提督をみつけたら   作:源治

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狭霧の梅雨modeが素晴らしくてですね。
あの感動を表す言葉って、あるのかなと。

※たまたまですが、艦これ12周年記念の長編回。
 三万七千文字くらい(通常の3~4話分)あります。
 


『司書』と『駆逐艦:狭霧』

「あの人、今年も来たのね……」

 

 十二支がふた回りほど違う、司書の先輩。

 彼女がどんよりとした曇り空のせいで薄暗い、外の景色を見てそう呟いた。

 

 じめじめとした湿気が肌にまとわりつく、梅雨時の午後。

 時刻は、ちょうど午後二時を回ったあたり。

 

 わたしは本が沢山積まれた重たいカートを押す手を止めて、先輩のもとに駆け寄る。

 今年入ったばかりの新人であるわたしは、先輩の一挙一動を見逃さずに反応しなければならない。

 

 誤解のないようにしてほしいのだが、べつに職場がブラックだとかいうわけではない。

 

 ただ、仕事を早く覚え、馴染むためには、先輩の動作ひとつひとつ。

 その行為がなにを意味するのかを把握しておく必要があるのだ。

 

 少し息を弾ませながら先輩の隣に立つと、その視線の先にあるのは、艦夢守市にいくつもある図書館のひとつ。

 この館の正面玄関の先に据えられた、透明な屋根のついた石造りのベンチだった。

 

 そこに、女性と思わしき誰かが腰を下ろしている。

 

 白いブラウスに、ダークグレーのチェックのスカート。

 肩にはスカートと色を合わせた、洒落たショルダーバッグ。

 

 膝の上には、なぜか二本の傘が置かれていた。

 

 顔までははっきり見えないが、遠目にもわかる、絹のように滑らかな銀髪が風に揺れている。

 同性のわたしから見ても、羨ましさを覚えるような髪だった。

 

 思わず、手癖のように自分の髪に触れてしまう。

 最近は忙しさにかまけて、手入れを怠っていたのを思い出す。

 

 学生時代は、それなりに身だしなみには気を遣っていたつもりだった。

 だが社会人になってからというもの、そういった余裕は次第に削られていった。

 

 そのせいだろうか──ふいに、学生時代の記憶が蘇る。

 

 当時……いや、わたしが生まれる以前から、わたしが社会人になったあとも。

 おしゃれな娘たちのあいだでは、ウィッグやカラートリートメントを駆使して、あこがれの艦娘の髪色に染めるのがずっと流行っている。

 

 かくいうわたしも、その一人だった。

 学生時代は同級生たちと一緒に、あこがれの艦娘を真似たものだ。

 

 もっとも、わたしには派手な髪色に染める勇気がなくて、細い銀色のウィッグをつけるのがせいぜいだったが。

 そう考えれば、あの人は当時のわたしよりも度胸があるといえる。

 

「銀色の髪……」

 

 陽の光にほんのりと濁る、染めたにしては違和感のない銀色。

 その髪を見ていると、学生時代の友人の姿が重なった。

 

 彼女はわたしたちの中でもとりわけ熱心で、髪はもちろん、話し方や立ち居振る舞いに至るまで、憧れの艦娘を真似ていた。

 

 当時はそんな彼女を、冗談半分に「長波サマ」と呼んでいたものだ。

 

 けれど、つい先日久しぶりに会ったときには、すっかり落ち着いた髪色に戻っていて、彼女は苦笑まじりにこう言った。

 

 ──さすがにもう、年齢的にキツイからさ。

 

 老いない存在を模倣するには、限界がある。

 人間という器が、その永遠性に耐えきれなくなる瞬間が、必ず訪れるのだろう。

 

 ここからでは年齢はわからないが……。

 ベンチの彼女も、いずれは髪の色を元に戻す日が来るのだろうか?

 

「毎年この時期になると、ああやって傘を二本持って座ってるのよ、あの人」

 

 ふと、先輩がぽつりと呟いた。

 

「待ち合わせでもしてるんでしょうか? それにしても、綺麗に染めてますね。翔鶴様とか鹿島様を意識してるんでしょうかねー」

 

 この街に生まれた女なら、誰もが子供の頃に一度は夢みる。

 もし艦娘になれるなら、どの艦娘がいいだろうと。

 

 わたしも子どもの頃は毎晩、分厚い艦娘図鑑を枕元に置いて眺めていた。

 

「違うわ、あの人。正真正銘の艦娘よ。確か……狭霧様っていったかしら」

 

「え……?」

 

 胸が、跳ねた。

 

 なぜならわたしが学生の頃、いや、いまでも憧れている存在。

 それこそが、『狭霧(さぎり)』という艦娘だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『駆逐艦:狭霧』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初恋の相手は、理科室の人体骨格模型だった。

 

 極限まで無駄をそぎ落とした、白く、硬質な物体。

 

 儚さと、筋の通った力強さ。

 その両極を同時に孕んだ美しい存在に、わたしは一瞬で心を奪われた。

 

 だけど、ある程度分別がつく年齢だったので、それが異常なことなのはわかっていた。

 だから誰にも話さなかったし、自分自身からさえ、それを真っ向から見つめることを避けた。

 

 もっとも、いま思えばそれが「恋」だったかどうかはあやしい。

 

 けれど、それ以来わたしは、細くて白いものに、ある種の憧れ──

 いや、愛執や妄執のようなものを抱くようになった。

 

 そしてただ気まぐれに艦娘図鑑をめくっていたあの日。

 わたしは『狭霧』という艦娘の存在を知った。

 

 まるで骨の美しさだけを抽出し、肉のかたちを借りて人の姿をかたどったような存在。

 白くて儚く気品があり、それでいて艦娘ゆえの芯のある強さを備えた姿。

 

 一目で、恋に落ちた。

 

 人生で二度目の一目惚れ。

 あるいは、それこそが本当の「初恋」だったのか。

 

 

 

 

 

 仕事を終え、いつもは裏口からそのまま帰る道順を、少しだけ変えてみた。

 

 正面玄関のほうへと回り、ただ一目でいい、彼女の姿を見られたら。

 できることなら、ほんのひと言、挨拶でも交わしたい。

 

 そんな衝動からとった行動だ。

 

 だけどそれは自分勝手な想い。

 艦娘からすれば、ただの迷惑でしかないことだろう。

 

 それでも、恋い焦がれた憧れが、すぐそこにいる。

 

 頭ではわかっているつもりだった。

 けれど、心はそれを止められなかった。

 

 ──だが、狭霧様の姿は、すでになかった。

 

 心の中にあった色々ななにかが、すとんと消え去るような喪失を感じた。

 そっと、昼間に狭霧様が座っていた場所の前に立ち、ベンチに手を置く。

 

 なんの熱も持たない、石材で作られた冷たい感触。

 

(……会えなかった)

 

『毎年この時期になると、あそこでああやって座ってるのよ、あの人』

 

 先輩の言葉が、ふと脳裏をかすめる。

 

 毎年、この時期。

 だとすれば、狭霧様がこの場所に現れ、そして立ち去る時刻も決まっているのだろう。

 

 もし、それが午後二時以降だったとしたら、昼休みに声をかけることはできない。

 また短い休憩時間に建物の外へ出るのも、業務規則で基本的には禁じられている。

 

 もしそうだとするなら、この図書館で働き続ける限り。

 わたしは、ただ狭霧様を「見つめる」ことしか許されないのだろうか。

 

 興奮と失望が入り交じるような、どうしようもなく曖昧な感情が湧き上がる。

 わたしはそのやり場のない想いを胸に抱えたまま、曇り空の下、ひとり静かに帰路についた。

 

 

 

 

「変なこと考えないようにね」

 

「えっ!?」

 

 あの日以来、仕事の合間合間に、無意識のうちに狭霧様を目で追っていたからだろう。

 渋い表情の先輩が、ぽつりとそんなことを口にした。

 

「あ、あの……それはどういう意味ですか?」

 

「わかっちゃうのよね……わたしも、そうだったから」

 

 そう言って先輩は、「少し早いけど、休憩にしましょう」と告げ、休憩室へと向かう。

 

 わたしはがらんとしたフロアを一度だけ見渡し、利用者の姿がないことを確認する。

 梅雨に入り、図書館の客足はぐっと減っていた。

 

 だから休憩のタイミングも、ある程度は自由がきく。

 

 残っている職員だけで十分対応できると判断し、わたしは慌てて先輩のあとを追った。

 

「あなた、守護艦娘はいる?」

 

「はい?」

 

 関係者以外立ち入り禁止の、薄暗く独特のにおいのする休憩室。

 そこにある年季の入った椅子に腰掛けてすぐに、先輩がそう聞いてきた。

 

 ──守護艦娘

 

 国や地域によっては、数いる艦娘の中から、こうありたいと願う理想像として一人を選び、生きていく上での指針とする風習がある。

 守護艦娘とは、そのみずから定めた艦娘を指す言葉だ。

 

 欧州の守護天使や守護聖人のように、災厄からの加護を祈るというものではなく。

 自らの志を託し、その人に恥じぬように生きるためのおまじないに近い。

 

 外地ではあまり馴染みのない習慣らしいが、有名人。

 たとえばレーサーといった人たちの中には、戦中最速を誇った艦娘である『島風』を守護艦娘とする人たちもいると聞く。

 

 もちろん、誰もが持っているわけではないし、決めていない人も多い。

 けれど、艦連指定都市で育った人間なら、一度は考えたことがあるはずだ。

 

 わたしも、例外ではなかった。

 

「ええっと……」

 

「いいの、無理に言わなくて。なんとなく想像つくしね。ああ、ちなみにわたしの守護艦娘はね、軽巡の阿賀野様*1よ」

 

 守護艦娘の話は、決してデリケートというほどでもないが、聞き出すものでもなければ、自ら進んで語るものでもない。

 だからわたしは、少しだけ言葉を探した。

 

 そんなわたしの様子を見て、先輩は意地悪そうに微笑んだあと、あっけらかんとそう言い、語り始める。

 

「はじめてそのお姿を見たのは、艦夢守市で行われた観艦式だったわ。たしか、わたしが十七か十八の頃……楽しそうに観覧席に向かって手を振る阿賀野様を見て、一目で惹かれたの。当時のわたしは、とても暗かったから。阿賀野様は明るくて、朗らかで……そんな自分とは正反対の姿に惹かれたんでしょうね」

 

 観艦式──もともとは軍艦を並べて行う、軍事的な儀礼の名称だ。

 だが、艦夢守市のような艦連指定都市では、艦娘たちによる水上パレードをそう呼ぶ。

 

 観艦式では民間軍属を問わず市内の艦娘たちが一堂に会し、艤装と呼ばれる装備を背負って陣形を組み、水上を進む姿や演習と呼ばれる訓練を見ることができる。

 街に住む者ならだれもが一度は見たいと願う、夢のような光景。

 

 とはいえ、毎年開かれるわけではない。

 節目ごとの特別な催しだ。

 

 わたしも、実際に見たのは一度きりだった。

 

「それから数年が過ぎて、わたしがこの図書館の職員になった年にね。阿賀野様が来てくださったのよ。あの頃とまったく変わらない姿で。

 そりゃもう嬉しかった。今のあなたと同じで、仕事が手につかなくなって、書架(本棚)を回る阿賀野様に、せめて挨拶だけでもって思ったの。

 だけど、緊張で体が動かなくて……目で追うのが精一杯だったわ。

 でもね、そんなわたしに、阿賀野様の方から声をかけてくださったの。『阿賀野、あんまり難しいことはわからないんだけど、本が読みたいの! いつか提督と会えたときに、いろんなお話ができるように!』って……司書冥利に尽きるでしょ?」

 

 先輩は、その日の記憶を思い出すように、目を細めた。

 瞼の裏には、星空のような時間が、いまも瞬いているのかもしれない。

 

「それからね、一緒に本を探したの。最初は児童書だったかな。ページをめくる姿が、それはもう可愛くて……」

 

 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉が、部屋の空気を優しく包んでいく。

 

「それから色々あって、わたしは結婚して子供も生まれて……でも、ずっとここで働いてたわ。何年も何年も……阿賀野様の相談に何度も乗った。けれど──」

 

 言葉を切り、先輩はふっと目を開いた。

 その表情は、先ほどまでの温もりに満ちたものとは打って変わって、ひどく陰ったものに変わっていた。

 

「けれどね。阿賀野様の提督は、ついに見つからなかった。読んだ本の数だけが積み重なって……その数と反比例するように、阿賀野様から笑顔が消えていったの。そして、とうとう図書館の蔵書をあらかた読み尽くされた……その日以降、阿賀野様はここに来なくなった」

 

 その日、心の中にぽっかりと穴が空いたのだと。

 先輩は、そうはっきりとわかる表情を浮かべる。

 

