提督をみつけたら   作:源治

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春がいと恋し(部屋がとても寒い)
あと時系列的には『無職男』と『駆逐艦:舞風』と同じ日です、多分。
 


『運転手』と『駆逐艦:春風』

 

 何事にも終わりはある。

 

 

『ツー、ツー、ツー、メッセージをどうぞ―――……貴方、短い間でしたがお世話になりました、離婚届にサインしておきましたので出しておいてください。慰謝料はいりません。そういう訳で、これ以上お話しすることもありません、じゃあ、さようなら』

 

 

 妻だった女性からの留守番電話で、私の人生は終わった。

 

 出世の為の見合い結婚で、彼女が私との生活に退屈していることは知っていた。

 それでも私なりに精一杯やって来たつもりだったが、こうもあっさりと終わることになるとは。

 

 外地の政治家の秘書の下の下、更に見習いのようなものだった私は、ある日唐突に職を失った。

 一番上の政治家の先生が憲兵、しかも千鬼衆に引っ張られるようなことに手を出したからだ。

 

 綺麗な政治家などというものが、欠片も信用出来ないのは確かだ。

 だが、喧嘩を売る相手を間違うような政治家もまた信用できない。

 

 幸いほぼ無関係だった私は、事情聴取のみで釈放された。

 だが世間の目は厳しく、再就職先の当ても当然無かった。

 

 親の言うことを素直に聞き、親に言われた相手と結婚し、いつだって人に言われたことしかやってこなかった我の薄い人間、それが私だ。

 

 そんな自分の欲望がない私のような人間が、政治家やその秘書としてやっていける器ではないと、薄々気がついていた。

 それでも運転手としてぐらいなら、なんとかやっていけるだろうと甘い考えがあったのだが、やはり人生はそう甘くない。

 

 そんなこんなで私は、弟に家督を継がせるからと、家族の縁を切られて故郷から追い出された。

 

 そして非合法な港の荷下ろしや、慣れない荒事の手伝いなどで小銭を稼ぎながら落ちるところまで落ち、長い放浪の末『艦夢守市』という街にたどり着く。

 

 艦連指定都市である『艦夢守市』は、出入りは普通だが、定住するとなると意外と難しい。

 住所もなくホームレス同然の生活をしていた私は、そのうちしょっ引かれるのも覚悟していたが、その頃になるともう何もかもがどうでもよくなっていた。

 

 その日、酒代もなくなり、いよいよかっぱらいにでも手を染めようかと考えながら、夜明け前の繁華街をさまよっていた時のことだ。

 道に落ちていた財布をみつけた私は、ぎっしりと詰まった中身を見て、そのまま懐に入れようとした。

 

 だが、この金があったところで、またしばらく今の生活が続くだけだと気がついた。

 そしてこんな暮らしを続けることに意味などあるのか、そう思うと無性に虚しくなってしまった。

 

 ならばいっそ終わらせよう。

 

 そう思った私は、その財布の中にあった住所、そこに向かい、店舗兼住宅と思われるビルの裏口に回って、ポストに財布を投げ込んだ。

 

 もう随分と味わっていなかった清々しい気持ち。

 それを抱えながら、さてどこで首をくくったものかと、当てもなく歩き出した瞬間。

 

「ちょっと、あんた待ちなさいよ」

 

 振り向くと、オールバックの髪型に短めの口髭の、バーテンの服を着た巨漢の美中年が立っていた。口ぶりからしてあちらの人間なのだろうか。

 

 そのバーテンらしき男は、財布の中身を確認すると、何もいわずに私をひっつかんで閉店後の店に連れ込み、カウンターに座らせた。

 

「少し待ってなさい」

 

 そういって、バーテンの男はどこかに行ってしまった。

 私は何が何だかわからず、呆然としてしまう。

 

 しばらくして、バーテンの男が何かを持って戻ってきた。

 手に持っていたのは味噌汁にご飯、漬け物に焼き鯖という、典型的な朝食。

 

「ほら、お礼よ。たべなさい」

 

 もう、一生縁の無いだろうと思っていた、温かい香りが私の鼻に届く。

 

 何故かあふれ出してしまった涙、私はそれを拭うことなく味噌汁をすする。

 合わせ味噌に、丁寧に出汁が取られた、優しさに溢れた味、私のために作られた料理。

 

