さて、改めて言うのもなんだが、私「黒桐徹」は「岸波白野」その人ではない。私はあくまでも代替であり、元あった「俺」の魂を改竄し、後天的に「岸波白野」を上書きしたような存在である。故に私に前世ともいうべき記憶があったはずだが、白い桜に魂を移し変ええられた際に、「俺」の記憶は著しく損壊した。これは白い桜に非はない。中断されたとはいえムーンセルの消去がいの一番にそこを消しにかかったということもあるが、それ以上に未来の英霊として召喚された私にとって必要なのは月の表裏の聖杯戦争を「岸波白野」として過ごした記憶であり、それ以外は不要なものだったというだけの話である。
前世の親兄弟をはじめとした親類縁者を含む知人達、氏名は勿論、もう顔すらも思い出せない。それどころかそれらが存在したかどうかすら不明という有様である。最早、前世は記憶とは呼べない半端な知識に成り下がってしまった。ぶつ切りで抜けが酷い上に、それが己のものであるという実感がまるでないのだから無理もない。
そして、何よりも生死を賭けた殺し合いである月の表裏の聖杯戦争は、極普通の一般人であった「俺」を塗り潰すには十二分な濃密過ぎる時間であった。前世の日常の記憶などすっかり色褪せてしまうほどに。常に命の危険に晒され、一度負ければ即死という極限状態。それに勝ち上がることで得られる生の実感は凄まじいものであったし、対戦相手の散り様は常に何かしらを私の中に残していった。今の私「黒桐徹」はその中で生まれ形成されたものなのだ。何よりも、人を殺してでも生き残るという選択ができてしまったのだ。最早、前世の価値観など微塵も残っていないだろう。封印されていた前世の記憶の名残で行動や心情に多少の差異はあれど、そういう意味では私もまた紛れもなく「岸波白野」であると言えよう。
私がこの世界に来た時に名前を変えたのは、実のところ、前世の記憶を失い「岸波白野」という役すら取り上げられて、私は真実誰でもなくなったからこそだ。今だから言える事だが、玉藻と桜がいなければ、私はこの世界において自分が何者であるか、見失っていたかもしれない。なぜなら、演じさせられていたとはいっても、私はすっかり「岸波白野」になりはてていたからだ。今更、お前は別人だと言われて、正直混乱の極みにあったのだから。というか、あの消滅間際に思い出したのは、「岸波白野」のままだと万が一の可能性があると考えたアラヤによるものだったのではないだろうか。そうすることで、私に自己を失わさせ、抵抗の余地を消滅させる為に……。
もしかすると、彼女達が私を認め名をくれたことで、ようやく私は今の己を確立できたのかもしれない。
だとすれば、本当に二人には頭が上がらない。今の私の存在は二人あってのものなのだから。
まあ、そんなわけで私はそれ程人生経験豊富なわけではない。戦闘経験ならば百戦錬磨と言えるレベルだが、恋愛経験となるととんと少なくなる。なにせ、玉藻と桜だけなのだから無理もないだろう。故に、今目の前で行われてようとしている行為にどう対処すべきか、私は迷いに迷っていた。
私の視界には、うちに新聞を配達してくれる明日菜ちゃんと件のネギ少年が近距離で向き合っている姿が映っていた。買い物の帰りに僅かに魔力の流れを感じたので、寄り道がてら確認しにきたのだが裏目に出たようだ。本来なら、見なかったことにして立ち去るのがマナーなのだろうが、渦中の人物が明日菜ちゃんとネギ少年となると話が違ってくる。
まず、教師と生徒であるという社会的なタブーがある。いくら子供だからといって、教師が教え子に手を出していいはずがないのだから。そういう意味では止めるべきであろう。大体、明日菜ちゃんがタカミチさんに想いを寄せているのは知っているし、彼女の好みが渋い叔父様なのも熟知しているのだ。まさか突然ショタに目覚めたわけでもなかろうに、昨日今日でいきなり嗜好がかわったりはすまい。それに彼女の普段の話しぶりからすれば、ネギ少年は手のかかる弟という感じであったから、恋愛感情があるとは考え難い。
ネギ少年ついては言わずもがなである。エリザの話によれば、彼は精神的には年相応の子供でしかないというのが実情らしい。その幼さは想像以上で、初恋すらまだの可能性すらある。大体、ネギ少年は覚悟を決めた男の顔はしていても、恋愛とかそれ系の感情を全く感じさせない。赤面して躊躇っているのは、明日菜ちゃんの方なのだから。
これは一体どういう状況なのだろうか?とんと理解できない。誰か私に教えてくれ。前世の「俺」でもオリジナルのはくのんでもいい。私はどうすればいい!