「狭霧様を見ると、あの頃の阿賀野様を思い出す。きっと狭霧様も……わたしたちには想像もできないような想いを抱えて、あの場所に座ってらっしゃる。そこに立ち入れるのは、きっと、ご本人の提督だけ」

 

 だから。

 

「あなたもね。ただ見ている分には構わないと思うわ。けれど、話しかけるのは……やめておきなさい」

 

 つらい思いをするだけだから──

 

 その言葉を、先輩は胸の奥に押し込めるように、そっと目を伏せた。

 

「狭霧様は、わたしがここで働き始めたときから、毎年あそこにいらしたの。当時の、いまはもういないわたしの先輩が働いていた頃から、ずっと……。わかるでしょ? きっと、除籍の日も、そう遠くはない。だから……あなたのためにも、狭霧様のためにも……やめておきなさい」

 

 ──あなたに、なにがわかる。

 

 喉まで出かかったその言葉を、わたしは呑み込んだ。

 

 眉間に刻まれた、地層のような深い皺。

 そして滲むような哀しみの浮かぶ先輩の表情。

 

 それを見てしまい、なにも言い返すことができなかったのだ。

 

 

 

 

 何日かが過ぎた。

 

 当初は、冷水を浴びせられたような気分で、先輩の言葉に腹が立った。

 だが、時間が経つにつれ、その内容の正しさが、じわじわと胸に染み込んできた。

 

 あのまま、感情に任せて動いていたら──

 きっと、狭霧様にとっても、自分自身にとっても、良くない結果になっていただろう。

 

 だがその一方で、先輩がどこか気まずそうな表情を見せることが多くなった。

 声をかければ応じてはくれるが、それはまるで決まりきった事務作業のようで、必要最低限以上の言葉は交わされなかった。

 

 その様子から感じ取れるのは罪悪感。

 

 おそらく、わたしの気持ちを踏みにじるようなことを言ってしまったと思っているのだろう。

 業務に支障が出るほどではないが、このままではいずれ問題が起きる。

 

 それがわかっているなら、あとはどちらかが歩み寄ればいい。

 ただし“どちらかが”だ。

 

 相手の年齢や立場を考えると、やはりわたしからということになるのだろう。

 

 そんなことを考えながら、返却された本を書架に戻す作業をしていたある日。

 梅雨の時期のこの時間帯には珍しく、若い女性がフロアに入ってきた。

 

 長い黒髪に大きな瞳。

 

 ふんわりとした雰囲気にで隠れてはいるが、中々の美人さんだ。

 おそらく、年の頃は高校生くらいだろうか。

 

 彼女はきょろきょろとフロアを見渡している。

 どうやら本を探しているのではなく、誰かを探しているような様子。

 

「あっ……スミレちゃーん!」

 

 館内ではお静かに、と、思わず口にしかけるほどの大声。

 

 おそらく先輩もそう思ったのか、声の主に注意をしようとしたが。

 その姿を見て一瞬固まってしまう。

 

「阿賀野……様……?」

 

 その女性──先輩の守護艦娘の名で呼ばれた彼女は、満面の笑みを浮かべる。

 そして弾けるように先輩のもとへ駆け寄り、そのまま抱きついた。

 

「あのねあのね、阿賀野……提督がみつかったんだ……だから、真っ先にスミレちゃんに伝えたくて……えへへ、ごめんね、長いこと来られなくて……ごめんね……」

 

 先輩──スミレさんは、茫然としたままその抱擁を受け入れていた。

 だが、しばらくしてその言葉の意味を理解したのだろう。

 

 頬を伝う涙が、ぽろぽろと零れ始めた。

 

「よかった……ほんとうに、よかったです……」

 

「うんうん……ごめんねスミレちゃん、ごめんね……」

 

「いいんです……阿賀野様……いいんです……」

 

 互いに詰まりながらも、喜びと謝罪を紡ぎながら抱きしめあう二人。

 

 謝罪と喜びがないまぜになった嗚咽が、図書館の天井に静かに滲んでいく。

 その光景を見てわたしは、それがまるで映画のワンシーンのように思えた。

 

 現実の風景であるはずなのに、なぜかひどく遠く、きらめいて見えた。

 

 

 

 

「あー……うん、狭霧ちゃんね……阿賀野も話したことあるよ。本人がいないところで言うのはあまりよくないんだけど、スミレちゃんの後輩さんでこの図書館の司書さんだもんね……知っといた方がいいかもしれないよね」

 

 そう言って、阿賀野様は湯呑みを両手で包み込むように持ち直し、少し声を落とした。

 

「狭霧ちゃんね、その方面の言葉でいうところの『すがり落ち』って呼ばれてる状態なの。あまりいい言葉じゃないから、辞書とかにものってないんだけど……」

 

 湯呑みからたちのぼる湯気が、言葉の重さをやわらげるように漂っていた。

 それでも、阿賀野様の声音には、どこか言いにくそうな翳りが混じっていた。

 

「『すがり落ち』……っていうのはね、提督をみつけたのに……なんらかの理由で、捕まえられずに見失って。そのあと、提督の死を……感覚で知ってしまった艦娘の状態を指すの。なんというか……心が置き去りになっちゃうのよね。言葉どおり、“すがった”けど、“落ちて”しまったってこと」

 

 ぽたりと、熱いものが胸に滴り落ちたような感覚があった。

 静かな飲食が可能な読書スペースに、阿賀野様の声だけが、遠く波紋のように広がっていく。

 

「艦娘の学校でね、こう教えられるの。提督をみつけたら『とにかく手をつかめッ!!』って。状況にもよるけど、そうしないと見失って二度と会えなくなることもあるから」

 

 そのリスクは確かにある。

 

 道端ですれ違うとかならまだなんとかなるだろう。

 だけど、もし車や電車などですれ違ったら?

 

 彼女たちの性質と合わせてその状況を想像し、思わず震える。

 

「それで、狭霧ちゃんが提督をみつけたときのことなんだけど。……この図書館の前でね。梅雨の日だったらしいよ。でも、その人……傘を持ってなくて、びしょ濡れのまま走ってたんだって。狭霧ちゃん、声をかけようとして……でも、その人を引きとめたら、もっと濡れてしまうって、ためらっちゃったらしくて……」

 

 その光景が、まざまざと胸裏に浮かんでくる。

 雨の中、濡れた髪を揺らして走る誰かの背を、銀色の髪の少女がただ見送る──そんな情景。

 

「その人、すぐにバスに乗って、どこかへ行っちゃったんだって。それが最後。そのあと手を尽くして探したんだけど、ありふれた特徴しかなくて……おまけに外地の人だったらしくてね。どれだけ探しても……手がかりはなかったって」

 

 わたしはただ、息を詰めて話を聞いていた。

 

「それから狭霧ちゃん、季節に関係なく毎日ずっと傘を二本持って、あのベンチに座るようになったの。いつかもう一度、提督が図書館にやってくるのを信じて……でもね、ある日からぱったり来なくなったの。……たぶん、そのとき、提督が亡くなったって、艦娘の感覚でわかっちゃったんだと思う」

 

 それがどれほどのことなのか、完全にはわからない。

 でも、想像することはできた。

 

 心が、ずっと雨に濡れ続けているような──そんな時間を、狭霧様は過ごしていたのだと。

 

 それから何年かして、狭霧様はまた梅雨の季節にだけ、あそこに現れるようになったらしい。

 それは雨が、彼女の時間を巻き戻すからなのかもしれない。

 

 

 

 

 その日の昼休憩は、いつもより二時間遅れてやってきた。

 

 午後二時からの休憩など、職員同士の入れ替えの関係で通常は許されない。

 はずなのだが……先輩がなにかと手回ししてくれたようだった。

 

 なにかお小言の一つでも言われるかと思いきや、先輩はなにも言わず。

 ただ業務表に赤ペンで「14:00〜」と追記してあるのみだった。

 

 その心遣いが、ありがたくもあり、怖くもあった。

 とくに阿賀野様の話を聞いたあとだと。

 

 しかし先輩の心遣いを無にするわけにもいかない。

 なのでわたしは勇気を出して、図書館の外に出た。

 

 当然だがベンチはいつもと同じ場所にある。

 そして、狭霧様もまた、いつもと同じ姿勢でそこにいた。

 

 いつものように傘を二本膝の上に置き、ボーッとどこかを見ている。

 

 わたしは、呼吸をひとつ整えてから、歩み寄った。

 

「あの……こんにちは」

 

 自分でも聞き取れないような小さな声。

 

 バカ、わたしのバカ!!

 勇気はすでに空っぽで、もう一度声を出せと言われても無理無理無理。

 

 けれど、それでも狭霧様はすぐに顔を上げて、こちらを見た。

 大きな瞳が、光を吸い込むようにわたしを映していた。

 

「……こんにちは。……もしかして……ご迷惑をかけていたでしょうか。図書館の、かたですか?」

 

 その声音はやわらかく、けれどどこかおびえているようでもあった。

 わたしは、あわてて首を振った。

 

「ち、ちがいます! あの、ちがうっていうか……そうじゃなくて、えっと……阿賀野様から、お話を聞いて……あの……わたし、ここの司書をしている者で……」

 

 言葉がたどたどしくなる。

 でも狭霧様は、わたしの不器用な言葉を遮らず、ただ静かに耳を傾けてくださった。

 

 その優しさが、かえって心に沁みた。

 

「あの、わたし……狭霧様のこと、ずっと、見ていました。って言ったら……気持ち悪いですよね。すみません。でも、それでも、わたし……狭霧様のことが、すごく……」

 

 胸が苦しいくらいだった。

 言葉が溢れて、もう止まらなかった。

 

「わたし、狭霧様のことを、綺麗だと思って……でもそれだけじゃなくて……狭霧様がここにいる意味も、知りたくて……図書館の仕事のふりをして、何度も……」

 

 それがどれほど失礼なことか、わかっていた。

 それでも話さずにはいられなかった。

 

「狭霧様みたいな艦娘に、わたしは……憧れていました。……なれないのはわかってます。でも、どこかで……近づきたいと思ってました……」

 

 言い終えた瞬間、血の気が引いていくのがわかった。

 足が震えて、吐き気すら覚えた。

 

 どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。

 わたしは司書で、ただの人間で、狭霧様とは──

 

「あ、あのすみません突然話しかけておいて、あの、仕事に戻りますッ!!」

 

 あまりにいたたまれなくなり、自分でも失礼だと思いながらも、狭霧様に背を向ける。

 そして急いでこの場から離れようとした、そのとき。

 

 

「貴方がよければ──また、声をかけてもらえますか?」

 

 

 その言葉に、思わず振り返る。

 

 狭霧様は、微笑んでいた。

 

「もし、時間があれば……お話ししたいです」

 

 雨がやんだばかりの空に、薄く陽が差しはじめていた。

 どこか遠くで、鳥が一羽、枝から飛び立っていく気配がした。

 

 

 

 

 それからの日々、わたしは昼休憩のたびに、図書館の外に出るようになった。

 

 午後の陽が少しずつ傾き始める頃、いつものベンチには、必ず狭霧様が座っていた。

 無言で隣に腰掛け、少ししてから、ぎこちなく言葉を交わす。

 

 最初のうちはそれだけだった。

 

 けれど回を重ねるごとに、自然と会話は増えていった。

 流行の服の話、おいしいと評判の洋菓子店の話、図書館での仕事のこと。

 

 たわいもない話ばかりだったけれど、狭霧様はいつも真剣に耳を傾けてくれた。

 

 最初、狭霧様は自分のことはあまり語らなかった。

 名前以外、どこに住んでいて、普段なにをしているのか。

 

 ましてや“かつての提督”の話など、ひとことも出てこなかった。

 

 それでも、狭霧様は楽しそうだった。

 目元がほんの少し綻んで、かすかに笑みが浮かぶこともあった。

 

 そんな日々が、何日か続いたある日のことだった。

 

「……わたし、ここから少し行ったところにある、丘の上で暮らしているんです」

 

 ぽつりと狭霧様が言った。

 

 空は少し曇っていたけれど、雨はまだ降っていなかった。

 湿った空気のなかで、狭霧様の声は妙に澄んで響いた。

 

「図書館から北へ向かって、しばらく歩くと、古い坂道があります。その上に、小さなコテージがあって。いまは、そこで一人で暮らしています」

 

 わたしはうなずくしかなかった。

 

 それが狭霧様にとってどれほどの告白なのか、正確にはわからなかったけれど、

 それでも“はじめて彼女が自分のことを話してくれた”という事実だけで胸が熱くなった。

 

「誰とも、あまり関わりを持たないようにしているんです。……それが、いちばん楽だから」

 

 静かに、けれどどこか遠くを見つめるような口調だった。

 

「ときどき、天霧さんが来てくれます。姉妹艦なんです。食料や日用品、それから……たまにおしゃれな服なんかも持ってきてくれます。……それくらいです」

 

