トリトンの森   作:asakura

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「父さん……まだ起きてるの?」


 照明の落とされた部屋。海の底のような静けさ。淡く輝く浮遊灯が数機、音もなく泳いでいる。天井の高い部屋は仄暗く、毛足の長い絨毯が足音を飲み込む。


 部屋はさみしいほどに広々としていた。仕事を家に持ち込むのを好まない父は、だが家族と過ごす他に趣味のひとつもない男だった。天文と数字にまつわるものを排してしまえば、父の私室に残るのは家族の写真と思い出の品がいくつか。それも、母を亡くして幾月かの間に、ひとつずつ抜け落ちるように、目につかない場所にしまわれていった。装飾をなくした部屋は、ひとけのない劇場のようにガランとしている。

 絨毯を踏んで父の長椅子に近づく。背もたれから、すっかり白髪の増えた頭がのぞいていた。

「父さん?」

 回り込んで、ようやく父の目蓋が閉ざされていることに気付いた。むきだしの縞瑪瑙のローテーブルの上には酒瓶とグラスがひとつずつ。アルコールは、母の映る写真や母が編んだテーブルクロスのかわりに父の部屋に増えるようになったものだった。

 手にとった酒ビンは軽い。ラベルには政府公認の黄色いスタンプが刻印されている。政府が売り出すアルコール飲料は安価だが、中枢神経系だけでなく心まで酔わせ堕落させる麻薬だと、以前はあれほど嫌っていたのに。父への哀れみと苛立ちとが同時に湧き上がる。酒瓶に映る歪んだ自分の顔が、「そうやって酒に逃げるのか!」と父を罵倒し、角度が変われば「父さんだってかなしいんだ。しかたないさ」とわけ知り顔でなぐさめる。

 もはや父の膝にすがって泣いてわめいていられるほど幼くはない台羽正は、けれど、まだアルコールに我を忘れられるほど大人でもなかった。どちらにも行けない半端な自分だけが、取り残されて損をしているような気がした。


 肩に触れて揺り起こそうと、しかけたとき、ふと父の左手近くに置かれたタブレットが見えた。長椅子の座面から落ちそうなそれを、つい手にとると、ふわりと画面が明るくなった。

赤い花が映っていた。
色鮮やかなダリアか、それともポインセチア。

 数度まばたきして、それが花ではない、植物でさえないと気づいた。それが、「人間」だと気づいた途端声をあげていた。その声に、父が目を覚ましたのではないかと眼を向けたが、椅子に深く体を沈めたまま父は身じろぎもしなかった。変わらぬ呼吸音を数えて、台羽も無意識に止めていた息を吐いた。緊張と安堵の数秒が、台羽に冷静さを与えた。視線をそろりと明るいままの画面にもどす。なぜ、花になど見えたのか。その人の身体から赤い結晶状の鉱物らしきものが無数に「生えて」いたからだ。

 赤い結晶は肋骨を押し上げ、やわらかい腹部を食い破って、肩からまるで新たな腕を増やすように突き出て、みっしりと放射状に咲いていた。ほとんど透明に近い先端から、覗きこめば臓腑の色が見えそうな深紅の根元までグラデーションを描く。銀灰色の長い髪が顔を覆う結晶にいく筋かからみついて揺れていた。それを髪だと頭部だと認識した途端に、それまで「花」に見えていたものが、突然に「人間」として目に飛び込んできたのだった。

 目をそらしたくなるほど陰惨なのに、鮮烈に目蓋に焼きついて消えない姿だった。
 父はなぜこんなものを見ていたのだろうか。こんな真夜中に。好まぬ酒など煽りながら。タブレットに手をかざし、父が眠り込む前にしていた作業の履歴を広げる。一面の赤い結晶が画面を覆い尽くした。赤、赤、あかい…ひと。もう、花には見えなかった。

 同じ画像をこんなに……?
 いいや、同じではない。どれも少しずつ、距離や角度が異なる。観察し記録する無機質な執拗さを感じる写真だった。そう、写真だった。そこには絵やCGでは作りえない、生々しい匂いと乱雑さがあった。事故かなにかの病か知らないが、これは、まぎれもなく「人間」であったものだ。

 無作為に開いた写真の何枚目かで、そのひとの顔が見えた。かつて眼窩であったはずのところからも赤い結晶が生え、首や口からはえた伸びる赤と交錯し、顔と呼べる部分はわずかしか残っていなかったが。だが、髪が。それまで銀灰色に見えたのが、白色の細かな結晶に覆われていたためにそう見えたのだと気がついた。そのひとの、その女のひとの髪は、あたたかな栗色をしていた。

 肩関節を押し開いて伸びる結晶が、女のしなやかな腕を支えて高く掲げていた。その、骨のように白く色を失った手の、青ざめた爪を嵌めこんだ指に、細いプラチナのリングを見た。ちいさな青い石をあしらったその指輪は、なにかのまちがいのように見慣れたものだった。瞬きも忘れ凍りついた眼球が動かせない。ぎこちなく首を回して、見下ろした長椅子の上に投げ出された父の、左手の、くすり指に、同じ意匠の指輪を見た。

