そこは酷く優しい場所だった。
そこは酷く不快な場所だった。
欠けた
欠けた
ぽたり、ぽたり、と断面からは、絶えず墨汁のような体液が流れ落ちる。
真下に置かれた桃色の
ぽたり……ぽたり……。
一定の間隔で、水瓶に黒い
ぽたり……ぽたり……。
時間の影響のないこの場所は、永遠の無為な時を与えてくれる。
ぽたり……ぽたり……。
水瓶の縁まで黒い液体が
階段を下る音が聞こえて、部屋の側面にある扉が開いた。
可愛らしい衣装を身に着けた数人の少女が、入って来て僕の真下にある水瓶を動かして、空の水瓶と入れ替える。
中身の溜まった水瓶を、彼女たちは全員で手分けして運び出していく。
決して、視線を上げないように。
決して、僕を見上げないように。
少女たちは、水瓶を支え、部屋の外へと逃げるように出て行った。
また階段を上がる音が聞こえ、そして、
再び、耳にするのは水音だけ。
ぽたり……ぽたり……。
あまりにも繰り返され過ぎた情景。
これまでずっと見聞きして、これからも変わりなくずっと見聞きするのだろう。
終わりのない世界を眺めていると、また階段を降りる足音が聞こえた。
眼球を動かして、水瓶の中を見る。
まだ底が完全に隠れてもいない。
力任せに開かれた扉が揺れる。
開け放たれた出入り口から現れたのは、青髪の少女。見覚えはあるが、名前はもう思い出せない。
眉を吊り上げて、僕を見上げた。
「……これが、まどかのやりたい事なの……?」
わなわなと震える唇で
しばらく黙って見ていたものの、感情に任せて水瓶を蹴り飛ばそうとしたので流石に止めた。
「それは止めた方がいいよ。中身が触れたら君でも危うい」
片足を上げかけた姿勢で、彼女は僕を見上げて固まっていた。
短いスカートを
「……あんた、意識があるの? そんな状態なのに……」
「当たり前だろう。君らが今、運用しているのは僕の魔法……感情エネルギーの集積なんだ。意識が付随していなければ生まれないよ」
驚愕に彩られた顔はすぐに憤りの表情に変わる。
「だったら! なおさら、まどかは何をしてるの!? あんたにこんな酷い事を……!」
「あのね、僕は君たち魔法少女の敵だった。君だって僕に殺されそうなったはずだよ? 何をそんなに義憤に燃えてるの?」
彼女たち、魔法少女と僕は殺し合った。
殺し合った末に僕は敗北し、魔法少女たちが勝利した。
だから、ここに居る。
ただそれだけの話だ。
しかし、青髪の魔法少女は納得しない。
「それでもこんな仕打ち、おかしいよ! 大体まどかはあんたの事……」
「さやか。そこまでにしておくのです」
白髪の魔法少女が開放状況の入り口に立っていた。
会話中に誰かが階段を降りて来ていたのには気付いていたが、彼女だったか。
「なぎさ! あんた、こいつの事、知ってたんでしょ! 何であたしに話してくれなかったの!?」
食ってかかる青髪の魔法少女に、白髪の魔法少女は動じない。
見た目で言えば、小学生ぐらいの少女相手に怒りの感情をぶつける女子中学生だ。見ていてあまり気持ちの良いものではない。
「こうなる事が分かってたから、さやかには教えなかったのです」
感情任せの言葉を、白髪の魔法少女は極めて冷静な対応で返答する。
だが、その態度が更に青髪の魔法少女の感情を逆撫でした。
「あんた何でそんな平然としてられるの!? 魔法少女を永遠に縛り付けないようにするためなら、何をしたって許される訳っ!?」
「許される許さないの問題ではないのです。必要だからしているだけ。魔獣を倒してグリーフキューブを得るのと同じ事……魔女を倒してグリーフシードを得るのと同じ事、なのです」
「っ……それでも、あたしはこんな犠牲認められない! 認めたくない!」