「でも梅雨の時期だけは……下まで降りてくるんですよね?」

 

 わたしの問いに、狭霧様は小さくうなずいた。

 

「そうですね。このベンチがあるから……」

 

 それ以上はなにも言わなかった。

 でもわたしは、言葉の続きを想像せずにはいられなかった。

 

 ──このベンチがあるから、まだ、ここに来られる。

 ──まだ、誰かの姿を思い出すことができる。

 

 その“誰か”が、狭霧様にとってどれだけ大切な存在なのか考えたとき。

 なんだか涙が出そうになるのを必死に堪えた。

 

 

 

 

 

 次の日、話の途切れたタイミングで、狭霧様がふいにわたしの方を向いた。

 

「ねえ……阿賀野さんから、わたしのこと、聞いていますか?」

 

 その声はいつもと変わらず穏やかだったけれど、わたしは思わず息を呑んだ。

 聞いている、どの程度、聞いているのかをうかがうようなトーン。

 

 胸の奥にざらりとした緊張が走り、わたしはゆっくりとうなずいた。

 

 狭霧様はしばらくわたしの目を見つめ、それから少しだけ微笑んで、続けた。

 

「……わたしの提督のこともですか?」

 

 喉が詰まりそうになりながらも、わたしはもう一度、うなずいた。

 

 申し訳なさで手が震え、声がうまく出せない。

 それでも掠れそうな声で「すみません」を、何度も繰り返した。

 

「……いいんですよ」

 

 狭霧様の声は、どこまでもやさしかった。

 まるで、過去そのものを赦すような声音だった。

 

 彼女はふと視線を外し、ゆっくりと語り始めた。

 

「……ある雨の日のことでした。

 このベンチで雨宿りしてたときに、わたし……提督をみつけたんです。傘もささずに、びしょ濡れで走ってらっしゃいました。

 呼び止めようとしたんです。でも、わたし……傘を持っていなかったから……引き留めたら、提督まで濡れてしまうって、そう思って……」

 

 そこまで言うと、狭霧様は静かに目を伏せた。

 その姿があまりに静かで、わたしは言葉を挟むこともできなかった。

 

「──結局、提督はそのままバスに乗って、行ってしまいました。

 外地の方だったみたいで、あとを追ったんですが、見つけられませんでした。

 ……それからは、必死で足取りを追いました。ときには、手がかりを頼りに遠くの町まで行ったり、海を越えて旅をしたこともあったんですよ。

 でも、結局見つけられなかった。あの人は、どこにもいませんでした。

 どうしようもなくなってからは、毎日のようにこの場所に通いました。いつかまた、あの方が来るんじゃないかって。

 ……そのあと、ある日、ふっと分かったんです。もう、あの人はこの世にいないって」

 

 言葉が、湿った空気のなかに吸い込まれていくようだった。

 彼女の横顔はまるで、雨粒のように儚く、美しかった。

 

「だから、丘のコテージに引きこもりました。誰とも会わずに……一人でいるのが、いちばん良かったので。

 だって、誰かと関われば関わるほど……あの方の、姿や表情、走るときの息遣いといった記憶が薄れてしまいそうで……怖かったんです。

 でも……梅雨のときだけは。思い出せる気がするんです、このベンチに座っていれば……」

 

 わたしはその場で堪えきれず、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

 自分でも、どうしてこんなに涙が出るのか分からなかった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……わたし……っ、話しかけてしまって……狭霧様の、大切な……っ、記憶を……」

 

 言葉は涙に濡れてぐちゃぐちゃになりながら、ただひたすら謝った。

 どうしても、謝らずにはいられなかった。

 

 すると狭霧様は少しだけ驚いたような顔をして、

 それからすぐに、やわらかな手をわたしの肩に添えてくれた。

 

「大丈夫ですよ。あなたは、なにも悪くありません」

 

 優しい手だった。母のようでもあり、祈るようでもあった。

 

「それにね……じつは、もうほとんど……どんなお顔だったかすら……思い出せないんです」

 

 わたしは、顔を上げることができなかった。

 

 けれど、その言葉がなにを意味するのか──

 

 言葉の奥に、どれほど深い喪失と、どれほどの赦しが込められているのか。

 痛いほど伝わってきて、また涙があふれた。

 

 

 

 

 それからというもの、わたしはどうしても気持ちを抑えきれずにいた。

 

 狭霧様が、そんなにも長いあいだ、たったひとりで待ち続けてきたというのに。

 提督のことを、なにひとつ知らないまま終わってしまう。

 

 そんなの、あまりにもやるせない。

 

 だから、調べてみようと決めた。

 ほんの小さなことでもいい。

 

 図書館の記録のどこかに、わずかでも残るなにかがあるはずだ。

 それを頼りに少しでもなにか手がかりを──

 

 けれど。

 

 外地から来ていたというその提督は、この街では図書カードを作れなかったらしい。

 貸出記録も、閲覧記録も、なにも残っていない。

 

 当然だが、名前すら記録にない。

 狭霧様も、当時の司書に尋ねたが、やはり空振りに終わったと話してくれた。

 

 わたしはある日、意を決して言った。

 

「……あの、狭霧様。残酷なことをお聞きするようで、本当に申し訳ないのですが──」

 

 言葉を探しながら、深く頭を下げる。

 

「ほんの些細なことでも構いません。なにか、その……覚えていらっしゃることは、ありませんか?」

 

 狭霧様は一瞬、戸惑うように黙り込んだ。

 そして、曖昧な笑みを浮かべて、小さくうなずいた。

 

「……少し、思い出してみますね」

 

 その日は、それきりだった。

 

 けれど、翌日。

 

 わたしがいつものように隣に座るなり、狭霧様こんなことを口にした。

 

「そういえば──思い違いかもしれないのだけれど、提督……青い本を持っていたような気がするんです」

 

 わたしは息をのんだ。

 

「その日、雨が降っていて……傘はなくて、カバンを頭の上に載せて、走っていたの。

 そのカバンの隙間から、ちょっとだけ本の背が見えて──青い色をしていたような気がするんです。……それだけなんですけど」

 

 狭霧様は不思議そうに首を傾げた。

 

「昨晩、珍しく、あの頃の夢を見ました。顔は……やっぱり思い出せなかったけれど、なぜかその場面だけが、妙に鮮明で。起きても青い本みたいなものが、ずっと頭に残っていて……」

 

 わたしはその言葉を、胸の奥に刻みつけるように聞いた。

 

 何十年という時間を越えて浮かび上がった、ほんの一瞬の記憶。

 それが、わたしにとっては、なによりの手がかりだった。

 

 青い本──

 

 それを探せば、もしかしたら、なにかが繋がるかもしれない。

 

 わたしは、調べ始めることにした。

 この図書館にある、あらゆる「青い本」について。

 

 たとえどれだけ時間がかかったとしても、わたしの司書魂(新人)に誓って。

 図書館にあるすべての記録を、見落とさずに辿っていこうと思った。

 

 

 

 

 それから数日間、わたしは図書館の資料室にこもりきりになった。

 

 調べたのは、問題の年の、梅雨の時期に紛失扱いとなった本のリストだった。

 他にも、返却された本の中で、備品番号や表紙の色、装丁などが食い違っているもの。

 

 ありとあらゆる不一致を洗い出していった。

 

 司書の先輩も、最初は驚いた様子だったけれど、わたしが事情を打ち明けると、真剣な顔で頷いてくれた。

 それからは他の職員たちも巻き込んで、ちょっとした“捜索隊”のようになった。

 

「新人のくせに、先輩たちをこき使うとはねぇ」

 

 記録棚の奥から埃まみれになって戻ってきた先輩が、苦笑まじりにぼやく。

 

「……すみません……」

 

「冗談。あんたの必死さ見てたら、こっちも手伝いたくなるのよ。がんばんなさい、新人ちゃん」

 

 梅雨の図書館は、しっとりと静かだった。

 来館者もまばらで、そのぶんわたしたちはゆっくりと、地道に手がかりを探すことができた。

 

 調べて、照らし合わせて、外して、また調べて──

 その繰り返しの末。

 

 わたしは、ある一冊の本にたどり着いた。

 

 いや……正確には“二冊”の本。

 

 『冷静と情熱のあいだ』

 

 戦史時代よりもさらに前、いわゆる“旧時代”に出版された、恋愛小説。

 当然その書籍は、戦後に燃え残った本を元に、再出版されたものだ。

 

 だけどそれは重要じゃない。

 大事なのは、その内容。

 

 男女それぞれの視点から描かれた特殊な構成の書籍。

 

 女性の作家が綴った、女性主人公視点の本が「赤」

 そして男性の作家が描いた、男性主人公視点の本が「青」

 

 二冊でひとつの物語を成すという、珍しい形式の本だった。

 

 そして、図書館の蔵書リストには「赤」と「青」の両方が登録されていたのに──

 

 現在所蔵されているのは「赤」だけだった。

 

 利用頻度が低い本が並ぶ保存書庫のさらに奥。

 ほこりをかぶった本の背表紙には、確かに刻まれていた。

 

『Rosso』

 それは、女性側の物語。

 ならば、提督が持っていたと狭霧様が語った、その青い本は──

 

『Blu』

 男性側の視点で語られる物語だったのだ。

 

 胸の奥に、そっと火が灯ったような気がした。

 これかもしれない。

 

 何十年の時を超えて、狭霧様の記憶に残り続けた一冊。

 狭霧様の提督が最後に、この図書館で手にしていた本。

 

 わたしはそっと、「赤」の本を手に取り、その重みを感じながら、しばらくじっと目を閉じた。

 

 物語が、二人でひとつだったように──

 

 あの人たちも、そうだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 それが、どうしてかはうまく言えなかったけれど。

 この本は、狭霧様の手元にあるべきだと、そう思った。

 

 けれどわたしは職業柄、本を私物のように譲ることはできない。

 というか、そもそもこれは図書館の本だ。

 

 そうなると、正式に「貸し出す」しかなかった。

 

「狭霧様、もしよろしければ……図書カードをお作りしても、いいですか?」

 

 そう尋ねると、狭霧様は一瞬、不思議そうにわたしの顔を見つめた。

 そして、ふっと笑みを浮かべて、小さく頷いてくださった。

 

 その日、わたしは狭霧様のカードを一枚作り、貸出カウンターで手続きをしてから、あの「赤」の本を丁寧に包んで手渡した。

 

「これは……提督が持っていたに違いない『青い本』と対になる本なんです。

 内容も、登場人物も、もう一方の視点から書かれていて……きっと、なにかが伝わるかもしれないと……思って……」

 

 差し出すわたしの手を、狭霧様は少しだけ迷ったように見つめていた。

 その目には、戸惑いと、どこか遠い過去を思うような、淡い揺らぎがあった。

 

 それでも狭霧様は、やがてそっと本を受け取ってくださった。

 まるで掌の上に置かれたものの重みを、言葉ではなく体で感じ取ろうとするかのように、両手で包み込むようにして。

 

「……ありがとう」

 

 それだけを残して、その日は、静かに帰っていかれた。

 

 

 そして翌日。

 

 狭霧様は再びベンチに現れ、わたしに本を返却してくださった。

 

 そこに笑顔はなかった。けれど、拒絶でもなかった。

 ただ、まっすぐなまなざしで本をわたしに差し出し、淡く静かにこう言った。

 

「ありがとう。とても……嬉しかったです。あたたかい気持ちになりました」

 

 それだけ。

 

 どんなふうに読まれたか、本のどこに心を寄せられたのか。

 それらをわたしは聞くことができなかったし、狭霧様もまた語ることはなかった。

 

 そしてふと気がつく。

 

 ──そういえば、わたしはあの本を、読んでいなかった。

 

 図書館の書架の奥から見つけたあと、一刻でも早く狭霧様にと思い、本を開いてすらいない。

 嬉しさのあまり、自分の目でその物語をたどってみようとは思いもしなかったのだ。

 

 わたしはカウンターの裏に戻り、誰もいない時間帯を見計らって、再びあの本を手に取った。

 赤茶のクロス装丁は、少し色あせていたけれど、指先になじむ柔らかさがあった。

 

 そして、そっと──ページを開く。

 

 

 

 ページを開くと、そこには淡々とした語り口で綴られた、ひと組の男女の物語があった。

 理由があって別れ、時間を経て、再び出会う──そんな、奇跡のような話。

 

 かつて愛し合っていたはずなのに、状況や選択、心の綾で、すれ違い、傷つけ合い、遠ざかってしまう。

 それでもなお、心のどこかで相手を想い続ける主人公の女性。

 

 交錯する記憶と、すれ違い続ける時間。

 

 だがその最後は──

 

 ページをすべて読み終え、本をそっと閉じたとき。

 胸の内に冷たい水が注ぎこまれるような感覚があった。

 

 それは、静かで、深く、やさしいのに、どうしようもなく悲しかった。

 

