木ノ葉第三演習場。
そこはナルトにとっても馴染みのある場所で、まだ木の葉の里にいた頃、アカデミー時代に何度か足を運んだこともあった。
周囲の大半は森の木々に囲まれているが、所々に人の手が施されており、川や人が身を隠せるほどの大きな石や崖、そして少々派手な動きをしても問題なく動ける拓けた平地。
木の葉の忍が自己鍛練を積むのに適した場所の一つ、それがこの第三演習場であった。
そして今、その第三演習場では……
「多重影分身の術!」
ボンっ! という軽快な音とともに現れたのは、数百にものぼるナルトの分身体。
黄色い頭が辺り一面を埋め尽くす。
「……行くぞ」
一呼吸と同時に、無数のナルトが影に向かって飛び出した。
三百六十度、ありとあらゆる方向から襲いかかるナルトに、しかしカカシは動揺の様相すら浮かべない。
写輪眼。
その洞察眼をもってして、こちらの動きを完全に読み切り、一人、また一人とナルトの分身を屠っていく。
「オラァ!」
瞬身の術で距離を詰め、二人のナルトが左右から斬りかかる。
が、容易く腕を掴まれ、突撃の勢いのまま地面に叩きつけられ消滅。
今度はそれを見た分身たちが、前後左右から襲いかかるも……
凄まじい速さで印を結んだカカシが、両手を地面に叩きつけ、
「土遁・土流壁」
突如、地肌が盛り上がり、カカシの左右と後ろを防護する土の壁を作り出す。
死角となる三方向からの攻撃を、一手で食い止められた。
これで残るは正面突破しかない。
そう判断した分身たちが、前方の隙間からクナイ片手に斬りかかる。
しかし、写輪眼を相手に無策で挑んでも勝ち目はなく、みるみるとその数を減らされていく。
戦場では数の多い方が勝つ。
誰もが知っている当たり前の常識を易々と覆される。
そんな光景を、本体のナルトは……
「…………」
少し離れた場所からじーっと眺めていた。
カカシを斃す手段を探るため。
写輪眼を攻略するため。
敵の一挙手一投足をも見逃さないように熟視する。
しかし……
「雷遁・雷獣追牙!」
「「「ぐわっ!」」」
狼を模した雷の牙が、瞬く間にナルトの分身たちを消し去っていく。
このまま手をこまねいていては、全滅するのも時間の問題だろう。
僅かな逡巡の後、ナルトは自身の腹に手を当てた。
『聞こえてっか、九喇嘛』
『ああ』
返事を返してきた相棒に言葉を続ける。
『このままだとジリ貧だ。螺旋手裏剣で一気に終わらせる、手を貸してくれ』
『……ケッ、しくじるなよ。ナルト』
了承を得るや否や十字に印を結び、新たに二体の分身を出現させた。
掌を上に向ける。
そこに分身たちが自身の掌を重ね合わせ、チャクラの集約を始めた。
蒼く煌めく球体がその姿を現す。
四代目火影の遺産忍術、螺旋丸。
が――
ナルトたちはそこに、さらに風の性質変化を組み込んでいく。
旋風音が鳴り響く。
こちらの異変に気づいたカカシが術の発動を阻止しようと試みるが、大量の分身たちによって進行を阻まれていた。
溢れ出す九喇嘛のチャクラが腕の形を象る。
ナルトの意志とは関係なく動くそれは、このチャンスを逃さないと言わんばかりに螺旋丸に手を添え、今のナルトには到底不可能なチャクラの精密操作を行い、術をより強大なものへと変貌させた。
高音――
耳を劈く甲高い音が、塵芥を吹き飛ばす。
ナルトの右手に掲げられた巨大な手裏剣が、戦場に台風の目を巻き起こしていた。
大気を斬り裂く疾風が、超常たる力を明示する。
「まさか、これほどとはな……」
無表情を貫いていたカカシが瞠目する。
しかし、もう遅い。
この術は膨大なチャクラを擁するナルトをもってして、日に一度しか使用することのできない切り札。
いくら写輪眼で術を看破しようと、カカシの内包するチャクラ量ではコピー不可能。
そして、その威力と攻撃範囲は洞察眼でどうこうできるレベルを大きくに逸脱している。
不可避にして、防御不可の一撃。
それを……
「くらいやがれっ!」
ナルトが投げた。