 あの味噌汁の味を、私は生涯忘れることはないだろう。

 

 私を拾ったバーのマスターの名前は、上堂薗さんというらしく。

 彼はそんな私の前で、何もいわずにグラスを磨き続けていた。

 

 その後、上堂薗さんは秘書時代に運転手経験があるならと、艦夢守市にあるタクシー会社の仕事を紹介してくれた。

 更には身元保証人にもなってくれ、住む場所まで用意してくれた。

 

 私がこの恩は必ず返すと申し出ると、上堂薗さんは

 

「いらないわよ」

 

 と、ばっさりと断ったあと

 

「どうせならこの街でまた一からやり直しなさい、そして好きなように生きたら良いわ。それこそ誰の意志でもない、あんたの意志でね」

 

 そう続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『運転手』と『駆逐艦:春風』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、私が今こうして公園のベンチで昼寝していたのは、そういう訳なのだ。

 くれぐれも、決して、誓って仕事をさぼっているわけではない。

 

「それはサボりというものではないのですか?」

 

「断じて違います」

 

 いや、真面目に、昨今の燃料高騰で、無駄に流す余裕はタクシー会社にはないのだ。

(※流す→走りながら客を探すこと)

 

 主に仕事は夜、路面電車が止まってからが稼ぎ時となるため、私以外のタクシー運転手もちょいちょいとこうやって休息を取ることが多い。

 

「うふふ、ではそういうことにしておきましょうか」

 

「なんですかその目は……」

 

 私の隣に座って、ニコニコと笑みを浮かべている少女。

 

 桜色の着物に小豆色の袴を着こなし、赤いリボンで括られ綺麗にカールされた弁柄色(べんがらいろ)の髪。

 リボンと同じ色の日傘を差しながら優雅に笑うその姿は、育ちの良さそうな女学生そのもの。

 

 そんな彼女に声を掛けられたのが少し前。

 ベンチで休憩を兼ねた昼寝をしていた時のことだ。

 

 

 『ご機嫌よう。今日は良い天気ですね』

 

 

 そういいながら私を朱色の瞳で、のぞき込んできた彼女。

 その可憐な姿と相まって、一瞬春の精霊か何かに見えてしまった。

 

 公園前に駐めた自分の車が見えなければ、ここが天国か桃源郷だと思ってしまっただろう。

 

 自分よりも二回り以上は年下に見える彼女が今、日差しから私を守るように日傘を少し高めに掲げてくれている。

 いつの間にやら太陽の位置が移動していたのか、木陰だったベンチには、春の訪れを感じさせる柔らかな日差しが降り注いでいた。

 

 日中の公園には私たちの他には誰もおらず、噴水から噴き出した水が、ジャバジャバと涼しげな音を立てているのがよく聞こえる。

 

「ところでその、私に何かご用でしょうか?」

 

 私はハンカチを取りだして汗を拭きながら、今更なことを少女に問いかけた。

 

「ふふっ、日射しの中で寝苦しそうにされていましたので。それが気になり思わず声を掛けてしまいました」

 

「あっ……いや、それはどうもすみません」

 

 思い返せば確かに、日光に長時間当たっていたせいか、気温の割に汗をかいていた理由を今更ながら理解してしまい、恥ずかしくなる。

 

「ですが……そうですね、よろしければ連れて行っていただきたい場所があるのですが」

 

 気を遣わせてしまったのか、そんな私を見て彼女は雅な動作で立ち上がり、小豆色の袴をはためかせながら振り返る。

 

 立ち上がった彼女の身長は小柄で、ヒールのついたブーツを履いているにもかかわらず、私の胸元ほどの高さだ。

 だが、背筋をしゃんと伸ばして立っているからか、実際より高く見えた。

 

「じつはわたくし、この街に来たばかりなのです。ですので、よろしければこの街をご案内いただけますか?」

 

「それなら、すぐそこに交番がありますが……」

 

「そう意地悪をおっしゃらずに、それにお見受けしたところ、お仕事はタクシーの運転手をされているのでしょう? ふふ、ほら、お仕事お仕事」

 

 そういって、日傘をまわしながら微笑む彼女。

 

