【1986年9月10日15時40分】
ふもとの村の民宿を出発してからおよそ7時間。深い山々を超え、私達は氷室邸にたどり着いた。
屋敷の場所は地図にも乗っておらず、村の住民に聞き込みを繰り返しようやく場所を突き止めることが出来た。
枯れ葉で覆われた山道を進み、屋敷の正面の門まで歩く。
門の前には松の木が植えられていた。
数十年人が住んでおらず、手入れがされていないにも関わらず見事な枝振りの名木である。
いつから植えられているのかはわからないが少なくとも1000年以上前から立っていたかのように根強くそびえ立っていた。
いわゆる御神木と言うものなのか太い幹には縄が結ばれていた。
巴「立派な松の木ですね」
準星「あぁ」
9月でありながらも一足早く秋が到来しており日が傾き始めている。
急がなければあっという間に夜になってしまいそうだ。
巴「大きな屋敷...」
準星「地方で一番の大地主のお屋敷だったからね。この辺りの山もみんな氷室一族の所有地だったそうだよ」
さしずめ時代劇に登場する武家屋敷ってところかしら。
かつて栄えていたというのがうなずけるくらい立派なお屋敷だわ。
今はそんな面影を残すだけの廃墟になっているようだけど。
玄関の扉には縄が結ばれている。
どうやら縄は外側からかけられるような作りになっているようだ。
しかし妙ね、これでは外から縄を解いて簡単に入れてしまうわ。
普通外から入れないよう内側から結ぶものだ。でなければ戸締りをしたことにならない。
となるとこの縄はそういう目的で施されたわけではないものということになる。
まるで屋敷の住人が外に出れないように作ったようにも見えるわ。
巴「縄で縛ってますね。風かなんかで勝手に扉が開かないように施されたものなんでしょうか」
準星「ふむ...それも何重にもきつく結ばれているようだ」
手間取ったもののどうにか縄を解き扉を開けることが出来た。
準星「中は随分と暗いな...ここからは懐中電灯の光を頼りに探索を続けよう」
巴「わかりました」
お互いに懐中電灯を手に持ち、いよいよ私達は氷室邸の内部へと足を踏み入れた。
ここが...氷室邸。
謎の失踪事件が次々と起きた曰く付きの場所。
最近心霊スポットに芸能人が探訪するテレビ番組が流行っているけれど、まさかこんな予期せぬ形で私もそれを経験することになるとは思わなかったわね。
何処からか生温い風が吹いている。
風の吹いている方角に光を当てると正面に大穴が開いていた。
近づいてよく見てみると梁が玄関の床に深々と突き刺さり、床に穴を開けているようだ。
天井が老朽化したことで梁が落ちてきたのね。
風の音に混じって誰かの呻き声のようなものが聞こえてくる...気のせいだろうか。
気になって懐中電灯で照らしてみるも底の見えぬ闇がどこまでも広がっているのみ。
どうやら大穴はそのまま屋敷の床下に繋がっているようだ。
準星「所々老朽化している所はあれど、思ったより内部は完全な形で残っているようだな」
巴「ええ...」
若干の埃っぽさはあるものの、屋敷自体がかなり丈夫な作りになっているのだろう。
改築さえ出来れば普通に住むことも出来るかもしれない。
準星「どうしたんだ平坂君。随分と顔色が悪いようだが」
巴「なんだが体が寒いんです」
先程から剥き出しの神経に直接電流を流されているかのようなゾクゾクとした寒気を背中に感じていた。
準星「無理もない。ここは山中だから地表と比べ体感温度も低くなっているんだろう」
本当に気温だけの問題だろうか。
この屋敷に入ってからずっと誰かの視線を感じている。
それも一つじゃない。屋敷の至る所にその視線が点在していた。
もしかしたら慣れない空間に身を置いているから神経が過敏になっているのかもしれない。少し落ち着こう。
準星「今がだいたい16時前だから1時間程探索したら引き上げよう。君の体調のこともあるし、もうすぐ日が暮れてしまうだろうからな」
巴「申し訳ありません...私のせいで」
準星「いや気にするな。とりあえず先を急ごう」
広い玄関の先に一箇所だけ扉があって開けてみると廊下に繋がっていた。
扉を閉めギシギシと軋む廊下をゆっくりと進んでいく。
巴「なんなの...この廊下は」
ただの廊下ではない。あまりにも不気味で異様な光景が広がっていた。
何本もの縄が天井から吊るされている。
それも左右に規則正しく同じ間隔で並べられていた。
この縄は一体どういう目的で吊るされたものなのかしら。
巴「気味が悪い...そもそもなんでこの屋敷には至るところに縄があるんでしょうか?」
門前の御神木に巻かれた縄はまだ分かるにしても、施錠の為に用いられていた玄関の縄は何も錠前を施せばいい話だし、この廊下にぶら下がっている縄に関してはそもそも意味が分からない。
この縄に対する異様な執着はなんなのだろうか。
準星「おそらく..