 台羽の手からタブレットが滑り、長椅子に跳ねて床に落ちた。もはや手の中にはない画面を、空っぽの掌の上に見詰めた。赤い残像が掌の上に染みこんでいく。その手で顔を覆った。氷のように冷え切った手指は、他人のもののように思えた。



「あ、そんな…………かあ、さん……?」








トリトンの森

 

 

 

 

 

 

 身体にぴったりと合った気密服、防護グローブ、重力ブーツ、循環器を備えたヘルメット。それから、予備のバッテリー、エアチャージャー、携帯用の銃器、胸ポケットの通信機。ひとつずつ確かめながら台羽は装備を整えてゆく。

 

 

「台羽くん、どこへ行くつもりかしら」

 

 思いがけず耳元に届いた声に跳ねるようにふりむいた。

 その声が、声帯から伝わる空気の振動ではなく、耳元のマイクが伝える音声だとすぐに思い出す。問いかけた有紀蛍は部屋の入り口から、台羽へ向かって歩いてくるところだった。カツリカツリと響く靴音もまた機械的に再生されたものだが、その微妙な差異は人間の聴覚の閾値に満たない。

 

「みんなは地上の研究棟のほうへ行ったわ。あなたは、気分が悪いから部屋で留守番をしているって、たしかそう言ってたわよね」

「……気が、変わったんだ。すこしそこらを歩いてみたくなってね。いけないかい?」

「そうね。黙って単独行動をするのは、あまり褒められたことじゃないわ」

 

 繊細な指が素早くタッチパネルに触れる。瞬間、スクリーンが閃く。蛍の肩越しに、青い惑星が映しだされた。青い、あおい星だった。地球の冬の澄み切った空から、まるく零れ落ちたような青だった。海王星は太陽系の惑星の中で、最も青い星だ。かつては地球がそうだったと古い本には記されているが、人類は数百年も昔に海の青さを失ってしまった。

 

 

「トリトンを見たって、前に、アナタそう言っていたわね」

 

 水面に朽ち葉がひそやかに落ちるような声音だった。どうやったらそんなふうに静かな声で、事実だけを並べられるのだろうかと台羽は思った。静かな、けれどいたわりを包んで男の意地を溶かす声。アルカディア号の女性は実に上手にその声を使う。

 

「よく、覚えてるね」

「忘れないわ。ここは、このトリトン。あなたのお母さまが亡くなった星」

 

 海王星の衛星のひとつであるトリトンへアルカディア号が錨を降ろすと決まった時も、そして今では無人となったかつての地球連邦の研究施設が残るドームへと向かうときも、誰も台羽のことを口にしなかった。みんな新入りの身の上話などすっかり忘れてしまったのかと思っていた。忘れていてくれたらいいのにと、台羽は思っていた。

 

「留守番のつもりだったけど、色々と思い出したら、いてもたってもいられなくってね……。みんなが帰ってきたら、僕が散歩に出たって伝えておいてくれるかい」

「あら、私もいっしょに行くわ」

「ええ?」

「生物反応はないけれど、それでも宇宙ではどんな危険に遭遇するかわからないんだから。留守はミーメとドクターにまかせましょ」

 

 そう言って、台羽に返事をさせずにさっさと気密服を手に取って、台羽よりよほどてきぱきと着付けてしまう。

 

「それにね、話し相手がいるっていうのもそう悪くないものよ。特に、誰かの思い出のある場所では」

 

 ハッチを開けてそう言う彼女の背を見つめて、もしかしたら何もかもお見通しだったのではないかという疑問が頭をよぎった。とってつけたような理由で留守番を申し出た台羽に、クルーの誰も声をかけなかったのも。蛍がキャプテンたちについて行かずに艦に残っていたのも。台羽が気密服に着替え終えて、もはや言い逃れのできない絶妙のタイミングで声をかけてきたのさえ、もしかして。

 

 肩をすくめて蛍に続いて艦外へ出る。スロープから見上げた最果ての宇宙の暗い空に、氷の惑星が奇跡を集めたような青さで煌々と輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下へ下へと降り続けたエレベーターは、やがて音もなく止まった。

 なめらかに扉が開く。途端にまぶしいばかりに光と緑があふれた。立ちすくむ蛍を促して、踏み出した台羽のブーツの下で草を踏むかすかな音がする。地面にきらきらと木漏れ日が揺れる。光が模様を描く白い砂利の隙間から、逞しい草が顔を出していた。ゆっくりと視線を上げる。一本の細く白い小道を飲み込んで、目の前には「森」が生い茂っていた。

 

「なんてきれいなの……ここは、水中庭園……?」

「人工光型植物栽培施設……母さんは、かんたんにプランターと呼んでいた。鑑賞用の植物園じゃなくて、実験用の栽培施設だったんだ。ここの空気の組成は地球の環境に調整されているはずだけど……」

 

 トリトンの研究施設を襲った事故のあと管理機関は撤退し、もう何年も調整されていないはずだ。だが、慎重に調べた成分分析の数字は摂氏気温も含めて地球型大気の安全域をしめしていた。