 未成年のようだが保護者は、というか金はあるのか、ついでに昼飯もまだなのに。

 そんなことが浮かんでは消えてゆく。

 

 だが結局、私は彼女のその微笑みにおされて、街を案内することになった。

 

 

 

 ■□■□■

 

 

 

「ここがこの街の主要港なのですね」

 

「正確には客船ターミナル港、そこから延びる観光客向けの通りですね。この倉庫に見える建物の中には、ホテルの他に特産品などを扱う土産物屋、飲食店や屋台なんかがあります」

 

 今、私たちの目の前には、赤いレンガで造られた大型倉庫が建ち並んでいる。

 

 ここは艦夢守市に来航する客船が停泊する港、そこに最も近い商業施設だ。

 過去の頑丈な大型倉庫を改装し、来港者向けの宿泊施設、その宿泊者目当ての飲食店や土産物屋を収容できる区画として改造されたこの場所は、どこも賑わっていた。

 

 余談だが、港を含めこの区画全域は、代々艦娘が経営する会社……というか組織によって運営されている。

 当然のことだが、その組織の縄張りで不法に荷下ろしなどをした場合、大変優秀な従業員(オブラートな表現)によって大変ひどい目に遭う、身をもって学んだことなので間違いない。

 

「えっと、あの遠くに見えるあそこが艦夢守市、艦連軍の基地ですよ」

 

 気を取り直して、この国最大の艦連軍の拠点、艦夢守市艦連軍基地を指さす。

 

 近隣の航海の安全確保や、有事の際の迅速な展開は元より。

 地元の市政や企業とも協力関係を結んでおり、経済的な効果も大きい。

 

 艦娘と憲兵が常に駐屯しているあの基地の存在こそが、艦連指定都市が艦連指定都市たる、最大の理由の一つだろう。

 

「そうなのですね……あっ、あちらで売られているものは何でしょうか?」

 

 そういって彼女は歩き出し、ちらりと振り返っては、私を急かすように日傘をくるくると回す。

 まぁ、確かに女性は軍事基地より、おしゃれな小物や美味しい食べ物の方が好きなのだろう。

 

 しかし、誰かとこうやって歩くのはいつぶりだろうか。

 

 観光客の案内をすることはあったが、こうやって誰かと一緒に店を回るというのは、もう随分と久しぶりに思える。

 いや、彼女もいうなれば客ではあるのだが、どこかそう思いきれない自分がいた。

 

 何を考えているのか、こんな枯れた男が、何を―――

 

「あの、どうかなさいましたか?」

 

「ああ、すみません」

 

 私とは違い、一瞬一瞬が輝くように楽しそうな様子の彼女。

 彼女といることで、自分が価値のあるような人間に思える。

 

 きっとそんな間違ったことを、考えてしまったのだろう。

 

 それから昼過ぎまで、私たちはあちこちの店を見て回った。

 

 

 

 ■□■□■

 

 

 

「この店は艦娘の方が店長として、腕をふるってらっしゃることで有名ですね。ランチタイムも十五時までと長く、値段も手頃でありがたいんですよ」

 

「そうなのですね」

 

 石造りの壁に高い天井、温暖な気候特有の建物の店内を、物珍しそうに見まわす彼女。

 ここはこの街でそこそこ有名な飲食店、ジェノヴァ料理店『マエストラーレ』だ。

 

 先ほどの場所で何か食べてもよかったのだが、私が普段昼食を取る場所で食べたいとの彼女の希望で、この店に来ることになった。

 

 ふと、色白でプラチナブロンドの長い髪の女性の姿が目に入る。

 映画にでも出てきそうな美しい女性だが、店員になって日が浅いのか、少し慣れなそうに別の席の注文を取っていた。

 

「コホン……そういえば先ほどの、ばいく……というのでしょうか、すごい音でしたね」

 

「えっ? ええ、確かそう遠くない場所にKUREというサーキット場があるので、その関係のデモンストレーションだった可能性がありますね」

 

 この店に来る途中、謎の渋滞につかまり、直線道路をものすごい勢いで駆け抜けてゆくバイクを目にした。

 先頭を走るバイクは後ろに子供を乗せているようにも見えたが、さすがに見間違いだろう。

 

