高町なのはの気持ち。
「―――うーん、これで大丈夫かな……?」
ぐつぐつと湯気を上げながら熱を発する鍋の中から汁をお玉で少しだけ掬い上げ、それを小さな更に移してから口を付けてみる。口の中に入り込んでくるその味は、一般的に言えば少々濃い味とも言える味付けの味噌汁だった。だが前々から、この味付けを彼女は―――なのはは、好んでいた。
昔は運動音痴だったらしいなのはも、度重なる鍛錬の結果、今では格闘戦もある程度できる、エース魔導士となった。そんななのはの仕事は健康良く体を動かす事だ。誰かに教える事も、教えられる事も体を良く動かす事だ。だから少し塩気の多い方が好みなのだ、なのはは。そう考える自分もそれなりに味が濃い方が好きだったりする。
「なのは……喜んでくれるかな?」
その他にも色々と台所では用意していた。味噌汁に出汁巻き卵、塩鮭に白米―――つまりは基本的な日本食だった。ここ、ミッドチルダで地球の食事というのはそこまで珍しい話ではない。どうやら昔の移民に地球人がいくらか混じっていた様で、食文化がかなり似通ってる部分があるからだ。それに自分やなのはを始めとしたエース級の魔導士の人気で、地球ブームなんて物さえもある。だから、地球の食事……とくに日本食なんてものは、専門店すらあるレベルで人気だったりする。
だけどそれはレストランなどに行けば、という話だ。
家庭レベルではまだまだ珍しい。
だからこうやって、日頃のなのはをねぎらう為に、日本食を用意した。普段は家事の類を二人で分けているが、別に自分一人じゃ出来ないという訳じゃない。ただ単になのはと二人で家事をする、というのが楽しいだけだ。最近ではそこにヴィヴィオも混ざって来て、より賑やかになってきている。
なってきているのだが……。
「大丈夫……だよね」
最近、なのはの様子がおかしい。
まず一番最初に違和感を抱いたのは少し前に、なのはがお出かけをした時だ。男と二人で出かけるなんて……いや、それぐらいなら普通にあった。ユーノとか。ザフィーラとか。でもあの二人ペットだし。だけどあの二人と出かけたとは違う、凄い気合の入れよう、薄く化粧を乗せる事なんて、まるで考えられなかった。なのはが、化粧をしてまで出かける……しかも事前にサロンに予約を入れて髪を整える程だ、衝撃で滑って転んだ。しかも凄く楽しそうにその日の事を何度も話してくれるのだ。
絶対に、何かがおかしい。
まぁ、それだけで終わればどこか、接待に向かったのかなぁ、なんて考えもできた。
だけど相手はなんか妙に気合の入った格好をしてきた男の人だった。
しかもなのはも滅茶苦茶嬉しそうにしていた。顔には出していないが、それでも長年の付き合いから解る。アレはアルフが好物を前にしたときと全く同じリアクションだった。つまり好きなものを前にしたリアクションだった。
この例え話をアルフにしたら引かれたのは今でも記憶に新しい。何がダメなんだろう。
まぁ、それはともかく、
問題はそれ以来のなのはだ。
外に居る間は物凄く普通なのだ。何時も通りのなのはにしか見えない。だけどそれが家の中だと違ってくる。
なんというか……隙だらけになってる。
なんか朝起きたら枕を抱えてベッドの上をゴロゴロ転がっているし。偶に虚空を見つめてぼーっとしているし。家の中に居ると溜息を吐いて膝を抱えているし。何かの病気!? かと思って確かめてみたら別に病気でも何でもなかった。不安になってこっそり母に相談してみたら両手で顔を覆って溜息を吐かれていたし。だが最近、なのはの裏に怪しい男の影がある。絶対にアイツに関係しているという事だけは理解していた。
こうなったら近いうちに、捜査権限のあるティアナを動かすべきじゃないだろうか? と最近では思いつつもある。この前、お出かけの時は一瞬でバレてしまったし。