 

「ここの空気は清浄だ。ヘルメットを外しても大丈夫だよ」

「あら、ほんと。嬉しいわ」

 

 蛍はヘルメットを脱ぐと、結んだ髪をほどいて軽く揺すった。肩をつややかな金髪がすべりおちる。蛍は光の中に歩みだした。地球の太陽を模した人口光が、まぶしいばかりにトリトンの海に浮かぶドームを満たしていた。

 

 微小の生物さえも生息しないメタンと窒素の海は、大気と変わらぬ透明度で頭上の硬質テクタイトのドームの向こうに広がっている。アルカディア号をすっぽり収容してもなお余るだろう、巨大な円球のドームは、外から見れば透明な海をたゆたうシャボン玉に見えるだろうか。天井から巨大な巻貝のような奇妙な形のファンがぶら下がって、外部の海流を受けてゆっくりと回っている。

 

「ドームの中はあたたかいのね」

「トリトンは海の中のほうが暖かいんだよ。といっても、マイナス200℃の海だけどね。それでも年間水温が安定しているから、地上の荒っぽい気候に比べれば調整がしやすいんだ。地核から熱を引き上げて土と空気をあたためているから、こうして何年も整備の人間の手がふれなくても環境維持システムが働き続けている」

 

 語る自分の声が、かつて母がそうして聞かせてくれた声に重なる。ホログラフの手紙をいったい幾度再生しただろうか。トリトンの暮らしや研究施設の様子を語るその内容よりも、やわらかく語り掛ける母の声音そのものが、幼い台羽のさみしさをいやしてくれた。母の手紙は、いつもこの水中に浮かぶドームの中で終わっていた。梢がさらさらと光の粒を降らせる中で、母は白い手で揺れる枝に咲く花にそっと触れながら、あるいはなめらかな幹に手をかけながら、少しまぶしげに目を細めて、台羽に微笑みかけていた。「ここにいると、ふしぎと懐かしくて心が安らぐのよ。現代では絶滅してしまった植物が、こんなふうに自生している場所はもう地球にはないのにね。いつか、父さんと正といっしょに、このプランターを歩いてみたいわ。きっと気に入ってくれるでしょうから」と、そう言って。

 

 台羽はヘルメットに手をかけて外した。やわらかな空気が顔をなで髪の間を通ってゆく。湿った土のにおい。緑の、なんとも言えない豊かなにおい。かすかに甘い花のような香り。台羽には、それが母の匂いのように思えた。目を閉じれば、遠い記憶の中の母が、すぐそこを歩いているような気がした。

 

「台羽くん……?」

「初めて来るような気がしないんだ、ここは。この道をずっと行くと、真ん中に観察施設がある。母さんが……母さんが、そう言っていた」

 

 母さんが、そこで待っている、そう言ってしまいそうだった。

 

 

 

 

 

 重い装備はエレベーターに置いて、身軽な姿で歩き出してからどれほどか。舗装された細い道はやがて草木に飲まれ、見分けがつかなくなっていた。切れ切れに母の思い出が、家族の日々が、木々の声をかりて囁きかけてくる。蛍がぽつりぽつりと言葉をかけてくれるが、台羽はどうしてかそれを言葉として聞くことができなかった。(さらさらと木々が鳴る) 蛍の声が研究棟に残された日誌の話をしている。(靴裏で小枝が折れる) ふしぎな警句が歌のように耳をなでる。霧の森へ入ってはいけない、と。(湿った土の中で、音もなく朽ち葉がつぶれる) ひとりならば夢を見られる。(したたる露のように花を咲かせた細い枝が台羽の袖を引く) だが大勢なら悪夢に飲み込まれる。(甘く、かすかに苦く肺にからみつく花の匂いが空気に満ちている)

 

「氷の結晶が、花のようにね」

「花……?」

 

 とつぜん蛍の声が意味を伴って耳に届いた。

 

「ふわっと生えたかと思ったら、見る見るうちに伸びていって、」

「花が、生える……?」

「だからね、ドクターが見せてくれたの。酒瓶をひとつ、トリトンの地表に投げ落として。ビンが砕けてしまえば、ふつうならそのままお酒は地面に沁み込んじゃうところよね。それが、マイナス240℃の大気に一瞬で氷点下まで冷やされて、ガラスの破片も酒の飛沫もその形のまま凍り付くの。そうしてトリトンの氷の嵐さらされて、大気中の粒子をからめとって、花が咲くように、水晶が育つように、見る間に氷の結晶が柱状化してゆくのよ」

「それは……フロストフラワー、だ」

「あら、知っていたの? そうね、お母さまがトリトンで暮らしてらしたんだものね」

 

 そう、台羽は知っていた。

 あの海底のような真夜中に、手のひらの上に咲いた赤い花の、名を……。

 

 

 腹の底からふいに冷気が這い登る。

 ひゅ、と吸い込んだ息が咽喉の内側を冷たく切り裂く。

 

「っ、けほ……げほ、っ……」

「台羽くん? どうしたの……?」

 

 肩にかかる蛍の手を異様に熱く感じてしゃがみこんだ。身体が震える。寒い。さむい。咽喉が冷たい。咳き込んで、口をふさいだ手の上に、パラパラと軽い音を立てて赤い小さな破片が落ちた。

 

「けほ……はっ、ぇ……?」

 

 どうして、こんなところ、に……氷の結晶、が……?