「そのサーキットでは年に何回か、大きなレースの大会がありますので。それに関する宣伝か何かだったのかもしれません」

 

「あら、物知りですのね」

 

「まぁ、この街に住み始めてそこそこ長いものですか―――」

 

「ちわぁーっ! MI KA WA YA でーっす!」

(※MIKAWAYA→戦史前記録媒体より見つかった、有名な酒屋の名称)

 

 突然、私の声をかき消すほどの大きな声が入り口から聞こえてくる。

 見ると、何故かガスマスクをかぶった男が、ワインのケースを担ぎながらポーズを取っていた。

 

 店内の客たちが唖然とする中、厨房の方からバタバタと誰かが走ってくる。

 

「こらカーサジュニア! 配達のときは裏口からきなさいっていってるでしょー! 正面から堂々と入ってきちゃ駄目だよ!」

 

「だが断る」

 

「断っちゃ駄目―!」

 

 店の奥から現れたのは、長い亜麻色の髪を左右でくくった幼い少女。

 

 少女は、ぷんすかという文字が見えそうな様子で、ガスマスクの男を怒っている。

 むしろ幼女にしか見えない姿だが、確か彼女がこの店のオーナーの艦娘だったはずだ。

 

「ああっ! 私に会いに来てくれたのねmon bourreau(モン・ビューロー)♪」

 

 そんな二人……いや、ガスマスクの男に駆け寄る、先ほどの美しい女性の店員。

 だがガスマスクの男は見たこともない不思議な動きで、駆け寄ってきた女性の店員を華麗にかわす。

 

「こら新入り!! 勘違いして突っ込んできた時に壊した店の備品の弁償を、この店で働いた給金で返すまでは、カーサジュニアと会うのは禁止って言ったでしょ!!」

 

「おあいにくさま! 私たちの燃えさかる愛の前では、意地悪な小姑のいびりなんてぶふぇ!?」

 

 ガスマスクの男にかわされながらも華麗に体勢を整え、オーナーに向かって喋っていた店員の女性が、突然空中に舞い上がった。

 

 唖然とする、いや、さっきからしっぱなしの店内。

 

 彼女たち以外で動いているのは、何故かオーナーの後ろでポーズを決めながら、ゴゴゴゴゴという効果音を、無駄に高いクオリティーの肉声で発し続けるガスマスクの男だけだ。

 

「おッ、おかしいのよア、ナ、タ! 何で駆逐艦なのに戦艦であるリシュリューより強いのよ!? そもそも片手で私を壁に叩き付けて、店を穴だらけにしたのはぶふぇ!? またぶったわね! もうこうなったら容赦しないわよ!」

 

「だからぁ、それも含めてこれはファミリーの一員になる為に必要なことなのに……ああもう、こうなったらリベも本気で行くよー!」

 

 何故か始まる艦娘同士の戦い、そして戦う黄金とかなんとかいう内容を歌い始める、ガスマスクの男。

 呆然としていた店内だったが、いつしかやたらとうまいその歌と、闘牛ショーのような迫力溢れる戦いを前に、盛り上がり始める。

 

 私はちらりと、同じテーブルの席に座る彼女を見る。

 彼女もまた、そんな様子を口に手を当てながら笑いつつ眺めていた。

 

 

 

 ■□■□■

 

 

 

 ジェノヴァ料理店『マエストラーレ』で(無料になった)昼食を取った後に向かったのは、この街で最も有名な場所の一つである、戦史時代博物館だった。

 この博物館には主に、深海棲艦発生~対深海棲艦戦争の終戦までの期間を指す、戦史時代に関する資料や美術品が展示されている。

 

 何度か来たことがあったので、私が先導しながら歩くと、彼女は三歩下がって私の後ろから着いてくる。

 

 あまり褒められたものでは無いとわかっているのだが、正直に言うと彼女が歩く姿を後ろから見たかった。

 歩くたびに揺れる、カールされた弁柄色(べんがらいろ)の髪とリボンがとても美しく、ずっとそれを見ていたい思いに駆られるのだ。

 

 だが、彼女は自身の心情というより、男性の影を踏むのは失礼にあたるとでも躾を受けているか、基本的に私の後ろを着いて歩くことに、特に疑問を持ってはいないようだった。

 