「さあ、姐さん。ここは覚悟を決めてブチューといきましょう!折角、兄貴が腹を決めたんですから、これに応えないのは女が廃るてもんですぜ」
無駄に高速思考して目の前の意味不明な光景に困惑していた私に状況を理解させてくれたのは、私以外の第三者であった。それは、ネギ少年の使い魔であるオコジョ妖精の声だった。
「うっさいわね!こっちにだって心の準備ってもんがあるのよ!」
すかさず、明日菜ちゃんがそう言い返す。煽るオコジョ妖精に魔法使いである少年と女子中学生の少女。これにエリザから聞かされたネギ少年の現状を合わせて考えれば、自ずと答は出てくる。落ち着いてよく見れば、見たことがある魔法陣が敷かれていることも、私の結論が間違っていないことを語っていた。
そうして状況把握を完了する頃には、明日菜ちゃんの必死の抵抗も無駄に終わったらしい。どうも見事に言い包められてしまった様だ。ヤケクソ気味にネギ少年に向き合うのが見えた。
なるほど、そういうことか。ならば、見過ごすわけにはいくまい。
「そこまでだ!」
エリザを含めた私達『月桜狐』は、ネギ少年への干渉は基本的にしないよう求められている。疎の為、エリザの不意の遭遇の件で、少し前に文句を言われたばかりである。それに従えば見過ごすべきなのだろうが、流石にこの状況は見過ごせない。これを見過ごしたら、玉藻や桜に怒られること間違いなしである。もう一度やってしまったのだ。それにこれは学園側の落ち度でもあると私は開き直って、この際盛大にやらかすことにしたのだった。
時は少し遡る。放課後になるなり、ネギに何も言わずについてきてくれと頼まれた明日菜は、不審に思いながらも了承し、人気のない森の中でネギと向き合っていた。
「さあ、こんな所まで連れてきた事情を…「エヴァンジェリンさんにはボクだけじゃ勝てません!明日菜さん、僕に力を貸して下さい!」…」
事情を問い質そうと明日菜が口を開いた時、それを遮るように、覚悟を決めた表情でネギが頭を下げてきたのだ。頭はいいが、どこか頑固で自分でやるということに固執する癖のある少年だ。まさか、こんなに素直に頭を下げられるとは予想だにしていなかっただけに、明日菜は驚いていた。
「ちょっ、ちょっといきなりアンタどうしたって言うのよ!」
当然ながら、明日菜は困惑した。真祖の吸血鬼であるというエヴァンジェリンに怯えて、家出紛いの事をやらかしたばかりである。何かしらあって、立ち直ることはできたようだが、昨日の今日でこれというのは流石に驚く。男子三日会わざれば刮目して見よとは言うが、馬鹿レンジャー筆頭の彼女が知る由もない。なので、何か変なものでも食べたんじゃないかと思ったわけである。
「いきなりじゃありません!ずっと考えていたんです。エヴァンジェリンさんに対してどうするべきか。色々考えました。血を分けることも、学園長に直談判することも……でも、結局僕にはそのどれも選べませんでした。逃げたくないんです!僕はあの人に勝ちたいんです!勝って認められたいんです!」
エリザにけちょんけちょんに言われ、楓に諭されて立ち直ったネギだったが、色々考えた挙句、彼が出したのは結局直接対決だった。それはネギの子供っぽさの表れであったが、同時に男として譲れないものがあったからにほかならない。まあ、人一倍負けず嫌いだったというだけかもしれないが。
実のところ、最後まで明日菜というか、他者に頼るというのは抵抗があったのも事実である。自分一人で戦ってこそという思いがあるのも確かである。だが、茶々丸という強力な従者を持つエヴァンジェリンに後衛型の魔法使いであるネギは単独で挑むのは、無茶無謀を通り越して自殺行為に他ならない。茶々丸に詠唱を邪魔されて、一方的にエヴァンジェリンに魔法を打たれて勝負にすらならないだろうからだ。収集している魔法銃とかを使うのも考えたが、数には限りがあるし、実戦でどこまで有効かは未知数である。