 けほん、と咳き込んだら、また口からパラパラと、赤い氷の切片が吐き出された。

 

「台羽くん、これは……いったい、」

 

 蛍の唇の動きと、耳に届いている言葉が、ズレている。

 

ハ ナ ガ サ ク ヨ ウ ニ

ス イ シ ョ ウ ガ ソ ダ ツ ヨ ウ ニ

 

 ピシ、と手のひらの上で、小さな、だが冷ややかな音が鳴った。

 手のひらの上に、真っ赤な花が咲いた。

 

「え、あ、ぁぁあああ……!?」

 

 蛍の声が悲鳴のように台羽の名を呼ぶ。

 そうではない。悲鳴をあげているのは台羽だ。

 目の前に真っ赤な、真っ赤な花が咲く。母の細い腕。むき出しの骨の青白さ。

 

「落ち着いて、落ち着いて台羽くん!!」

「いや、いやだ! 氷が、あああっ、母さんと同じだ……!! 僕もフロストフラワーに、っいやだ、ぁああああ!!!」

「違うわ! こんなの、おかしい……大気中の水分が瞬時に氷結するほどの極低温の中で、生身の人間がこんなふうにしゃべっていられるわけがないの、だから、台羽くん……!」

 

 台羽の手に、蛍の手が触れた。途端に、びくりと蛍が手を引いた。

 信じられないものを見るように、自分の手を、そして台羽を見つめる。

 その指先から、血がこぼれるように赤い花が咲いた。

 

「こんなのって……」

 

 揺らぐ蛍の表情が、戸惑いが、肌に突き刺さるように台羽に響いた。痛みに等しい冷たさが両腕を侵す。瞼の裏を赤が次々とよぎる。母さんが、眼窩から真っ赤な結晶がいぶかしげに台羽を見つめる。歪に凍りついた真白い腕が、台羽をいざなう。その指には、細い結婚指輪が嵌っている。あの指輪の青い宝石は海王星だ。地球が失った青い海だ。氷のように白い指が台羽に触れる寸前に、誰かが力強く台羽の腕を掴んで引きずりあげた。

 

「行くわよ、台羽くん! とにかく、艦に戻りましょう……!」

 

 その手はとても熱く、凛とした蛍の声には、台羽の叫びを止めるだけの迫力があった。引きずられて立ち上がって、歩き出した。視界がかすむ。いつのまにか、霧がしのびやかに森に立ち込めていた。

 

 

 

 

 

 蛍のブーツが下草を蹴散らし、走るように前へ前へと進む。一見確かなその足取りは、しかし、すでに方向を見失っていた。蛍が繰り返し視線を落とす手中の計器は彼らの現在地も、それどころかあるべき方角さえ示してはいなかった。鈍色の霧が重くふかく立ち込めて、手の届く先の視界さえとざしている。密に生い茂った木々の間を駆けながら、来た道を辿ることも、ドームの天井を方角の頼りにすることも、もはや蛍には困難であった。

 

 だが、立ち止まることはできなかった。立ち止まり、しゃがみこんでしまったら、いいや、わずかでも振り返ってしまったら、自分が「何者」の腕を掴んで連れて来ているのか、疑ってしまったら……一歩も進めなくなるのではないか。蛍は背筋が泡立つような予感におののいていた。

 

 胸ポケットのケースからアルカディア号へと発信し続けている長波通信のかすかな振動と、どこでもいいからドームの外壁まで辿り着きさえすれば、という希望だけが、かろうじて蛍の足を前へと進めていた。

 

 

 

 

 

 

 とろりとした粘度さえ感じる濃霧の中から、台羽は蛍の黒いブーツの踵が絶え間なく地面を蹴るのを目に映していた。走るほどに身体が耳障りな軋みをあげる。身体の半分以上が凍りついてしまったから、手足を動かすたびに、どこかが欠けてシャリシャリと音を立てて落ちてゆく。落ちた破片は、地面にフロストフラワーを咲かせるのだろうか。そこから、また台羽が生まれるのだろうか。それとも。白い腕が。栗色の長い髪が。生えてくるのか。ガチガチと凍えて歯の根が合わない口で、台羽は白い息を吐きだした。

 

「か、ぁさん」

 

 その声が聞こえたように、蛍の足取りが乱れた。

 顔を上げた台羽の視界の先に、艶やかな栗色の髪を流した後姿が見えた。

 鈍色の霧の中で、ふしぎとその姿だけが、はっきりと目に映った。

 

「かあさん……?」

 

 蛍が完全に足を止めた。その背中から、不安と戸惑いが伝わってくる。

 だが、台羽は蛍の手をふりほどいて、歩き出していた。足元で鳴る音は落ち葉の砕ける音か。それとも台羽の足を凍り付かせる結晶が砕けているのか。蛍の声が台羽を呼ぶのを遠くで耳にしながら、台羽は母に近づいた。