巴「注連縄?」
それってお正月に玄関口に結ぶ縄のことよね。
準星「現代ではお正月に玄関口に注連縄で作られた
巴「正月事初め?」
準星「正月事初めは日付で言うところの
巴「そ、それって!」
真冬『村では
そうだわ、真冬君がふもとの村の住民に取材した内容の中にそんな情報があった!
準星「あぁ。ちょうど私も真冬が言っていたことを思い出していたよ。そして抱いていた疑問が確信に変わった...氷室一族が行っていた儀式はその12月13日に行われていたんだ」
巴「どうしてそう思うんですか?」
準星「ふもとの村の住民の言っていた日が12月13日。注連縄を結ぶ正月事初めも12月13日...この一致が偶然とは思うかい?それにこの廊下の縄は寸分違わず左右対称に吊るされている。まるで道のようにね..注連縄本来の意味から推理するにこの廊下は迎え入れた神様を氷室一族が禁断の儀式を行っていた斎場まで導くための通り道になっていると考えられるわけだ。」
通り道か。
確かにその考えは無かった。
準星「それと屋敷の門前に松の木が植えられていたのは覚えているかな?」
巴「ええ。あの大きくて立派な松の木ですよね?」
準星「そうだ...それを踏まえると、正月を迎える上でもう一つ大事なものがあるだろう」
お正月を迎える上で大事なもの?
先生の話の流れからしてこれは松の木とお正月の関連性から推理するのが良さそうね。
松の木が植えられたのは氷室邸の門前だった。
門前に植えられた松。
そうか、なるほど!
あの場所に松の木が植えてあったのはそういう意味だったのね!
巴「
準星「その通りだ。門松にも注連縄同様神様を家に招く目印になると信じられている。もしあの松の木が門松の役割を示しているのなら、門前の松の木が屋敷に神様を招き入れ、この注連縄の吊るされた廊下を通り道として斎場まで神様を導く...氷室邸の玄関はそういう作りになっているのだろう。神道における儀式とは神様立ち会いの元執り行われるのが通例だからな」
巴「確かに...そう言われるとグッと真実味を増してきましたね」
先生の推理...概ね辻褄が合う。
屋敷の門前からこの廊下までの道筋は緩やかにカーブを描いていた。
まるで神社の参道を歩いているような感じ...といえば伝わるだろうか。
天井から吊された縄はまるでついさっき誰かが通ったかのように揺れていた。
どこかから隙間風でも吹いているのかしら。
準星「しかしまだ腐に落ちない点が二つある。一つ目は何故この日を選んだのかだ。年月によってバラ付きがあるものの、12月13日は
巴「つまり氷室一族は禍いが生じてしまう縁起の良くない日に儀式を行っていたというわけですか?」
準星「矛盾するだろう?神事を任されていた氷室一族がそのことを知らない筈はない。つまりこの日を選んだのにも何か意味があるはずなんだ。しかし残念ながら現時点で分かるのはここまでだな」
あえて厄日に儀式を行う、確かに先生の言う通り矛盾しているわ。
これでは極端な話、失敗するために儀式を行うようなものだ。
準星「二つ目はこの注連縄の素材だよ。普通注連縄は
私は恐る恐るぶら下がっている縄に手を触れた。
懐中電灯で照らすだけだとわかりづらいが確かに縄がスベスべとしている上に光沢を帯びている。
表面に油でも塗っているのだろうか。
なんとなくずっと触っていたくなくて手を離した。
準星「とにかくだ。もし我々の読み通りこの廊下が通り道になってるならこの先に斎場があるはずだ。日が暮れるまでもう時間がないからひとまず進めるところまで進んでみよう」
懐中電灯の光で足元を照らしながら再び私達は少しずつ廊下を進んでいった。
やがて突き当たりに懐中電灯の光を反射する。
そこにいたのは懐中電灯を持った私と高峰先生の姿だった。
巴「これは...鏡でしょうか?」
準星「かなり大きいな。2mはあるんじゃないか」
