川崎沙希は、比企谷八幡のためにやさしい世界を作る決意をする。

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やさしい世界の作りかた

 体育館からはバンドの音楽が青春の音色となって響いている。特別棟の屋上、その給水塔の上でだらけていたあたしは、文化祭の音をBGMに空を見上げていた。視界いっぱいに広がる空は、在校生達の熱気でこんな色になったんじゃないかと思ってしまうような、青色で染め抜かれていた。

 

 なんて、川崎沙希らしくもない発想だ。ほっと息をつく。

 

 らしくない。そう、今年のあたしは、らしくないのだ。去年はつまらなかった文化祭も、今年は少しだけ楽しかった。クラスの衣装係りを任されたからだろう。裁縫が趣味のあたしにとっては、中々に有意義な時間だった。まあ、劇の内容は酷いものだったのだけれど、あたしの作った衣装で動き回る役者を観劇するのは中々に良い経験だったし、存外に嬉しかった。

 

 そんな文化祭も、もうじき幕を閉じる。

 

 カーテン・フォール

 

 なんであれ終わりは訪れる。

 

 どれだけ楽しかろうとつまらなかろうと、時は人々を平等に彼岸の彼方へ追いやってゆく。

 

 そんな諸行無常の中、いまあたしの胸の奥で少しだけ疼くものは、ほんの微かに触れた青春の残り香だろうか。意識しなければ消えてしまいそうなほど仄かで、どこか興奮めいた感情の炎。少し関わっただけでこれなのだから、いま体育館でライブを満喫している生徒たちの胸中は一体いかばりの青春の焔に炙られているのだろうか。きっと盛大に、眩かんばかりに燃えて、灰になってしまうのだろう。それとも、心燃ゆるまま二次会とやらに雪崩れ込むのか。

 

 なんにせよ、あたしにはあずかり知らぬことだ。至極どうでもいい。

 

 本当に今日のあたしはらしくない。

 

 そろそろエンディングセレモニーの始まる時間だ。さすがにそれをバックレる訳にはいかないから、あたしは給水塔から降りようと上半身を上げる。

 

 ふいに、屋上の扉が錆び付いた金属音で空気を軋ませながら開いた。あたしはとっさに頭を落として隠れる。教師が見回りに来たのかもしれない。面倒なことになったと内心でため息を付きながら恐る恐る侵入者を見ると、教師ではなく女子生徒だった。後姿だから確証は持てないが、恐らくは同じクラスの相模だ。

 

 相模は身体全体で寄りかかるようにフェンスに背を預けて、屋上の入り口をぼんやりと見つめていた。表情はここからは伺いしれない。ただ、文化祭実行委員の委員長が、文化祭の終幕を間近にしてこの場にいることが不可解だった。いまこうして文化祭をバックれているあたしでさえ、そろそろ体育館へ向かおうとしているにも関わらず、どうして相模はここにいるのだろう。

 

 風がひと撫でする程度の黙考。

 

 すぐに思い至る。

 

 相模のクラスで見せる貌。オープニングセレモニーでの失態。いまこの瞬間この場にいることそのもの。

 

 それらが複雑怪奇に絡みつき、一本の線となってあたしの脳裏に答えを導き出した。

 

 ふっと、あたしは声無き笑みをこぼす。

 

 あんた、五年遅いよ。

 

 そんなもの、あたしはとうの昔に経験している。

 

 自らの居場所を失い、その場から逃げ出した先で誰かに見つけて欲しいと祈る浅ましい願望。見つけて欲しくて、でもひとりでいたい。だけどやっぱり誰かが自分を迎えに来て、この懊悩を理解し、優しい言葉を掛けてくれることを切に望んでいる。

 

 下らない。ひとりでやってろ。

 

 隠れているのが阿呆らしくなって、あたしはそのまま降りようと身体を起こしたところで、再び屋上の扉が開いた。

 

 まったく、なんだって今日はこんなに客が多いんだろう。別にここはあたしの私有地じゃないからいいんだけれど。あたしとしてはいま戻らないと遅刻確定だ。というかもう完全に遅刻状態。早く戻らなければ、教師に見つかって叱責されてしまう。面倒だから降りてしまえと思った矢先、飛び込んできた声に再びあたしは身を固くする。

 

「エンディングセレモニーが始まるから戻れ」

 

 稚児の児戯に苛立つような低い声。比企谷八幡の声だ。

 

 かつてあたしを救ってくれた恩人の声に、あたしの身体の動きが完全に止まる。

 

「別にうちがやらなくてもいいんじゃないの」

 

 相模が言って背を向ける。その言葉も行為も、まさしく子供の駄々そのものだ。比企谷もそれを察してか、小さい溜息の後、言葉を重ねる。

 

「残念ながら事情があってな、そうもいかない。あまり時間がないんだ。早くしてくれると助かる」

 

 時間はもうとっくにエンディングセレモニーの時間に入っている。あたしだって内心焦って心臓が高鳴っているのはその所為だ。たぶん。絶対。

 

 ふたりが言葉を投げていく。それで分かったのは、いまもまだ三浦や雪ノ下たちが場を繋ぎ時間を稼いでいる事実。相模が雪ノ下に相当な劣等感を抱いていること。相模が持っている集計結果が必要だから、比企谷が駆り出された現実。

 

「じゃあ、集計結果だけ持っていけばいいでしょ!」

 

 金網を震わせて、相模が集計結果の記されたであろう紙を屋上に叩きつけた。

 

 ここら辺が潮時だろう。比企谷はよく我慢強く説得した。あたしならその紙を持ってそのまま身を翻す。ついでに皮肉のひとつでも付け加えてやるだろう。

 

 だが、比企谷はそうはしなかった。落ちた紙をじっと見つめて何かを考えているのか、言葉ひとつ発さない。

 

 重い沈黙が降り積もる。

 

一体、なぜ?