 

 ──再会して、結ばれる。

 

 

 その結末をしっかりと確認したはずなのに、認めたくなかった。

 「赤」の物語に登場する彼女は、長い時間と多くの感情を経て、ようやく愛する人と再び向き合うことができた。

 

 けれど狭霧様は違った。

 

 あの雨の日、図書館の前で始まった、儚い一連の記憶は、ついに一度も結ばれることなく、途切れてしまったのだ。

 

 わたしは、震える手で本の背表紙を撫でる。

 

 ──この本を、狭霧様に渡してよかったのだろうか。

 

 あの方がどんな気持ちでページをめくったのか。

 そのとき、どれほどの痛みを思い出したのか。

 

 それを思うと、心の奥に鉛のような重さが沈んだ。

 

 わたしは、あの方に再び過去を突きつけるようなことをしてしまったのではないか。

 「再会」の物語など、けっして訪れなかった結末を持つ狭霧様にとって、それはあまりにも残酷だったのではないか。

 

 ──わたしのしたことは、思いやりではなかったのかもしれない。

 

 善意であると信じた行為の、その向こうに潜んでいた無神経さ。

 それに気づいた途端、吐き気がするほどの後悔が押し寄せた。

 

 わたしは本を抱きしめるように胸に当てたまま、机に伏せた。

 涙は出なかった。

 

 ただ、からっぽになったように、心が静まり返っていた。

 

 狭霧様は、なんと美しい人だったのだろう。

 誰にも触れられない悲しみを、その内側に抱えたまま、それでも微笑んでいた。

 

 そのひとつひとつを、わたしは本当に理解できていたのだろうか。

 

 ……いいや、わかっていなかった。

 きっとわたしは、ずっと自分の気持ちばかりを見つめていたのだ。

 

 窓の外で雨が降り続いていた。

 その音が、心に残った一行を、繰り返し囁いていた。

 

 ──困らせたくはなかったが、でも、どうしていいかわからなかった。

 

 

 

 

 朝、目が覚めた瞬間、全身が重かった。

 

 喉の奥にざらつく痛みがあり、頭の芯がじんじんと熱をもっていた。

 これはもう明らかに風邪だ、とすぐにわかった。

 

 家の電話を使い、図書館の職場に電話をかける。

 まだ出勤前の時間だったが、事務室の電話はすぐに応答があった。

 

 出たのは、いつも穏やかな先輩だった。

 

「……すみません、今朝から熱っぽくて。無理すれば行けないこともないんですが、たぶん風邪だと思うので、大事をとって今日はお休みさせてください」

 

『そう、無理しないでね。最近ちょっと頑張りすぎてたから、いい休養になるわよ』

 

 優しい声に、思わず喉の奥が詰まりそうになる。

 謝罪とお礼を伝えて電話を切り、そのまま部屋に戻った。

 

 病院に行くまでもない。

 

 熱も高くはないし、薬さえ飲んで、あとはおとなしくしていれば治るだろう。

 家で静かに寝ていることにしよう──そう思って、再び布団に身体を沈めた。

 

 だが、本当にしんどいのは、熱のせいではなかった。

 

 むしろ身体の発熱に浮かされたように、わたしの頭はひどく冷静に、自分という人間の内側を照らし出していた。

 

 

 ──わたしは、病気なのだ。

 

 

 風邪ではなく。

 

 もっと根の深い、厄介で、厭うべき種類の病。

 生まれついて抱え込んでしまった、どうしようもない歪み。

 

 わたしはずっと、骨のようなものが好きだった。

 白く、冷たく、美しく、儚く、強さを秘めているもの。

 

 それに似たなにかを、狭霧様の中に見た。

 初めてその姿を目にしたとき、雷鳴と共に胸を貫いた感情は、憧れなんて生易しいものではなかった。

 

 それは、欲望だったのだ。

 

 恋と呼ぶにはあまりに不穏で、愛と呼ぶには独りよがりで、

 ただただ一方的に美しいものを所有したいという、倒錯した感情だ。

 

 

 その欲望を叶えるためにわたしは──

 

 

 わたしは狭霧様に『赤』の本を手渡してしまった。

 あの本がどういう物語だったか、少しでも考えれば、わかるはずだったのに。

 

 再会と愛、幸福な結末。

 

 けれど狭霧様は、それを持っていない。

 その違いを知らしめるように、無神経に本を差し出してしまった。

 

 あの方を、もっと深く傷つけたのは、わたしだ。

 

 こんなふうに、美しさに執着し、哀しみに酔い。

 他者の悲劇に勝手に自分の感情を重ね合わせていく。

 

 その行為そのものが、醜くて、たまらなく気持ち悪い。

 

 どうして自分はこんなふうにできてしまったのか。

 なぜ、普通の好きを持って生まれてこなかったのか。

 

 布団の中で目を見開き、わたしは起きたままうなされていた。

 熱に浮かされた意識の隙間で、狭霧様の姿が何度も浮かび上がる。

 

 微笑む顔、泣きそうな横顔、ページを閉じる静かな手元。

 それらすべてが、わたしの罪のように胸に突き刺さっていた。

 

 もう、二度と顔を合わせられない。

 

 その確信が、なにより苦しかった。

 

 

 

 

 どれくらい眠っていたのだろう。

 

 夢とうつつのあわいに沈んだまま、わたしはふとした物音に目を覚ました。

 

 カーテンの隙間から差し込む、ぼんやりとした午後の光。

 熱に浮かされた頭では、それが何時のものかもよくわからなかった。

 

 けれど、確かに誰かがそこにいた。

 

 枕元に、誰かがちょこんと座っていた。

 

 白い膝、その上に乗せられた細くて白い指、手。

 胸元に垂れている銀色の髪、アメジストのような……瞳。

 

 静かな気配。

 

 ──そして。

 

 

「狭霧様……?」

 

 

 わたしは思わずそう呼んでいた。

 喉がかすれて声にならないほど弱く、それでも彼女には届いたのだろう。

 

「はい」

 

 そう返事をして、狭霧様がわたしの顔を覗き込んできた。

 すぐ目の前にあるその瞳は、いつものように少し寂しげで、けれど優しかった。

 

 長く、美しい銀色の髪が、わたしの額にふわりとかかった。

 

「狭霧様の髪……いい匂い……」

 

 熱に浮かされたまま、夢うつつで、わたしはそのまま言葉をこぼしてしまった。

 狭霧様は小さく目を見開き、少し髪を撫でて顔から離しながら、申し訳なさそうに笑った。

 

「……あら、ごめんなさい。でも……ありがとうございます」

 

 その礼の言葉があまりに自然で、あまりに生きていて。

 そこでようやく、わたしは理解した。

 

 これは夢ではない。

 

 狭霧様は、ほんとうにここにいる。

 

「え……えっ!? あの、狭霧様!? どうして……?」

 

 慌てて起き上がろうとしたわたしを、狭霧様はそっと手で押しとどめた。

 

「寝ててください」

 

 その声がとてもやさしくて、わたしはなにも言えなくなった。

 

「図書館に行ったら、他の司書の方がわたしのところにやってきて、あなたが風邪でお休みだと聞いたので……少し、心配になって。無理を言ってあなたの住所をお聞きして、お見舞いに来てしまいました」

 

 穏やかに、けれどどこか気まずそうに視線を外しながら、そう話す狭霧様。

 

「差し入れにゼリーを持ってきました。ご家族の方に渡してあるので……よくなったら、食べてくださいね」

 

 わたしの家は古い一軒家で、両親と妹と暮らしている。

 きっと玄関を開けた母が、驚きながらも丁寧に応対してくれたのだろう。

 

 ──狭霧様が、わたしの家に来た。

 

 それだけで心臓がうるさくなった。

 

「で、でも……風邪、うつったら……」

 

 思わず言いかけるわたしに、狭霧様は微笑んで首を横に振った。

 

「艦娘は、風邪にはかからないんです。だから、だいじょうぶですよ」

 

 目の前の狭霧様が、わたしの枕元で、静かに、当たり前のように微笑んでいる。

 

 なにも言えないわたし。

 それを、優しく見つめる狭霧様。

 

 やがてふたりのあいだに、言葉のいらない沈黙が訪れた。

 

 その沈黙は不思議と居心地よく。

 淡く香るハーブのように、わたしの熱を、わずかに鎮めてくれる。

 

 穏やかな沈黙の中、わたしはしばらく目を閉じていた。

 

 狭霧様の存在がそばにあること。

 それだけで、胸の奥にあったざわめきは少しずつ薄れていった。

 

 

 けれど──

 

 

 落ち着いてきたその隙間。

 眠る直前に抱えていた、あの苦しい思いがにじみ出すように戻ってきた。

 

 喉の奥が締めつけられるような感覚が走る。

 胸の内から、どうしようもなく、涙があふれてきた。

 

「……どうしましたか?」

 

 気づいた狭霧様が、そっと問いかけてくる。

 その声が優しければ優しいほど、わたしはもう堪えきれなかった。

 

「ごめんなさい……っ、本当に……」

 

 わたしは、顔を両手で覆って泣いた。

 

 こんなに情けなく、こんなに子供のように泣いたのは、いつぶりだろう。

 いや、つい最近泣いたような記憶がある、それも何度も、ここ最近何度も。

 

 記憶だけでなく、熱と涙とで、顔の感覚さえ曖昧になっていた。

 

「赤の本……あれ、わたし、無神経に……渡してしまって……っ」

 

 狭霧様が、少しだけ目を見開いたようだった。

 

「本? どうして……謝るんですか?」

 

 わからない──とでも言いたげに、優しく眉を寄せるその顔。

 わたしはそれを目にして、どうしようもなく胸が苦しくなった。

 

「だって……っ。狭霧様は、あの本みたいに、提督と再会できなかったのに……。なのにわたしは、あんな……再会できる物語なんて渡して……っ」

 

 声にならない声で、わたしは嗚咽まじりに言った。

 

「わたし……勝手に……勝手に、狭霧様の感情を想像して……余計なことをして……っ、かえって、傷つけて……っ」

 

 言葉の端が乱れていく。

 

 もう、なにをどこまで話したのかわからない。

 ただ、胸の奥の罪悪感と嫌悪と後悔が、ごちゃまぜになって、涙になって流れ出していった。

 

 狭霧様は、それを一言も遮らず、最後まで静かに聞いていた。

 黙って、ただ、そこにいて、受け止めてくれた。

 

 やがて、枕元に置いてあった水差しに目をやると、彼女は静かに立ち上がり、そっと水をコップに注いだ。

 そして、わたしの額に触れるように優しく撫でてから、体を支えて上半身を少し起こしてくれた。

 

「……お水、飲めますか?」

 

 うなずくことしかできなかった。

 

 そっと添えられた手と、コップの縁から口元に流れ込む冷たい水の感触が、胸の奥のざわめきを少しだけ、沈めてくれた。

 

 冷たい水が、喉を滑って落ちていく。

 少しだけ、息がしやすくなった気がした。

 

 けれどわたしは、うまく力が入らず、わずかに口元から水がこぼれてしまった。

 

 狭霧様はこぼれた水を見て、ほんの少しだけ目を細め、薄紫のハンカチを取り出す。

 そうしてそっと、わたしの口元を拭ってくれた。

 

 その手つきはひどく柔らかくて、丁寧だった。

 

 わたしは、なにも言えなかった。

 ただ、拭かれるままに、涙の名残がまだ残る頬を晒すしかなかった。

 

 やがて、わたしの呼吸が落ち着いたのを見届けると、狭霧様はハンカチをしまい、小さく息をついてから、ぽつりと話し始めた。

 

「……誰かのために、なにかをしてあげるのって、難しいですよね」

 

 その言葉は、まるで自分に向けているようでもあり、わたしへの返答のようでもあった。

 

「わたし、一人でいる時間が長かったんです。丘の上のコテージに、ずっと。だから、人になにかをしてあげることも、なにかをしてもらうことも……ほんとうに驚くほど経験がなくて」

 

 そう言って、少し恥ずかしげに笑う狭霧様の顔は、それでもどこか寂しげだった。

 

「せいぜい、天霧さん──以前お話した、わたしの姉妹艦の艦娘なんですけど、彼女にお世話してもらったくらいで……。自分からなにかしてあげたことって、ほとんど無かったと思うんです」

 

 狭霧様はふと視線を落としながら、少し間を置いて、言葉を継いだ。

 

「だから、今日、あなたが風邪だって聞いて……お見舞いの品を買おうと思って、商店街まで行ったんです。でも──商店街の入り口の前で、立ち尽くしてしまいました」

 

 ゆっくりと、語るように。

 

「なにを買えばいいのか、なにが必要になるのか、まったくわからなくて……。わたしが、あなたにできることって、なんだろうって、ずっと考えていたんです」

 

 その声には、どこか迷子のような、静かな不安がにじんでいた。

 