あくまでも真っ向から否定する姿を見て、白髪の魔法少女は一瞬だけ羨ましそうな表情をした後で、それを消して呆れるように言った。
「そういう風に言えるのも、その犠牲のおかげなのですよ。さやか」
「それ、どういう意味……?」
ヒートアップしていた青髪の魔法少女は、その言葉を聞き返す。
冷静になった訳ではないだろう。
一時的に戸惑いが義憤の感情を上回っただけだ。
「なぎさたちは本来ならまどかの……理の一部なのです。分かたれる事がなければ、なぎさたち一人一人は意識だって混ざっているはずなのですよ。だから……さやかが、なぎさやまどかに文句を言えるのも、そこで苦しんでる奴のおかげなのです」
「っ!? それ、本当なの? ねぇ!」
告げられた内容に白髪の魔法少女ではなく、僕の方へ問いを投げ付けた。
愚直という単語が、これほど似合う子も
「さあね。誰が得をして、誰が損をしたかなんて僕には興味もない。でも、恩恵があったなら勝手に利用するといいよ」
煙に巻いた答えでは納得できなかったらしく、肩を怒らせ、彼女は部屋を飛び出した。
大方、女神にでも問い詰めにいくつもりなのだろう。どこまでも一直線にしか走れない猪娘だ。
期待した答えが出るまで問い詰め続ける行為は、良い結果の星座占いを求めて雑誌を漁るようなものだけど、本人が満足するまでやるのは自由だ。
「君も帰りなよ。用は済んだろう?」
未だ部屋から去ろうとする様子を見せない白髪の魔法少女に言う。
すると、彼女は部屋の中へ入り、僕の前でごろんと寝そべった。
「別にさやかを探しに来たんじゃないのです。なぎさはサボるのにちょうどいい場所を探していただけなのです」
こんな場所でサボるんじゃない。
ここには取扱い危険物(僕)があるのだから、他所で遊んできて欲しい。
帰ってくれないかと眺めていると、彼女が不意に聞いてきた。
「独りでこんな場所に居て、寂しくないのですか?」
「そんな繊細な性格の持ち主だと思われてたことにビックリだよ。僕がウサギにでも見える?」
もっとも実際のウサギは寂しくても死なないそうだが。
「なぎさは独りでも寂しくはないのです。でも、独りだとつまらないのです」
「そう。じゃあ、早く皆のところへ帰りなよ」
「……感謝してるのですよ。なきざが気付けなかった事に、気付かせてくれた事」
寝転んだ身体を起こして、僕にそう伝えた。
冗談ではなく、本気で言っているようだった。
「なぎさはそれに何も返せてないのです。だから、せめて退屈を紛らわせてあげるのです!」
……何という、ありがた迷惑! そんなものは要らないので、大人しくさっさと帰ってほしい。
「気持ちだけ頂くね」
「そう言わずに、可愛いなぎさの姿でも眺めて癒されてほしいのです!」
手を猫のように丸めてポージングし始めた。
自分の容姿に絶対的な自信があるのだろう。
ありがとう。そして、帰れ。
「……ウン。癒された。癒されました。もういいよ。充分堪能したから」
「いやいや、なぎさの可愛さはこんなもんじゃないのです」
ジュニアモデルのように様々な角度のポーズで、こちらに媚びを売ってくる。
僕は何を見せられているんだろうか。そして、ポーズを決めた後にあざとくウィンクをしてくるのは何なのか。
「ふー、ざっとこんなもんなのです……」
かなりの長い間、色んなポーズを取っていた白髪の魔法少女は、良い仕事をしたとでも言うように額を拭う仕草をした。
「ブラボー。君は誰よりも素晴らしいプリンセスだった。さあ、帰れ」
死んでから、こんなに疲れた気分にされたのは初めてだ。
あの偽物の世界での戦いよりも余程精神力を削られた。いや、本当に勘弁してほしい。
「元気になって何よりなのです」
「元気を絞り出してでも追い払わないといけない脅威だと気付いたからね……」
「そう言えば、本当の名前はなんていうのです?」
名前……?