 

 給水塔に隠れながら、あたしは比企谷の行動が気になった。あたしからすれば、文化祭実行委員として適切な処置を行ったように見える。拒んだのは相模だ。この後起こり得るであろう罰を相模におっ被せ、自分は集計結果という成果を持って戻ればいい。文実の身であれば問題ないどころか大手柄だ。

 

 違う。文実内部からすれば相模の行動は汚点そのものか。ここで成果を持って帰っても、文化祭実行委員長の相模がエンディングセレモニーにいない事実が教師たちに露見する。それは、たしかに良くない。だから比企谷は、相模という相容れない相手に対して、慣れない説得など講じたのだろうか。

 

 たぶん、これも違う。明確にこれとは言えないけれど、なにか違和感がある。

 

 そんなことを考えていた折、三度屋上の扉が開いた。今度は葉山が相模の取り巻きふたりを連れて来たようだ。

 

 相模が振り返る。葉山の存在を捉え、そっと目を伏せたその瞬間、あたしは相模の瞳に期待の光が見えた気がした。こんな場所からは、ろくに顔すら見えやしないのに。

 

 葉山と取り巻き二人が口々に相模へとやさしい言葉を投げかける。相模が望んでいるであろう言葉を真摯に伝え、この場から引き剥がそうとしている。

 

 だけど、相模は動かない。

 

「でも、今さらうちが戻っても……」

 

 とか、

 

「けど、みんなに迷惑掛けちゃったから合わせる顔が……」

 

 なんて泣き言を吐き出す。そうすればもっと望みの言葉をもらえると信じているかのように。

 

 動いた歩数は僅か数歩。その間も、時は容赦なく進んでいく。はたから見ていてもじれったいのだ。当事者である比企谷はあたしの比ではないだろう。

 

 葉山が暖かい言葉を投げる。相模にはあまりにも都合の良すぎる言葉を。

 

「大丈夫だから、戻ろう」

 

「うち、最低……」

 

 ふいに、比企谷の空気が変わった気がした。同時に、彼の口から盛大に、長く、そして苛立ちを紛れ込ませたため息が吐き出された。

 

「本当に最低だな」

 

 その一言が、失敗による挫折を救う友情に包まれた暖かい空気を、罪を糾弾する一方的な裁判所へと一変させた。

 

 比企谷から発せられたのは、毒舌の展覧会でも開いているのかと思うほどの罵詈雑言。いや、これは正確ではない。論理的に正しいことを言っている。むしろ仕出かした過ちからすれば、この程度で済むだけマシというものだ。

 

「よく考えろよ。お前にまったく興味のない俺が、一番早くお前を見つけられた」

 

 恐らくは比企谷の主観で語られていた事実から、客観的な事実へ言葉が切り替わる。相模にとっては悪夢の言葉へと。

 

「つまりさ、……誰も真剣にお前を探してなかったってことだろ」

 

 相模の顔が変わった。いままで見えた怒りや憎悪が潮のように引き、驚愕と絶望が表情を歪ませる。渦巻いた負の感情は、客観的事実の前により深くなってゆくばかりで、吐き出す唇を噛んだまま開かない。

 

 あたしは比企谷の言葉を訊きながら、なぜこんな手法を取ったのかが理解できない自分がもどかしいと感じた。彼のあの腐った目には、一体いま何が見えている?

 

「わかってるんじゃないのか、自分がその程度の――」

 

 比企谷の言葉が途切れる。

 

「比企谷、少し黙れよ」

 

 葉山の低い声と共に、壁に何かを叩きつけたような音が鳴った。

 

 ここからでは見えない場所で、はっ、と比企谷が笑ったような気がした。

 

「葉山くん、やめよ、もういいから! そんな人ほっといて行こ! ね?」

 

 女子三人が葉山に近づく。場の空気が変わる。友愛に満ちた場は崩れ去り、三人だけの民意が、悪意の濁流となって比企谷に注がれる。

 

「……早く戻ろう」

 

 葉山が落ち着いた声音で相模たちを促した。

 

 相模は友人たちに囲まれこの場を去っていく。去り際に比企谷への悪態の針を投げつけながら。

 

 最後に、葉山が去っていく。その際、

 

「……どうして、そんなやり方しかできないんだ」

 

 殆ど呟いたような声で言われた言葉が、あたしに酷い違和感を抱かせた。

 