「結局、たいしたものは買えませんでした。以前お話ししてくれた洋菓子店のゼリーだけ。でも、それがあなたにとって迷惑になっていなければ……いいんですけれど」

 

 わたしは、まだなにも言えなかった。

 ただ、胸の奥に、じんわりと、やわらかな熱が広がっていた。

 

「……もしかして、ゼリー、嫌いでしたか?」

 

 ふいに狭霧様がそんなことを口にされたので、わたしは思わず首をふるどころか、両手をバタバタと慌てて振ってしまった。

 

「だ、大丈夫です! 狭霧様からいただいたものなら、わたし、なんでも大好きです! 全部、わたしがいただきます、はい!」

 

 声がわずかに上ずっていたかもしれない。でも、それは本心だった。

 狭霧様がわたしのために選んでくれたものなら、それがどんな物でも、どんな味でも、どんなかたちでも、全部大切に思える。

 

「……よかった」

 

 そう小さく言って、狭霧様は、ほんの少しだけ肩をゆるめるように安堵の息をついた。

 

 その表情は、ほっとしたような、けれどまだどこかに緊張の残るような。

 そんな曖昧な揺らぎがあった。

 

「すごく、不安だったんです」

 

 狭霧様はまたゆっくりと、言葉を継いだ。

 

「あなたにとって迷惑だったら、どうしようって。わたし……いまのわたしと、ちゃんと話をしてくれる人なんて、ほんとうに少ないから。だから、あなたに嫌われたくないって、思ってしまいました」

 

 その声音は、風が吹きすぎたあとの静けさのように、ひどく静かで、けれど真っすぐだった。

 

「でね、気づいたんです。ああ、もしかしたら──あなたも、同じだったのかもしれないって」

 

 狭霧様は、ほんのわずかに笑ったようだった。

 

「不安で、怖い気持ちを抱えながらも、それでも、わたしのために、いろいろしてくれたんだって」

 

 わたしは、返す言葉を持たなかった。

 

 ただ、胸の奥に小さな灯りがともったような、そんな気持ちがした。

 それは、なにも語らずとも、ゆっくりと心を温めてくれるような──そんなやさしい光だった。

 

 

「……わたし、あのとき──」

 

 

 狭霧様の声が、どこか遠くを眺めるようにゆっくりと語り出す。

 

「提督に、傘を渡すことが……いえ、手を、掴むことができませんでした」

 

 まっすぐな視線ではあったが、その目の奥には深い水底のような影が落ちていた。

 

「いろいろと、理由はあったんだと思うんです。わたしなりに、言い訳もできる。でも……やっぱり、いちばんの理由は──怖かったんです」

 

 ぽつりと零すようなその言葉には、年月が蓄えてきた重みと、ふと滲むような未練とがあった。

 

「……あのとき、わたしにはじめて声をかけてくれたときの、あなたみたいな勇気がわたしにもあったら……きっと、違う未来が待っていたのかなって」

 

 それは、過去に置き去られた想いへの、ささやかな独白だった。

 

 でも、次の瞬間には、狭霧様はハッとしたように目を伏せ、無理やり口元に笑みを浮かべた。

 

「……なんだか、言わなくてもいいことを言ってしまいましたね。ごめんなさい。お邪魔しました。どうか、お大事に」

 

 そう言って、立ち上がりかける。

 

「ま、待ってください!」

 

 わたしは、力なく布団から身を起こそうとしながら、震える声を絞り出した。

 

「明日には、きっと風邪もよくなるので……また図書館前のベンチで、お話ししてもいいですか?」

 

 その問いに、狭霧様は小さく、しかし確かにうなずいた。

 

「ええ、もちろん」

 

 それからふと、懐かしいものを思い出すような柔らかな声音で言った。

 

「……今年の梅雨はもう少し続きそうですから、いつもの時間に、あのベンチに座ってます。ですのでいつでも、来てくださいね」

 

 そう言って、狭霧様は小さく頭を下げ、「お大事に」とひとこと添えて、部屋を出ていった。

 

 静かに閉まった扉の向こうに、残り香のように漂う銀髪の匂いと、指先のぬくもり。

 わたしは、まるで夢のようだったさっきまでの出来事を、ぼんやりと思い返していた。

 

 髪が頬にかかった感触、水の冷たさ、喉をなでた彼女の声──

 

 そのすべてが、微熱に浮かされたわたしの意識に、やさしく沈殿してゆく。

 

「……綺麗だったな、狭霧様」

 

 自然とこぼれたその言葉が、部屋の中にひとり分の光を灯したように思えた。

 

 

 

 

 翌朝。

 

 まだ梅雨の終わりには少し早い、灰色がかった陽光の中を、わたしはまるでミュージカル映画の登場人物のような気分で歩いていた。

 

 いや、歩くというよりは、滑るように、あるいは踊るように出勤していたと言ったほうが正しいかもしれない。

 

 鼻歌なんて、出たのは何年ぶりだろう。

 通り過ぎる街路樹も、道端の電柱も、昨日よりずっと好ましく見える。

 

 狭霧様の声が、まだ耳の奥に残っている。

 

 

 ──いつでも、来てくださいね。

 

 

 あの優しさの余韻が、今日という一日をやわらかく包んでくれている気がしていた。

 

 だが、図書館の扉を開けて現実に引き戻されるのに、そう時間はかからなかった。

 

「無理しない、まだ病み上がりなんだから」

 

 先輩司書の柔らかな声に、思わず苦笑いを返す。

 

「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」

 

「なら例の郵便物の整理から頼める? 溜まってるから、ほら、あそこに」

 

 視線の先には、事務カウンターの裏に山のように積まれた封筒と段ボールの群れ。

 

 思わずひと息ついた。

 

 図書館に届く郵便物は本当に様々だ。

 新刊の納品書とともに届く本たち。

 古書店や個人から寄せられる蔵書の寄贈。

 

 「これ、価値ありますか?」という戦史時代以前の書物の鑑定依頼。

 表紙のない本の作者調査や、破れたページの修復希望など。

 一つひとつが、物語の痕跡を抱えてこの図書館へ流れ着く。

 

 それらを仕分けて、記録し、必要なら専門部署へまわす。

 言うほどロマンチックでもない、地道な作業だ。

 

 午前中いっぱいをかけて、段ボールの山を三つ片づけたところで、ようやくわたしは椅子に腰を下ろした。

 

 時計は、午後一時を少し回ったところ。

 狭霧様がいらっしゃるまで、まだ少しあるな──そう思って手元の封筒をまとめていたときだった。

 

 その一通に、目が止まった。

 

 市内の個人名義から届いた、厚手のA4封筒。

 

 消印は三日前の日付。

 緩衝材が透けて見えるほど、封は膨らんでいて、明らかに中には本が一冊、収まっている。

 

 なんとなく、見過ごせない予感がして、わたしはその封筒を膝の上にのせた。

 

 開封用のナイフを手に取り、封をなぞるように切る。

 緩衝材を静かに裂く。

 

 中から現れたのは、見覚えのあるデザインだった。

 

 いや、見覚えがあるというよりも──

 

 わたしの記憶の中に、つい先日読み終えた本とぴたりと重なるような意匠。

 色違いのカバー。揃えられた装丁。

 

 『青』

 

 狭霧様のために探していた、けれどもう見つからないと諦めていた、あの本の、対になるもの。

 

 わたしは、手を止めた。

 

 思考が、数秒だけ、まっさらになった。

 それから、胸の奥でなにかがゆっくりと跳ね上がるのを感じた。

 

 偶然? それとも、呼び寄せた奇跡? あるいは──

 

「……これは」

 

 思わず声に出してしまう。

 

 ふと封筒に入っていた、なにかがひらりと舞い落ちた。

 手紙だった。

 

 折られたままのそれを広げると、丁寧で落ち着いた筆跡が、淡く滲んだインクで綴られていた。

 

 

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 拝啓

 

 突然の郵送、失礼いたします。

 このたび外地へ転居することになり、兄の遺品を整理しておりましたところ、こちらの本が出てまいりました。

 

 どうやら生前、兄が貴館より借り受け、そのまま長い年月を経てしまったもののようです。

 本来であれば直接そちらへ返却に伺うのが筋ではございますが、引っ越しの準備に追われており、こうして郵送にてお返しする無礼をお許しください。

 

 長らくの間、図書館蔵書をお返しできずにおりましたこと、心よりお詫び申し上げます。

 

 敬具

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 読み終えた瞬間、胸の奥でなにかが凍るような感覚がした。

 

「外地に……引っ越す」

 

 その言葉が、妙に現実味をもって響いた。

 

 この手紙の『兄』。

 この本を、かつて借り出した人物。

 

 それがもし、狭霧様の『提督』だったとしたら──。

 

 わたしはすぐに、封筒の宛名を確認した。

 差出人名の住所は市内、それも公共交通で行けない距離ではない。

 

「……まだ、間に合うかもしれない」

 

 脳裏をかすめたのは、今日という日。

 

 引っ越しというものは、往々にして日取りが決まっている。

 もし、それが“今日”だったとしたら?

 

 考えるより早く、わたしの手は封筒を抱えていた。

 

「狭霧様が来るの、午後二時……でもそれまで待っていたら、手遅れになるかもしれない」

 

 わたしは、封筒を強く胸に抱きしめたまま立ち上がった。

 

「……行かなきゃ」

 

 足が動く。

 

 事務室を抜けて中央開架室を出る一歩手前、背後から声が飛んできた。

 

「ちょっと、どうしたの急に!」

 

 振り返ると、カウンターの奥から、司書の先輩。

 あの穏やかで、どこか頼りになるあの人が、小走りで近づいてきていた。

 

 髪をひとつにまとめて、館内用のカーディガンの袖を軽くまくった姿。

 梅雨時の湿気に少しだけ乱れた前髪が、逆に彼女の実直さを際立たせていた。

 

「なにかトラブル? それとも体調、また悪くなったの?」

 

 わたしは思わず言葉に詰まった。

 封筒をぎゅっと胸に抱えながら、喉が焼けるような焦燥に追い立てられる。

 

「わたし……行かなきゃ……。狭霧様の……提督の手がかりが……引っ越しで、消えちゃうかもしれないんです……!」

 

 ぜんぶ説明なんてできない。

 言葉は途中でとぎれとぎれになってしまう。

 

 でも、先輩は、わたしの必死な顔を見つめ、ほんの数秒でなにかを悟ったようだった。

 

「……ほんとにあんたって子は……」

 

 ため息交じりにぽつりとつぶやいたあと、彼女は腰に手を当てて、微笑んだ。

 

「いいから行ってきなさい。郵便の山は、なんとかしとくから。それ、大事なことなんでしょ?」

 

 思わず涙が出そうになった。

 

 わたしは、ぺこりと頭を深く下げると、正面玄関に向けて走り、ぶつかるように扉を開けた。

 

 

 ざあざあと、梅雨の雨が路面を叩いていた。

 

 傘なんて持ってきていない。

 視界は滲むほどに、灰色で、濡れている。

 

 足が、一瞬、止まった。

 

 でも──時間は、待ってくれない。

 

 こんなところで、ためらってる場合じゃない。

 

 

「……雨がなんだッ!!」

 

 

 わたしは自身を奮い立たせるように叫び、雨のなかへ飛び出した。

 

 スニーカーが水を吸って、冷たい感触がつま先に広がる。

 髪がすぐに濡れて、肌に張りつく。

 

 だけど、構ってなんていられない。

 

 わたしの中の綺麗なものも汚いものも。

 その全てが、走れと叫んでいるのだ。

 

 封筒が濡れないように胸元に抱え、わたしはずぶ濡れの道を走り出す。

 

 封筒を抱えて走るわたしの心臓は、早鐘のように鳴っていた。

 その音がなによりも真剣に、わたしの中に訴えていた。

 

 

 

 ──この手がかりは、絶対に、逃がすな!!

 

 

 

 正面門を飛び出すと、視界は雨に滲んだ。

 

 わたしは、まるで水の中に放り出されたような錯覚に陥りながら、ずぶ濡れの道を走り出した。

 靴の中で水が音を立て、重たい空気が胸を圧迫する。

 

 目的地は、さほど遠くはないけれど、わたしの足ではどんなに急いでも一時間以上かかる距離だ。

 タクシーでも捕まえられればと、道の端に視線をやりながら、ただひたすら足を前に出し続ける。

 

 そのときだった。

 

 不意に、誰かの手が、わたしの手首をつかんだ。

 

 

 ──え?

