届け、世界二十億のもっちー提督に。
「母さん、ご飯できたよ」
「ん? あー、わかったー」
そう返事をしたものの、母さんは漫画を手に持ったまま、人をダメにしてしまいそうなソファーから動こうとしない。
「母さん、ご飯冷めちゃうよ?」
「んー、それはやだなぁ」
そう返事はするものの、やはり母さんは動こうとしない。
仕方ないので、僕は動こうとしない母さんを抱き上げる。
太いフレームの眼鏡、そのレンズの向こう側の大きな瞳が、わずかに揺らめいたけど、その視線は相変わらず漫画に向けられたままだ。
俗にいうお姫様抱っこの体勢。
僕の体よりはるかに小さくて軽い、見た目だけなら少女といっても差し支えのない母さんを抱えながら歩く。
歩くたび、栗色の長くて柔らかい髪が揺れ、懐かしくて温かい香りがふわりとした。
僕にとってそれは母さんの香りだ。
廊下を挟んでその先にある和室、台所から一番近い部屋のちゃぶ台の上には、僕が用意した二膳の夕食が向かい合わせになるような形で置いてある。
母さんを下ろして向かい側に移動しようとしたら、母さんが僕の服を掴んで引き止める、視線は漫画に向いたままだ。
それだけで母さんがなにをして欲しいのかがわかる。たまにあるアレだ、よほど今読んでる本が面白いらしい。
あぐらをかいて座ると、母さんがストンと僕の足の上に座る。
僕が手を合わせて頂きますと口にすると、母さんも申し訳程度に「頂きまーす」とつぶやき軽く手を合わせた、本を持ちながらだけど。
僕はまずお米を軽くつまんで母さんの口へ運ぶと、パクリと母さんが口にする。
三角食べを守りながら、焼き魚やおひたしなどのおかず、汁物も碗を母さんの口元まで運び順番に食べてもらう。
二人羽織、と呼ばれる難しい芸のように見えるけど、母さんは僕よりかなり小さく、しかももう随分前から何度もやってることなので、今では慣れたものだ。
やがて用意されていた食事を食べ終えた母さんが「ご馳走さま」と呟き、母さんの食事が終わる。
僕は母さんを持ち上げて普通に座らせてから、向かいの席に移動して正座し、自分の食事を食べ始める。
でも直ぐに母さんは立ち上がって、僕の正座した足の上に座り、本を読み始める。
行儀が悪いのはわかってるけど、流石に正座した足の上に母さんが座ると、高さ的に食事が取りにくかったので、足を崩して胡座をかく。
座りにくそうにしていた母さんが、ストンと足の間に収まった。
食事を終えて、僕は母さんをさっきの部屋に運び、洗い物を済ませる。
そして自分の部屋に戻ると、今日学校で出された課題に取り掛かった。
課題の内容は自分の家族についての、作文。
高校生にもなってこの課題はどうなのだろうと思わなくもないけど、きっと意味があることなのだと思い真剣に取り組むことにする。
僕は書き出しをどうするか、少し悩んだ後こう書き始めた。
僕は養子だ。
どこの国の生まれなのかはわからないけど、艦連の人道支援により、色んな場所から引き取られてきた孤児が集まる『鳳翔街』と呼ばれる場所、そこの出身。
母さんは定年まで勤め上げた後、余生の手慰みとして僕を引き取ったらしい。
僕は世間でいう、提督適性者という存在では無い。
なので当然、母さんの艦娘名である望月の提督適性者でも無い。
だというのに、どうして僕を引き取ったのかと、母さんに聞いたことがある。
「利口そうだったから」
以上だ。
多分母さんは、手がかからなくて、ある程度自分の世話が出来そうなら、誰でも良かったんだろう。(余談だけど鳳翔街出身者は、身の回りのことは全て自分で出来るよう仕込まれる)
勿論、僕はそのことに不満なんてない。
どういう形であれ、母さんは僕を養ってくれているし、普段はあんな感じだけどちゃんと大事なことは教えてくれる。
そんな母さんのことをつらつらと書き終えて、課題を仕上げた。
そして今日の復習と明日の予習を始め―――
『おーい、ゲームするから付き合え』
ようとしたところで、母さんの部屋の方から僕を呼ぶ母さんの声が聞こえてきた。
僕は広げていた教科書とノートを閉じて、母さんの元に向かう。
だって予習復習は大事だけれども、母さんはもっと大切だからだ。
■□■□■
お互いのカードが見える不思議な状態。
つまり母さんを膝に乗せながらやるババ抜きに意味はあるのだろうか?