指で鏡をなぞると指いっぱいに埃が付着した。
かなり埃を被っているわね。宗方夫妻がここに住んでいたのは60年以上前のことだし当然と言えば当然ね。
準星「行き止まりか...妙だな。仕方ない、違う道を探そう」
異変が起きたのは次の瞬間だった。
巴「えっ?」
突如として鏡に映った私の姿が姿を変え、少女の姿に変わった。
白い着物を着た少女...目の錯覚かと思ったが違う。
確かに少女は鏡の中に存在していた。
巴「あなたは...誰?」
普通の子じゃない。
こんな有り得ないことが目の前で起きているにも関わらず、自分でも驚くくらい冷静だった。
不思議とこの少女からは怖い印象を感じない。
少女は私の言葉を理解しているのかただジッと私のことを見つめていた。
準星「平坂君?」
微かに唇が動いている。
この少女は私に何かを伝えようとしているんだわ。
は..し..と
巴「な...なに?」
お...わ...し..て
駄目だわ。声が小さくて聞き取れない。
巴「なにを伝えたいの...?」
私がそう言うと少女は悲しい顔をしながら光の粒となって消え、再び鏡は元通り懐中電灯を持った私の姿を映し出した。
巴「待って!」
準星「どうしたんだ平坂君...急に鏡に話しかけたりして」
巴「今その鏡に白い着物を着た女の子が映っていたんです」
準星「女の子?私にはそんなもの見えなかったぞ」
高峰先生にはあの女の子が見えなかった?
私にだけ見えていたの?じゃああれはやっぱり幽霊?
今まで視界の端にあのようなあり得ないものを捉えたことは何度もあったがあんなにはっきりと姿を見たのは初めてだ。
あの子も行方不明になった人間の一人かしら。
準星「平坂君!か...鏡を!鏡を見たまえ!」
巴「なっ!どうして!?...私達の姿が」
私と高峰先生の姿がいつの間にか鏡から消えている。
一体何が起きているの...
目の前で起こり続ける不可解な出来事を頭で理解する猶予もなかった。
刹那、天井にぶら下がっていた縄が私達の体に巻きつき強く締め上げる。
その衝撃でお互いに懐中電灯を地面に落とし、光が私達の足元を照らす。
巴「きゃあ!」
準星「ぐっ...なんだこれは」
鏡の奥からヒタ...ヒタとこちらに向かって誰かが歩いてくる。
その度に目の前の大鏡に亀裂が入っていった。
やがて足元、下半身、上半身、そして顔と徐々に懐中電灯に照らされ姿が明らかになる。
現れたのは白い着物に長い髪をした女。
私は縄に縛られた体を捻り、なんとか後ろに振り向くも誰もいない。
誠に信じられない話だがこの女は鏡の中にのみ存在している。
さっきの出会った女の子と格好は似ているがそれ以外はまるで違う。
首と両手両足に太い縄を巻いていて、着物と縄には血がこびり付いていた。
そして何よりこちらを睨む女の眼は赤黒く充血しており明らかな殺意をこちらに向けて続けていた。
準星「な、なんだこいつは!」
高峰先生にもあの女が見えているのね。
やがて女は鏡を突き抜けようとしていた。
嘘でしょ。
一体なんなのこの女。
あの女に捕まってはダメだ。絶対にダメだ。
私の少しばかりの霊感かそう告げていた。
しかし縄は私達の体をがっしりと締め上げて離す気配もない。
巴「は、離して!こんな縄!.....ひっ!」
近づいてくる幽霊女を前に私はある事実に気づいた。
私達の体に巻きついているのはただの縄ではない。
これは人間の髪....それも女性の髪の毛だ。
髪の毛を縄状に束ね天井から何本も吊るしていたのだ。
髪の毛はまるで一本一本が意志を持っているかのように私達の身体に絡まり締め上げねじ曲がる。
首にも無数の髪が絡みつき呼吸が出来なくなる。
巴「あ...ぐ...」
準星「くっ...」
身体が想像を絶する痛みと苦しみに晒される。
やがて白い着物の女が目の前まで近づいたところで私は意識を失った。