霧海という言葉が存在する。
一面に立ち込めた霧。
その霧を海のように広く、海のように深いと例えた言葉だ。
経験したことのない者は、たかが霧と思うかも知れない。
ここにいる木の葉の忍たちも最初はそうであった……
そして、気づいた時には……
自然の霧がかかる広大な森。
海から陸に上がった、霧隠れの所有地。
その中を千人にも及ぶ木の葉の大部隊が、足を休めることなく行軍していた。
この部隊は先行部隊でもあり、後続の道を確保し、敵に威圧をかけ、混乱を誘う役割を担っていた。
後ろにはまだ、倍の二千人近い大軍が控えており、兵の士気は浮かれ気分で舞い上がっていた。
何故なら……
皆が口々に言う。
「木の葉から他国に侵攻するなんて初めてじゃないか?」
「確かに、木の葉は平和を愛する里だからな。だが、今回は違う」
「そうだ! あの化け狐はなんとしても我らの手で殺してやらなくては!」
「あんなガキ一人殺すだけで木の葉の、いや、忍世界の英雄になれるんだ!」
「浮かれるな。ここは既に霧のテリトリーだ。奴らも馬鹿ばかりではない。そろそろオレたちの存在にも気づいてるはずだ」
「なんだ? ビビったのか、お前? オレたちにはあのダンゾウ様がついてるんだぞ」
「やっとみんなの仇が討てる。化け狐めっ!」
「九尾を始末して、オレたちが里の平和を守るんだ!」
と、いうわけであった。
戦が始まる高揚感に加え、ナルトの討伐という大義名分を得た木の葉の忍たちは、有頂天に舞い上がっていた。
だから、誰も気づかなかったのだ。
自分たちが既に、迷霧の迷宮に足を踏み入れている事実に……
気づけば、そこは深い森の中だった。
いつの間にやら、進行方向が道から逸れていたらしい。
辺りを覆う霧も一段と濃くなっていた。
霧が濃くなり始めたことには、みんな薄々気がついてはいたが、所詮はただの霧。
感知タイプの忍からもなんの報告もなく、相手の忍術というわけでもなさそうだったので、特に気にも留めなかったのだが……
腕を伸ばしてみる。
すると、もう自分の指先が見えない。
ハッとなり辺りを見回すが、一面が白景色。
かろうじて隣を歩いている奴ぐらいは見えるが、その隣となると、もう何も見えない。
その事実に気づき、僅かな不安が襲いかかる。
だけど、さっきはただの霧だと言い切った手前、誰も何も言えない。
ただ離されないように、前の背中にすがりながら、足を進める。
しかし、自分たちは正しい道を歩いているのだろうか?
そんな考えを過ぎらせ、一瞬でも足を止めてしまうと……
「……あれ?」
もう、何も見えなくなる。
どちらを見ても、どこを見ても同じ景色。
終いには、自分が立っているのかすらわからなくなる。
視覚が封じられ、今度は音や嗅覚に頼ろうとするが、ここは敵地。
全ての感覚が自分に慣れないもので、それが不安をさらにかきたてる。
どれくらいそうしていただろう。
一分だろうか、十分だろうか。
時間の感覚さえも曖昧になり……
このままではマズいと、誰かが声を上げようとした瞬間。
「うわあああああああ!!」
絶叫が響き渡った。
そのことに、さらに不安がかきたてられ、身をすくめていると……
「あ、ああ、あ あ あ あ……」
誰が発したのだろうか。
酷く頼りない声が耳にこびりつく。
そして、次に聞こえたのは、
「く、首が……」
意味のわからない言葉であった。
だが、その言葉の意味はすぐに知れ渡ることになる。
忍犬たちがこぞって遠吠えを上げる中、犬塚一族の忍が叫ぶように言った。
「敵だッ! 敵がいるぞー!!」
次の瞬間。
その叫んだ忍の後ろに、血で濡れた身の丈ほどの大刀を持った鬼が現れ……
その首を、鮮血とともにはね飛ばした。
鬼が――桃地再不斬が再び霧の中へと姿を消す。
『落とした首は数知れず。穢れた刀は血で雪ぎ』
どこかで、誰かが吠えるように言った。
「霧隠れの鬼人・桃地再不斬だ! 奴が近くにいるぞ! 総員近くの者と背中を庇い合うように陣を取れ! 首だけは最優先に守れッ!」