そう思いながら、ゲーム性を遵守する為に、目をつぶりながらカードを引く。
ババだった。
「ババ引いたな」
「うん、引いちゃった」
この位置から母さんの顔は見えないけど、多分微笑んでいるような気がする。
「どうだ? 学校は」
「うん、なんとかやってるよ」
「勉強ばっかりしてちゃダメだぞ。ちゃんと遊んでるのか?」
「普通は逆だと思うけど。それなりにやれてると思うよ」
「そうか、ならいい」
母さんが僕のカードを引く。
母さんは普通に目を開けて引いてるので、ババはそのままだ。
「別に勉強なんかしなくてもいいんだぞ、あたしの軍属年金だってあるし。使わず貯めてあった給金もあるから、あたしが死んだ後も、おまえが困らないくらいの余裕はある」
「うん、でもなにがあるかわからないから頑張るよ」
僕は嘘をついた。
僕が頑張る本当の理由は、なにかあった時に母さんを助けられるようになりたいからだ。
でもそれはいわない。
母さんは艦娘軍の職業軍人だったらしい。
軍人といっても毎日近海の見回りをしたり、座礁した船や燃料を節約したい海運会社から要請があったら、その船を曳航するような仕事が多かったらしいけど。
それでも、たまに外国に向かう途中に現れる、海賊を追っ払うような仕事もあったんだとか。
そう、以前お酒を飲んだ時にこぼしていた。
僕がそんな母さんを助けられるような状況が思い浮かばないから、だから、今はまだそんなことはいう必要はない。
「まぁ、あたしがこうやって息抜きさせてやってるから大丈夫だと思うけどさ~、勉強のしすぎでおかしくならないように気をつけるんだぞ。そうだ、なんか欲しいものとかないか? なんでも買ってやるぞ~」
僕は少し考えたけど、必要なものは十分足りているので「特にはないよ」と、答える。
母さんは「つまんねーな」と、不満をこぼした。
「そういや彼女とかできたか?」
「……居ないよ、彼女なんて」
「マジかー、世の中の女は見る目がないな。あっ、もしかしてあたしに気を使ってるのか? なら気にせず家に連れてきていいんだぞ~」
ほんの僅か、多分僕以外誰も気がつけないような変化だったけど、確かに母さんの声が震えていた。
「ほんとにいないよ、彼女なんて」
「そうか」
それに彼女なんてつくったら、母さんの世話ができないじゃないか。
とはいわない、母さんに気を使わせてしまいそうだから。
「おまえ、将来なりたいものとかあるのか?」
「うーん、まだわからないかな」
「そうか、まぁ焦ることもないと思うけどな。早く決めれば、あたしも手伝ってやれるから有利になる」
「うん」
母さんが最後のカードを引く。
当然だけど、僕の手元にはババが残る。
「ほんとは、なりたいもの……あるよ」
「ん? なんだ決まってたのか、教えろ」
言葉に出すつもりはなかったのに、つい口に出してしまった。
僕は悩む、本当のことをいってもいいのかどうか。
適当になにかいって誤魔化そうと思ったんだけど、上手い言葉が出てこない。
それになにか言ってしまったら、母さんはきっと本気でそれを手伝ってくれる気だろう。
らしくないけど、母さんは必ずそうするだろう。
だから、僕は正直に言うことにした。
「―――母さんの本当の名前を呼べるようになりたい」
空気が凍るのがわかった。
母さんが震えたのも。
「……それは駄目だって言っただろ」
「うん、ごめん」
なんでもない風を装いながら、絞り出された母さんの声。
母さんは立ち上がって「ちょっと漫画取ってくる」と、いって自分の部屋に歩いていった。
『ウグッ、うえっぐ、うぐ』
