狭間に生きる   作:神話好き

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七話(ギルドの巣窟ダングレスト~テムザ山)

「影から見ているだけなら、僕はもう行くぞ」

埋葬されたドンの墓の前に『クリュサオル』を突き立て、片膝をついて祈りをささげていると、怯えや恐れを伴った視線が僕を見ていた。レイヴンは分かるがエステリーゼは……。

「……ああ、なるほど。ベリウスが話したのか」

「わ、わたしは……」

桃色の髪が大きく揺れるほどに、ベリウスの名にビクンと体を反応させ、掠れた声を絞り出す。

「謝るな。あれはあいつの選択の結果だ。その責任を誰かに押し付けるような奴じゃないことくらい。エステリーゼにも分かるだろう?それに見方を変えれば、説明を渋った僕のせいでもある。結局のところ、自分が悪いと嘆くのが、一番楽なんだよ。誰かを恨むのは、とても疲れる」

「…………っ!」

エステリーゼの顔が更に青くなったのは、僕の言葉で初めてそういう自分が存在するんだと気付いてしまったから。潔白で純真な心の底に溜まった澱。前に進まんとするならば、まずは己と向き合わなければならない。

「まずは自分を知れ。そうして、世界を、人を知った時。僕はその謝罪を受け入れよう」

「……はい」

深々と頭を下げるエステリーゼから視線を外すと、どうやら他にも話があるメンバーがいるようで。そうだな、まずはリタから話をしようか。

「あんた……人じゃなかったのね」

「半分は人だ。尤も、そのせいで更に化物じみてしまっているけどな」

「ま、あたしとしてはそんな事どうでもいいんだけど。学長がどれくらい遠くにいるか、朧気にも分かった訳だしね」

千年と言う差をそんな事と言い、本気で追い抜かそうと考えている。それ以外は頭の片隅にも入っていないのが、実にリタらしい。

「……もし、僕の領域までたどり着けたのなら、この本についての情報を公開してやろう。世界を変える術式の一つだぞ」

「言ったわね!しっかりと言質取ったわよ!」

「そもそも教えてないだけで、隠してるわけでもないからな。そうだな、最初にリゾマータの公式にたどり着いた者を弟子にしようか」

興奮して目が血走っている。知識に対して貪欲すぎて、完全に女を捨ててきている。それが悪いこととは言わないが。

「……それで、あんた体大丈夫なワケ?あんな無茶な術式使うなんて正気じゃないわよ」

「確かに正気とは言えなかったけど、もう大丈夫だ。いつまでも引きずるのはベリウスも望まないだろう」

「そう、ならいいわ。仮にも私の師匠になる人が、そんな軟弱じゃあ困るんだからね」

「旅をしてみても、その素直になれない性格は直らなかったか。昔は――」

「昔は……、なんだって?」

頬をものすごいスピードの火球が掠めていった。発射した本人は完全に目が据わっている。

「そんなに恥じる事でもないと思うけどな……」

「う、う、うるしゃいわ!時間が戻せるならあの時の自分をぶん殴ってやりたいくらいよ!」

地団太を踏みながら肩で息をして涙目になるリタは、どことなく年相応にも見える。今にも掴みかかって来そうな雰囲気は、出会ったばかりの頃を思い出させるようで、懐かしい。が、これ以上からかうとどんの墓諸共吹き飛びかねない。

「次はユーリか。これと言って用事があるようには思えないが」

「渡すもんがあんだよ」

ほら、と言ってその懐から無造作に、しかし決して傷がつかないように取り出されたのは、聖核。蒼穹の水玉。

「あんたに渡してくれって頼まれたんだ」

「礼を言う。墓を作ってやりたくても、何も残って無くて困ってたんだ」

「礼なら、おっさんをどうにかしてくれると助かる」

「最初からそのつもりだ。あれでも僕の数少ない友人の一人でな。少しばかり胡散臭いが、いい奴なんだよ」

今回の件は僕の落ち度だ。楽観で、レイヴンにとってこれ以上ないほどに重い十字架を背負わせてしまったのだから。今の彼の目に映る光はドンと同じもの。あらゆる色を押しのけて、覚悟の意思がそこに在る。