結局、茶々丸を任せられる即戦力として、頼れるのは明日菜しかいなかったのだ。
「ネギ、アンタ……」
ネギの力強い宣言に明日菜は言葉を失う。いじけて怯え泣き喚いていた少年は、最早そこにはいなかった。
なんというか、男の顔をしていたのだ。その表情に、彼女は八ッと胸を突かれたようであった。
「明日菜さん、お願いします!」
そう言って、再び頭を深々と下げるネギ。そこにはカモにそそのかされて動いた時のような迷いは微塵もない。頭を下げるネギからは、鋼の如き意志が伝わってきた。
「わ、分かったわよ。いいから頭を上げなさい!私があんたをいじめてるみたいじゃない」
押されるように了承しながら、頭を上げるように言う明日菜。ネギの真面目な様子から、そんな誤解はまず受けないだろうが、年下、それも手のかかる弟のような存在である彼に真摯に頭を下げられるのは、なんとも言い難い気恥ずかしさがあったからだ。
「本当ですか!?ありがとうございます!」
明日菜の手をとって、喜びも露わに礼を言うネギ。少し早まったかもとは思わなくもないが、その喜び様に悪い気はしない。
「まあ、私もやられっ放しはシャクだしね。で、私は何をすればいいの?」
これならば、引き受けた甲斐もあるものだと明日菜はいくらか乗り気で尋ねたのだが、次の瞬間盛大に後悔することになる。
「僕と仮契約して下さい!」
「えっ、それって……」
仮契約⇨ネギとキスという構図が瞬時に思い出され、たちまちに固まる明日菜。
「姐さん、何を今更……。兄貴が姐さんに頼むことといや、そいつに決まってんでしょう」
嫌らしい笑みを浮かべて、どこから出てきたのかオコジョが言う。アルベール・カモミール、ネギの使い魔であるオコジョ妖精だ。したり顔で煙草らしきものをふかすその様は何とも憎たらしい。
「エロオコジョ、あんた!」
殴り飛ばさんと身体が動くが、それを静止したのはネギであった。
「明日菜さん、カモ君お願いします!力を貸してください!僕はどうしてもあの人に認められたいんだ!」
それは圧倒的な熱量が込められた言葉だった。思わず明日菜は怒りを忘れ、カモも茶化すのを止めて、二人(正確には一人と一匹だが)は顔を見合わせる。
「ねえ、なんか今までのネギとはちょっと違わな過ぎない?迫力が違うというか、覚悟が違うというか……」
「姐さんもそう思うかい?確かに今までの兄貴とは何かちげえんだよな。何というか、そう!男の顔をしてやがるぜ!」
兄貴も成長したぜと男泣きをするカモに、明日菜はそんなもんかと頭を悩ませ、次いで仮契約という現実を思い出し、安請負を後悔するのであった。
さて、そんなやり取りがあったものの、仮契約の魔法陣がカモによりあっさりと引かれ、明日菜とネギは魔法陣の中で向き合い配置も完了している。仮契約を行う準備は万端といって良かった。
しかし、一方で全然準備完了でない者もいた。従者となるはずの明日菜である。思春期真っ盛りの恋する乙女には、いくら子供とはいえ、意中の相手でもない異性相手にキスすることはハードルが高い。ましてや、ファーストキスである。必要なこととはいえ、それで妥協できるほど、乙女の唇は安くないのだ。
「ささ、ご両人。ブチューと!」
何が楽しいのか、カモが煽ってくるが、明日菜はふざけんなーと叫びだしたい気持ちで一杯だった。確かに安請負した自分にも否はあろうが、それとこれとは話が別である。乙女の尊厳は安いものではないのだ。
「ねえ、本当にキスしか方法はないの?その仮契約ってやつ」
「もちろんでさあ!仮とはいえ魔法使いとその従者を結ぶ神聖な契約ですぜ。キス以外の方法なんてありやしませんよ。ねえ兄貴?」