母さんの部屋の扉が閉まる音がした後、母さんの泣き声が、聞こえてきた。
僕は母さんがどうして泣いているのか、わからなかった。
■□■□■
「と、いうわけなんだけど。どう思う?」
「どう思うって、おまえそれ……どうなんだろうな? 一乗寺くんはどう思う」
「興味深いね、そのお弁当のエネルギー量はどれくらいなの?」
「一乗寺くんに聞いたのが間違いでしたー!」
「1000キロカロリーだね」
「ノゾムも真面目に答えてるんじゃねえ! てかちゃんと測ってるのかよ!?」
「母さんに作ってるのと同じだからね、手は抜けないよ」
「そういえばノゾム君は料理が得意だったね」
「うん、昔は母さんが作ってくれてたんだけど『あたしゃ、出来たもんを食いたいのよぉ。』っていってたから、頑張って覚えたんだ。お弁当はいいよ、離れていても母さんと同じものを食べられるから」
「はいはーい、そりゃ結構なこって……って、それより話がずれてるんだよ!」
「原は今日も元気だね」
「確かに原くんの通常状態の活動は活発だ、同意するよ」
「お、落ち着け、今ここで俺がキレたら昼休みが終わる……」
昼休み、付き合いのある友達たちと昼食をとりながら、昨日あったことを相談する。
友人のうちの一人、体格のいい目つきの悪い方は幼馴染の『原』だ。
染めた金髪からわかるように、去年くらいまでは手のつけられない不良だったけど、いつの間にか落ち着いていた。
今は趣味のバイクのために、アルバイトに精を出しているらしい。
面倒見がよく、時々後輩たちから原の兄貴と呼ばれている。
「情報が不足してるね。僕にはノゾム君の考察問題に関して、有用な考察結果を提示できないんだけど、飛鷹ならなにかわかるかもしれないね。聞いてみようか?」
もう一人の友人、一乗寺明君。
一年くらい前に転校してきた、独特な価値観を持ってる、近寄りがたい存在。
また、近寄りがたい理由を追加であげるなら、その容姿だろう。
サラサラの黒髪に、まるで作り物のような恐ろしく整った容姿、一言でいうなら絶世の美男子。
だがなにより彼を近寄りがたい存在である理由は、彼の信じる神様にある。
この国は宗教には寛容だ、だが、その中にあってなお、一乗寺君の信じる神の存在は異質なものなのである。
それらの要因が相まって、クラスでは浮いた存在だけど、彼自身は彼の神様が絡まない限り、誠実でありいい人だ。
また、クラスの良心たる委員長(飛鷹)の手助けもあって、なんとか日常生活を送れている。
もっとも本人はなにも気がついていないみたいだけど。
「ありがとう一乗寺君、お願いできるかな」
「飛鷹、ちょっと来てくれるかな?」
一乗寺君が、さっきまで僕たちが会話していたのと、同じ大きさの声で委員長を呼ぶ。
窓際で昼食をとっている委員長まで少し距離があるのに、聞こえるんだろうか? と思ったけど、委員長はすぐに立ち上がって、少し嬉しそうにこちらにやって来る。
「どうしたのていと……あ、明君」
長い黒髪と、制服のスカートを揺らしながら、委員長は後ろから一乗寺くんの肩に手を置く。
その手を慣れた様子で握る一乗寺くん、因みに最近つきあい始めたらしい。
原が砂糖でも吐きそうな表情で、その様子を見ていた。
「飛鷹は統計的に、どういった時に涙を流すことがあるかな?」
「えーっと、話の流れ的にノゾム君のお母さんの望月さんのことよね、うーん、そうね。私たちも感情は人と変わらない部分がほとんどだから、やっぱり……悲しい時が多いと思うけど、嬉しい時もたまに泣いちゃうことがあると思う。ただ、そこまで感情が動くのはその、やっぱり提督に関係する時だとは思うけど……」