 

「 ただし…… やっと 来てくれたのね 」

 

 栗色の髪がふわりと霧に溶ける。

 

 母がふりむく。おびただしい結晶に覆いつくされた顔が、無表情に台羽を見つめた。ギシリ、と音を立てて肩の関節から柱状結晶が生える。肩から大きく外れた白い腕が、糸の切れるような音を立てて筋と血管を引きちぎって伸びてくる。

 声も上げられず後ずさった台羽の背中を、誰かの腕が抱きとめた。

 

 振り向いた。

 そこに、父がいた。

 

「父さん……!」

 

 身体ごとふりむいて叫んだ途端、重く響く銃声がした。

 びしゃり、と液体が台羽の顔に身体にふりかかる。生暖かい血の匂い。

 

「あ、ああぁ……とう、さん……」

 

 ずるり、と台羽はしゃがみこんだ。

 

 胸の真ん中に開いた大きな銃口に手をあてて、父は空洞のような目で台羽を見下ろしていた。飛び散った血液の飛沫が、その形のまま凍りつく。見る間に伸びてゆく真っ赤な結晶を、台羽はどうすることもできずに見つめていた。後ろから、台羽の頭を抱きしめるように冷たい腕が絡みつくのを感じた。白く冷たい、硬い腕だった。恐怖に震え、気の狂いそうな叫びを凍り付いた咽喉から吐き出しながら、台羽は父に縋る手も、母の細い腕を掴む手も、離せなかった。台羽はゆっくりと伸びる赤い氷が自分の体を貫き血の色の花を咲かせてゆくのを感じていた。

 

 

 

 

とうさん…かあさん……ごめんなさい……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永劫に続くかと思われた氷の世界は、突然の耳を聾する銃声に破られた。

 視界を埋め尽くす赤がガラリと崩れる。

 

 ひるがえる黒が見えた。

 

 

 

「台羽」

 

 

 男は鋭く声を張り上げたわけではなかった。

 ただ、低くよく響く声でまっすぐに呼ばれた名は、氷の隙間から銃声よりも深々と突き刺さった。

 

 返事をしようとして、気が付いた。

 今の己がいったいどんな姿をしているか。

 手のひらの上に映る母の姿を思い出した。

 無残に砕けた酒瓶を瞼の裏に思い浮かべた。

 ひと声も、声を出せなかった。

 

 あのひとに恐れられたら、見放されたら、あの目が嫌悪を込めて自分を見たら、銃弾などなくとも氷になったこの身体は今度こそ粉々に砕けてしまうと思った。

 

 

 

 男は重力サーベルを抜きはらい、ためらいなく薙いだ。世界の砕けるような音を立てて、氷が割れる。台羽は恐怖に身を縮めた。その切っ先で斬り裂かれる恐怖ではなかった。押し込め隠し目をそらしてきたものを暴かれる恐怖だった。冷え切った手で己の肩を抱いてうずくまる台羽の不安と恐怖は、おそるべき速度で分厚い氷の柱を生み出した。だが、男の剣が描く鉄の軌跡の前では薄氷に等しかった。男は一太刀ごとに歩を進め、とうとう台羽の目の前にサーベルを突き立てた。風をはらんで大きく膨らんだマントが、ゆっくりと降りてくる。男は、ふたたび台羽の名を呼んだ。

 

「なん、で……ぼく、が……わかる、んですか……?」

「俺は、俺の仲間を決して見失わない」

 

 あぁ、どうしてこんなにも、この男の言葉はゆるぎない。

 膝を折り、愛する者の亡骸にすがり、後悔と悲しみに打ちひしがれる台羽を、この声は何度でも立ち上がらせる。

 

 

 

「キャプテン……キャプテン・ハーロック……!」

 

 

 

 男は剣を引き抜くと、この上なく美しい軌跡を描いて深紅の氷を打ち砕き、そのままサーベルから手を離した。崩れ落ちる台羽の体を鋭利な氷の結晶ごと抱きとめて、ハーロックは言葉を続ける。

 

「俺はおまえを見失わない。だから、おまえも見失うな」

 

 自分を包み込む大きな鳥の翼のようなマントをきつく握りしめて、夢中でうなずいた。台羽を抱きとめた寄せた身体は、腕も胸も腹も、男の全てが熱かった。台羽が全身の力をあずけて、頭をすり寄せても、何の苦もなくゆったりと受け止めるだけの余裕があった。凍りついた涙があふれて、どうしようもなく目を閉じた。暖かい風のようなその匂いと温もりの奥には果てがなかった。まるで太陽の腕に包み込まれて沈んでゆくようだ、と。台羽は思った。台羽の体に無数に刺さった氷が、春の淡い雪のように溶けて消えてゆく。男の体を通して伝わるさざなみのような鼓動が台羽の心臓を揺さぶる。熱い血の流れる音が、氷が溶けて残った傷跡に響き反響する。許されるならば、いつまでもこうしていたいと幼子のように願った。

