人類史の始まり、世界がまだ一つであった頃。
文明の興隆、その先駆けにして原点、多くの文明に影響を与えた最古の文明。
神代の末期、つまりは人代の初期――紀元前2600年のメソポタミア、あるいはバビロニア。
地球最後の幻想紀と――未来に評される、
夢を見た。あるいは、夢に視た。
今が過去と語られ、現が夢と煙に巻かれる、そんな先の時代の会話を、夢で見た。
さて、ならばと彼は笑った。
ならばもてなさねば。遠い未来より訪れる旅人をもてなさねば、と。
どこか芝居がかった口調と身振りで笑う彼に、呆れる自分。
けれどまぁ、確かにもてなしてやらねばと思ってしまうのは自分も同じである訳で。
きっとそこの岩陰でそわそわと身じろぐあやつも同じだろうと思えば、とるべき行動は一つだけ。
――もてなそう。
異邦の客人を。あるいは異端の落人を。
たった一人の人類を。あるいはありふれた筈の凡人を。
未来に手を伸ばす幼子を。あるいは過去を受け止める勇猛を。
これから先の
その空白の時を歩む自分たちが何を想い何を成そうと――誰にも文句は、言わせない。
第一話:夜半の兆し
見下ろす世界は果てしなく、海の向こうに限りはなく、山の稜線は宝石のように輝いて見えました。
けれど、濃密な魔力の渦巻く神代の空気と美しさに目を奪われたのは一瞬の事で。
気付けば遥か空の高みから自由落下を強制されていた俺は、兎に角五体満足で地上に降り立つべく、震える声でマシュに……ええと、俺の仲間なんですけど、彼女に指示を飛ばしていたんです。おかげでなんとか助かりました。本当にマシュは頼りになる……。
「おおゥ、それはなんともはや……出だしからしてぶっとんでるなァおい」
その後も散々でした。都市の防衛結界に阻まれ、神代に実在していなかったと思しき魔獣と戦闘し、あまつさえそれが生物の本能としての敵意ではなくて。明らかに人間への殺意に溢れている化け物、それが街を廃墟にした張本人かもしれないと忠告を受けて数秒後、まさかまさかの空襲である。
男の子の諸事情でちょっと色々アレな事態になりかけましたけれど、盛大に事故った女性は鬱憤晴らしに魔獣の群れを一掃してくれました。見た目お嬢様風でしたが、気の強さが前面に出た面差しは俺とそう変わらないくらいだったでしょうか、ちょっと言葉を弄したら見事に詐欺に引っかかりそうなチョロさを感じて悪戯心が疼いてどうしたものかと。
けれど、彼女は徹頭徹尾自分本位で動く事を良しとしていて、それが様になるものだから、俺が何かを口にする間もなく彼女は遥か天高くへと飛び立って行ってしまいました。
「……このご時世に、天を飛翔する……女? 男の方ではなく?」
いえ、はい、女性の方です。男性も居るんですね、飛ぶひと。
あっ……そういえば、飛翔する時にやたらと焦った顔をして「それに、さっさとここから離脱しないとアイツが来るじゃない……ッ!」と言っていました。もしかして落下の原因となったエネミーに追われているのかと若干不穏な気配を感じた所で、またもや突然の来訪者の助力を得て窮地に次ぐ窮地を脱したと思ったら……!