 

 

 反射的に振り返る。

 

 瞬間、視界に飛び込んできたのは、銀の髪だった。

 

 梅雨の雨に濡れた、絹糸のような銀。

 陽の光を含まないのに、なお輝きを失わない淡い光沢。

 

 それが、額のあたりから流れ落ち、頬に貼りつき、首すじを伝って、雫となって落ちていた。

 

 その髪を持つのは、狭霧様だった。

 

 信じられないというよりも、ただ、見惚れた。

 

 濡れた服に包まれた身体、細い首に巻かれたチョーカー、睫毛に宿った細かな水の粒。

 それらすべてが雨という演出の中でひとつに溶けあい、まるで時間が、ほんとうに、静止してしまったかのようだった。

 

 

 ──この人は、雨の中で生きている。

 

 

 そんな言葉が胸をかすめた。

 現実感がなかった。

 

 けれど、彼女の指先は、確かにわたしの手首を掴んでいた。

 

 熱をもって、まっすぐに。

 

 彼女が持っていた傘は、そのとき、すでに地面に落ちていた。

 布が雨を吸い、しずかに水を弾いていた。

 

「──これを」

 

 そう言って狭霧様は、大切にもう片方の手で握っていた一本の傘を、手早く開いた。

 

 暗く濃い青色の布地に、黒い持ち手の傘。

 どこか、古い港町の香りがした。

 

 狭霧様はそれをわたしの手に握らせる。

 そして雨粒のついたままの睫毛をふるわせて、わたしを見つめた。

 

「……病み上がりなんですから。そんなに急いで、どこへ行こうとしてたんですか?」

 

 その声は、やさしかった。

 雨の音のなかでもはっきりと届くほどに、強く、静かだった。

 

「無理はしないでください。わたし、あなたが倒れてしまうのを見たくありません」

 

 なにも言えなかった。

 鼓動だけが、自分の中で高鳴りつづけていた。

 

 同じ傘の下で、狭霧様と並んで立っている。

 

 

 ──信じられない。

 

 

 すぐそばで、狭霧様の髪が揺れている。

 

 傘の骨に触れそうなくらい近くで、あの澄んだ横顔がある。

 彼女の吐息が、雨の湿り気を含んだ空気の中でふんわりと触れるようで、わたしは思わず息をひそめた。

 

 昨日布団の中で自己嫌悪に溺れ泣きじゃくっていたわたしが。

 いまはこうして、狭霧様と、同じ傘の下にいる。

 

 これは夢ではないのかと、思った。

 

 時間の縁から一歩だけはみ出してしまったような、あの世とこの世のあいだにある一瞬のきらめき。

 現実と現実のあいだに裂け目ができて、そこにそっと閉じ込められたふたりだけの空間。

 

 それほどまでに、いま、わたしは幸せだった。

 

 ……けれど。

 

 わたしはハッとしたように我に返る。

 

 このまま立ち尽くしていてはいけないのだ。

 

 わたしはそっと腰をかがめ、地面に落ちていた狭霧様の傘を拾って彼女に握らせた。

 狭霧様の手が、少しだけあたたかかった。

 

 躊躇いそうになる自分の指先を、ぎゅっと、意志の力で前に出す。

 

 そして。

 

 

「──来てください、狭霧様!」

 

 

 思わず叫ぶようにしてそう言い、彼女の手を取った。

 指と指とを強く絡ませる。

 

 

「えっ?」

 

 

 狭霧様は驚いたような声を上げたけれど、わたしはそのまま手を引いて走り出した。

 

 雨がまだ降っていた。

 道は濡れて、空は鈍色に沈んでいた。

 

 けれど、不思議とそれが、ふたりの駆け出す背中に光を与えてくれているように思えた。

 

 後ろから、小さく笑う声が聞こえた。

 

 

「ふふ……あははっ」

 

 

 走りながら振り返ると、狭霧様が笑っていた。

 肩をすぼめて、雨に濡れながら、わたしに手を引かれて走っている。

 

 けれどその顔は、嬉しそうだった。

 

「もう……どうしたんですか、こんな雨の中で!」

 

 くぐもった空の下、笑い声が弾む。

 狭霧様の声が、雨粒に混じって跳ねていた。

 

 まるで、青春の一コマだった。

 

 わたしも狭霧様も、どちらも女で、制服を着ているわけでもないのに。

 

 ふたりの姿は、どうしようもなく──恋人のようだった。

 

 誰かがこの風景を切り取って絵にしたなら、きっと「恋の逃避行」なんて、タイトルがつくのかもしれない。

 そんなふうに思ってしまうほど、雨の中でわたしたちは、確かにふたりきりだった。

 

 

 

 

 幸いなことに、すぐに一台のタクシーが雨のなかをゆっくりと通りかかってくれた。

 

 手を挙げると、すぐに停まってくれたのはまるで奇跡のようで。

 わたしは狭霧様の手を引いたまま、ほとんど勢いのままに乗り込んだ。

 

 多少濡れてはいたが、封筒を運転手*2に見せる。

 彼は濡れたわたしたちの姿に嫌な顔一つせず、封筒を確認して目的地に向けて車を発進させた。

 

 車内の窓ガラスに、濡れた街並みが流れていく。

 雨はまだ降っていたけれど、次第にその勢いは弱まっていた。

 

 ワイパーの動きも、さっきよりゆっくりに感じられる。

 

 わたしは、封筒の中に入っていた『青』の本、そして手紙との内容。

 そこに書かれていた“引っ越し”という言葉の意味について、口早に狭霧様へ説明した。

 

 狭霧様は黙って、それを聞いていた。

 

 その横顔は、まっすぐ前を向いていて、どこか緊張を湛えていた。

 薄い唇がきゅっと引き結ばれ、まつげが伏せられていた。

 

 いつもの彼女よりも、少しだけ儚く、そして少しだけ、鋭く見えた。

 

 やがてタクシーは、住宅が立ち並ぶ静かな区域へと入っていく。

 

 道の端に沿って、古い平屋があった。

 木造の外壁は時間に焼かれ、ところどころ塗装が剥がれていたけれど、不思議と嫌な印象はなかった。

 

 むしろ、誰かの人生の蓄積が染みこんだような、優しさすら感じられる佇まいだった。

 

「ここです」

 

 そう告げて運転手がブレーキを踏んだときには、雨はすでに小降りになっていた。

 

 タクシーを降りると、しっとりと濡れた石畳の匂いと、雑草の香りがわたしの鼻をかすめる。

 狭霧様は一度深く息を吸い込んでから、わたしの隣に並ぶ。

 

 目の前には、古びた曇りガラスの玄関ドアがあった。

 

 わたしはその隣にある古いチャイムのボタンを押す。

 ボタンはカチリと鈍い音を立てて沈み、その音さえも何十年も昔からそこにあったような響きを持っていた。

 

 しばらくの沈黙のあと──

 

 ドアの向こうから、かすかに鍵を外す音が聞こえた。

 

 ガラリと音を立てて開かれたドアの向こうに、ひとりの女性が立っていた。

 

 初老の女性だった。

 白髪交じりの髪を後ろで束ね、淡いグレーのカーディガンを羽織っている。

 

 目元には年輪のような皺がいくつも刻まれていたが、その瞳は驚くほど澄んでいた。

 

「はい……どちら様でしょうか?」

 

 穏やかな声で、けれどどこか慎重さをにじませた調子で、彼女はわたしたちを見つめた。

 

「失礼します、わたしたち……市立第六図書館から来ました」

 

 わたしがそう名乗ったとたん、初老の女性の表情に、わずかな変化が走った。

 口元は穏やかさを保っていたものの、その瞳の奥に緊張が浮かぶ。

 

「ご安心ください。わたしたち、なにかご請求に伺ったわけではありません、ほんとうに」

 

 あわてて、身を乗り出すようにして、わたしは続けた。

 

「実は……こちらにいらっしゃる狭霧様は、艦娘でいらして──四十年以上前、とある方に“提督としての適合”を感じて、追おうとしたことがあるそうなんです。でも、その方とは結局、その場でお別れになって……それっきり、どなたなのかも、どこにいらしたのかも、わからないままだったそうです」

 

 女性の瞳が、わたしと狭霧様のあいだをゆっくりと行き来する。

 わたしは深呼吸して、封筒を取り出した。

 

「先日、この封筒に入って図書館に郵送で返却されてきた本──それは、あなたのお兄様の遺品から見つかったものと手紙にありました。狭霧様が“提督”と感じたその方が持っていた本と、送っていただいた本が一致しているんです。だから……もしかすると、あなたのお兄さんこそが、狭霧様の“提督”だったのかもしれません」

 

 自分でも驚くほど、言葉はすらすらと出てきた。

 心の奥底に沈んでいたなにかが、ようやく形になって、いまここに届いてほしいと願う気持ちが、そのまま声になったのかもしれない。

 

 初老の女性は、しばし沈黙のままわたしたちを見つめていたが、やがて、ふうと小さく息をつき、やわらかく目を伏せた。

 

「……まあ、どうぞ。荷造りの途中で散らかっていますが……中へお入りくださいな」

 

 その言葉に甘え、わたしたちはそっと頭を下げて、玄関の敷居をまたいだ。

 

 家の中は、時間がそのまま沈殿しているような空気に包まれていた。

 軋む廊下の先に、丸いちゃぶ台が置かれた居間があった。

 

 畳の香りに混じって、古い木材の匂いと、雨を吸った庭木の香りがほんのりと漂っている。

 積み上がった段ボールの数々が、生活の名残とこれからの旅立ちとを静かに語っているようだった。

 

 わたしと狭霧様は、丸いちゃぶ台のまわりに腰を下ろす。

 濡れた衣服の裾が畳に触れて、ひんやりとした感触が肌に残った。

 

 しばらくして、女性が戻ってきた。

 

 お盆の上には三つの湯飲みが載せられている。

 白地に藍色の菊の模様が描かれた、どこか懐かしいかたちの湯飲み。

 

「どうぞ」

 

 差し出されたお茶に、わたしたちは「ありがとうございます」と声を揃えた。

 

 湯飲みを両手で包むと、そのぬくもりがじんわりと手のひらに広がる。

 そっと口をつけたお茶は、驚くほど柔らかく、そして優しい味がした。

 

 雨に濡れた体の芯に、あの湯気のぬくもりがしみこんでいく。

 なにも言わず、隣で狭霧様もまた、その湯飲みにそっと唇を寄せていた。

 

 湯飲みの湯気が静かに立ちのぼるなか、初老の女性は、ふうと小さく息を吐き、その手を膝の上に重ねた。

 外では、雨の音がまだかすかに続いていたが、家の中には、それを包みこむような静けさがあった。

 

「四十年……いえ、もっと前になるかもしれません。あのころ、わたしはまだ若くて──外地に住んでおりました。持病があって、体もあまり丈夫ではなくて、入退院を繰り返していたのです」

 

 淡々とした口調だったが、どこか、過去の埃をそっと払うような響きがあった。

 

「兄は……年の離れた兄でした。家には母とわたしだけで、父はわたしが生まれてすぐに亡くなっていて。兄は、タンカー船の機関士をしていました。昼も夜もなく働いて、わたしの治療費や学費を稼いでくれていたんです。自分の時間なんて、ほんとうになかったでしょうに」

 

 女性の声に、ほんの少しだけ、湿り気が宿った。

 けれど、涙を見せることはなかった。

 

「例の本……」

 

 そう言って、テーブルに置かれた『青』の本が入っていた封筒を見つめた。

 

「恐らくですが、兄がこの街に寄港したとき、図書館にふらりと立ち寄って……手に取ったのでしょう。たぶん──返却期限も、手続きも知らずに、夢中で読んでしまって。気づけば船の出港時間が迫っていて……そのまま、持ち出してしまったのではないかと、思うんです」

 

 女性の視線は、封筒を越えて、なにか遠くの光景を見ているようだった。

 

「兄は頻繁に長期間の航海に出ていたらしいんです。遠い外国の航路をめぐる仕事で。何年も、帰れない航海でしたけれど……給料は良くて、艦連の仕事ということもあり、いろいろと伝手がついて、母とわたしは、この艦夢守市に越してくることができました」

 

 わたしと狭霧様は、息を呑むようにしてその言葉に耳を澄ませていた。

 

「それで……病気も、ちゃんと治すことができました。学校も卒業できて、この街でご縁があり、結婚して、子どもも授かって──普通の、でもとても穏やかな人生を、送らせてもらいました」

 

 一瞬、微笑みが浮かびかけたが、そのあとにくる言葉を前に、そっと下唇を噛んで止めるように、女性は目を伏せた。

 

「……けれど、ある年、兄は……交通事故に遭い、帰らぬ人になりました。海ではなく、陸で──なんとも皮肉な話ですが」

 

 その言葉のあと、居間を静寂が包んだ。

 雨の音も、いまはまるで遠くで流れる音楽のように、遠のいていた。

 

 女性は、そっと湯飲みを手にとって口をつけた。

 その仕草は、とても慎ましく、けれどどこか誇り高いものに見えた。

 

 お茶の香ばしい香りが、わたしの中にもまた、じんとしみ込んでいくようだった。

 