なぜ今、話に加わった委員長が、話の流れを把握しているのかはおいといて。
もしそうなら、母さんは提督に関係するなにかで、泣いてしまったんだろうか。
思い返せば、僕が母さんの名前を呼びたいと願った時、母さんは急に立ち上がった。
……僕が、母さんを泣かせてしまったんだ。
■□■□■
家に帰ると珍しく来客中で、何時もめんどくさそうにしながらも、僕の帰りを迎えてくれる母さんの姿がなかった。
居間に入ると、母さんがお茶も出さずに、黒髪の綺麗な大人の女性と向き合って座っていた。
「そうはいってもなぁ山城、その問題はあたしじゃどうしようも無いぞ」
「ですがその、望月先輩なら―――」
「そもそも、提督を……見つけてるって時点で、あたしにゃそれ以上なにが不満なのかよく解らん。悪いがもっと経験者か年長者を頼ってくれ」
「経験者はともかく、年長者は望月先輩より上の知り合いはいなくて……」
「あ゛?」
「す、すみませんなんでもないです……あっ、ごめんなさいお邪魔しています」
黒髪の女性が、僕に向かって軽く頭を下げる。
綺麗な人だなと思った。
僕は会釈を返し、台所にいってお茶を用意する。
戻ってくると、母さんが黒髪の人に「とにかく、まずはおまえの提督とちゃんと話し合え」と、いってるところだった。
提督、つまりこの黒髪の人は艦娘なのだろうか。
「どうぞ」
母さんのお客さんの前に、ゆっくりとお茶を置く。
黒髪の人は、洗練されたような仕草で、僕の方に振り向いた。
「あ、ありがとうございます。えっと、貴方は望月先輩の……」
「息子のノゾムです、何時も母がお世話になっております」
「あっ、こちらこそお世話になってます、山城です……えっと、戸籍名を名乗った方がよかったかしら、ごめんなさい。あっ、確か望月先輩が除隊されてから……ずいぶんと、しっかりしていらっしゃるのね」
少しうるんだ瞳で、僕を見てくる山城さん。
その様子が色っぽくて、ちょっとドキッとしてしまった。
「んがー! 人の息子に色目使うなぁ!!」
僕の心を見透かしたように、母さんが珍しく大声を出しながら立ち上がる。
「えっ、ええええ!? べ、別にそういうつもりは。それに私には提督がいますし、そもそも息子さんは望月先輩の提督じゃ―――」
「うるさい! もうおまえ帰れよぉ!」
なにか焦ったような様子で、母さんは山城さんの背中を押しながら、家から追い出す。
山城さんは母さんに押されながら「また、お邪魔させてもらいますぅうううう」と、いいながら帰っていった。
「まったく……おい、風呂に入る」
「あ、うん。いれてくるね」
「いますぐがいい。お湯張りながらでいいから、先に髪を洗ってくれ」
「うん」
母さんと手を繋いで脱衣所まで行き、母さんの服を脱がせて、僕も服を脱ぐ。
母さんは裸になると、さっさと浴室に入って椅子に座った。
僕はお湯を張りながら、母さんの髪をシャワーで濡らし、お湯が染みこむように軽く髪をすく。
「ぽかぽかするねぇ~、いい気持ちだ~。いつの間にか、昔と逆になっちゃったな。あの頃はあたしがおまえの髪を洗ってやってたのに」
「うん、そうだったね」
母さんの髪にシャンプーをつけて、洗う。
母さんの髪はとても長い、思えば僕が最初に出来るようになった手伝いは、母さんの髪を洗うことだった気がする。
「しかし、おまえを引き取ってもうどれくらいになるんだっけ?」
「七年くらいだと思うよ」
「嘘だろ、マジぃ……? マジで? なにそれマジかよー、こりゃ参ったわー。年がたつのは早いな~」