「その突然の来訪者が、実は敵方でしたーッてか。エルキドゥは今や人間の間では厄ネタさね。あのヒト相手に良く生き残ったなァ。もしかして悪運強かったり……するのか。すげェ強運……でもない? んん、爆死? カケバデル? ヨビフタンパツ・エンシュツスキップ=キョウ? なんかの呪文か? ……呪文か。運にも色々あんだなァ」
――わっ、と顔を覆って泣き真似をする俺に、赤ら顔の青年がしみじみと何かを噛み締めながらおざなりにどうどうと手を揺らす。先程まで酒を嗜んでいたという彼は紛う事無き酔っ払いだ。風に乗ってこちらに流れてくるアルコールの匂いにほんの少しだけ身体が揺れる。
建物の間を抜ける風が青年の短い三つ編みを撫でると、大きな口からくすぐったいと笑みを溢し、子供のように大きな茶色い瞳が弓なりに撓って煌めく様が、なんだかとても穏やかなのに艶めいて見えて。
夜のにおいで満ちる静寂を押しのけて、俺は「お隣さん」と笑みを交わした。
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レイシフト直後から始まった三日がかりの強行軍を終え、今日、ギルガメッシュ王と面会した。
突如現れたという『三女神同盟』、雲霞の如く押し寄せる『魔獣』と、裏切者の『エルキドゥ』。多くの都市は滅ぼされ、這う這うの体で生き残った人類はウルクにて大城塞『バビロニア魔獣戦線』を構築し、波のように押し寄せる脅威に目を回しそうになる。
その一方で想定外に活気に満ち満ちたウルク市に圧倒され、ギルガメッシュ王の冷やかな態度に脅かされ……いや、現地の協力者がすんなり得られないのはもう十分経験したからいいんだけれども、それなりの修羅場を乗り切ってなお未熟だと断定されると、それなりに堪えもするわけで……。
シドゥリさんの手配で与えられたカルデアの拠点、マシュ曰くカルデア大使館に到着し、一呼吸吐いたら途端に湧き出て来たごちゃごちゃとした感情。自分がすごい訳ではないと解っている。自分の無力さも弱さも足りなさも至らなさも身に染みている。いくら馬鹿をやってやられて、許容されていても、相手は人類史に名を残す英雄たちだ。彼らを前にすれば自分が思っている以上に自分はちっぽけなんだと感じずにはいられない。
これに劣等感と名を与えるのは容易い。実際、言葉に当てはめるとしたらそれが一番近いのかもしれない。
何も出来ない、とは言わない。ただ、何かを出来たと、何かを成せたと、そう言って胸を張るのも半ば虚勢みたいなものだから、最後まで意地を張り続ける事でしか突き進めない自分が情けなくて、悔しい。
どうしようもない、けれど向き合わなければならない感傷を王に突かれた。王様のあの眼に射抜かれて、心が小さく悲鳴を上げてしまった。
日よけの布を退けて、日干し煉瓦の窓枠に肘をついて大きく息を吐く。あれだけ身体を酷使したのに、嫌に耳に響く心音が煩わしくて眠れない。
――このままではいけない。
――眠らないとダメだ。
――無理やりにでも意識を落として、明日に備えて身体を休めないと。
思考は睡眠を是として走るのに、肝心の疲れ切っているはずの身体がそれを遠ざける。自分の中で矛盾が起きる。いらいらする。ああ、だめだ。本当にダメだ。不快にけぶる脳裏に眉根が寄る。こういう時は、大抵ろくな事を考えないのに。
ぐるぐると思考は廻る。堂々巡り、という単語が先ほどから浮かんで消えない。ぐるぐる、ぐるぐる、同じところを周回する頭の中は、けれど一つ二つと暗くなる出来事を拾ってきては逸る心に薪をくべる。
――多機能ゆえのエラー。イシュタルという女神が有する権能は数多く、それ故に彼女は多くを愛するのだとエルキドゥは語った。