「兄の荷物は……本当に、驚くほど少なかったんです」

 

 そう言って、女性はまたひとつ記憶を辿るように、湯飲みを両手で包み込んだ。

 

「船で暮らしていた人間ですから、身の回りの物は最小限しか持っていなかったんでしょうね。遺品と言っても、段ボール箱にして数個だけでした」

 

 わたしは静かにうなずいた。

 狭霧様は言葉を発さず、膝の上に重ねた手の上で、視線だけを女性に向けていた。

 

「いつか落ち着いたら、ゆっくり整理しようと……そう思っていたんですけど、まぁ現実はなかなかそうもいかず」

 

 女性は、ひとつ、柔らかく笑って肩をすくめる。

 

「子どもが小さかったり、仕事が忙しかったり。家のことも、親のことも、あれこれ重なって……落ち着くのに、十年、いえ、もっとかかったかもしれません」

 

 その「もっと」の重みが、空気の温度を少しだけ変えた。

 

「そうして気がついたら、兄の遺品は、ずっと屋根裏の物置の隅に眠ったままでした。……でも、先日。外地、正確には、こことは別の艦連指定都市に住んでいる息子家族から連絡があって」

 

 女性の表情に、ふっとやさしいものが宿る。

 

「わたしをひとりにはできないから、一緒に暮らそうって。ありがたいことです。もう年ですし、身体も思うようにはいかなくて……甘えることにしました」

 

 それが、今日という日に繋がっている。

 

「引っ越しの準備を始めたときに、あの段ボールが見つかって……久しぶりにふたを開けたんです。中にあったのが……あの青い本でした」

 

 女性の視線が、テーブルの封筒に落ちる。

 

「本を見つけたとき、すぐに図書館に返さなければと思いました。でも、直接伺うにはもう時間もなくて……いえ、正直に申し上げると、なにか罪に問われたりするんじゃないかって、怖かったんだと思います。それで、郵送という形にさせてもらったんです」

 

 そう語る口調は、穏やかで少し震えていた。

 けれど、その奥には、長い時間のなかに積み重なってきたさまざまな想いが、確かにあった。

 

「……お返しするのが遅くなってしまい。本当に申し訳ありませんでした」

 

 女性は、深く頭を下げた。

 白髪のまじった髪が揺れ、テーブルの上に影が落ちる。

 

 わたしはそっと背筋を伸ばし、言葉を選んでから、小さく首を振る。

 

「……いいえ。こうして戻ってきただけで、十分です。長い時間、大切に保管してくださって、ありがとうございます」

 

 わたしの声が静かに部屋にしみ込んでいく。

 女性は、ほっとしたようにもう一度うなずいた。

 

 狭霧様は……ただ、じっと、そのやりとりを見つめていた。

 目を伏せることも、涙をこぼすこともなかった。

 

 ただ静かに、長い長い時の波がようやく岸に届いたような、そんな面持ちで。

 

 湯飲みのなかのお茶が、少しずつ冷めていく。

 けれど、室内にはいま、ほのかなぬくもりがあった。

 

 

 ──けれど、ふと。

 

 

 わたしは胸の奥に、ひっかかるような感覚を覚えた。

 

 それは、先ほどまでの流れに水を差すような疑問。

 だが思わず口に出すことをためらうほどの問いだった。

 

 

 ほんとうに──狭霧様の「提督」は、この方のお兄さんだったのだろうか?

 

 

 狭霧様はなにも言わなかった。

 ただ目を伏せ、穏やかな気配のままで沈黙していた。

 

 けれど、わたしのなかで小さな疑念が、ゆっくりと泡を立てていた。

 

 

 ──もし、違ったら?

 

 

 もし、この本を持っていたというだけで、わたしたちは大きな勘違いをしていたのだとしたら。

 

「……あの」

 

 わたしはおそるおそる、言葉を紡いだ。

 

「その……お兄さまの、お写真などは……もし、あれば、見せていただけませんか?」

 

 女性は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに表情をやわらげた。

 

「ええ……そうね。たしか、卒業式のときの写真と、就職したときのが……」

 

 立ち上がった女性は、部屋の隅に積まれていた段ボールの一つに手を伸ばした。

 封がされていたその箱のガムテープを、カッターで静かに切る。

 

 古びた段ボールの中には、紙に包まれた小物や、古い文具。

 そして厚手の布でくるまれたアルバムが一冊、丁寧に収められていた。

 

 女性はそのアルバムを取り出すと、椅子に戻り、パラパラとページをめくった。

 

 そして、指先があるページでぴたりと止まる。

 

「……あったわ」

 

 ぽつりとつぶやき、アルバムを机の上に開いた。

 

 狭霧様の方へ向けて、そっと。

 

 そこには──色褪せた写真のなかに、三人の姿があった。

 

 中央に立つのは、しっかりと制服を着こなした中学生の少女。

 目の前にいる初老の女性が、まだ幼さを残していた頃の姿だ。

 

 その隣には、和服姿の年配の女性。

 恐らくは、ふたりの母親。

 

 

 そしてもう一人──背後に立つ、背の高い男性。

 

 

 スーツの上からでも分かる、引き締まった体躯。

 浅黒い肌に、精悍な輪郭。

 

 そして、やわらかな笑みをたたえた目元。

 

 優しさと、強さと、どこか影のようなものを同時に感じさせる。

 そんな不思議な気配を纏っていた。

 

 ──狭霧様は、無言だった。

 

 息をすることさえ忘れてしまったかのような表情。

 凍りついたような静寂の中で、ただその写真をじっと、じっと見つめていた。

 

 見開いた瞳が、わずかに震えていた。

 

 狭霧様のなかに、なにかが──確かに蘇ろうとしている。

 わたしは思わず息を呑み、しばらく呼吸を止めてしまう。

 

 雨の音が、遠くでかすかに響いていた。

 

 時間が、写真のなかで、そしてこの部屋で。

 ゆっくりと巻き戻されていくような……そんな、奇跡めいた瞬間だった。

 

 沈黙のまま、どれほどの時間が過ぎただろう。

 

 狭霧様は、じっと写真を見つめ続けていた。

 

 そんな息を呑むような静けさのなかで──ぽたり、と。

 

 その頬を、一筋の涙が伝った。

 

 そしてもう一筋。

 涙は次々とこぼれ落ち、狭霧様の頬をぬらした。

 

 細い指が唇に触れ、微かに震える。

 

 

「……この人です……」

 

 

 掠れた声が、かすかに漏れた。

 

 

「この人……です……」

 

 

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 ただ心の奥から、滲み出た記憶のひとかけらだった。

 

 

「この方が……わたしの……狭霧の提督……だった人です……」

 

 

 顔を上げ、わたしの方を見て、狭霧様は必死に言葉を紡いだ。

 声が震え、涙に滲んでいた。

 

 けれど、その瞳はまっすぐに、わたしの心に届くものを抱いていた。

 

 そして再び、写真へと視線を戻す。

 

「ああ……どうして、忘れていたのかしら……」

 

 涙をぽろぽろとこぼしながら、指先でそっと、写真の上をなぞる。

 

「そう……提督は、こんなお顔だった……」

 

 写真に触れる狭霧様の手は、まるで、壊れ物に触れるようにやさしかった。

 懐かしい宝物に、そっと再会するように──震える指先で、何度も、何度も撫でていた。

 

 うれしくて、うれしくて、たまらない……そんな表情だった。

 

 わたしは気がつけば、涙をこぼしていた。

 

 なぜだかは分からなかった。

 ただ、その姿に心が満たされて、静かに胸が震えていた。

 

 向かいに座る女性も、無言のまま、そっと目元をぬぐっていた。

 

 外では、まだ小さな雨の音が続いていた。

 ぽつりぽつりと、梅雨の雨。

 

 けれど、この部屋のなかには、どこかぬくもりがあった。

 古い木の床がきしみ、湯飲みに残ったお茶がわずかに湯気を立てている。

 

 湿った空気のなかで、なにかが確かに報われた──

 そんな気配が、部屋全体を、やわらかく包む。

 

 時計の針の音だけが、遠くに、静かに響いていた。

 

 

 

 

 その日は、いろいろなことがありすぎた。

 

 もう少しここにとどまって、初老の女性の兄……提督のことを聞きたいと願った狭霧様。

 わたしはその申し出に快諾した初老の女性に礼を述べ、心苦しく思いながらも先に図書館へと戻った。

 

 まだ片づけていない業務が残っていたからだ。

 

 そしてなによりも、いつも通りの「日常」へ、一度戻らなければならない気がした。

 

 戻ったとたん、司書の先輩には、文字通りしこたま怒られた。

 仕事を放り出して飛び出したのだから、当然といえば当然だった。

 

 だけどその口調の端々には、どこか笑みが滲んでいた。

 

「でも、よくやったわね」

 

 そう言われて、恥ずかしさで思わず顔が赤くなる。

 

 そしてそこでようやく、ずっと握りしめていた一本の傘の存在に気づいた。

 それは狭霧様から預かった、あのダークブルーの傘。

 

 

 ──忘れてた。

 

 

 思わず息を呑み、傷などがないか確かめる。

 

 この傘は、狭霧様が「いつか提督に会えたときのために」と持ち歩いていたもの。

 大切に、静かに──ずっとずっと、抱えてきたものだ。

 

 そんな傘を、わたしはいま、借りっぱなしにしてしまっている。

 

 けれど、すぐに返しに行くのは、どこか違う気がした。

 

 

 きっといま、狭霧様は──

 

 

 長い時間をかけて、初老の女性から提督の思い出を聞き。

 アルバムの中の笑顔を見て、大切に遺されたものにそっと触れ、大切な時間を過ごしている。

 

 静かに、けれど確かに、自分の記憶と感情をひとつずつ拾い集めているのだろう。

 

 いま、そこにわたしが入っていくのは、あまりに無粋だった。

 

 

 ──明日、返そう。

 

 

 そう自分に言い聞かせて、もう一度傘の柄にそっと触れる。

 少しだけ手のひらが湿っていて、黒色の柄が冷たかった。

 

 そのあとは、司書の先輩に叱咤されながら、慌ただしく残っていた作業を片づけた。

 

 気がつけば窓の外はすっかり暗く、小雨がまだ静かに降り続いていた。

 

 家に帰り着いたときには、身体の芯までくたびれていた。

 けれど、心にはどこか、不思議な熱のようなものが残っていた。

 

 明日また、狭霧様に会える。

 そして、この傘を返せる。

 

 たったそれだけのことなのに、胸が少しだけ、高鳴っていた。

 

 

 

 

 翌日、朝の空はどこか落ち着かない表情をしていた。

 

 雲は分厚く垂れこめ、風はなく、空気だけが湿って重たい。

 降っていないものの、いつ雨が落ちてきてもおかしくないような、梅雨らしい曇り空だった。

 

 わたしはいつも通り、図書館のカウンター内で業務の準備をしていた。

 

 開館して間もない時間。

 まだ利用者も少なく、館内には紙と埃と時間のにおいだけが静かに漂っていた。

 

 そのとき、ふいに自動ドアが開いた。

 

 曇天の外からふわりと吹き込んできた湿った風が、わたしの髪をわずかに揺らす。

 そしてその風とともに、あの人が入ってきた。

 

 狭霧様だった。

 

 でも、いつもと違う。

 いつもは外のベンチに座って時間を過ごされる狭霧様。

 

 だけど今日は図書館の中に、しかも開館と同時。

 混乱するわたしをよそに、狭霧様はきょろきょろとあたりを見回す。

 

 そして、わたしをみつけて……微笑みながら軽く手を振ってくださった。

 

(あ……わたしに会うために入って……)

 

 そのことに気が付き、鼓動が高鳴る。

 

 いつもは午後の二時ごろ、図書館前のベンチに静かに腰掛けていらっしゃった狭霧様。

 傘を二本、まるで待ち人のために用意してきたかのように持って。

 

 だけど今日の狭霧様の手には、一本の傘もなかった。

 

 ──もう一本の傘は、わたしが持っている。

 

 だとすれば、残る一本は? どこかに置いてきたのだろうか。

 それとも、もう必要のないものになったのだろうか?

