日もすっかり沈んでしまった。空が赤かったのは既に一時間も前の話で、今は月が夜を彩っている。
街灯に照らされた街並みをぼんやりと眺めながら、俺は自宅へと足を進めた。
時刻はもう六時過ぎだ。
明かりの灯る家々では、きっと暖かな夕食を家族で囲んでいることだろう。辺りからは、餃子やカレーなどの匂いが漂ってくる。俺のお腹からグゥ、と小さく音が鳴った。
空腹に耐えかねて、手に持ったビニール袋からコロッケを一つ取り出した。このコロッケは絶品だ。その美味しさたるや、味にはうるさいこの俺がかつては週三で買いに行っていたほど。おそらく俺はもう他のコロッケを食べることは出来ないだろう。
取り出した瞬間から漂う香ばしい香り。求めていた匂いにお腹が一層大きな音を立てた。まあ今日は昼を抜いてしまったので、それも仕方のないことだろう。
香りを楽しむのも程々に、俺は大きく口を開けてコロッケにかぶりついた。揚げたてだというコロッケからは白い湯気が立ち上り、至高の味が鼻を突き抜け、俺にこの上ない幸福感を齎す。ああ、この瞬間が幸せ……。
などと考えているうちに、すっかり平らげてしまっていた。ペロリ、である。これはもう残りの一つも食べてしまおうか、という考えが頭にチラつき、慌てて首を振った。今食べてしまっては何のために買ったのかという話になってしまう。
依然として空腹は満たされていない。コロッケの誘惑に負けないうちに早く帰って何か食べなければと、俺はひとり帰路を急いだ。
***
急いだとは言っても、実は先ほどコロッケを食べた場所から家まではそう遠くない。というかむしろ近い。五分と掛からず家の前まで辿り着いた俺は、古めかしい表構えの店の横に併設された扉に手を掛ける。
扉に掛けられた古ぼけた表札はとうの昔に擦り切れていて、今や何と書いてあるのか読み取ることも難しい。ただ、祖母の話によれば、祖父の苗字である『氷川』という文字が、木製の板に彫られていたそうだ。
この家は、かつて俺の祖父母が住んでいた家であり、商店街の一商店として祖父母が営んでいた酒屋でもあった。祖父は俺が生まれる前に他界し、二年前までは祖母と俺との二人で暮らしていたが、祖母が他界してからは実質俺一人で暮らしている。酒屋の方は、祖母が亡くなった時に閉店した。
幸いローンは返済し終えているそうで、本当は祖母が亡くなった時点で俺は両親と姉二人が暮らす実家に帰らなければならなかったのだが、無理を言って何とかそのまま住まわせてもらっていた。
さて、家に入り、手洗い等済ませた俺は即座に冷蔵庫へ直行した。中に昨日炊いたご飯の残りがあったので、冷やご飯のまま口に入れる。冷たい。
少々凍っていたご飯を噛み砕き、お茶で流し込んだりして何とか嚥下すると、ようやく空腹もおさまった。
そこで、食卓の上に置きっぱなしだったコロッケを手に取って皿に盛り付けると、それを仏壇に供える。
今日は、祖母の命日だった。
このコロッケは、生前祖母が好んで食べていたものだ。何かにつけて食べていた気がする。そういえば、俺がこのコロッケを食べ始めたきっかけも、祖母が半分に割ったコロッケを俺にくれたことだったしな。
お供えを終え、一通り拝むと、俺は今度は自分の部屋へと向かった。自室とは言っても、布団が敷いてあるだけで、実際の俺の普段の活動スペースは、主に食卓の置いてある居間だけだ。
では、特に何もないはずの自室に何の用があるのかと言えば、その答えは押入れの中にある。
押入れの中では大小様々な段ボールが積み重ねられていた。その箱のうちいくつかを漁り、ショルダーバッグを引っ張りだすと、広げた箱を片付け、押入れの中に仕舞い戻す。さらに、箪笥の中からスポーツタオルなどを取り出してバッグの中に詰めると、そのバッグを枕元の側に置いた。
俺がしていたのは、明日の準備だった。万端であることを確かめ、不足がないかもう一度確認して、俺は部屋を出る。
その頃になると、時刻は既に七時を回っていた。
居間に戻った俺は、中途半端に終わった夕飯のかたをつけるべく、再び冷蔵庫の前に立ち、中を覗き込んでいた。
冷やご飯がまだ残っている。それと卵もあった。幸いまだ茹でていない。となれば、もはや卵かけご飯しかない。
そう結論付けた俺は素早く冷やご飯を温め、卵をかけ、醤油をぶち込み、ものの一、二分でかっ込んだ。
食事終了。これで俺の胃袋も満足してくれたことだろう。栄養バランス面に多少の問題はあるかもしれないが、まあ一日くらいは大目に見て欲しい。
食べ終えた食器を洗い、片付けた俺は、どっかと畳に座り込んだ。これで今日するべきことはもう何もない。いや、学校の宿題があるにはあるのだが、俺にそれをやる気はない。
それに、今の俺は明日のことで頭がいっぱいだ。例えやる気があったとしても、まともに手がつかないだろう。
……大丈夫、準備も入念にした。万が一バレた時の言い訳も考えてある。後顧の憂いはない。
――よし、今日はもう寝よう。
金曜日の午後八時前、いつもならダラダラとテレビを見るともなく見ている時間だが、今日の俺は早々に寝ることにした。
しっかりと寝て、明日に備えるべきだ。
そう考えて、俺はさっとシャワーで体を流し、歯を磨いて、布団の前に立つ。
寝る直前、通学鞄に丸めて入れておいた紙をそっと広げてまじまじと見た。
それは、とあるライブのフライヤーだった。
ライブステージの写真を背景にしたそのフライヤーには、ライブの日時や場所、出演するバンドなどが記されていた。
ライブの開催時間は明日、九月十七日の午前十時から十二時半まで。場所はライブハウス『CiRCLE』にて。
それらの情報を確認しながら、俺は出演者の欄に目をやる。
出演バンドの名前を指で一つ一つ辿り、やがて俺は探していたあるバンドの名前を見付けた。
『Afterglow』
フライヤーにはそう書かれていた。
思わず体が強張り、唾が喉を通過する音がやけに響いた。
――いや、別に会いに行くわけじゃないんだ。緊張する必要はない。
手の震えを見なかったことにしながら、俺は再びなぞり始める。そして下の方へ行くと、さらに二つのバンド名が目についた。
『Roselia』
『Pastel*Palettes』
その名前が見えたとき、俺の目は自然と箪笥の上に向けられた。
箪笥の上には一枚の写真が飾ってある。俺が幼かった頃の写真だ。二人の姉が俺と一緒に屈託のない笑みを浮かべている、そんな何気ない日常を切り取った一枚。
そのまましばらく写真を眺めていると、ふと我に返った。慌てて視線を無理矢理外し、フライヤーを丸めて傍に置く。
――今更うだうだと考え込んでも仕方ないだろう。そんなことを考えるくらいならさっさと寝るべきだ。さあ、早く寝よう。きっとそれが良い。
そう自分を納得させると、俺は布団を頭から引っ被り、体を縮こまらせる。
そして、未だ冴えている目を押し込むように、ぐいとまぶたで蓋をした。
眠れなかった。