「レイヴン」

「はいよ」

あくまで飄々と、気負いを感じさせない声で返事をすると、一歩前に出る。だが、その様子は観念した罪人のようにも見えて。

「あんたは後で、ケーブ・モックの森に来い。納得には理屈だけじゃ足りないんだろう?」

「……旦那には隠し事は出来ないのね」

「得物は好きにして構わないが、全力で来い。お望み通りぶっ飛ばしてやる」

同じく気負わず、普段となんら変わらない様子で、そう告げると、僕はこの場を後にした。

 

○○○

新緑がいい具合に風になびき、かつてここのエアルクレーネが暴走していた時には見られなかった情景が見られる中。先の約束の通りに、僕はレイヴンと対峙していた。ユーリたちは意をくんでここに付いてくるような真似はしなかった。それは無粋極まる高位だ。この決闘まがいな行為は、そういう類いのものだと理解しているのだろう。

「さて、いい加減始めるか」

「の前に、一つだけいいかしら」

顎を僅かに動かし、言ってみろと目で告げる。

「おっさんだけ本気ってのはフェアじゃないと思うわけよ。……ねえ旦那、本気、出してくれない?」

「……いいんだな?」

怖くない訳がないだろう。事実、その声は震えていたし、顔色も隠しきれないほどに悪くなっている。それでも選んだというのなら、友として真っ向から受けて立ってやらなければ。

「正直、これを見せるのはあまり気のりはしないんだけどな」

「俺なりのケジメってやつなのよ」

「……五分耐えろ。無理なら一度僕を殺せ。それで決着だ」

両の手を吹き飛ばす勢いで、僕の両肩から先が『トリスメギストス』に変異し、同時に背中からも第三の腕が生えてくる。『トートの書』はばらけて、光背のように浮き、その中心となる場所にはお互いの尻尾に食らいつく双蛇が合わさって円環状に浮遊。紙片の円は何層かに分かれ、それぞれ時計、反時計と交互に回転していく。まるで歯車のようにも、複数の壊れた時計のようにも見えるそれらは、漠然とその危険性を理解させた。

「我が身は創世の賢者にして月の現身。顕れるは五柱が一つ、死と復活の象徴。ここに帰依し奉る」

だらりと垂れた両爪に異常な速度で成長する植物が巻き付き始め、それが次第に全身へと広がっていく。

「降神権能、コード・オシリス」

絡みつく蔦は、それでも動きを阻害することは全くなく存在している。自然との合一。それこそがこの術式の真骨頂だ。今や、ケーブ・モック大森林が僕で、僕がケーブ・モック大森林。知覚を始めとしたあらゆる感覚が切り替わり、高度な演算機械のようにこの森で起こる全てに対し、完全な把握を実現した。

「……行くぜ、旦那!」

「死ぬなよ、レイヴン」

小手調べとばかりに放たれた二連の矢。さらにそれを蹴散らすと読んでの一矢が放たれる。

「木は我が腕」

僕の命に従い地面から気の杭がそびえ、逆に矢を打ち抜くと、分化して無数の矢となり降り注ぐ。ぎょっと、体を固くしたレイヴンだが、爆薬を仕込んだ矢を眼前の地面で爆裂させることで防ぎ切り、素早い判断で近接戦闘へと切り替えた。

「軽やかに!」

「土は我が足」

刹那の内に小太刀を抜き放ち、滑空するように突っ込み、しかしそれすらも上回る速度で壁が作られた。恐ろしく堅い土でできた壁は、容易にその斬撃を阻む。

「蔦は我が指」

間髪入れず、弾かれたレイヴンの四肢を蛇のように動く蔦が絡みとると、合わさって極太の鞭となり、その腹を打ち抜いた。強烈な衝撃は絡みついていた蔦自身をも引き裂き、レイヴンは最初に対峙していた時よりも遠くにあった大樹に叩きつけられた。それと同時、悶絶する間も無く、木々は根を伸ばして包み込まんと襲い掛かる。

「エアスラスト!」

根から逃れようと咄嗟に発動した術も、僕の『トリスメギストス』が瞬時に掌握。森林に漂う静謐な空気の藻屑と消えた。

「蛍よ!」

腕に絡みつくものだけ力任せにどうにか剥ぎ取り、構えた弓から空中に仕掛けられた地雷のような技。顔を顰め歯を食いしばると、あろうことか自らそれに触れて爆発を誘発させたのだ。