踏ん切りがつかず、一縷の望みをかけて問いかけるが、カモは間髪いれず即答した。ちなみに、真っ赤な嘘である。魔法世界には仮契約屋という書類契約によって仮契約を行う店すら存在するのだ。世慣れたこのオコジョ妖精がそれを知らぬはずがない。それにもかかわらず、カモがキスによる契約を勧めるのは、その場合だと自分に仲介料が入ってこないからである。ぶっちゃけてしまえば、自分の欲望の為である。
要するにカモは、明日菜の乙女としての尊厳より自分の欲望を優先したのだ。
「すいません、明日菜さん。僕も仮契約のことは知っていたんですけど、その契約方法までは知らなくて。でも、恋人や夫婦である場合も少なくないようですから、別におかしくはないと思いますよ」
普通なら思い直すべきところを、カモは悪辣にネギに確認すらした。ネギが魔法(戦闘系に偏っている)以外のことでは世間知らずであることを知悉しているが故である。ネギが正確に仮契約を把握していないのだ。それに初恋を自覚すらしていないネギには、明日菜の葛藤の程を理解できないことも計算済みである。
「まさか姐さん、兄貴がここまで覚悟決めてるのに、今更おじけづいたりやしませんよね?」
さらにダメ押しとばかりに、明日菜の弱みをつき、それでいて煽るように挑発する事も忘れない。カモはなんだかんだ文句をいいながらも、明日菜がネギの世話を焼いているのを知っている。弟分に対するような感情であっても好意はあるのだ。加えて、根がいい娘であり、今のネギのように真摯に頼まれると弱い。それに短気なのも、今回はプラスに働く。男気があり、単純で負けず嫌いなところがある彼女は、この手の挑発にはすぐに乗ってくるのだ。
「ぐぐぐ、分かったわよ!いい、これはノーカンだからね!」
「は、はい!」
「勿論でさー。姐さんの気持ちは分かってやすよ」
乙女の尊厳をかなぐり捨て、半ばやけにながら叫ぶ明日菜に、ネギはわけがわからないが頷くほかない。勝ったとと心中で喝采を上げながら、さもそれらしく神妙に応える。
そんな時だった。予想だにしない乱入者があったのは。
「そこまでだ!」
カモの尽くした算段の全てを水泡へと帰す万雷の如き声であった。まさか自分が張った人払いの結界が仇になろうとは、さしものカモも予想していなかったのであった。
「あんた最低ね」
「有り体に言って、最悪ですね」
「英国紳士じゃなくて、変態紳士ですね。まだ子供だというのに嘆かわしい」
上から、エリザ、玉藻、桜の容赦の無いネギへの論評であった。
「最低……最悪……変態紳士……。僕は、僕は!」
これ以上ないくらいズズーンと落ち込むネギ。目の前に淹れられた紅茶の香りも、彼を慰めるには足らないようだ。ここは喫茶『月桜狐』。あれから強引に儀式を中断させた徹は、カモも含めた当事者達を有無を言わせずにここまで連行してきたのだった。
そして、自分達が魔法関係者だということを明かし、事の次第をネギ達に問い質したのだが、仮契約のキスとかで最初はウキウキ顔で聞いていた女性陣だったのだが、ネギと明日菜が好意こそあれ二人は姉弟のような間柄であり、恋人でもなんでもないことを聞いて一気に顔が険しくなり、勝つために必要だから、明日菜とキスによって仮契約をしようとしていることに話が及び、三者が下した結論が上記のものであったわけである。
「あんた、本当に子供ね。自分のことばかりで明日菜のことを何も考えてないじゃない。私なら、そんな理由で唇を奪われるなんて死んでもゴメンよ。子ブタ、あんた一人で野垂れ死んだら?」
中でもエリザは一際辛辣だった。容赦なく追い討ちをかける。が、これに黙っていられないのが、明日菜であった。人のいい彼女は、弟分が一方的に責められるのが我慢ならなかったのだ。
「何もそこまで言わなくてもいいじゃない!ネギだって必死に考えて……」