『考えるな』
――神らしからぬ、というのは、彼の主観での話なのだろうか。人間を愛する事が余分故の性質だとするのならば、権能を一つに定め極めた神は人を愛する……彼の言うところのエラーを起こさない、ということなのだろうか。
『考えるなってば』
――それならば、目の前の彼はどうなのだろう。彼自身は神ではなく、半人半神でもない、意志を持つ宝具と称される彼がギルガメッシュ王と育んだ友愛は、エラーの一言で片づけられてしまうものなのだろうか。
『……考えるな』
――なんだろう、それは、なんだかとても……寂しい、気がする。
『……考えるなよ、俺……』
不意に胸中を突いた感傷に少しばかり視線が泳ぐ。あの時、ロマンは彼を信用していいと言ったが、どうにも俺には違和感が拭えなかった。人を愛する事と友を愛する事は決してイコールではないけれど、近しい感情であるとは思う。なのに、それをエラーだと、頭がおかしいと……無駄なものだと切り捨てた彼の言葉には、一切の躊躇いがなかった。
俺は本物のエルキドゥを知らないけれど、カルデアでふんぞり返っているアーチャーの王様が時折口にするエルキドゥは、なんというか、その言動の容赦の無さの中にもちゃんと彼自身の心が滲んでいるように感じた。だから、敵になったという
けれど、考えても考えても解らなかった。
どうしたって同一にならない想像と現実の差異に混乱した。敵対する側にいると明確に示された時、驚いたと同時に納得してもいた。やっぱりこのエルキドゥは王様の言っていた彼と違うんだと。
……いや、実際がああいう風だったのなら、俺の想像した虚像が間違いだという事なのだろうけど、これまでに培われた勘がそんな
だから、焦る。今考えなくてはいけない事では無いのだろうけど、疲れ切った身体を裏切って働き続ける頭に苛つきが増す。
それに……それにだ。
天を駆る美しい女神は、あの魔獣たちを
ティアマトの子供たちを示す名を冠した魔獣たち、毒で満たされた殺意の獣。
ティアマトの子供たちが敵ならば、マーリンから聞いた、あの哀しい女神の立ち位置は……。
「んんん? おッと、もしかしてアンタ、お隣さん? 引っ越し早々に夜更かしとか? どうしたよ、そんな湿気た面して。景気悪ィなァ、ビール飲むか?」
暗く沈んでいく心に引き摺られていた頭に、ふと陽気な声色が刺さる。
思わずぽかんとして声の出どころを探せば、その声色の持ち主はにこにこと笑いながら杯を持った腕を掲げて窓に肩肘をついていた。温かな手燭の火が彼の赤ら顔を一層赤く火照らせている。
酔っ払いだ。まず真っ先にそんな感想が出て来た。次いで、俺はそんなに辛気臭い顔をしていたのかと両手で頬をむにむにとつまむ。 そんな動作に何を刺激されたのか、楽し気にけたけたと笑う青年が窓際に椅子を引っ張てきて腰を据えた。これは……絡まれるやつだ!
「お隣さんはどっから来た? おれは五日前にここに辿り着いてなァ。クタから来たんだが、途中ヘマしちまってね。兵役にも付けねェもんだから、仕方なしにダチの家に泊めて貰ってんだ。今はほれ、ここでビール卸してんの」
心底楽し気に酔っ払いは笑う。ずっと笑ってる。俺に問いかけているようで聞いてきてはいないらしく、青年の口は止まらない。先ほどまで下で嗅いでいたビールと同じ匂いだ。昔はお隣さんがここの酒場にお酒を卸してたのだろうか。
「いやァ、しっかし、やッぱり人の気配があるッてのは良いねェ。心が活気づくよ。クタは随分人が減っちまっててね。寂しいったらありゃしねェ。ビールの一つも酌み交わせないんじゃあ、空元気だってだせねェってもんさね」