 そんな感じで、建物内に展示されている、当時の貴重な写真や深海棲艦の姿を復元した模型などを、ゆっくりと見て回っていると、ホールの中央に展示されていた壁像が目についた。

 この壁像は、確か戦後何年だったかを記念して、本物の贋作師と称された、艦連お抱えの芸術家である『ひまわり』が彫ったものだったはずだ。

 

 彫られているのは海の中を泳ぎ回る、美しい艦娘たちの姿。

 

「これが、見たかったのです……」

 

 彼女は静かに呟き、壁像を静かな瞳で見つめる。

 そして軽く顔を伏せて、黙祷するように目を閉じた。

 

 『ひまわり』の作品は、この壁像の前と後で、印象ががらりと変わる。

 

 この作品以前は、強烈なまでの孤独を叩き付けてくるような作品だが、この作品以降は優しさに溢れた印象を与えるものになったらしい。

 昔、ここのパンフレットか何かで読んだ受け売りではあるが。

 

 確かこの壁像のタイトルは―――

 

「タイトルは『別れ』……名前と違って、凄く温かい気持ちになりますね」

 

「そうですね……どういう意味でそんな名前をつけたのでしょうか」

 

 この作品の印象のような、穏やかな別れなど存在するのだろうか。

 別れというものは、常に冷たく孤独なもののはずだが。

 

 だが、その反対の言葉が『出会い』であるなら……

 

「あら、何か思われることがあるのですか?」

 

「いえ、何といいますか……『出会い』というタイトルであるなら、この作品の印象も頷けるような気もするのですが」

 

 さようなら。

 唐突に妻だった女性の、最後の言葉を思い出す。

 

「ですが、結局は同じなのかも知れません。人と出会えば別れがあります。私はその、別れというものが苦手でして。大したことの無い人生でしたが、別れだけは人一倍ひどいものを経験してきましたので……はは、何をいってるのやら」

 

 人と出会えばそれだけ悲しい経験をする可能性が増える。

 そうなのだ、私の人生を一言で表すのなら「さようなら」だった。

 

 中年の男がこぼす、情けない過去の吐露。

 彼女はそんな私を嫌な顔もせず、穏やかな瞳で見つめてくれていた。

 

 

 

 ■□■□■

 

 

 

「今日はありがとうございました、おかげで決心がつきました」

 

 最後の目的地として彼女が指定したのは、最初に私と出会った場所である公園だった。

 彼女は夕焼けに染まる街を見ながら、そう口にする。

 

「は? 決心……ですか?」

 

「はい。じつはわたくし、ずっと迷っていたのです。故郷を離れてこの街に住むかどうかを」

 

 彼女は夕日に背を向けて、私を見つめる。

 そのうるんだ瞳を見て、思わず胸が高鳴った。

 

「そうだったのですか、えっと、よろしければ理由を伺っても?」

 

「それは……わたくしの大切な方が住むこの街、この場所で生きる意味を見いだせたからですわ」

 

 どこか儚げな笑顔。

 

 その表情に、私は高鳴っていた胸が、何故か締め付けられるのを感じた。

 

「その、お相手とは……」

 

「恥ずかしながらその、まだお名前も存じません。とは申しても、名前も住所も調べればきっとわかるのでしょうが、その方にお相手がいらっしゃったり、家庭があるのなら……難しいと思われますので」

 

 彼女は普通とは違う、辛い恋をしている。

 そういう不安が伝わるような言葉。

 

「でも、もしそうなら……それで良いのです。もし、わたくしのことを受け入れていただけなくても、その人が幸せに暮らせているのなら、わたくしはそれで良いと思っています。

 わたくしはただ、もしこの街に住んでいれば、もしかしたら数年に一度だけでも、街ですれ違うことがあるかもしれません。そんな可能性が少しでもあるのなら、たったそれだけで、この街に住む一日いちにちがとても尊く思えますので」

 

 忍ぶ恋、とでも言うのだろうか。

 彼女が紡ぐその想いを、私は呆然としながら聞く。

 

「それにこの街にいれば、その方が吐く息を吸うこともあるかもしれませんし、わたくしが吐いた息もその方が吸ってくれるかもしれません。その方と同じものをやりとりしているという、そう思うだけで嬉しい気持ちになれると思います。