参ったわー、といいながら、母さんが足をパタパタさせる。
母さんの機嫌がちょっといい、少しずるいけど、昨日のことを謝ろう。
「母さん、昨日はゴメンね」
「んー? ん……もっと上……あーそこそこ。凝ってんだよねー。ん、うまいじゃん」
ゆったりとした浴室の空気の中で、僕は母さんの頭皮をマッサージしながら、昨日のことを謝る。
「母さんの、名前のこと。ごめんね、もういいたいって、いわないようにするから」
「……うん」
少し間を空けて、悲しそうな声でそう返事をした母さん。
そのあと、髪と体を洗い終えて湯船につかり、トリートメントをしてお風呂を出るまで、母さんは一言も喋らなかった。
■□■□■
次の日、僕は校庭を走っていた。
授業のマラソン、決められた回数グラウンドをまわる必要がある。
当然、能力は全員違うので、早い人もいれば遅い人もいる。
僕は真ん中くらい、原は身体能力に根性がプラスされてるから、上の方。
一乗寺くんはぶっちぎりのトップだ。
身体能力を兼ね備えた美しさ、天は二物を与えた。
けど三物は無理だったようで、実は一乗寺くんはかなり座学の成績が悪い。
引くくらい悪い。
委員長が一生懸命フォローしなければ、多分留年は免れなかっただろう。
そして夏の日差しは強くて、中々しんどい。
どうしてこの時期に外を走らせるのか、現代の教育は根性の育成も入ってるんだろうか。
ふと、昨日の母さんのことを思い出す。
風呂上がりの母さんを、膝に抱えて髪をといていた時のことだ。
母さんは、なにかをいいたそうにしていた気がする。
それがなんだったのか、僕は走り、汗を流しながら考える。
答えは出ない、それが悔しくて僕は走る速度を上げる。
走る、考える、答えが出ない、走る、考える、答えは出ない。
原の背中が見えた、思ったよりペースが上がっていたようだ。
そんなことに気がついた瞬間、目の前が急に真っ暗になった。
意識が途切れる前、原と一乗寺くんが慌てたように、こっちに走ってくるのが見えた。
■■■■■
母さんに手を引かれて、街を歩いた日のことを思い出す。
母さんと僕が、同じくらいの身長だったあの頃。
周りからはまるで姉弟のように見えていたと思う。
『あの、今日からよろしくお願いします』
『ん? あぁ、よろしくなー』
そう答えながら母さんは、店先でこれから暮らす上で必要なモノを見繕っていく。
当時は知らなかったけど、母さんは軍隊での暮らしが長かったからか、物を持っていなかったらしく、当時は日常品だけでも足りない物が沢山有った。
『かえったぞー、あぁーしんど~』
両手に沢山の荷物を持って、家に戻る。
母さんは玄関に荷物を放り投げて、ぐでーっと寝転がる。
『あとなにがいるんだっけか~』
『えっと、調理器具はありますし、あとは、布団とかでしょうか?』
『あ~、一組は家にあるけど、あんな重いもの持ち運びたくねえよ~。宅配は金かかるし、うあぁーマジめんどくせぇー!』
『あの、だったら僕は別に、布団が無くても寝られるので』
『なにいってんだ、今日からおまえは、あたしの息子なんだ。当分は一緒の布団で寝ればいいじゃん』
『えっと、それは……』
『なに、いやなのか?』
『え、そんなことは』
『じゃあいいだろ、奥の部屋にあるはずだから布団を敷いてくれ、今日はもう寝ちゃおうぜぇ』
『はい、わかりました』
『あと、かしこまったしゃべり方禁止な。めんどくせーし』
『えっと、あの、わか、わかったよ』
『ん、じゃああたしを部屋まで運んでくれ、息子よ』
『……わかったよ、その、母さん』