「ぐっ!」

生い茂る草木の侵攻から辛くも逃れ、仕切り直しと言ったところだが、片方はすでに満身創痍。まだ、三分と経っていないというのに、血まみれだ。

「例えばあんたが、跳びかかろうとして踏み込んだ時、僕は土を踏みしめるその力の具合から、次の行動が手に取るように分かる。呼吸からはダメージの有無を。空気の振動からは術式を、だ。これはそういう術。人という、自らとは大きく異なるものへの変異を可能とする、始祖の隷長の特色を生かした術式。トート・アスクレピオスが、レイヴンと戦うための全力」

「…………」

「そう、良い目だ。あんたが僕から何かを学ぶように、僕はあんたから何かを学ぶ。これでようやく対等になったな」

ドンからは義を。ベリウスからは慈愛を。そしてレイヴンから学ぶものは、どうやら不屈のようだ。

「年甲斐もなく熱くなっちゃったじゃないの」

この戦いの中で何を感じ、何処に至ったのか。それは本人の内にだけあればいい。僕の苦悩の片鱗を知るこいつが、こんな目を出来る。こんなにも、生きている。

「ここからはただの喧嘩だ。泥臭くいこう」

「青春だねえ。こりゃ青年たちの事笑えないわ」

お互いに至近距離まで歩み寄り、口元だけで笑いあうと、示し合わせたように殴り合いが始まった。と言っても、高速で展開される組手のように、洗練された応酬が繰り広げられていく。高速で振るわれる爪を紙一重で避け、振るわれる小太刀を目の前で弾く。もしも観衆がいたならば、演武として拍手喝采を浴びる程に見事なぶつかり合い。

「そろそろ倒れたらどうだ?」

「冗談!ここで退いたら男じゃないでしょ」

拮抗したまま時は過ぎ、決着は残り一秒あるか無いかの刹那。爪を弾こうとした小太刀が限界を超えた。パキン、と甲高い音を立てて折れたそれには、もはや受け止めるだけの機能は無く、均衡は崩れ去った。

「ありゃりゃ……。何もこんな時に折れなくてもいいじゃない」

「治療は任せておけ」

やれやれと諦観の声を上げるレイヴンを、鉄塊のごとき爪がぶっ飛ばした。

 

 

・・・

朝、ユーリたちが宿から出てみると、手紙と一緒に柱に括り付けられて凍えているレイヴンを発見した。顔面以外は丁寧に治療が施され、傷一つ無かったのだが、恐らく意図的にだろう、顔はボコボコにされたままだった。笑いを堪えながらも、手紙を読んでみると、ユーリたちの知りたかった事、すなわちジュディスの行方について書かれていた。

「テムザ山……ね」

パティの操舵する船に揺られながら、ユーリは呟いた。

「ま、それは置いといて、だ。おっさん、サメの餌になりたくなかったらキリキリ知ってる事吐いてもらうぜ」

「おたく、よく鬼畜って言われない?」

括り付けられる柱が船のものに変わり、レイヴンは未だにその自由を奪われていた。

「ほら、無駄口叩かないの。学長との関係とか、知ってる事洗いざらい話すまでご飯抜きよ」

「リタ、それはちょっと可哀相です。せめてお水は飲ませてあげないと」

「……嬢ちゃん?」

唯一の良心は断たれ、レイヴンの頬を冷や汗が伝う。

「で、真面目な話、どうなんだ?言動から察するに、大分前からトートと親交があったんだよな?」

「かれこれ、五、六年くらいかねえ」

「意外と長いのじゃ」

「それじゃあ、わたしたちと行動を共にしたのは……」

「嬢ちゃんの監視。みたいな」

「もう、海に落としちゃっていいんじゃない?こいつ」

ゴゴゴゴ、と擬音が実際に見えそうなくらいの迫力で、リタが詰め寄る。背後からは火球が数個ほど見え隠れしており、率直に言うと命の危機だ。

「……トートの指示か?」

「旦那は、今の状況をある程度読んでたみたいよ。それに、害意があっての監視を付けたワケじゃないって。生まれのせいで命狙われるのとか、あんま好きじゃないって言ってたしさ」