「その結果がキスでの仮契約ですか?そこのオコジョ妖精がいるから手っ取り早いとはいえ、やはり最悪という他ありませんね。乙女の唇を何だと思っているんでしょうか?明日菜さん、ここは庇うところじゃなくて怒るべきところですよ」
そんな明日菜を窘めるように言う玉藻。彼女の言葉には隠し切れない不機嫌さが滲んでいた。
「そうですね、今回ばかりは玉藻さんと同意見です。いくら幼いとはいえ、やっていことと悪いことがあります。これはその最たるものの一つですよ」
常ならば、玉藻とは意見を異にする事が多い桜も、今回は玉藻と同意見のようであった。その声はけして大きくないが、内容は手厳しいものであった。
「そんな桜さんまで……。ネギはただ!」
味方が誰もいないことに愕然としながら、明日菜は弁護の言葉を重ねようとする。ちなみに、当のネギは既に瀕死状態である。言葉が発せられる度にビクッと反応し、ドンドン顔を蒼白にしていく。
「まあ、待ちなよ明日菜ちゃん。私達は別に勝つ為に仮契約しようとしたことを怒っているわけじゃない。なぜネギ君が高畑先生という想い人がいる君相手にキスによる仮契約を選んだのかが理解できないのさ」
明日菜の態度にどうも不理解があるように感じた徹は、明日菜の言葉を遮るように口を出した。エリザも、玉藻も、桜も明日菜の為に怒っているのに、当の明日菜が弁護に回っているのだ。どうにも話が噛み合っていない思ったからだ。
「えっ、それってどういう意味ですか?」
「仮契約の方法は一つじゃないってことさ。玉藻、あれを」
「承知しました」
徹の言葉に玉藻が奥に入り、何かの封筒を持って戻って来る。そして、明日菜に差し出した。
「これは?」
「開けてみてください。魔法世界で一般に市販されている仮契約の為のものです」
「これが!?」
明日菜は驚愕も露わに封筒を開ける。中には折り畳まれた魔法陣が描かれたものと、二通の契約書らしきものが入っていた。まあ、バカレンジャー筆頭である彼女には生憎と読めなかったが。
「昔と違い、今は
それは玉藻が仮契約のメカニズムを研究する為に手に入れたものだが、まさかこんな形で日の目を見ようとは誰も思っていなかった。
「なっ!?」「えっ!?」
明日菜が驚愕に目を見開き、ネギも弾かれたように顔を上げる。そして、その場から逃げ出そうとする一つの影。
だが、甘い。それを見逃すサーヴァント達ではない。
「おっと逃げ出そうとそうはいかないわよ。というか、明日菜と子リスのあの反応……あんたが元凶ねブタ」
「グエエ~、お助けー」
逃げ出そうとしたカモを瞬時に捕捉したのはエリザだった。玉藻も桜も充分に捕まえられたが、彼女が一番酷くするだろうと判断して、あえて譲ったのだった。その証拠に早速握り潰さんばかりに力を入れている。
「オコジョだけど、アンタはブタにも劣る醜さね。アンタ、知っていて子ブタ達に黙っていたんでしょ?」
いたいけな美少女にしか見えないエリザだが、彼女はれっきとした竜である。その全力で握られたら、カモなどひとたまりもないというか、ミンチになる。つまり、エリザはこれでも充分に手加減しているのである。まあ、やられてる当の本人からすれば、手加減されているとはいえ、万力で締め付けられているようなものなのであるから、何の救いにもならないが。
「あばばばば」
案の定、最早喋ることもかなわないカモ。だが、この場に彼に同情する者は一人としていなかった。カモが逃げようとしたことから、明日菜は徹達の言葉が真実であることを確信したし、最後の頼みの綱であるネギは相棒にして助言者であるカモに騙されていた事にショックを受けて放心していたのだ。徹を筆頭とした月桜狐の面々については言うまでもないだろう。いい気味だと思いこそすれ、一分の憐憫も抱くことはなかった。