当時の僕は体が小さかったので、母さんを持ち上げることが出来なかったから。
母さんを一生懸命引きずりながら、部屋まで運んだ。
引きずりながら、眼鏡のレンズ越しに僕を優しく見つめてくれる、母さんの目。
それ以来、僕は眼鏡越しに見る母さんの目が、たまらなく好きになった。
□□□□□
「軽い貧血です、休んでいれば良くなりますよ。すみません、クラスの子が慌ててお母さんの方に連絡を入れてしまったようで」
「いえ、とんでもございません」
保健室の先生が、誰かと話している声で、僕は目を覚ました。
でも身体はまだうまく動かせない、僕は諦めて目を閉じる。
「私はちょっと席を外しますが、良かったら見ていってあげてください。今はまだ眠ってますが、そのうち目を覚ますと思います」
そういい残して、保健室の先生が出て行くのがわかった。
カーテンで遮られたベッドに、誰かが近づいてくる。
なんとなく、母さんだとわかった。
「よかったよ、おまえが無事で」
母さんは、僕のお腹に頭を乗せる。
意識が少しづつはっきりしてきた、どうやら僕は授業中に倒れたみたいだ。
「頼むぞ、頼むからあたしより先に死んでくれるなよ。なぁ、お願いだぞ―――提督」
提督?
「……母さん、いま、なんて?」
「っ!?」
ばっと母さんが、僕から離れる。
僕はゆっくりと目を開けて、体を起こす。
「おまえ、起きてたのか?」
「うん、ちょっと前に。体がうまく動かなかったから、起き上がれなかったんだけど」
「そうか、まぁなんだ、おまえが無事でよか―――」
「僕は、母さんの提督なの?」
母さんの言葉を遮り、僕がそう聞くと、母さんの顔が真っ青になった。
母さんは口をぱくぱくさせながら、じりじりと後ろに下がる。
「ねえ母さん、僕は母さんの―――」
「違う!!」
保健室に母さんの大声が響く。
母さんは震えながら、僕を強く睨む。
「いいから、忘れろ。頼むから、忘れてくれ……」
そういって母さんは、逃げるように保健室から出て行った。
■□■□■
どうしたらいいのかわからなくなった僕は、その日の放課後、学校のベンチで原に今日のことを相談した。
原は黙って僕の話を最後まで聞いてくれたあと、飲んでいたジュースの空き缶を、ゴミ箱に向かって投げる。
空き缶はゴミ箱から外れて、地面に落ちた。
原は舌打ちしたあと、空を見上げながら話し始める。
「難しい問題なんだろうな、アホな俺には荷が重い。まぁ幸い俺は当事者じゃねえけどな」
「どうしたらいいんだろう、母さん、泣いてたんだ……」
僕は原と同じように、夕焼けの空を見上げる。
「……なぁノゾム、俺がなんでおまえとつるんでるかわかるか?」
「幼馴染だからじゃ無いの?」
「ちげーよ馬鹿、幼馴染ってだけなら他にいくらでもいるだろうが」
「……僕、そっちの趣味はないんだけど」
「それこそちげーよ馬鹿! ったく……いいか、俺がおまえとつるんでるのは、おまえに根性、あー、ちょっと違うか。あれだ、そう、おまえに勇気があるからだよ」
「勇気?」
「そうさ、勇気だよ。なぁノゾム、俺は見ての通りこんなだ、傍から見たらまぁ、近づきたい人種じゃねえ。でもおまえはむかしっから俺に臆せず絡んできてたし、何時だったかおまえ、お袋さんを馬鹿にしたやつをボコボコにしたことがあっただろ。俺が言うのもなんだが、別に暴力を肯定してんじゃねえ。でも、その時のおまえを見て、俺はおまえに勇気があるんだと感じたんだ。勇気の証明っていうのかな、いざって時にやることをやる男だって証明したのさ。いざって時にダチを見捨てるようなヤツじゃ無いってな」