否、正確には投げたのではない。
九喇嘛のチャクラで作られたその腕は、まるで生きているかの如く伸縮自在に動き回り、螺旋手裏剣を掲げたまま猛烈な速度でカカシに迫る。
すると……
「…………!」
足に溜めていたチャクラを爆発させ、カカシが上に跳んだ。
直後、風を纏った手裏剣がカカシの足下を通り過ぎる。
しかし……
ナルトが叫んだ。
「九喇嘛ァ!」
『甘ぇよ』
吐き捨てる九喇嘛に呼応し、チャクラで象られた腕が真上に向かって急上昇する。
空中にいるカカシに、逃れる術はない。
ナルトは確信した。
今度こそ決まった、と。
なれど……
「……甘いな」
新術の一つや二つ会得したぐらいで容易く倒せるのであれば、はたけカカシはその勇名を忍界全土に轟かせてはいない。
それは、どこか既視感の覚える術だった。
カカシの瞳が三つ巴の写輪眼から、三枚刃の手裏剣模様へ変異する。
そして、術の名を呟いた。
「神威」
途端、空間がぐにゃりと歪む。
陰々とした昏い渦。
人間の業を彷彿とさせる底すら見せない渦潮が、ナルトの放った螺旋手裏剣をチャクラの腕もろとも引き千切り、遥か遠くに存在する別次元へと飛ばしてみせた。
それを見たナルトは、
「今の技は……!」
息を呑む。
以前までカカシが宿していなかった万華鏡写輪眼を見て。
ではなく、見覚えのある時空間忍術を見せられて。
あれは……
「四代目が戦った奴と同じ術……!?」
印を結ばず、マーキングもなく空間を捻じ曲げる瞳術。
何より同じ片目に、同じ写輪眼。
偶然で済ませるには、あまりにも類似点が多すぎる。
まさか……
最悪の連想がナルトの脳内を過ぎった、瞬間。
『いや、それは違うな』
思考に九喇嘛が割り込んできた。
ナルトは腑に落ちない表情を浮かべて、
『なんで言い切れるんだってばよ?』
と尋ねると、九喇嘛が言った。
『確かに偶然だとはワシにも思えねぇが、四代目と戦った奴が、コイツとまったくの別人なのは断言できる』
『だから、なんで?』
『扱う術や雰囲気は似ている。だが、実力に差がありすぎる。てめーはこの程度の相手に、あの四代目が苦戦するとでも思っているのか?』
『…………』
なるほど。
ナルトから見ればカカシは間違いなく強敵だが、四代目であるミナトと比べるには……
「…………」
どうやら、九尾事件の時に木の葉を襲った面の男とカカシはまったくの別人らしい。
その事実にナルトはほっと胸を撫で下ろす。
もしカカシが、ミナトやクシナを襲った張本人であれば、ナルトは冷静ではいられなかっただろう。
それに……
戦いの結末は、もう見えた。
あの神威という術がカカシの隠し玉であれば、対処は簡単だ。
序盤に大量の影分身を戦わせたことで経験も蓄積され、相手の動きにもかなり慣れた。
彼我の差を冷静に分析しながら、ナルトはホルスターから術式クナイを抜き放ち、
「次で終わりだ」
ハッタリでもなければ、自己顕示でもない。
静穏な口調で断ずるナルトに、カカシは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「ククク、終わりだと? 寝言を口にするな。オレの人生はとっくの昔に終わっている」
全てを諦めた、何か大切なものを欠落させた果てない焦燥と絶望を仮面越しに覗かせながら、カカシが言った。
「『仲間を大切にしない奴はクズだ』……ああ、その通りだ。オビトもリンもミナト先生も守れなかったオレはクズ以下だ」
「……オビト、リン?」
首を傾げず、記憶を探る。
オビトとリン。
それは九喇嘛の封印を解いた時、クシナから聞かされたミナトの教え子の名前であった。
「オビトは雲隠れに、そしてリンは……お前たち霧隠れの忍に殺された」
幽玄な声でそう語るカカシに、ナルトは唖然と言葉を失う。
そんな話はクシナから聞かされていなかった。
オビトと呼ばれた少年の死については聞かされたが、少女の死因については何も……
ナルトに気を遣って教えなかったのだろうか?