 扉がこの世界を隔絶するように閉まる。

 

 比企谷が腰を落としたような音。

 

 僅かな沈黙。

 

 そして、

 

 

 

 ――ほら、簡単だろ……誰も傷つかない世界の完成だ。

 

 

 

 比企谷の呟き。誰もいないと思っているから出たであろう言葉。その言葉があたしの心を強く打った。

 

 なんとなく、得心できた気がした。なんのためでなく、たぶん、比企谷は奉仕部の仕事としてこれを行ったのだろうと思った。あたしにはあずかり知らない目的のため、自身が行える最善手を打ったのだろう。そして、以前も似た行動を取り、だから葉山はあんなことを言った。結果論として、比企谷の行動が成功に結びつき、葉山は失敗した。

 

 いまのあたしに推察できるのはこのくらいだ。あとは、本人に訊かなければ分からない。

 

 気づけば、殆ど無意識で比企谷の隣に降りていた。びくっと肩を震わせた比企谷が、横に立ったあたしを見上げる。彼の腐った瞳には、諦めにも似た色が滲んでいた。

 

「いたのかよ……川崎」

 

「悪いね。全部訊いてた」

 

 比企谷が深いため息を吐いて、自嘲気味に笑う。やがて、皮肉めいた声音で言った。

 

「盗み聞きは面白かったか?」

 

「そうだね。大した悪役だと思うよ、あんた」

 

 言って、あたしは比企谷の隣に腰を落す。

 

 そうか、とだけ比企谷は返した。

 

「あんた、毎回こんなことしてるの?」

 

「こんなことって、なにがだよ」

 

「わざわざ悪役を買って出ることだよ」

 

 これはただの推測だ。ほとんどにおいて外界と接点を持たないあたしの世界に、一時でも触れた比企谷だからこそ、こんなことをするんじゃないかという、ある種の期待もあった。

 

 はっ、と比企谷が馬鹿にしたように笑う。

 

「俺が? なんのためにそんなことすんだよ。馬鹿馬鹿しい。イラついたから言っただけだ」

 

 なんだか意地っ張りな弟の相手をしている気分になったからだろう。珍しく他人には見せない微笑みを比企谷へ向けた。

 

「そうかい? 集計結果の紙を奪えばよかったじゃん。それをしなかったのはなんで? 委員会の面子でも気にした? あたしが言っちゃなんだけど、らしくないね」

 

 あたしの言葉の詰め将棋に、比企谷の言葉が詰まる。苛立ったように頭をガシガシと掻いた彼が言った。

 

「川崎には関係ないだろ」

 

「まあね。関係ない」

 

 そう。関係ない。まったく、これっぽっちも、微塵も関係ない。なぜならあたしは文化祭実行委員ではないから。あたしと比企谷の間には、これが壁となって立ちはだかっている。なにより、その内側には、人を拒絶する障壁が分厚く張り巡らされている。それをやいのやいのと言うつもりもない。

 

 ただ。

 

「あたしはね、あんたに感謝してる」

 

 感謝を示すあたしは、どうにかしてこの壁をこじ開けたかった。壁の内側、悪意で黒一色に塗りたくられた世界で、孤独に意気消沈とする彼に、自分が出来うる限りの何かを与えたいと思った。この感情に、いまのあたしは言語化できるだけの理解を持っていない。

 

 ただ、これはエゴだ。善意の押し売りだ。比企谷にとってはありがた迷惑でしかないことは分かる。

 

 なにせあたしは、彼のことを殆ど知らないし、彼もまた、あたしのことを知らない。ただ、一時触れたあの瞬間、心に生まれた何がしかの想いを口にして投げたいというあたしの我がままに過ぎない。

 

 比企谷は何も言わず、眉間に皺を寄せてあたしを見ていた。瞳はやはり濁ったままだったが、見知らぬ道に迷い込んだ子どもさながら揺れていた。

 

「だから、あんたが安らげる世界を作るよ」

 

「おまえ……なに言ってんだ?」

 

 頭のおかしくなった人を見る目を向けた比企谷が、困惑の声で言った。

 

 当然だ。あたしだって意味が分からない。何を言っているのかさっぱりだ。

 

 人生って奴はいつだってどこかしらに悪意を隠していて、群れからはぐれれば途端に獣になって襲い掛かる。これから先、比企谷は学校という社会に潜む悪意の食い物にされる。それが高校生のルールだ。それが学校社会の不文律だ。それが人間社会の常識だ。

 

 ふざけるな。

 

 あたしはこの学校においてひとりだ。波風立てず、ただ勉強に邁進し、人間関係を放棄したはぐれものだ。そんなあたしに手を差し伸べたのは比企谷だ。救いの道筋を示してくれたのが比企谷だ。

 

 なら、あたしも一歩踏み出そう。

 

 救いなんて大層なものじゃない。ただのエゴで善意の押し売りで、あたしは悪意から比企谷を守る世界を作る。

 

 まずはひとつ――

 

「来週から、一緒にお昼食べない?」

 

 小さなことから始めよう。

 

「断る」

 

 ……まあ、最初はこんなものだ。

 

 




本作は短編なのでここまでです。


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