それを聞いた忍たちが、近くの者と輪を作り、武器を構え、警戒態勢に入る。
が、その者たちもすぐにあの世へ渡ることになる。
しかも、今度は一瞬にして何十人もの木の葉の忍が……
「「「……は?」」」
人の身体が宙を舞う。
正確に言えば、舞い上がるのは上半身の部分だけ。
全員、一瞬にして身体を半分に斬られたのだ。
そして、そんな荒業をやってのけたのは……
黒縁のメガネを顔にかけ、短く切り整えられた水色髪、そして刀身は一つだが柄が二つある特徴的な刀を携えた少年。
長十郎が霧に乗じ、刀を振り回す。
『屠った敵は数知れず。群がる仇を討ち斃す』
それを見た忍たちが、生半可な防御では防ぎきれないと悟り、
「集まれ! 壁を張って、一度態勢を立て直すぞ!」
言うや否や、防御忍術を得意とする土遁使いの忍たちが前に並び、術を発動した。
「「「土遁・土流壁!!」」」
途端、目の前に大きな土の壁が出現する。
これで容易に突破されることもないだろう。
そう安心したのも束の間……
バキッ! と、壁にヒビが入る。
斧の形状をした刀が、頑丈であるはずの土壁にあっさりと刀傷を入れる。
さらにその上から、巨大な大槌が振り下ろされ……
次の瞬間。
豪快な破壊音とともに、木の葉の忍たちを守るはずだった防壁は、あっけなく粉砕された。
忍術もクソもない、ただの力技で。
霧隠れの鉄槌・通草野餌人。
彼の前にはどんな防御も意味を成さない。
『逃げた先は骸の山。ようこそ地獄の一丁目』
防壁が崩れさり、態勢を立て直す暇もなく。
慌てふためく忍たちに、次の一手が差し込まれる。
突如、破壊された壁の穴から巨大な刺繍針が飛来する。
その大きな針が、まるで布でも縫うかのごとく、忍たちの身体を貫通し、
「な、なんだ、これ……」
「やめろぉ……」
針に通された糸で引き寄せ、連れ去っていく。
中には身体を貫通した瞬間に絶命した者もいたが、それらも全て連れ去られ……激突する。
人間の身体が木と一体化するような、凄い勢いで叩きつけられる。
その時点で大半の者が死んでいるのだが、まだ息のある者は……
「た、たずけでぐれぇ……」
首を糸で吊るし上げられる。
木にぶら下がった身体は、自身の体重でゆっくりと時間をかけて下がっていき……
頸動脈を斬られて絶命する。
が、絶命後も糸は解けない。
血肉が下にただれ落ち、最後に首が落とされるまで。
「ひ、ひぃぃ……!?」
それらの惨殺劇を一部始終見ていた木の葉の忍から、悲鳴の声が漏れる。
その目には、血に濡れた仮面を被った暗殺者。
栗霰串丸のおぞましい姿が映っていた。
『我らが歩むは修羅の道。血を血で朱く染め尽くせ』
たった数分の間で、戦場は阿鼻叫喚の地獄絵図を描いていた。
だが、周りにばかり気を回してはいけない。
違和感を感じ、足元に目をやると……
「なんだこれ?」
「水?」
先ほどまでただの土だったはずの足場に、地形を変えるほどの、大量の水が流されていて。
その緩やかな流れが……
突如、激流へと変貌を遂げた。
木の葉の忍が叫ぶ。
「流されるなッ! 何かに掴ま……え?」
ふと視線を横に向ける。
すると、木の枝を掴んでいたはずの右腕が、肩から骨を覗かせなくなっていた。
傷口は何かに喰われたような形をしていて……
「う、うわああぁああ!!」
激流に飲み込まれながら、自分の右腕が鮫に喰われる様子を見せられていた。
赤い血とともに、残忍な笑みを浮かべた忍が姿を現す。
霧隠れの怪人・干柿鬼鮫。
数年前に霧の里を抜けた、S級の超犯罪者。
『欲望には絶命を。悪意には絶息を。鬼は魂をも喰らうだろう』
何人かの忍がその姿を確認し、畏怖の表情を浮かべる。
「アイツは、干柿鬼鮫!?」
「奴は霧隠れを抜けたんじゃなかったのか! なんでこんなところに極悪級の犯罪者が!?」
その叫びは周囲へと伝播し、忍たちの恐怖を焚きつける。
再不斬、長十郎、餌人、串丸、鬼鮫。
一人でも、普通に戦えばまるで歯が立たない相手が、五人。
それでも数で押せば勝てるだろう。
普段ならそう思っていた。
だが、現状はどうだ?