それとも……
一瞬の迷い。
が、すぐさまナルトはその雑念を振り払い、
「関係ねェ。過去に何があったか知んねーが、オレのやることは変わらねェ」
自分でも驚くほど、あっさりとした声だった。
目を細める。
話し合いはもう終わったのだ。
しかし、カカシは語る。
飄々とした態度のまま、声域には重厚さを乗せて、
「関係ない、か。リンの死因に、お前の中にいる九尾と同種、尾獣が関わっていたとしてもか?」
「…………」
ぴたりと止める。
先ほどカカシは、リンが死んだのは霧隠れの仕業だと語った。
ならば、何故そこに尾獣が結びつくのか?
九喇嘛に問いかけるが返答はない。
ナルトの疑問に応えたのは、カカシだった。
「第三次忍界大戦終戦後、戦争の後始末に追われていた木の葉の裏を突き、リンを攫った霧の忍たちは彼女の身体にある膨大なチャクラの集合体を埋め込んだ。その力を暴走させ、木の葉の里を襲撃するためにな」
「チャクラの集合体?」
思わず言葉を返すが、その必要はなかった。
答えなどはじめから決まっている。
少女の身体に植えつけられたもの、それは……
「尾獣だ」
「…………!」
歯を噛みしめる。
あり得ない!
だって、それは……
「ウソだ、そんなこと……」
それではまるで、霧が尾獣を戦争の道具に利用したと言っているようなものではないか。
そんなことあるはずもない。
あってはならない。
でも、ナルトは悟ってしまった。
確信に近い直感。
ネジは言っていた。
一流の忍は、拳を交えただけで相手の心の内が読める、と。
だからこそわかる。
わかってしまった。
カカシの言葉にウソはない。
ナルトの心に声が響く。
それは、真っ直ぐに心臓を抉る言葉だった。
「リンを殺した霧が平和を語るな」
腕がだらりと下がる。
そんなナルトの隙を逃さず、カカシが追い討ちをかける。
「オレとお前の何が違う。一緒だ、お前もオレもな」
「…………」
「オレはお前たちにされたことをそのままやり返すだけだ。九尾を使って霧隠れを蹂躙する。そして残る大国を全て滅ぼし、世界の再構築を行う。今のこの世界に平和など存在しない。力を貸せ」
頭が真っ白に染まる。
カカシのやろうとしていることが正しいとは思えない。
これは絶対に。
ならば、木の葉と敵対している霧が正義なのか?
それも……違う気がする。
このまま戦争を終わらせたとして、本当にそれで大丈夫なのか?