「だけど、止めはしないと。また、中途半端なことだな」

「永く生きてればいろいろあるのさ。いろいろ、ね」

三十五年ほどのレイヴンの人生でさえ、希望と絶望はない交ぜになって点在していたのだ。千年。この重みは、同じくその時を生きるものにしか想像もできないものだろう。

「おっさんが知ってるのはあくまで旦那の事だけ。始祖の隷長の事情に関しては、あまり踏み込まないようにしてたから」

「そう、ですか……」

求めた答えは再び遠ざかり、まるで世界がお前は知るなと言っているような気すらする。エステルが少しだけ俯けた顔を再び上げると、その双眸には確かな決意が宿っていた。後押ししてくれたベリウスと、他でもない自分のために、自分の知らない全てを知ろう。海猫が飛び交う海上で、少女は人知れず決意を新たにした。

 

○○○

テムザ山の山頂。そこには膨大な数の穴が空けられた大地が広がっていた。草木の一本すら生えておらず、不毛の地の体現と言ってもいいような場所。十年前に起きたある戦争の爪痕は、生々しく、そして微塵も風化することなく常在している。あの時あの場にいた存在にとって、等しく地獄だった人魔戦争。命の価値が吹けば飛ぶほどに暴落し、呼吸をしている間に隣で励まし合った戦友があっけなく死ぬ。例外ではなく一度は死んだレイヴンにとっては、いささか辛い風景だ。

「人魔戦争。あの戦争の発端は、ある魔導器だったの」

「なんですって!」

トートのくれた情報通り、ジュディスはちゃんとそこにいた。そうして、その口から語られる真実に耳を傾けている。

「その魔導器は発掘された物でじゃなく、テムザの街で開発された新しい技術で作られたもの。ヘルメス式魔導器」

「ヘルメス式……」

「初めて聞いたわ……」

驚きは二つ、一つは自分の知らない術式の魔導器があった事に、そしてもう一つは。

「それに、新しく作られたって……」

自分よりも高みにいるのはトートのみだと信じて疑わなかったリタにとって、それは驚愕の事実だったのだ。

「ヘルメス式魔導器は従来のものよりエアルを効率よく活動に変換して、魔導器技術の革新になる……はずだった」

「何か問題があったんだな」

「ヘルメス式の術式を施された魔導器はエアルを大量に消費するの。消費されたエアルを補うために、各地のエアルクレーネは活動を強め、エアルを異常に放出し始めた」

「そんなの、人間どころか全ての生物が生きていけなくなるわ!」

「そう。人よりも先にヘルメス式魔導器の危険性に気付いた始祖の隷長は、ヘルメス式魔導器を破壊し始めた。それがきっかけ。火種自体は大昔からあったの。ほんの些細な小競り合いで、激しく燃え上がってしまった」

ヨームゲンでトートから聞いた話。始祖の隷長は世界を守っていると、その意味をようやく理解した。エアルクレーネを鎮めるだけではないのだ。世界の危機を退ける彼らは、真に守護者と言っていいのだろう。

「どうして始祖の隷長は人に伝えなかったんです!?その魔導器は危険だって!」

「死人に口なし。世界の危機なんてもの、知らなけりゃ良いだけの話よ。その為の帝国だしね」

「そういうこと。そして、私には事実を知る者として義務がある。未だに稼働を続けるヘルメス式魔導器を」

消さなくてはならない、と言いかけた時、リタの激情がそれを押し流す。

「なら!言えばよかったじゃない!どうして言わなかったのよ!一人で世界を救ってるつもり?バカじゃないの!?勝手に秘密にして勝手に苦しんで、なんなのよ!」

仲間だと、そう思っていたからこその感情の発露。それは、小さな子供の駄々に似ているが、一線を画すもの。心からの声は、同じく聞く者の心を揺さぶる響きがあった。

「何とか言いな――」

リタが返事を返せないでいるジュディスに詰め寄ろうとすると、上方から人の気配が。ユーリたちのちょうど真ん中あたりに降り立ったのは、『魔狩りの剣』のティソンとナン。目深にフードを被った体術使いに特徴的な円状の刃物。これまでにも数度会っている奴らだ。