「初耳だね」
「まぁ、わざわざ言うことでもねえからな。だがなんだ、つまりおまえには勇気がある、だから恐れを取り除いて考えてみろ。おまえは、どうしたいのかってな。そこんとこは結局おまえにしかわかんねえ」
「僕は母さんが一番喜ぶことをしたいかな」
「即答かよ……ならまぁ、そうしたらいいだろ、勇気を出してな」
そういって、原は立ち上がり、バイトに行ってくるといいながら去ろうとした。
「空き缶、ちゃんと拾っときなよ」
けど、僕にそういわれて、嫌そうな顔で振り向き、さっき外れた空き缶を拾ってゴミ箱に捨て直す。
そして「なら、そうしたらいいだろ、勇気を出してな」ともう一度いい直して、今度こそ去って行った。
色々と考えることは多いけど、それでもその方向はわかった気がする。
僕は心の中で、もう近くにはいない原に感謝した。
■□■□■
家に帰ると母さんの出迎えは無く、母さんは自分の部屋で、人を駄目にしそうなソファーに座りながら、漫画を読んでいた。
僕が帰宅の挨拶をすると、母さんは漫画を見ながら、お帰りとはいってくれたけど、僕の方を向こうとはしない。
母さんは今、なにを思ってるんだろうか。
「ねえ母さん、本当は僕が母さんの提督なんだよね?」
母さんがビクリと震えた。
そのあとゆっくりと漫画のページをめくる。
「言っただろ、違うって。おまえがどうしてもそうして欲しそうだったから、ちょっとだけ魔が差したんだよ。今は馬鹿なことしたって……思ってる」
眼鏡のレンズ、その奥にある母さんの瞳が揺れているのがわかる。
母さんが、嘘をいっていることも、わかる。
「なぜ、嘘を言うの、母さん」
「うそ?」
「母さんは、嘘をついている。理由を聞かせて欲しいな」
「嘘なんてついてねーよ」
「それも嘘」
母さんの瞳を見つめる。
レンズ越しに見る母さんの瞳は、さっきよりも大きく、確かに揺れていた。
「利口なのは知ってたけど、勘も鋭いとはね、育て方が良かったのかな」
しばらく見つめていると、母さんは観念したように、ため息交じりに肩をすくめて首を振った。
諦めたような口振り、母さんらしいようで母さんらしくない、そんな口振り。
あんまり好きじゃないな、と思った。
嘘を認めた途端、急に母さんの周りに張り詰めていた空気が消えたような錯覚。
母さんはぼそりと呟く「どうせ、もう長くないからいいかな」と。
そして僕に背を向けて、悲しそうな声で話しだした。
「あたしの寿命を考えれば、おまえが成人した後くらいか、そう遠くないうちにあたしは死ぬ。だから余計なものを残したくない。それだけのことだよ。だからおまえは普通に生きろ、あたしの……あたしの提督だなんて、余計な肩書きなんて持つ必要はない。だから、忘れろ」
そう言った母さんの後ろ姿は、とてもとても寂しそうで。
僕はそれが許せなくて、勇気を出す。
母さんは、きっと我慢してるんだろうから。
「駄目だよ母さん、それじゃ駄目だよ」
母さんには絶対使わなかった、強い口調。
母さんがビクリと震えた。
「なんだ、あたしの言うことが聞けないのか? 反抗期にしてはちょっと遅い……いや、丁度今くらいなのかな」
「うん、反抗期。だから母さんの言うことは聞かない。僕は母さんを母さんの本当の名前で呼びたい」
僕はそういって、まっすぐに母さんを見つめ、母さんに向かって手を伸ばす。
母さんはびくっと震えると、僕から逃げるように部屋の外に行こうとする。
僕は逃がさないよう、後ろから母さんを抱きしめた。
「だめ、だめだ……駄目だって」
