イナミ「俺の名前はイナミ。お前の名前は?」
(私か...私の名前は...すまない...)
男は名前を名乗らず、申し訳なさそうに詫びた。
俺はすまないの後に続く言葉を想像した。
『言えないんだ』...この場合、素性を隠さなければならない理由がある?
『分からないんだ』...自分の名前を分からないわけがないからこの場合、記憶喪失に陥っている可能性がある?
(分からないんだ..気付いたらここにいて....)
俺は少し考えた末、質問を変えてみることにした。
イナミ「一番最後に覚えている記憶は?」
(あぁそれなら...確かちょうどここで誰かに襲われて...その時に大事なものを失くしてしまって...探していたんだ...それから先は分からない)
ここというのは石灯籠のあるこの辺一体を指すのだろう。
もしや?と思い今も右手に握っていた印籠に視線を移した。
(....それだ!)
イナミ「!?」
先程までしおらしかった男が俺が印籠に目を向けると同時叫び声を上げた。
(どこでそれを?いやそんなことはこの際どうだっていい...見つけてくれてありがとう!)
どうやらこの印籠はこの男のものらしい。そして俺はたった今浮かんだばかりの懸念を払拭するため続けて質問した。
イナミ「今自分の後ろに何があるか見えるか?」
(私の後ろ?...むっ...ふん...ダメだ体が動かない...)
男の反応を見届けた後、俺は後ろを振り返った。
(...む?...あっ!動いた!どうやら古びた水車があるようだ)
やはり...でもまさかそんな馬鹿なことが。
イナミ「実は今俺もお前と同じ景色を見ている。正直俺自身まだ信じられないが、今俺たち二人は同じ視界を共有しているようだ。もっと平たく言えば、俺の体の中にお前がいる状態だ」
(まさか!そんな馬鹿なことが!)
イナミ「そんな馬鹿なことが起きてんだ」
俺は右手で握っていた印籠を目の前に持ってきた。
イナミ「時代劇風に言うならこの印籠が目に入らぬか!ってやつだな」
(むぅ...一体なんでこんなことに)
それにしてもだいぶ汚れて傷んでいるな。随分長い間放置されていたようで所々泥や蜘蛛の巣がこびりついていた。
俺は最初自分がやってきた湖まで歩き、湖の水で印籠を軽くすすいだ。
イナミ「まだ汚れが取りきれないが、さっきよりマシになったな」
こうしてよく見てみると元はかなり高価なものだったことがわかる。昔の偉い大名や侍が身につけていたようなものと言えば分かるだろうか。今でも骨董屋に持っていけば良い値で売れるかもしれない。
ん?側面に何か彫ってある。もっと詳しく見るため、懐中電灯で照らしてみることにした。
イナミ「
確かにそう書いてある。これがこの持ち主の名前だとすると。
イナミ「冬彦っていう名前らしいぞお前」
(冬彦?...私の名前は冬彦というのか...)
イナミ「あぁ、とりあえずよろしく?冬彦」
冬彦(よろしく?...よろしく頼むイナミ)
こうして奇妙な二人は奇妙な邂逅を果たした。