 雨が降れば、その人と同じ雨に濡れて、青空を見上げればその方と同じ空を見上げることができる。夜景を見ればこの中の光の一つが、その方の家の窓の光なんだって、そう思えるだけで、わたくしは幸せになれるのです」

 

 古風、下手をすれば田舎者と言われても可笑しくないような、誰かを第一に考える価値観。

 だが私は、それをどうしても笑い飛ばしてしまうことができない。

 

「故郷に帰れば、きっとそれは感じられません。自分の生まれた場所ではあるのですが、そこにはそれがありません。だから、わたくしはこの街に住むことに決めました」

 

 それを聞いて私は、不覚にも涙を流しそうになった。

 自分に、そんな感情があるとは思わなかった。

 

 子供の妄言で、成長すれば消える、若さからくる青い純情。

 そんな物をいつまでも抱えて、生きていけるはずがない。

 

 頭ではそう思っていたのだが、心のどこか、自分には存在しないと思っていたはずの場所が。

 彼女が見ているその世界を、とても美しい、それはとてもうらやましいと。

 

 そう心が叫んでいた。

 

「今日はありがとうございました。ご縁があれば、またお会いいたしましょう」

 

「……ええ、そうですね。貴方の言葉を少しお借りするなら、数年に一度くらいは、私が運転するタクシーを貴方が止めてくれるかも知れません」

 

 私の言葉を聞き、彼女は少しだけ驚いたように目を開き、そしてまた微笑む。

 

「春風と申します、わたくしの名前です。もしまたお会いできたなら、そうお呼びくださいませ」

 

「ええ、必ず……では、さようなら」

 

 そして私は、彼女と別れた。

 たった一日だけの、客として出会っただけの女性。

 

 だというのに何故か、彼女……春風さんと別れたその時。

 妻だった女性からの留守番電話を聞いた時よりも、寂しい気持ちになった。

 

 やはり、私の日々には「さようなら」が多い。

 

 

 

 ■□■□■

 

 

 

 一週間後。

 

 今日が休日と言うこともあり、朝まで上堂薗さんのバーで飲んでいた私は、ボロアパートの扉を叩く音で目を覚ました。

 

 誰だろうか、この部屋を訪ねてくるような人間に心当たりはない。

 さては隣に住んでいるホストが、朝帰りで酔っ払って部屋を間違えているのか。

 

 いや、そもそもこのアパートには鍵が掛らないので(正確には掛けても振動で外れる)、ノックなんてしないはずだ。

 私はしぶしぶ、申し訳程度に身だしなみを整え、ドアを開ける。

 

 そこに居たのは、見覚えのある弁柄色(べんがらいろ)の髪の少女。

 

「は、春風さん!?」

 

 いや、何故彼女がここに?

 

「御機嫌よう。本日は風が気持ち良いのです。よろしければ春風を感じに、お出掛けしませんか? 少しハイカラにサンドウィッチもご用意してみましたの、ふふっ」

 

 驚く私を余所に、そういってランチバスケットを掲げる春風さん。

 優しく微笑むその顔を見て、心に浮かんでいた疑問が消え去ってしまう。

 

 そして代わりに浮かんできたのは―――

 

 彼女にまた会えて嬉しい……そんな気持ち。

 

「あの、わたくしの顔に何か……ああ、花びらですか? うふふ、風流ですね」

 

 呆然と見つめる私の姿を不思議に思ったのか。

 彼女は髪についていた桜の花びらを手に取り、恥ずかしそうに微笑む。

 

 その笑顔に、私は年甲斐もなく胸が高鳴った。

 

 物事には終わりがある。

 

 そして、終わりが来ればまた、始まりもある。

 別れがあれば、出会いもあるように。

 

 私の第二の人生、その始まりがいつだったかはわからない。

 

 だがその時、既に私の第二の人生が始まっていたということを知るのは。

 

 

 ―――もう少し先の話である。

 




こう、時に辛くても身を引く、大正時代のような奥手感といいますか、いい歳なのにお互いまるで初恋のような、手すら触れていないのにドキドキする、淡い感じの空気感があるような。

そんな話を書いてみたかった気が、する。
 

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