「エリザ、そこまでだ。とりあえず、全て白状させるまでは生かしておかなきゃならない」
故に徹が止めたのは、純粋に全てを白状させる為であって、カモの身を心配してのものではない。
「……マスターはこんな醜悪なナマモノにも優しいわね」
どこか呆れた様に言って、エリザは素直にカモを解放した。ゲホゲホと激しく咳き込むカモ。どうやら、締め上げられて、満足な呼吸もままならなかったらしい。
「さあ、なんでこんなことをしたのか、全て白状してもらおうか」
だが、そんなカモに徹は容赦しない。容赦するには些かやり過ぎていたのだ。
「……分かった。だが、一つだけ言っておく。全ては俺っちの企みでって、兄貴には何の責任もねえ!だから!」
カモがなけなしの男気を発揮してネギを庇うが、それを受け入れるような甘い者はいなかった。
「主を庇うその忠誠心は見事ですが、生憎とそんな詭弁は通りませんね。たとえ、全てが貴方の独断であったとしても、貴方の言われるがままに自分で調べることもせず行動したのは子供先生の責です。それに貴方の主として、その暴走を許してしまった責任もけして小さくありません」
玉藻は容赦なくネギ自身の責任について言及する。それらは当たり前のもので、屁理屈をこねたりしたわけではない。
「うぐ、それは兄貴はまだ子供だから……」
カモは必死にネギの責任を回避しようとして言葉を重ねるが、それは何の弁護にもならにどころか、エリザを怒らせることにつながった。
「子供?子供ですって!?そこの子ブタは、前に私に一人前の魔法使いでございって名乗ったわよ。大体、子供扱いするなら、そもそも仮契約なんてさせるんじゃないわよ!あんたは一人前の魔法使いだから、仮契約を勧めたんじゃないの?だというのに、仮契約の何たるかも知らないなんて、話にならないわね」
「……」
さしものカモも言葉がない。これ以上、己が口を開いても、逆効果にしかならないことを悟ったのだ。
「悪いけど、これは学園長に抗議させてもらうよ。東の教育体制の不手際と一般人である明日菜ちゃんを平然と巻き込んだことについて」
そんなカモの様子を見ながら、徹は厳しい声でそう言った。
「え、そんな!?」
これ以上ないくらい悄然としていたネギが弾かれたように顔を上げる。
「そんな徹さん、待ってください!私は別に構わないですから」
そんなネギを庇うように立ち上がったのは、明日菜であった。一番の被害者であるというのに彼女はどこまでも御人好しであった。
「明日菜さんには申し訳ないけど、そういうわけにいかないんです。これは魔法関係者としては当然の対応なんです。よく考えてみてください。今回のようなことが繰り返されれば、まずいことになるのは目に見えているでしょう?」
「そ、それは……」
桜の穏やかながらも反論を許さない厳しい言葉に、明日菜も言葉をなくす。当の本人であるネギの表情は蒼白を通りこして、最早土気色に近くなっていた。
「と、まあ普通ならだ」
「「えっ?」」
徹の思いもがけない言葉に、明日菜とネギが声を漏らす。
「初犯だし、ネギ君に限っては今回に限り見逃してあげよう(それにネギ君の責任というよりは、学園側に問題がありそうだしね)。但し今回だけだし、次は私も容赦しない。後、そこのオコジョ妖精には相応の罰を受けてもらう」
まあ、近視眼的になってしまうのは子供にありがちな失敗であるし、正直学園側の方に問題があると徹は思うからだ。多感な年代の少女達の担任教師だけでも重責なのに、さらにここにきて百戦錬磨の真祖の吸血鬼ときた。はっきり言おう。やり過ぎである。学園側は、この少年に過剰な期待を抱いているとしか思えない。
「本当ですか?でも、カモ君は……」
見逃してもらえるとネギは一瞬目を輝かせるが、すぐにカモに罰が下ることに顔を曇らせた。