「どうやら、魔物はそこにいるようだな」

この場にいる全員を嘲笑するような声で、ティソンは言った。目的は言うまでもなく、始祖の隷長、そしてその死後に残る聖核だろう。

「『魔狩りの剣』がなぜ、人に危害を加えるんですか!」

「魔物に組するものを、人とは呼ばんだろう」

「魔物は悪。『魔狩りの剣』は悪を狩る者……。でも!始祖の隷長は悪じゃない!世界のために……」

「雇われて見境なくなってんだろ。狙いは聖核のクセにカッコつけてんじゃねえよ」

「ふん。話にならんなあ」

諸手を上げて挑発するように声を上げるティソンは、言い切ると同時に臨戦態勢へと入った。

「来るぞ!」

弾かれるように体を動かし襲い掛かるティソンとナン。仲間を守るための、そして意思を通すための戦いが始まった。

 

 

・・・

ユーリたちが戦いを始めた丁度その頃、帝都からほど近い平原に僕はいた。エフミドの丘へ行こうかと思い立ち、移動していた最中の出来事だ。降りしきる雨が体を打つ。差していた傘はすでにたたまれ、目の前に立つ人物の言葉を無言で待っている。高貴な雰囲気を感じさせる金髪は見る影もなく雨水に濡れ、整った顔立ちはまるで能面のようだ。感情の一切を排した兵士、なるほど確かに一つの完成形だ。しかし、それはあくまでも兵士としての話。人形を騎士とは呼ばない。

「聖核を渡してもらいに来ました」

「アレクセイの命令か?」

「……機密事項です」

淡々と、以前会った時とはまるで別人のように用件だけを告げる。初めて会ったレイヴンにそっくりだ。心を殺す従属が、その身を蝕み、やがては自分を失くしてしまう。その一歩手前に彼はいる。

「悪いんだけど、渡すつもりはないよ。墓に入れてやれるものはこれくらいしかないんだ」

「どうしても渡していただけないというのなら……」

カタカタと震える手で腰にある剣に手を掛けて。

「あんた、少し見ない間につまらなくなったな。傀儡の人生に意味はあるのか?」

「あなたに……あなたに何がっ!……いえ、そうですね。今の私は誇れるものではないのでしょうから」

噛みしめた口元からは血が滴り、剣に掛けた手は強く握り過ぎて、柄から軋みが聞こえてくるようだ。

「私は……間違っているのでしょうか」

「正解も不正解も、所詮は自身が決める事。僕に聞いてる時点で大きな間違いだ」

「手厳しいですね……」

力なく笑い、抜き放たれた剣は真っ直ぐに僕へと向けられる。

「始祖の隷長トート・アスクレピオス。貴方には人魔戦争時のスパイとして容疑がかけられています。大人しく拘束されない場合は、武力行使も厭いません」

「それは、僕と敵対するってことで良いんだな?始祖の隷長としての僕と」

「……任務を開始します」

それは確かな肯定の言葉だった。罪の意識も、優しい心も飲み込んで、肥大したのは冷たい敵意。

「……いいだろう。やってみろ。僕の喉元にその剣を突き立て、見事殺して見せるがいい。期待しないでおいてやる」

手も足も髪も胴も、人としての面影を残したままに段々と人外のものへと近づいて行く。シルクのようだった髪は無数の蛇へ、足には『トリスメギストス』のモデルとなった巨大なかぎ爪。最もその目を引くのが機械的な光を放つ両手。形こそ人のものだが、その不気味さは見ただけで怖気が奔る、本能に訴えかける類いの腕。胴に刻まれた文字盤。古代の言語で書かれたそれは時計だ。『トリスメギストス』も『トートの書』も『カドゥケウス』も、すべてはこの状態の模倣に過ぎない。

「高い壁に当たった時、人は二種類に分けられる。俯くものと見上げるものだ。あんたはどっちかな、フレン・シーフォ」

雨は激しさを増して豪雨となり、そんな中でフレン叫び声を上げながら走り出す。怪物と人との戦いの火蓋は、今ここに切り落とされた。


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