 

 

 

 

 

 

まぶたの裏にやわらかい光が踊る。

夢を見ていた。遠い日の。

青い風の吹く海辺のちいさな家の、白いテラス。

焼きあがったばかりの香ばしいアップルパイ。

ミントをちぎる自分のちいさな指。

ナイフで切り分ける父の大きな手。

見上げた父の顔が、わかっているさと笑いかける。

いちばん大きなひときれが目の前の皿に乗せられる。

母のお気に入りのミモザの花のティーカップがハーブティーに満たされる。

まだ熱いから、気を付けるのよ。と、そよ風のような声がする。

 

 

 

 

 

とうに消え失せた幻を、胸の中にぎゅっとにぎりしめた。

まぶたを溶かす涙の向こうに、緑の光がゆらめいている。

大きな腕に抱かれているのを感じた。

かあさん……? それとも、とうさん……?

あぁ、ちがう……この腕は……。

 

 

 

キャプテン……。

 

 

 声帯をかすめた空気は、声になるにはか弱すぎた。

 だが、ハーロックは肯いた。

 

 ダークブロンドの髪のひとすじさえ数えらえる近さに端正な顔があった。台羽が頭を預けているのは彼の肩だ。背中と膝をすくって支える強い腕がある。大きな歩幅で歩く振動を厚い胸板ごしに感じる。こんな距離でふれたことのないひとだ。傍に近づくのでさえためらわれる時があるひとだ。だが、今はなぜだろうひどく安心していた。まだ夢の続きに包まれている、ような。

 

「もうじき森を抜ける」

 

(もう、じき……)

 

 あれだけ深く迷っていたのに。

 揺れる金の髪が傍らに寄り添う。蛍だ。

 

「キャプテン、でも計器が不調で……通信機もまだ通じません」

「言っただろう。俺は仲間を見失わない」

 

 大仰でないのに確信に満ちた声は、それ以上の問いを許さなかった。

 黙り込んだ蛍に、わずかに顔を向けて語り掛ける声音はやわらかかった。

 

「蛍、おまえがいたからすぐに居場所がわかった」

「いえ……」

 

 蛍の手が胸元の発信機を握りしめる。

 揺れる髪の隙間から、きつく悔しさをにじませる唇が見えた。

 

「私がついていながら、ふがいない……キャプテンまで巻き込んでしまった」

「いいや、おまえでよかった。おまえは台羽の手を離さなかった」

 

 台羽の腕に蛍の熱い手の温度がよみがえった。

 痛いほどに握られたあの手がなければ、とうに膝を折っていただろう。

 

「ケイ……」

 

 やっと、音になった声に、蛍が顔をあげた。

 その表情が思いがけないほどに頼りなげで、台羽の手をにぎった手は震えていた。

 ごめん、と言いかけて、「ありがとう」と言い直すと、蛍はうんとうなずいた。

 

 霧の深い森は、どこまで歩こうといくらも進んでいないように見えた。

 だが、ハーロックはそこにひとすじの道が見えているかのように、迷いのない足取りで木々の間を抜けてゆく。

 

 気がつくと、霧にかすむ一塊の影がすべるように前を歩いていた。いつからそこにいたのだろう。葉影に隠れつつ現れつつ、それは小柄な人影に見えた。足元にひきずるほどの布を纏って、その茶色とも灰色ともつかぬくすんだ色合いは葉影にも樹幹にも容易に馴染み溶けいりそうだった。ただ、人影の過ぎた後を追いかけて、ひとひらの幻のように白い切片が散った。雪か。それとも、花びらか。

 

 

「キャプテン……あれは……?」

「あぁ、あいつか……」

 

 ハーロックがふと微笑んだような気がした。

 眼帯と高い襟に隠されて、その表情はほとんど窺えなかったけれど。

 

「あいつは、大丈夫だ。俺の前では地獄の亡者も神の化身も、同じ姿で現れる」

 

 その言葉に応えるように、人影はふりむき、奇妙につばの広い帽子の影からニィと笑った。そして、ふいっと木陰に消え失せた。瞬間、ザァと降り注ぐ白が視界を埋めた。それは雪のように儚くちいさな無数の花びらだった。霧を纏った周囲の樹々が、すべて満開の花咲く枝に変わったかのように、花びらが舞い散る。見惚れるほど美しいはずの光景は、なぜだろう、なぜだろう、たとえようもなく悲痛だった。あまり鮮烈なその悲しみが、肉体の痛覚が訴えるものではなく、心の奥からあふれるものだと、いつまでも信じられないくらいに……。台羽の頬を涙がすべる。その頬にも、花びらが。広げた手のひらの上に落ちた、その欠片は、芯から淡い薄紅をにじませていた。

 ハーロックは立ち止まろうとはしなかった。まるで彼のよく知る道をゆくように、白い欠片を身にまとって押し進む。花びらは春の雨のように彼を濡らし、深い色の髪に流れては消えた。ふと、痛みを優しい指がなでるように、ほそい細い弦の音色が台羽の耳にふれた。その音は、霧の彼方から近づいてきた。