言うなりごっごっと喉を鳴らしてビールを流し込む青年に、筋金入りの飲兵衛だと呆れて……あまりにも美味しそうに飲むものだから、ふと、吐息を吐くような笑みがこぼれた。まるで仕事終わりの父さんみたいだ。嬉しそうにお酒を飲んで、楽しそうに息を吐く。辛く生きた日々を楽しく
「おっと、おればっかり喋りっぱなしで悪いね。それで、どう? お隣さんここでやっていけそう?」
妙にキレの良い喋り口とは裏腹にとろりと蕩けた赤い顔を突き出し、青年はやっと会話をする気になったらしく、夜闇の冷たさに身を乗り出す。
不意に訪れた感傷に不快な感覚は一切なかった。寂しさと切なさが胸中を埋めたのも一瞬で、懐かしさは目の前の青年の笑み一つで温もりに変わった。
「ええと、そう、ですね……ちゃんと、やっていかないと……俺が、やらなくちゃ、だめで……」
けれど、口を突いて出たのは、先ほどまで巡り巡っていた不安の尻尾で。
自分でもびっくりするくらい、弱い声が出た。思わず目を見開いて口を押さえる。青年は「んー」と顎に手をやって何事かを考えていたかと思えば、二ィ、と悪い顔をしてアルコールの匂いをさせる杯を俺に向けて傾け、わざとらしく潜めた声で「なァ、ちィとばかし夜更かしと洒落こもうぜ」と囁いた。
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……そうして、冒頭に繋がる訳で。
わぁ、と突っ伏した頭に大きく硬い男らしい手が乗って、犬にするみたいに撫でられた。
何処からか頑丈な長い板を持ってきた青年はお互いの窓の淵に板を掛けると、その上に胡坐をかいて腰を据えた。随分と距離が近くなったお隣さんは、自分よりも遥かに背が高く、ガタイも良い陽気なお兄さんそのものだった。
お兄さんはビールを、俺には果実水を。時折近くを通る警邏中の兵に呆れられながら、俺はお兄さん相手に愚痴を聞いてもらっていた。
「……お隣さん、中々に波乱万丈だな。それに前途多難だ。若いうちの苦労は買ってでもとはよく言うけどよォ、お隣さんの旅路は苦労とかそんな次元の話じゃなさそうだ」
ひとしきり吐き出した俺に、お兄さんは神妙な顔をして何度か頷く。酔っ払い相手に何をマジに相談なんかしてるんだ、とほんの少し冷静になった頭が冷めた目を寄越すけれど、胸の中は不思議と軽くなっていた。
勿論、不安が零になったわけではない。けれど言葉にして吐き出して、それを否定も肯定もされないで、ただ優しく聞いてもらえた事が、今はただただ有難かった。
ほぅと小さく息を吐いた俺に、お兄さんは杯を置いた。底の見えない杯が月を浮かべて揺れている。
月から何かが生まれそうだ。そんな感想が過る。酒気を帯びた空気に中てられでもしたのだろうか、漣に形を変える月の揺らぎが、緩やかな胎動のように見えただなんて。
しゃべりすぎて……いや、やっと疲労が眠気を連れて来て、ぼうっと思考に靄が掛かる。強烈な眠気。瞬きするだけでも持って行かれそうなほどの、睡魔。
「安心しなお隣さん。今のところ天駆ける女神は人間にかまってる余裕なんざ欠片もねェし、ティアマトの魔獣に
うつらうつらと船を漕ぐ俺の耳に、お兄さんは言葉を注ぐ。
まるで子守唄のように睡魔を助長する声色は、けれど不思議なくらい鮮明に耳に、頭に焼き付いて。
「永遠不変の大女神。此の世で最も恐るべき生命にして、此の世で最も哀憐深き乙女。混沌の種、成らぬ報復の代名詞。呪愛の幼子、祭祀を司る慰撫の楽神、蛇皇龍ダラ・アマデュラ――あの女神が敵方にいないってだけで、俺たちはどれだけ安心したことか」
恐怖を押し殺した、声。けれど確かな畏敬の念と共に込められた親愛の情を隠せるものではなく。