こちらは千人の味方がいるにもかかわらず、勝ち負けどころか、相手の姿すらまともに見ることができない。
こんなもの……戦いとは呼ばない。
ただの……一方的な虐殺だ。
しかし、やられっぱなしではいられない。
そう、自分を奮い立たせ、一歩足を踏み出すと……
「…………」
自分の足が、仲間の首を蹴り飛ばしていた。
目がこちらを向く。
その目は瞬き一つせず、こちらをじっと見ていた。
幻聴が聞こえる。
“次にこうなるのは……お前だ”
瞬間、死の恐怖が蔓延する。
「「「こ、殺されるっっ。逃げろぉぉ!」」」
前も後ろもわからない。
方向感覚はとうの昔に消え去っていた。
霧の森は進むことも、戻ることも許さない。
それでも木の葉の忍たちは足を進める。
止まった先に待つのは、自分の死だと理解したから。
しかし……
轟音。
立ち込める硝煙とともに、破壊の音が響き渡る。
「対爆防御ーー!!」
直後、いくつもの大きな岩が、忍たちの頭上へと降り注いだ。
地響きに足下を揺らされ、跪く。
そして……
暫くしてから、衝撃が治まった。
発生した土埃のおかげで、さらに視界の悪くなった霧の中、なんとか目を凝らし状況を確かめる。
すると……
「あ……」
目の前には死体の山。
土砂崩れに遭い、潰れた仲間の死体。
そして、塞がれた退路。
こんなタイミングで、自然に発生する災害などあり得ない。
パニックに陥る寸前の頭で、上を見上げる。
「…………」
そこには、先端に巻物が巻かれたおかしな形状の刀を崖の上に突き刺し、こちらを見下ろす一人の忍が佇んでいた。
無梨甚八。
その悪名は、木の葉の里にも轟いていた。
『血霧の里には鬼がいる。人を喰らう鬼がいる』
もう、誰も平静を保っていなかった。
首が飛ぶ。
身体が飛ぶ。
隠れることも、逃げることも許されない。
首は吊られ、落とされる。
友の身体は喰い千切られ、魚の餌と成り果てる。
そこは――地獄だった。
そんな奈落の底に、一筋の光が差す。
誰かが、絹を裂くような声音で叫んだ。
「光だ! 光が見えるぞー!」
その声につられ、木の葉の忍たちが走り出す。
それは最後の希望であった。
が、その道はさらなる地獄の旅路となる。
深い霧が立ち込める森の中、そんな光に導かれ、慌てて歩みを進めてはならない。
それはただの……幻覚だから。
雷光が迸る。
「「「ぐわああああ!?」」」
何人もの忍が一瞬にして、丸焦げになる。
霧が晴れる刹那の時間。
一人のくノ一が姿を見せた。
細身の刀身に雷遁を纏わせ、こちらに微笑を向ける女性。
林檎雨由利。
『忘れたならば思い出せ。朽ちゆく者の手向けとなろう』
再び、霧が辺りを覆う。
何も映さない白景色。
前後左右も不確かで、平衡感覚が奪われる。
瞬間。
七人の影が、霧の中に浮かび上がった。
『霧隠れ・水影直属無音暗殺部隊。忍刀七人衆――ここに推参』
樹海に、濃密な殺気が充満する。
そこに暗殺者の姿はなく、ただその声だけが木霊した。
『これより――木の葉崩しに参る!!』
そこから……
一方的な大量虐殺劇が、静かに幕を開けた。