 

 そして。

 霧と花の雨が途切れた途端、森が終わり、目の前が開け透明なドームがあらわれた。

 

 

 

「出られた、のね……」

 

 蛍がつぶやいて、崩れるようにしゃがみこんだ。

 台羽の足が砂利を踏む。ハーロックの腕から降ろされ、台羽は蛍に駆け寄った。肩に触れると、蛍は顔を上げて安堵に表情をゆるめた。支えあうようにして立ち上がり、振り向いた森は深緑の奥にまだ鈍色の霧を漂わせていたが、外縁にまで浸食してこようとはしなかった。

 

 

 

「台羽くん、私……あなたのお父さまとお母さまを見たわ」

 

 ぽつりと蛍がつぶやいた。

 蛍の眼が、台羽の瞳を確かめるように覗き込む。

 

「見た、だけじゃない……感じたの。たぶん、あなたの胸の中まで……」

 

 蛍の細い指が、そっと台羽の胸のまんなかにふれる。

 その指が、壊れそうなものに繊細にふれるような指が、ごめんなさいと言っている気がした。他人が決して覗いてはいけないものを、痛みも苦しみも喜びも、ただ自分自身ひとりだけのものであったはずの心を、盗み見てしまったと。細い指が恥じていた。

 

「いいんだ。ぼくも、たぶん感じていた。蛍の不安も、怖れも……でも、君は最後まであきらめなかった。強いな、蛍は……」

 

 蛍は、やっと彼女らしいあかるい晴れやかな表情を見せて、「帰りましょう」と台羽の手を取った。エレベーターの前で、ハーロックとミーメがふたりを待っていた。森の中から細く聞こえた弦の音色が、ミーメのハープであったのだと台羽はやっと気がついた。聞きなれたメロディとはどこか違う。語り掛けるような音色だった。ずっと呼び続けていたのだろうか、ハーロックを。台羽たちを。迷いの霧からの道しるべとして。

 

 

「ありがとう、ミーメ」

 

ハーロックの言葉にこたえて、乙女の指がポロリと弦を鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幻覚、だったんでしょうか……」

「そうである、とも、そうでない、とも、言えるなあ。ワシがこの目で見たわけじゃなし」

 

 ただねぇ、とドクターは台羽の背中にポンポンと消毒薬を塗りながら言う。

 

「実験棟のほうに残っていた資料を見るとね、なにかしら特殊な植物の研究をしていたんじゃないかと、思えるふしがあるね」

「研究?」

「うむ」

 

 香辛料をたっぷり効かせたマスさん特製ホットワインをマグカップからすすりながら、台羽はドクターの言葉を待つ。

 

「どうやらね、人為的に集団ヒステリーを引き起こす研究、だったんじゃあないかと、ワシはあたりをつけとるのよ。人間の思い込みってのは恐ろしいものだよ。ひとりの人間だって、強く信じて思い込めば瞬間的にとんでもない力を発揮したり、知るはずのない物事を口走ったりする。肉体に火傷や傷跡が現れることも、手の施しようのない病にかかったりもする。それが集団となれば、まさしく地獄絵図のようなことだって起きるんじゃよ。中世の時代、それで何千人もの女性が魔女と決めつけられて焼き殺された。何百人もの村人が理由もなく死ぬまで踊り狂った史実もある。もしも人の不安や恐怖を意のままにあやつることができれば、笛吹き男ひとりで、国を亡ぼすことだってできるかもしれん」

「でも、思い込み……なんでしょう?」

「なぁ、台羽くん。君が今見ている聞いている触れている世界が思い込みじゃないと、どうやってワシらは判断できるかね?」

「でも、そんな……いたっ」

「気密服をまったく傷つけずに、こんな傷がどうやってつけられるかね」

 

 台羽の背に腹に腕に、血のにじむ傷跡がいくつも残っていた。そのひとつずつが、どれほど冷たい氷の刃に貫かれたものか、台羽はありありと思い出すことができる。だが、気密服には一筋の傷みもなく、台羽の体にもまた肉に達するほど深い傷はひとつもなかった。ただ体の奥に沁み込んだような痛みが残っていた。ぶるりと肩が震える。あの寒さも、あの森の中で見たすべても、台羽の脳が生み出したものだというのなら。

 

「不安と恐怖が伝染する、なんて……」

「おそろしい研究だがね。権力と恐怖でもって民衆を支配したいと思う人間にとっては、有用なのかもしれん。だが、研究を命じた誰かでさえ恐れたんじゃないかとワシは思うね。こんな地球から遠く離れた最果ての宇宙の氷の海の中に閉じ込めて、ひっそりと研究していたということは、な」

 

 医務室のドアが開いた。

 あらわれた長身の姿に、台羽ははじかれたように立ち上がった。手の中のワインが跳ねる。

 

「キャプテン!」

 

 隻眼の視線が半裸の台羽をするりとなでて、ドクターへと向けられる。

 