「彼女の話はマーリンから聞きました……えと、その……最後の場面、も……」
だったら話は早いと、隣人は乗り出した身体とは裏腹にひっそりと潜めた声を風に乗せる。
出会うのは怖い。敵対するのは恐ろしい。けれど、口にする名は愛おしい。本当に愛されている女神様だなと、単純な思考しか回らない……いや、もう吐き出すだけで回ってはいないか。ぼんやりと浮かんだそれらを引っ掴んで留め置く手は真っ先に寝入ってしまったようだ。
「さっき天駆ける女神は余裕が無いっつったろ? それな、女神以上の速さで天を切り裂く龍がそこらを飛び回ってるからなんだよ。で、その龍は魔獣を襲い、
瞼が重い。お兄さんが視界の中で半分になる。顔が見えない。黒い化粧を施された筋骨たくましい褐色の肌を晒した胸板が見える。すごい、かたそう。ジークフリート並の筋肉だ。ただし
「自己中で傲慢な女神を恨む奴は結構いるさ。その中でも明確に敵対できる奴で、龍と縁深く、人型もとれて、なおかつ千剣山を根城にするって奴は、考えるまでもなくあいつ一人さね」
あれ……? うん? えっと、りゅう……わいばーん……ああ、流星群みたいな、りゅう……の、ひと? うん? だれのこと? なんの、あれ、へんだな、おにいさん、なんで、こんなに。
「禍つ星は虚空の彼方へ、
こんなちかく、いるのに……なんで、おにいさんのいき、かからな――……
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「おーい、聞こえるかい?お隣さーん」
かくりとおちた頭に問いかける。小さな頭。子供の頭だ。おれの手ですっぽり覆えるくらいの、小さな子供。こんな子供の肩に世界が乗っかってる、だなんて笑い話にもならない。
一度、杯を子供の方の窓辺に寄せてから彼をひょいと抱え上げる。両脇に差し込んだ腕にはそれなりの重さが掛かるが、青年にとっては大した重さでは無かった。
座したままの膝に一度乗り上げさせてから、背中と膝裏に腕を回して立ち上がる。足元の床板が軽く軋む音を立てた。そのまま足を進め、子供に宛がわれたらしい部屋に踏み入り、寝台の上に彼を寝かせて毛布を掛ける。この時期にウルクで凍えることはないだろうが、腹を冷やしてはいけないと思って。
「あー……お隣さん? そのまま眠りながら聞いてくれ。おれのダチ……つっても、ここん家とは別のダチな? そいつから伝言があるんだ。夢の中でいいからさ、ちょっと耳貸してくれや」
暫くあどけない寝顔を眺めて、罪悪感を上乗せされて、若干凹みながら
現実に子供は聞こえていないが、夢の中で彼の意識がこちらに向いたのを確認してから再度口を開いた。
「『目指す場所は重なれども、血の繋がりでは軛にならず、想いの深さは種類を違え、然して臆病な子供は目指す果てを涙で燻らせた。星を見る子供、貴方が見上げた空の中にこそ、希望の星があるのなら――どうか、雲間を割いてうたって見せて』――だとよ。確かに伝えたからな」
自然と固くなってしまった声色に、内心「この台詞、おれよりもっと似合うヤツいたろ?」と思いながら、与えられた役目を無事に遂げられたと安堵する。何気にとんでもなく大胆な侵入を果たしている自分に喝采を送るが、そろそろ退却しないとあのクソいけ好かない好色夢魔野郎の御目こぼしの範囲から逸脱してしまう。
飄々とした掴み所のない整った面構えの夢魔を脳裏から追い出し、まぁ、これくらいは良いかともう一度子供の頭に手を伸ばし、労りを込めて優しく撫でる。掌で感じる癖毛の柔らかさに思わず笑み毀れる。