 

 そんな考えが一瞬、脳裏をかすめたけれど──

 

「おはようございます」

 

 照れたように、けれど確かに目を見て微笑む狭霧様。

 その声に、わたしの思考は一気に吹き飛んだ。

 

「あっ……あのっ……! お、おはようございます!」

 

 言葉がつっかえそうになるのをなんとか呑み込み、どうにか挨拶を返す。

 

 この図書館で働くようになってから、こんなに緊張したことがあっただろうか。

 わたしの心臓は、小さな太鼓のように胸の奥で鳴っていた。

 

 狭霧様は、少しだけ視線を泳がせるようにしてから、言った。

 

「昨日は随分とお恥ずかしいところをお見せしてしまって……いえ、じつはその、お願いがあって……『青』の本を、お借りたいのですが……」

 

 わたしはハッとして、すぐに背筋を伸ばした。

 

「はいっ、わかりました!」

 

 声が思ったよりも大きくなってしまい、館内の静けさの中で少し浮いた。

 でも恥ずかしさよりも、心が躍るような感情のほうがずっと勝っていた。

 

 急いで事務室に走り、昨日まで机の上に置いてあった『青』の本を手に取る。

 そしてくるりと反転してカウンターにもどり、狭霧様にそっと手渡した。

 

 狭霧様はそれを両手で受け取り、小さく「ありがとうございます」と言って微笑んだ。

 その笑顔は、どこか満ち足りていて、胸が締めつけられるようだった。

 

 そのまま、貸し出し手続き。

 前回はわたしがカードを勝手に作り、勝手に手続きを行ったが、今回は正規の手順で貸し出しを行う。

 

 狭霧様は図書館を利用するのは何十年ぶりからしく、カードを前に少し困ったように視線を落とした。

 わたしは手順を丁寧に説明しながら、横で見守る。

 

 なんて、幸せな時間なんだろう。

 

 そう思った。

 

 全ての手続きが終わると、狭霧様は本を両手で抱えて、静かに閲覧室の窓際の席へと歩いていった。

 

 背筋を伸ばし、窓辺に腰掛けた彼女は、ゆっくりと本を開く。

 指先は慎重にページをめくり、視線は静かに文字を追っていく。

 

 まるで、かつてその本を夢中で読んだ提督の記憶に、そっと寄り添うかのように。

 

 わたしはカウンターの陰から、その姿をじっと見つめていた。

 

 曇り空から落ちる光は鈍く、けれど柔らかくて、窓辺の彼女をやさしく包んでいて、この世でこれ以上美しい光景はないと感じてしまう。

 わたしは、できることならその姿をずっと見ていたかった。

 

 けれど、仕事がある。

 返却処理に、館内巡回、書架の整理に、照明チェック。

 

 あれこれ気を取られながら、数時間が経った。

 

 ふと、ようやく手が空いたころ、思い立って窓辺を見やる。

 

 

 ──雨が、降っていた。

 

 

 さっきまで持ちこたえていた曇り空はついに崩れ、細く、静かに、しとしとと、梅雨の雨を降らせていた。

 図書館の外の全てが濡れていて、ガラス越しの景色がやわらかく滲んでいる。

 

 狭霧様は、本から顔を上げて、じっとその雨を見つめていた。

 読書を中断し、まるで過去を思い返すような、深い眼差しだった。

 

 その横顔を見て、わたしはハッと思い出す。

 

 

 ──傘。

 

 

 借りたままになっていた、あの傘だ。

 

 わたしは慌てて事務所に駆け戻り、乾かして丁寧にたたんでおいたその傘を手に取る。

 

 狭霧様が提督のために持っていたという、大切な傘。

 そっと持ち直し、息を整え、閲覧席へと向かう。

 

「狭霧様」

 

 小声で声をかけ、彼女の席に近づく。

 

「この傘……お返しします」

 

 そう言って差し出すと、狭霧様はゆっくりとこちらに顔を向けて──

 それから、ふっと微笑んだ。

 

「……その傘は、もうわたしには必要ないんです。よかったら……あなたが使ってくださいませんか?」

 

 え……と、声が出そうになる。

 胸の奥でなにかがはじけるように、ドキンと音を立てた。

 

「でも……今日は、狭霧様、傘をお持ちじゃ……」

 

 そう尋ねると、狭霧様はほんの少し戸惑ったように、眉を下げてうなずいた。

 

「ええ、そうですね……だから、雨が止むまで、ここに……少し居させてもらっても、いいでしょうか?」

 

 その言葉に、思わず言葉を失った。

 

 けれど、すぐにわたしは、慌ててうなずいた。

 

「も、もちろんです……狭霧様がそうおっしゃるなら……!」

 

 言いながら、あまり声を大きくしてはいけないと、最後は小さく口の中で呟くようになった。

 狭霧様は再び微笑み、なにも言わずに本のページに目を戻す。

 

 わたしはその場から静かに離れ、カウンターへと戻る。

 仕事のふりをして、本当は何度も、何度も、そっと狭霧様の姿を見やる。

 

 窓辺で、本を読む彼女。

 

 雨の音だけが図書館に満ちて、時間がやわらかく膨らんでいく。

 

 このまま、ずっとこの光景を見ていられたら。

 そんな願いが胸に灯る。

 

 なぜなら、このままずっと、雨が降り続いてほしい。

 そう願わずにはいられないほど、その姿は

 

 

 ──美しい。

 

 

 あまりに美しくて、目を逸らせない。

 

 その姿はどこか病的なまでに繊細で、張りつめていて、だけどどこか柔らかで。

 むしろ、なにかの病に罹っているからこそ、美しいのではないかとすら思えるほどに。

 

 そのとき、わたしの脳裏に一冊の本が浮かんだ。

 かつて戦史時代よりもはるか前に生きた、ある画家の人生を綴ったものだった。

 

 ──彼は語っていた。

 

 「よい絵の背後には、数えきれぬ失敗と破綻がある」と。

 

 彼は誰もが望むような幸福とは程遠い、痛ましく悲しい人生を送った。

 けれど彼にとって「悲しみ」とは、すべての感情のなかでもっとも価値あるものだった。

 

 「悲しみは、絵を輝かせる」

 

 そう語り、心に病を抱えた彼はこう続けた。

 

 「天使は、悲しむ者のそばにいる」と。

 

 そして、悲しみ──あるいは「病」という状態そのものが、人を癒やすこともあるのだと。

 

 病んだ魂が、美を生む。

 病があるからこそ、描ける光がある……と。

 

 

 ああ……そうだったのか。

 

 

 その本につづられていた内容と、いまの状況が合わさったのがきっかけなのか。

 まるで心のどこかにあった固まりがほどけるように、ひとつの輪郭が浮かび上がった。

 

 わたしがなにかしらの病によって、骨を、白く儚くも力強い存在を、異常に愛してしまうのだとしても。

 

 ──それでもいいんだ。

 

 だって狭霧様をこんなにも美しいと感じられるのは、きっと、その病のせい。

 こんなに素晴らしい感動を味わえたのは、きっと、その病のおかげなのだから。

 

 すとんと胸に落ちた答えは、どこまでも静かで澄んでいた。

 こんなにも自然に頷ける自分が、少し誇らしく思えた。

 

 そして、もしそうだとするなら──

 

 生まれながら、特定の「運命」に罹ることを定められた艦娘たち。

 誰かを求め、探し続け、ただ一人の誰かに出会うためだけに存在するような、その生。

 

 それはもしかすると──運命という名の、治ることのない「病」なのかもしれない。

 

 だが、その病の先にしか、生まれない光があるとしたら。

 その痛みの向こうにしか、癒やしえないものがあるとしたら。

 

 それはなんて残酷で、けれども尊く、情熱的な病なのだろう。

 

 気づけば、わたしの唇から笑みがこぼれていた。

 

 だって、それがほんとうに病だとしたら。

 

 

 

 

 ──それはきっと、世界でいちばん美しい病だ。

 

 

 

 

 やがて、雨は止んだ。

 

 いつの間にか雲が流れ、窓の外は明るさを取り戻していた。

 湿った地面が光を吸って、鈍く柔らかく、あたりを映している。

 

 狭霧様は読み終えた本を両手で大切に抱え、わたしのもとへとやってきた。

 

 「ありがとうございました」と、いつもよりすこし穏やかな声で言って、本を差し出す。

 

 わたしはそれを受け取りながら、すこしだけ名残惜しさを込めて笑った。

 

「この本、二週間は貸し出せます。せっかくですし、そのままお持ちになって、また返しに来てくださっても構いませんよ?」

 

 そう言ったとき、狭霧様はかすかに首を振った。

 

「いえ……提督のときのように“誰か他の方”に返していただくわけにはいきませんから」

 

 その言葉に、わたしの胸の奥がわずかにざわめく。

 なにか、なぜか、ほんの小さな違和感。

 

 

 けれど、それがなんだったのかを考えるよりも早く──

 

 

「それに、わたし、あなたに直接返却したかったんです」

 

 狭霧様が、わたしをそっと、抱きしめた。

 

 ふわりと香る、雨に濡れた髪の匂い。

 身体の熱と、鼓動と、柔らかく包み込まれる感触。

 

 狭霧様は、わたしの髪にそっと頬を寄せて、愛おしそうに撫でるように触れていた。

 髪から背中へ、優しく、慈しむように。

 

 わたしは、もう、なにも考えられなかった。

 

 頭の中が真っ白で、息をすることさえ忘れそうだった。

 

「ありがとう……素敵な司書さん」

 

 その声が、耳もとで、ささやくように響いた。

 

「そして……わたしの大切な人。どうか、このさきのあなたの航海(じんせい)に、幸多からんことを。どうか……どうか……──」

 

 

 ──さようなら。

 

 

 その最後の言葉は、あまりにも静かで、夢の中で聞く声のようだった。

 

 狭霧様はゆっくりと身体を離し、わたしの目を見て、微笑んだ。

 その笑顔が、なぜか、深く記憶に焼きついた。

 

 わたしはようやく、かろうじて「ご、ごりひょう、あ、ありがとうございました……」とだけ、声を出した。

 

 それを聞いて、狭霧様はまたひとつ微笑んでから、図書館の自動ドアの方へと向かう。

 そして開いたドアをくぐり、やがて雨の匂いを残したまま、外へと姿を消した。

 

 その背中を見送ることしかできずに立ち尽くす。

 

 わたしはその日、残りの仕事が、まったく、手につかなかった。

 

 

 

 

 

 次の日、狭霧様は姿を見せなかった。

 

 理由はすぐにわかった。

 初夏を告げるまぶしいほどの日差し。

 

 梅雨が明けたのだ。

 

 昨日までの曇天はどこへやら、空はどこまでも澄みわたっていた。

 

 狭霧様は、梅雨のあいだだけこの図書館の前のベンチにやってくる。

 ということは──もう、来年の梅雨まで、会えない。

 

 わたしは少しだけ寂しい気持ちになった。

 

 いっそのこと、狭霧様のお住まいまで会いに行こうかとも思った。

 けれど、それは違う。

 

 きっといま狭霧様は、ほんのわずかな──

 けど確かに存在した、提督との思い出に身を浸しているに違いない。

 

 そう思い直して、仕事に戻る。

 

「あら……あなた、なにその髪?」

 

「えへへ、ダメですか?」

 

 司書の先輩が、わたしの髪に一筋走った銀色の部分を見て、眉をしかめる。

 わたしは昨日嬉しさのあまり、しまい込んであった学生時代のウィッグを引っ張り出した。

 

 憧れは止められない……だったか、これはなにかの漫画のセリフ。

 だけどそのとおり、年齢的にきつい? それがなんだというのだ。

 

 あんなに美しい存在にわずかでも近づけるのなら、そんなのはささいなこと。

 なにを隠そう、わたしの守護艦娘はあの狭霧様なのだ。

 

 狭霧様の加護ぞある!!

 

 あ、なんか変なテンションになっちゃった。

 

「まあ、服飾規定の範囲だし、好きにしたらいいんじゃない? これから冷房目当てでやってくる、ガラの悪いのも増えるしね」

 

 そんな根拠の有るような無いような自信が伝わったのか。

 先輩はやれやれといった様子で、仕事に戻っていく。

 

 しかしそうか……もう夏はすぐそこまで来ているんだった。

 

 ふと、図書館の窓越しに広がる青空に目をやる。

 本当に、どこまでも青く、明るい空。

 

 これ以上気持ちのいい空はないってくらい、見事な空。

 この空を見れば、誰もがそう思わずにはいられないだろう。

 

 ──わたし以外は。

 

 たしかに晴れ渡る空も、悪くない。

 

 けれどわたしには、やはり梅雨空の方がいい。

 青空よりも、太陽の光を受けて銀色に見える、薄い雲のたなびく空模様の方が美しく思える。

 

 だってそれは、狭霧様の髪の色に似ているから。

 

 

「はやく、梅雨にならないかな……」

 

 

 そして気づけば、ぽつりと。

 誰にも聞かれないように、呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

『司書』と『駆逐艦:狭霧』

 

おわり

 

 

 

*1
・登場『食べたい男』と『軽巡:阿賀野』

*2
・登場『運転手』と『駆逐艦:春風』




 
狭霧の美と儚さの境界にあるなにか。
目に見えず、言葉にもできないが、確かにあるもの。


※追記
ここ数年と比較して、えらいペースで投稿していますが、書いてる人もこの調子がいつまで続くかよくわかってないです。
とりあえず投稿する気配があるときは X(旧Twitter)にて呟いていますので、よかったら覗いていってください。
 
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