「なぁに、かすり傷さ。心配はいらん。それより低体温症になりかかっとった方だな。腹の温まるものを飲み食いしとりゃあいい」

「そうか。台羽、話しておきたいことがある」

 

 目線で座るようにと促されて、診療台に腰かける。

 慌てて脱いだシャツを引き寄せて袖を通す。ハーロックは気にする様子もないし、ドクターももちろん気にかけないが、台羽はハーロックの前で傷をさらしているのがいたたまれなかった。心の脆弱さの証のように感じられた。

 

 

 

「あの海中施設の維持システムを壊すぞ。地殻から熱を供給するラインを破壊する。あの霧は、今の地球人類には過ぎた毒にしかならん。もちろんマゾーンの手に渡すことだけは避けなければならない」

 

 それは、問いかけでも了承を求めたわけでもなかった。

 ただ、キャプテンとしての判断を執行するという宣告だった。

 

 なぜそれを自分に告げるのだろうか。とっさになんと返していいのか迷った台羽は、すぐにそれがハーロックの思いやりなのだと気が付いてうつむいた。あの恐ろしいほどに透き通った水の中に浮かぶ緑の森に、台羽が母の思い出を残していると知っての、気づかいだった。顔を上げる。隻眼を見つめ返して、うなずく。

 

「わかりました」

「熱の供給が途絶えれば、やがて全てが凍りつくだろう。だが、あそこに残された植物群の多くは貴重なものだ。いつか、未来に、地球人類が賢明さを取り戻し、地球に緑をよみがえらせたいと願う日が来たら、」

 

 

「おまえが取りに来い」と、ハーロックは言った。

 

その言葉に込められた静かな希望と期待は、アルコールよりもはるかに台羽の体の芯に熱を灯した。けれど、

 

「ぼくに、できるでしょうか。こんな弱い、力のない僕に……あんなふうに恐怖に飲み込まれて、幻覚に惑わされて……蛍やキャプテンがいなければ、きっと帰ってこれなかった」

「ただ恐れを知らないだけの人間を、俺は強いとは思わない。台羽、おまえは自分がいったい何に恐怖したのか、わかっていないのか?」

「それは、」

 

氷。凍てつく寒さ。

血と死と破滅。取り返しのつかない絶望。

 

「違う」

 

ハーロックの声が台羽の思考の海を貫く。

 

「幻覚に惑わされるな。おまえが、本当に恐れたことは、なんだ」

「それは……母さんと、父さんを、死なせてしまったことが……」

 

光を帯びた隻眼が、台羽に容易い言葉を許さない。

 

「ふたりを助けられなかったことが、今も……悔しい」

 

 理屈に合わないとわかっていても、台羽にはたまらない後悔があった。

 目の前で殺された父だけではない、太陽系を隔てた母の死でさえ。

 

 今の自分ならば、こうしてアルカディア号に乗り、トリトンまで星の海を渡って来られる自分ならば、こんなに冷たい星で母を死なせはしなかった。どんな手段でも探しだして、母を……守りたかった。死なせたくなかった。あの暖かな微笑みを、声を、凍りつかせはしかなかった。

 

 

 

「愛を知らぬ者は、本当の恐れも知らない。台羽、俺とて恐れはあるぞ」

 

 ハーロックが手袋を外して、その手を台羽に見せた。

 

「あ……!」

 

 台羽は思わずその手を取った。赤く手のひらを手首まで走る真新しい傷があった。鋭利な氷の結晶ごとかまわず台羽を抱きとめたときに、か。形をもった己の恐怖が、この大きな手を傷つけていたと知って、台羽は泣きそうな気持になった。いったい何度この手に救われたかしれないのに……。

 

 ひょい、と隣から覗き込んだドクターが苦笑する。

 

「キャプテン、あんた服の中も見せてもらおうか」

「かすり傷だろう?」

「だがね、医者としてはな……ン、ふーむ……。いや、そうじゃ、ワシは蛍の様子を見てこなきゃならんな」

 

 突然そう言って、ドクターは台羽の横にどすんと薬箱を置いた。

 

「使い方はわかるな? ワシがおまえさんにやったのと同じだ」

「え? 僕がですが? キャプテンに?」

「ワシは忙しいし、おまえさんはヒマだ。それにな、心理学的見地からすると、罪悪感や自責の念っちゅーやつは、早めに解消しておいたほうがええもんだよ」

 

 ぐうの音も出ない台羽を置いて、ドクターはさっさと部屋を出て行ってしまった。その両手に酒瓶をぶら下げていたので、なにをしに蛍のところへ行ったのかも怪しいが……。

 

「そういうことなら、台羽」

「はい……」

 

 頼むぞ、と差し出された手を取って、台羽はもしかして、と思う。

 もしかして、自分はこの艦で、とてつもなく甘やかされいてるのではないか、と。

 まるで年の離れた末っ子の兄弟ように。いいのだろうか。

 思い出をトリトンの海に沈めて、この艦を家族のように思っても、いいのだろうか。

 

 そのくすぐったさを持て余して、顔の火照るような幸せを押し隠して、目を合わせることもできず、薬箱とハーロックの手ばかり見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

end.

 

 







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