「どうしようか、バルディッシュ」
『You have a lot more to learn miss……』
「え、何を勉強しなきゃいけないの……?」
『*Sigh*』
バルディッシュが地味に辛辣なリアクションを返してくるのが解せない。もっとたくさん勉強しなくちゃいけない、とはどういう事なのだろうか……まるで分からない……。ただ、最近のなのはの様子がおかしいのは事実だ。なんか最近は一層そわそわしている所もあるし、どこかぼーっとする回数を増やしながらも、どこか落ち着きがない感じもある。構おうとするとヴィヴィオに邪魔されるし、直接的な原因が良く解らない。ただ、
なのはがどこか、悩んでるというのは解っている。
だから今日は元気づけるつもりで日本食を作っていた。
少し前……JS事件の影響で、なのはには消えない傷が生まれてしまった。彼女はリンカーコアにダメージを残す勢いで魔力を使い、そして二度と治らない傷をリンカーコアに刻んでしまった。その影響で、なのはは今は普通の仕事ではなく、リハビリ半分に付きっ切りで一人を相手に教導をしている。その為、日中は家にいない。
つまりその間にサプライズ用の料理を用意できるという事でもあった。
なのははどこかワーカホリックな所があるのが心配なのだが、こういうサプライズを用意する時はかえって助かる。おかげで堂々と家の中で準備を進める事が出来た。
「うん、丁度良い感じだね」
呟きながら味見をし、もう一口だけ食べようかな……と思って頭を横に振り、心を強く持つ。ダメだ、これはなのはに食べさせるために用意したんだから、自分が食べてしまってはまるで意味がないではないか。
強く持つのだ、フェイト・ハラオウン。心を強く持つのだ。はやてに待て! と言われた時のザフィーラの様に心を強く持ち、待つのだ。夕飯の時間になれば普通に食べられるのだから。
「あ、でも味見しなきゃ味の調整できないしちょっとぐらいいいよね」
『*Sigh*』
バルディッシュがまた何かを言っているが、それを無視して出汁巻き卵を口の中に入れた。やはり、甘くない方が美味しいな、と思った。それに最終兵器、翠屋のシュークリームを日本から送ってきてもらって、冷蔵庫に入れてあるのだ。
これなら確実になのはも元気が出るだろう! というラインナップ。
抜かりはない。準備は万全。料理ももうほとんど終わりだし、後はなのはが帰ってくるのを待つだけだった。鼻歌を口ずさみながら鍋の蓋を閉じて、お皿を並べようと思った所で、
かちゃり、と扉の鍵が回る音が聞こえた。
「あっ、帰って来た」
エプロンを装着したまま玄関へとお帰り、と言う為に向かう。もう既にキッチンから漂うこの匂いで今夜は豪勢にやるのだ、というのは解る筈だ。きっと、きっと喜んでくれるに違いない……!
その確信を抱きながら扉が開くのを見た。
「あ、なのはお帰―――」
「ただいまフェイトちゃんお風呂入るねじゃっ!」
なのはが突風の如く横を走り抜け、そのまま風呂場へと飛び込んで行く姿を見た。その姿が消えた所で凍っていると、後からゆっくりと扉を抜けて、ヴィヴィオが帰って来た。
「フェイトママただいまー」
「お帰り、ヴィヴィオ」
鍵をちゃんと閉めて入って来たヴィヴィオを迎えながら、風呂場の方へと走って消えたなのはの方へと視線を向け、首を傾げる。
「どうしたんだろう、なのは。顔が凄く赤かったし……やっぱり風邪引いたのかな?」
通り過ぎたなのはの顔は、まるで林檎の様に真っ赤だった。やっぱり、なんかの病気じゃないのだろうか? だとしたらお風呂に入らない方がいいのだが。これ、なのはをお風呂から呼び戻したほうがいいんじゃないだろうか?