「兄貴、気にしないで下せえ!自分のけつは自分で拭きやすよ。さあ、どんな処罰でもこいってんだ!」
カモドンと胸をたたき男気を見せる。しかし、実際はやせ我慢もいいところで、強制送還などの厳罰が頭には過ぎっていた。
「安心してくれ。公式な罰ではないよ。なにせ、オコジョ妖精の件を報告したら、結局主であるネギ君も罰を免れないからね。だから、私的な罰さ。明日菜ちゃん、確かこのオコジョ妖精は下着泥をやらかしたことがあるんだったね?」
「え、はい、そうです。だから、エロオコジョなわけですし」
突然の質問に目を白黒させながら、明日菜は答える。それの何が罰と関係するのだろうかと。
「ふむ、そうか。玉藻あれを」
「あっ、なるほど。流石は旦那様!確かにこのエロオコジョにはもってこいの罰ですね」
いそいそと着物に手を突っ込み、取り出したるは単純な装飾を施された金冠だ。徹にとっても二度とは目にしたくなかった代物。玉藻が『道具作成』スキルによって作り上げた無駄に精巧な魔具『浮気撲滅一号』である。
「このままだと大きすぎますし、頭に嵌めるには不適当でしょうから、こんなものですかね」
そう言って、玉藻が金冠を手に持ったまま一振りすると、金冠はすっかり小さなくなり、首輪のような形状に変化していた。
「そいつは一体?」
カモが疑問の声をあげるが、玉藻は意味深に笑って答えない。変化した金冠を徹に渡す。
「まだ少し大きすぎないか?」
「ご心配なく。そこのエロオコジョを通せば、きっちり首に嵌るようになっております」
「そうか、流石だな」
「当然です。この玉藻、旦那様につけるものに一切の手抜きはございません!」
「お、おう」
ババーンと胸を張る玉藻。だが、その本来の用途を考えると徹は苦笑するほかなかった。
「さて、そこのオコジョ妖精。カモ君だったかな?こちらへ」
嫌な予感がぷんぷんするカモだったが、この状況で逃げることはできない。仮に逃げられたとしても、公式に報告されてしまえば終わりだし、その場合ネギにも処分が及ぶ可能性が高い。まあ、そもそも逃げることを許すような面子でもないことをカモは本能的に察していたのだ。
「……」
「うん、素直なのはいいことだ」
徹はカモを持ち上げると、変形した金冠をくぐらせた。すると急激にサイズが縮みカモの首にするりと嵌った。
「解除権はそうだな……明日菜ちゃんに渡しておこう。玉藻」
「承知しました。明日菜さん、手を出してください」
「あっ、はい」
言われるがままに手を差し出す明日菜。その手を玉藻は握り、何事かを呟いた。
「――――――、――――――」
「えっ、これは?」
頭の中に唐突に浮かんでくる三つのキーワードに明日菜は目を白黒させる。
「『戒』はその通り戒め。『禁』はその行為を禁ずるもの。『解』が解放の為のキーワードとなります」
「えーと、ただ戒といえばいいんですか?」
「いいえ、それではいけません。戒める意をもって、唱えることに意味があるのです。この手の呪術は術者の意こそが重要なものですから。そうですね、試してみましょう。今回、乙女の尊厳を踏み躙ろうとした事に正義の鉄槌を下しましょう」
改めて言われてみると、腹が立ってくるものである。明日菜は促されるままに自然と意を込めて唱えていた。
「エロオコジョ反省しなさい!『戒』!」
嫌なものを感じたカモは今度こそは逃げを打つが、飛び上がった瞬間、遠雷を受けたかのように地面に落ちた。
「イタタタタ、イタイ痛いッスよ!」
苦痛の声をあげながら、のた打ち回るカモ。
「カモ君!」
「ちょっ、エロオコジョ大丈夫!?」
「とまあ、こんな感じになるわけです」
「ちょっと、これは酷いんじゃないですか?」
ネギは抗議するが、玉藻は鼻で笑う。