「未成年じゃなかったら酌してやったのになァ。残念残念……いや、未来ならもっと酒の種類もあるだろうから、むしろお隣さんにとっちゃ僥倖なのかね? あー、でも古代のビールが初の酒ってのが特別だと思えばやっぱ残念? まぁいいか、お隣さんの周りにゃおれ以上の酒好きはザラに居そうだし、古今東西の英霊さんらがその辺の特別は用意してくれるだろうさ」
だからまぁ、おれお薦めはかるであとやらに居るらしいちょっと前のギルガメッシュ王が用意して下さるかもな……だなんて考えながら、最後にくるりと毛先で遊んでから腰を上げる。
子供の部屋から見上げる空からは月が見えた。濃い夜の中に溺れるようにして浮かんでいる月に、やっぱり世界は眩しいなと目を細めて窓から窓へと渡した板に足を掛ける。
不思議と僅かにも軋まないそれを、向こう側の窓辺で回収して部屋の中に引き込み、そのままトンと軽く跳ねて屋根へと上り、深く寝入っているお隣さんを一瞥した。
幼い寝顔。幼い寝息。触れた髪は、過酷な旅で少し軋んではいたが柔らかくて。
その柔い髪が、ふと、親友が喜んで自慢して回っていた産まれて間もない赤子の髪と重なって。
「……ああでも、お隣さんの周りには、居ねェかもなァ――溺れ死んだ後でも『どうせなら酒に溺れて死にたかった』なんぞと宣う大馬鹿野郎は、流石にザラにゃあ、居ねェかもなァ……」
クタから……一夜にして消滅したはずの都市からやってきた青年は、郷愁を吐いて目を覆う。
子供に厳しい世界なんざクソだな、クソ。笑みの消えた口元が引き結ばれて、覗く犬歯がぎちりと鳴る。
「はやいとこ終わらせねェとなァ……大の大人が
月の中に影が立つ。月光を背負った青年にもはや酒気は無く、表情の失せた顔の中で黒い瞳だけが熱を帯びて輝いていた。
不意に青年の髪が靡く。砂礫を巻き上げるほどの風がウルクの街を駆け抜ける。
夜の冷たい風が一陣吹き抜けた後、窓辺には内側を酒で湿らせた杯だけが、夜の名残を抱えていた。
天にほど近い頂で青白く輝く龍がひくりと鼻を鳴らす。
遠い記憶で嗅ぎ慣れた酒精のにおいが一瞬だけ風に乗ったような気がして、首を傾げた。
酒で思い出すのは、あの女神に轢き殺された酒好きの男の事だ。いや、轢き殺されたと言えば彼は思い切り顔を顰めて悔しがるだろう。末期の水はビールであって欲しかった、などと世迷言を本気で吐き散らすに違いない。
不意にこみ上げて来た笑いにくつくつと喉が鳴る。そういえば、あの男の馬鹿話は兄の十八番だった。
ふと愉快な心地のまま面を上げれば、そこには水面の如くに揺らぐ月がある。
冴え冴えと照る月は美しいのに、無粋に輝く光の帯が邪魔で邪魔で仕方がない。濃密な神代の魔力と光帯の夥しい熱量が鬩ぎ合って生まれる魔力の漣が、月の発する魔力で可視化されることで揺らぎが生まれる。
ああ、いや、本当ならばこうまで鮮明に揺らぎが観測されるはずはない。神代に満ちる魔力、月より降る魔力、光帯の発する魔力の他に、もう一つ二つ、世界を揺らす力が潜んでいるからこそ、大気は震えて月は揺れた。
余波だけでこれだ、大元が現界した暁には、さて、如何に神代と言えど悲鳴の一つは上げるだろうか。
世界を軋ませる魔力の鬩ぎ合いに、けれど龍はいかにもご機嫌な様子で目を弓なりに撓らせる。
「悲鳴だろうが断末魔だろうが、知った事か」龍は哂う「その後に響く音色が白金に輝いているのであれば、どんな音だって凱歌に変わるんだよ」。
うっそりと微笑む龍に、同意とばかりに打ち鳴らされる巨大な槍腕が空気を撓ませて一際大きく月を揺らす。
どれほど大きく揺らせば、内側で微睡む子供は目覚めるだろうか。
月を揺籃に見立てた二頭に、冷たい風が吹き付ける。
酒のにおいは、もうしなかった。