」
「……やっぱりこれが原因か」
強い口調ではなかったが、糾弾するように向けられた人差し指に対して、思わずハインツも言い淀んでしまう。こと食べ物に関して言えば、彼に妙な勘の冴えや迫力があるのも事実なのだ。
「お前のことだし。どーせタダでもらうのは申し訳ないぃ~とか言って、型落ちの古いキャベツ貰ってきた……ってとこだろ?」
「うぎッ、そんな言い方はしないけど正解だ……」
妙に勘の鋭い、というよりも正解を言い当てるヒューイ。
そう言えばと、以前ヒューイと食事に出た書士隊の一人が、少しだけサシミウオの皮を残した際に大激怒したという話をハインツは思い出す。その瞬間妙に気まずい雰囲気を感じ取る。
が。
「あーあァもったいね。キャベツの保存はなるべく空気に触れさせないってのは常識中の常識だぞ。せめて袋詰めで、可能な限り密封してやらないと」
特に変わった様子は見られない。手慣れた様子でキャベツを一つ持ち上げ、じっくりと観察している。
「なんだ、怒ってないのか?」
「なんでだよ? 勘違いされやすいけどよ、臭うだけで腐ってるわけじゃねえ。まだ食えるんだぞコレ」
相変わらずホリの深い人懐っこい笑みを浮かべると、ヒューイはどこから取り出したか分からない、簡素な布を引っ張り出した。
「キャベツってのはな。
「へえ、詳しいな。君のこと、ただの見境のない偏食家だと思っていたのに」
「見境あるぜ。あるけど食ってるだけ。まァとにかくこいつは初期段階ってとこだな。匂いが気になるなら、加熱して食えばいい」
そんな食材
「良いことを聞けたな。竜車で(間を持たすために)リィタさんに披露する話が一つ増えたよ」
「ちゃーんと
「その疑問は彼女に失礼だと思うけど」
ハインツが思い出すのは、初めて調査に向かった時の野宿、淡々とした手付きで程良くきつね色に焼かれた肉を量産するリィタの姿。
「こんがり肉の作成スキルなら一級品だったかな。あれは相当手慣れてる」
「はァーッ! 羨まし過ぎるっ。俺もリィタちゃんと一緒に調査行きてえなあ。んで、旅先であの子の焼いたこんがり肉を食いてえ。失敗した生焼けでも一向に構わねえ」
「動機が不純過ぎるな」
「不純で結構っ。食欲こそ人間の三大欲求の一つなのだからなッ」
「はいはい。君に料理上手な護衛ハンターが見つかることを祈ってるよ」
呆れ顔のハインツは、我が道を突き進まんと高らかに宣言した同僚の姿を見据えながら、同時にもうひとりの
「ほいじゃあこの話は終わりだ。残りの帰還も短いし、まずは朝飯食いに行こうぜ」
キャベツの梱包し終えたヒューイは、含みを持たせてニンマリと人当たりの良い笑顔を浮かべると、踵を返して受付に向かって階段を下りていく。その後ろ姿を追いながら、ハインツも跳ねていた寝癖を直しながら続いて下りる。
ヒューイなりの叱咤激励なのだろうか。真意を組むことはできないが、ハインツは隣に居ないドンドルマの護衛ハンターの姿を思い浮かべながら、中断していた再会時の台詞を今一度考え始めていた。
「それにしても強烈な匂いなのニャー」
「おい」
そしてひょっこりと足元から、いつもどおり鼻をヒクつかせながら現れたミエールに、ハインツの表情は怪訝なものに変わる。
「オイラ、匂いには敏感なんだニャー。この町に来た時から大変だったのニャ。勘弁してほしいのニャー」
くしくしとヒゲと鼻を撫でると、脳天気な声でミエールは主人に向けて懇願する。
ここで注釈だがミエールは野生にいた獣人族として、生きるための五感が磨かれているのだ。一見、言い訳じみた言葉にも聴こえるが、ニンゲンとしての尺度でモノを考えるのはいかがなものだろう。朝のやり取りですっかり目と頭が醒めていたハインツは、キッと睨むのを抑えて代わりにため息をつく。
「ああそうかい。まあ、構いやしないよ。調査の邪魔さえしてくれなければ――」
そして何気なく聞いていた言葉が、彼には引っかかった。
(……この町に来たとき、から)
階段を降りていたハインツの足は止まっている。
(にお――)
いつしか、階段を降り進んでいたはずのヒューイもいつの間にか振り返っており、
「「それだっ!」」
と、顔を見合わせた。
◆
足が軽くて速いのは、いわゆる遠足組の特権でもあった。引きこもりの自習組とは行動力が違うのだ。今日を入れてあと二日もある? いや、もう二日しかないのだと。彼らに指し示されたのはあまりにも短い調査の刻限。これを超えてしまえば、追加連絡しない限りは音信不通、
ちょっとした興味と思惑から始まった少しだけ長い遠足だったが、彼らの瞳は子供のように無垢で輝いている。
そんなものだから、時間の流れも感覚的に早く感じてしまうのだろう。いつの間にか時間は昼を越えようとしていた。
「うっしハインツよ。俺らのやることは分かってるなー!?」
真昼の太陽の下、冷涼な風を浴びながらヒューイは両手を腰に当て、高らかと眼前にそびえる山に向かって吠えていた。
「もちろんだ。……でも。久しぶりに作ったから強度とかあんまり自信ないぞ」
対するハインツは、手元でゴソゴソと何かをまくりあげ、しきりにそれを引っ張ったり縮めたりの作業に身を扮している。
「お前さんの仕事なら信頼に足るぜ。やっぱり連れてきて良かったってなあ」
「褒めるなよ。まだ結果も出てないのに。僕は純真だから真に受けるんだぞ」
ヒューイと芝居がかったやりとりをしつつも、手元の作業を怠らないのはハインツ。それを隣で、手が痒くなるからという理由で、体ひとつ分はなれた位置で座らされていたミエールも見守る。
「すごい手際だったのニャー! まるでハンターみたいにササッと作ったのニャー!」
「……手先がちょっと器用なだけじゃハンターにはなれないよ。でも、褒められてるのなら不思議と嫌な気分はしないな」
これから彼らが行うのは、仮説に伴う検証作業の一部。その第一歩。
そして、何事も形から入りたがる男だったヒューイは、語気を強めて彼と、彼らを鼓舞した。
「……さァ、