名前、ね。そんなものもあった気がする。
まだ思い出せることに苦笑してしまう。
何より大事だった“彼女”の名前も、僕に向けてくれた笑顔も思い出せないのに、こんな下らない“
「言いたくない。呼んでほしい人は、ここには居ないから」
気を悪くするかと思ったが、予想に反して白髪の魔法少女の反応は淡白だった。
「それなら、なぎさが呼び名を考えてあげるのです」
「おー、ありがた迷惑の極み」
「顔が半分なくて手品師みたいな格好だから……『顔無し手品師』!」
割と見たままのネーミングだった。
まあ、反応し辛い名前を付けられるよりは断然マシだ。
「それでいいよ」
「なぎさの名前は……なんと“なぎさ”っていうのです!」
「う〜ん。一人称でネタバレ」
そして、青髪の魔法少女に呼ばれていたから、意外性は皆無だった。
取って付けた『なんと』に謝ってほしい。
「これで『顔無し手品師』は独りぼっちじゃなくなったのです」
「そうだね。ところでいつになったら、君はここから立ち去るの?」
「…………」
なぜここに来て無視と、一瞬困惑しかけたが、すぐに何を求めているか気付いた。
気付いたが、何だろう……素直に応じてあげるの
「白髪の魔法少女さん、聞こえてる?」
「…………」
「どうしたの? 突発性難聴を発症した? いけないなー、すぐに耳鼻科に行かなきゃ」
「…………」
やるじゃないか。このしつこさ……生前、粘着質と評された僕に匹敵する面倒臭さ。
もし君が独りぼっちになっていたのだとすれば、この鬱陶しいパーソナリティによるものだったんじゃないか?
よろしい。君の勝ちだ。君こそ粘着質キングだ。誇っていい。そして、早くどこかへ行ってくれ。
「なぎささん」
「呼んだのですか? 顔無し手品師」
「うん。そろそろ、ご帰宅なされてはいかがか?」
「まあ、今日はこの辺で許してやるのです」
許されたらしい。
今日は、という前置きに若干の恐怖を感じるが触れずにおく。
触らぬ神に祟りなし。……まあ、神に触れて、こうなった僕が言っても説得力はないが。
「次は友達も連れて来るのです」
「やめてくれない!? 僕、君一人だけで大分胸焼けしてるよ?」
ようやく倒したと思った怪物が、エンドロールの後で二体に増えていた並の戦慄だよ。
白髪の魔法少女──なぎささんは花が咲くような笑みで、僕にこう言った。
「これで、寂しくないのです」
「……そうだね」
「何だかんだ言って、顔無し手品師もなぎさの事、嫌いじゃないのは分かってるのです」
「まあ、否定はしないよ」
こういう
見ていて疲れてしまうのは本音ではあるけど……。
「そ、そこは否定しておけ、なのです……」
「妙なところで照れないでよ。シャイなアピールとか要らないから」
「あー、あー、まったくロリコン野郎はこれだから参るのです」
そっぽを向くとほんのりと耳が赤い。
ひょっとすると、生前は面と向かって好意を伝えられたことが少なかったのかもしれない。
過剰な可愛さアピールはその裏返しか。いや……悪い癖だな。こういうのは。
「もう来なくていいからね」
「また、次も来るから期待して待っているのです」
「あれ? 僕の言葉聞こえなかったりする?」
いまいち、成り立っているのか怪しい会話を最後に、彼女は部屋から去って行く。
久しぶりに、どっと疲れた気がする。
否定の魔法の残滓に成り果てて、今更こんな気持ちになるとは思わなかった。
それでも、カミサマはちゃんと僕を運用できているようで良かった。
死ぬこともできずに、こんな場所で苦痛に苛まれているだけの価値はある。
「頑張りなよ。僕もここで苦しみ続けるから」
この絶望が、この苦痛が、消えない限りは『否定の魔法』は生まれ続ける。
その魔法の性質は『拒絶』。
自他の境界を作り、自意識の同化を防ぐ。
そして、この世界で個を作り、それを消去する力。
永遠不滅を終わらせる、焼却炉。
一番消えたい僕が、今もこうして無様に永らえてる。
「皮肉なものだ。死にたくないと願った場所には戻れないのに、死にたいと祈る場所からは逃れられない……」
この場所を魔法少女の天国にするために、この場所は僕の地獄であり続ける。
人として死ねなかった僕が堕ちるには、ちょうどいい。
願くば、せめて僕のように魔法と奇跡の世界に巻き込まれる“ただの人”が出ませんように……。
優しく、不快なカミサマの中で小さな祈りを上げた。