「大丈夫、痛むだけで死にはしませんし、慣れれば別にどうってことないですよ。『禁』も同様です。痛みが悶絶するレベルになるだけですので。己の欲望を明日菜さんの唇より優先した者に対しての罰としては、むしろ軽いものだと思いますよ」
「ぬぐぐぐ」
「そ、それは……」
それを言われると、カモとネギは弱い。カモはもちろん、ネギも明日菜の気持ちより、自分の事情を優先したという負い目があるからだ。
「まあ、こんな感じです。以後、このいかがわしい小動物が不埒な真似をしたら、遠慮なくやっちゃて下さい。この手の輩は懲りないことがほとんどですから」
「は、はあ、分かりました」
玉藻の説明に押されるように頷く明日菜。まあ、確かにこのエロオコジョ、来てから巻き起こした騒動や身の上話、加えて今回のことといい、どうにも信用できないのも事実である。手綱を握る意味では有効かもしれないと思い直す。
「そこのブタ以下にはいい薬でしょう」
エリザはそう言って嘲笑する。
「まあ、今回ばかりはエリザさんに同意ですね」
基本、徹以外のことについては穏健派の桜も、今回ばかりは擁護はしない。BBとして小悪魔ぶってはいたが、その実純粋一途な少女であるからして、乙女心を無視したカモの行いに対する不快感は大きかったからだ。
「そ、そんな……」
綺麗所の女性陣に誰も味方がいないことを悟り、ガクリと項垂れるカモ。唯一の味方は、兄貴と慕うネギが気の毒そうにしていたぐらいだ。
「まあ、これでこの件はいいだろう。仮契約はそれをあげるから、それでやるといい」
「いんですか!?」
徹の言葉に、ネギが信じられないといった表情で声を上げる。
「別に強化手段で、仮契約が悪い手というわけじゃない。むしろ、現状で君達に許された最善の方法だろう。私達が問題視したのはあくまでも契約の仕方だからね」
「そうです。強くなりたい、勝ちたいと思うのは悪いことではありません。むしろ、男なら好ましいと言えるでしょう。ですが、それで他者の心情を蔑ろにしてはいけません。それでは強さや勝利と引き換えに大切なものを失ってしまいますよ。
……それとも、明日菜さんはあなたにとって、その程度の存在ですか?」
「そんなことは絶対にありません!」
玉藻の問に即答するネギ。それを見る周囲の目は優しいというか、生暖かかった。
「あんたねえ……」
なんと言っていいやら分からない表情で、明日菜がうめく様な声を出す。
「え、僕なんか変なこと言いましたか?」
周囲の反応を見て、不思議そうなネギの問に明日菜は今度こそ轟沈した……羞恥で。
「ははは、うん、ネギ君は大物になるな」
「むむむ、旦那様を超えるプレイボーイになりそうですね」
「センパイみたいに女性で苦労しそうですね」
「このまま成長したら、間違いなく女の敵ね」
そんな二人の様子に徹は笑い、玉藻は微妙な表情に、桜はどこかばつが悪げに、エリザはきっぱりと断言した。
「え、えええ!?」
何がなんだか分からないネギは困惑するが、それをご丁寧に説明してやるほど、月桜狐のメンバーは人が良くなかった。というか、基本的に曲者集団なので、良心とか期待するだけ無駄である。
「まあ、それはそれとして、果し合いにはまだ時間があるんだろう?」
「は、はい。ですけど、それが何か?」
訝しげに答えるネギに、どこか悪い顔した徹は不敵に答えた。
「何、折角だし少し力を貸して上げようと思ってね。いいかな?」
「全ては旦那様の思うとおりに。それを支えるのがこの良妻狐の役目なれば」
「センパイを全力でサポートするのが、私の存在理由ですから」
「マスターが言うなら構わないわ」
徹の問というよりは確認に、月桜狐のメンバーはあっさりと頷いた。
「「ええ!?」」
蚊帳の外で決まった思いがけない事態にネギと明日菜が驚きの声を上げるが、彼らには最早拒否権はない。なし崩し的に英霊4人のサポートを受けることになるのだった。