震える母さんの髪から、母さんの香りがした。
優しくて温かくて、あの時から変わらない母さん。
「はな、はなせよぉ……」
「母さんが本気で振りほどけば、僕は敵わないよ?」
「そんなこと、そんなことできるわけないだろぉ」
グスングスンと泣きながら、母さんは振り向いて、僕の胸に顔を埋める。
「母さん、例えあとどれくらい一緒にいられるかわからなくても、僕は母さんが望む形で、母さんと一緒にいたいよ。ねえ母さん、母さんは本当に僕に、母さんの本当の名前を呼んで欲しくないの?」
母さんは僕の胸に顔を埋めながら、ちょっとだけ首を左右に振った。
「別に夫婦になりたいとか、そういうんじゃ無いんだと思う。僕はね、母さんと一緒に、母さんとが望む形で一緒にいたいんだ、それが一番僕は嬉しいんだ。だから母さん、お願いだよ」
母さんは長い間なにも言わずに、ぎゅっと僕に抱きついたまま動かなかった。
一分、二分、五分、十分、ずっとずっと僕は母さんを抱きしめ続け、母さんも僕を抱きしめ続ける。
そして、母さんはふっと力が抜けたように手を緩め、少し嗚咽交じりになりながらしゃべり出した。
「……あたしのほんとの名前を呼べたら、ちゃんと、これからはちゃんと、あたしの言うこと聞くか?」
「うん、ちゃんと言うこと聞く」
「ちゃんとだぞ、家の手伝いも勉強も遊びも、あたしの髪をといたり、お風呂に入れたり、あと今日の晩ご飯はハンバーグにするんだぞ」
「うん」
「ゲームの相手も絶対するんだぞ、おやつもちゃんと用意しろよ。あと、あと……どうしてもって言うなら、彼女とか作ってもいいけど。あたしがいる間はあたしが一番だからな?」
「うん、母さんが一番だよ」
「それから、それからな―――」
「うん、なんでもいって母さん」
母さんは、少し間を空けて、絞り出すように言う。
「―――わたしの、本当の名前を今、呼べ」
母さんが真っ赤になっているのが、なんとなくわかった。
胸がとても温かいから。
「うん、わかったよ」
僕は少し悩んだけど、胸にしがみついてる母さんをそっと引き離す。
母さんの顔はぐしゃぐしゃで、見られるのが恥ずかしいからなのか、母さんは一生懸命袖で目元を拭うんだけど、眼鏡が邪魔でうまく拭えないみたいだ。
僕は母さんの眼鏡を外して、自分の首元に掛けて、ハンカチをとりだして母さんの目元や濡れた顔を優しく拭く。
母さんはぐすぐすと、嗚咽をこぼしながらも、僕のしたいようにさせてくれた。
最後に母さんに鼻をかんで貰い、ハンカチをたたんでポケットに戻し、眼鏡をかけ直して上げる。
母さんは赤くなった目で僕を見ながら、少し恥ずかしそうにしていた。
やっぱり、眼鏡のレンズ越しに見る母さんの目が、僕は好きだ。
「えっと、じゃあ呼ぶね」
「ああ、わたしの名前を呼んでくれ、提督」
僕は深呼吸を一つして、優しく微笑む母さんに向かって口を開く。
「ふ、ふぅーん、いいねぇ。ちょっとやる気わいてきた」
面と向かって母さんの本当の名前を呼ぶというのは、思ったより恥ずかしくて。
顔を伏せてしまった僕を抱きしめながら、母さんはそう耳元で囁いた。
母親が眼鏡のせいで、眼鏡っ子に萌えられない。
そんな悲しみを背負った人々に捧ぐ、ような気がする。
今年も読んで頂きありがとうございました、良かったらまた来年も覗いていってください。
※艦娘の寿命の件ですが、金剛姐さんは例外というか、バグキャラ。
でも多分もっちーも、この話で覚悟決めたのでがんばる感じ。
※別原作ですが、脊髄反射で書いてる新作投稿しております。
よかったらお正月の暇つぶしにどうぞ。