答えのない解答に、思考が揺らいだ……途端。
内側から声が届いた。
『代われ、ナルト。一言言ってやらねばならない』
次の瞬間。
ナルトと九喇嘛の意識が切り替わる。
チリチリと逆立つ金髪に、爛々と煌めく獣の眼光。
他者を威圧する圧倒的な存在感を匂わせながら、九喇嘛が赫怒の唸りを上げた。
『霧がリンとかいう小娘にしたことと、貴様らがナルトにしてきたことになんの違いがある。九尾であるこのワシに見捨てられた時点で、貴様ら木の葉は既に、尾獣について語る資格などあるまい』
生物としての格が違う。
見上げることすら烏滸がましい恐懼なる威容を前に、さしものカカシも動揺の色を見せる。
だが、それも一瞬。
不敵な表情を携えながら、油断ない瞳でこちらを見定め、
「これは驚いた。ナルトではオレに届かないと悟ったか。ちょうどいい、いずれ腹から引きずり出す予定だったが、その力確かめさせてもらう」
臨戦態勢に入るカカシ。
しかし九喇嘛は、それを歯牙にもかけず鼻息を鳴らす。
敵が目の前にいるにもかかわらず、相手にするまでもないといった態度をありありと見せつけ、
『ムシケラ風情が図に乗るな。貴様を倒すのはワシではなくナルトだ……ナルト、貴様の夢はなんだァ!』
――オレの夢。
そうだ、オレの夢は……
意識が浮上する。
碧眼に気勢と力を取り戻し、前を見据えた。
ごちゃごちゃ考えるのは、全部終わった後だ。
今は……
「テメーをぶっ飛ばして、この戦争を終わらせる!」
自信に満ちたその言葉に、カカシは懐疑的な相貌を見せ、
「戦争を終わらせる、か……今回の戦争で少なからず霧の住民も木の葉の忍に殺されたはずだ。貴様はそれを許せるのか?」
そう問いかけるカカシに、ナルトは迷わず応えた。
「許せるわけねーだろ! 今だってオレはお前たち木の葉が憎い。だけど、このまま戦争を続けちまったらもっと大勢の人間が死んじまう」
「同じことだ。この世界に存在する限り、真の平和など訪れない。それは貴様が一番よく知っているはずだ。オレとお前なら腐敗しきったこの世の全てを消し飛ばせる。オレとともにこい」
こちらに手を差し伸べるカカシ。
そこに侮蔑もなければ、嘲りもない。
ただただ純粋に、ナルトと一緒に世界を変えてやろうという意思だけが込められていた。
けれど、ナルトの答えは最初から決まっていた。
「……もしハクや再不斬たちと出会う前だったら、その手を掴んでたかも知んねぇ。けど、オレにはもう大切なものがたくさんできた。オレの夢はそんな大切な仲間を守れる、四代目のような忍になることだ!」
目を見張るカカシ。
まるでナルトの答えが信じられないといった様子で、
「では、もしまた戦争が起こり、お前の大切な仲間とやらが死んだらどうする。その時、貴様は自分の中の憎しみとどう向き合う。この呪われた世界とどう向き合う」
「そんな先のこと、オレにはわかんねェ。だけどオレは一人じゃない。呪いってもんがあるなら、オレたちがそれを解いてやる」
そう言い切ったナルトに、カカシは睥睨の眼差しを向けてきて、
「そんなものは、ただ都合のいい言葉を並べただけの綺麗事に過ぎない。あの四代目ですら、ついぞ成し得ることのできなかった世界平定。その現実を前に、貴様のようなガキがどうやって抗う?」
お前には無理だ。
そう決めつけるカカシに、ナルトはこう返した。
「父親の夢を叶えてやるのが息子の役目だ」
世界の全てを信じられなくなった男の眼を、真っ向から睨みつける。
「何が正しいのかなんて、自分の憎しみの向き合い方すらわかってねぇオレには答えらんねぇけど、だけどテメーが間違ってるってことぐらいわかる」
「オレが間違っているだと?」
「ああ、そうだ。今の自分の姿を見て、自分に誇りを持てるか?」
「誇りなど、とうの昔に捨てている。己の目的さえ達成できるならそれでいい」
「なら、その目的ってヤツをオビトやリン、四代目の墓の前で語ることができんのか? そのツラ見せることができんのか? 何も見えてないのはテメーの方だ。テメェの写輪眼には何も映っちゃいねェ!」
静寂の一瞬。
この時間、カカシが何を想い、何を考えていたのか。
ナルトにはわからなかった。
けれど……
「…………」
空間が歪む。
ぐるぐると回る底の見えない渦の中から出てきたのは、一本の忍刀だった。
白光を帯びたチャクラ刀。
その刀を手に、カカシが静かに印を結ぶ。
忍術を繰り出すためではない。
あれは……
「…………」
カカシに倣って、ナルトは二本の指を立てた。
対立の印。
木の葉で忍を志したことがある者なら、誰もが知っている所作。
相手と正々堂々戦うことを誓い、そして最後に和解の印を結ぶもの。
しかし……
「ナルト。オレはお前を殺し、九尾を従える」
「さっきも言っただろ、くたばんのはテメーの方だ」
次の瞬間。
殺意が火花を散らした。