「流石にヴィヴィオでもどういう事か解るのに……」
『Im sorry, its completely my fault I haven’t taught her anything about this……』
「あれ? なんでバルディッシュ謝ってるの?」
胸元のペンダント状のバルディッシュに問いかけるが、バルディッシュは薄く光ると黙り込んだ。どういう事だろうか? ただヴィヴィオは、少しすればなのはが元に戻ってくれると言っているし、ここは娘を信じて少しだけ、一人にする事にした。
「うわわぁぁぁあぁぁぁあああぁぁ……」
ぶくぶくぶくぶく、と顔を風呂の湯に押し付けて、唸り声の様な声を湯の中に沈める。ダメだ。顔が赤いのを自覚出来てしまう。絶対に今、凄い顔をしている。それを洗い流す様に、消し去る様に風呂の中に飛び込んで、洗い流そうと顔を湯につけているが、それを持ち上げ、そして風呂場にある鏡を覗き込んだ。
そこには顔を真っ赤にし、しかしどこか、期待する様に、にやけている様な、そんな自分の表情が見えた。
「あああ、ダメダメダメ! こんなんじゃダメ!」
湯を掬い上げ、それを顔に叩きつけてごしごしと洗い流す様に擦る。それでも顔から熱が消えるどころか、更に思い出し、意識してしまいそうになる。今までは全然表面に出さない様にする事が出来ていたのに、一瞬でその壁を砕かれてしまった気持ちだった。しかもヴィヴィオとかいう伏兵に。
「もぉ、どんな顔をすればいいのか解らないよ……」
もうこのまま死んでしまいたい。どんな顔をすればいいのかが解らない。
でも、でも……でも、
「嬉しそう……だった、よね?」
レックスさん、と、名前を小さく呟く。
そして凄く恥ずかしさを感じる。ダメだ、名前を口にするだけで凄く悶えてしまう。とてもだけどフェイトの前に姿を出す事も出来ない。今も、ヴィヴィオにちょっと余裕を持って接する事は出来そうになかった。それぐらい頭の中が混乱していて、どうしようもない状態だった。頭の中でぐるぐるぐるぐると、ひたすらさっき、自分の気持ちがバレてしまった時の事を思い浮かべてしまう。
最初は呆然として、しかしどこか、驚きながらも隠せない嬉しそうな表情に、確かめてくるような、そんな姿を彼は―――カルディナ・レックスはしていた。
その様子を思い出すだけでにやけてしまう。
彼が……カルディナが覚えているかどうかは、ちょっと、怖くて聞けていない。
だけど自分は彼の事を覚えている。
初めて、叱ってくれた人だったから。
―――自分が、ワーカホリックである自覚はあった。
それを昔から友人や家族に窘められているのもちゃんと、理解している。すずかも、アリサも、フェイトも、はやても、皆、心配してくれている。父も母も兄も姉も、無理をしていないか、と気遣ってくれる。仕事をし過ぎない様に、ちょっと、言葉を挟み込んで休ませようとしてくれる。だけど本気で叱ってくれる人はいなかった。声を出して叱ってくれる人はいなかった。
家族は子供の頃に蔑ろにしたという負い目があった。
友達には職場で頼られているから強く言われ辛かった。
自分でも解っていた。働いて働いて働いて、それでその先で頑張っても常に報われる訳じゃないし、このままでは何時か、無理が体を壊す日が来るって。それでも止まれない。止まれなかった。
高町なのはという女は……止まれなかった。
魔導士として働いている時が、どうしようもなく必要とされている。
そういう風に感じ取る事が出来たから。
両親は悪くはない。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、悪くはなかった。家族が苦しい時なんて、誰にだってある。それを拗らせてしまったのは自分だという自覚があった。自分は子供のくせに、賢過ぎたんだと、と自覚している。そのせいで今の様に拗らせてしまった。仕事をして、誰かに必要とされている状態になっている時が、一番生きていると感じさせてくれた。
こんなこと間違っている。
でも、誰も叱ってくれなかった。
―――彼以外は。
彼がそれをどんな理由で、どんな気持ちで叱ったのかは、解らない。だけど大事なのは、彼が初めて自分に怒ってくれた人物だった、という事実だった。驚いた。凄く驚いた。そして困ったけど……後になって、凄く嬉しかった。
少しだけ、もう少しだけ自分に自信を持とう。持てそう。そう思えるようになったから。少しだけ、前向きになれたから。
あの後で飛んだ空は、初めて空を飛んだ時を思い出させる程楽しかった。
それはずっと、ずっと記憶に残っていた。
そして偶然にも再開した所で、また、叱った。怒った。その衝撃は凄い物だった。また、昔と変わらず怒ってくれたんだ……その衝撃が胸にあった。同時に、その衝撃だけでころり、と自分の気持ちが転がってしまった事に、もしかしてチョロイ女だったのかな、と思ったりもしてしまった。
だけどその時、思ってしまったのだ。
この人だったらきっと、私を叱って、止めてくれる人で居てくれる、と。
きっとこんな人と一緒になれたら、時々叱ってくれながら幸せになれそうだ。
そう、思ってしまった。そしてそう考えると、妙にそれを意識し出してしまった。一緒とか、生活とか、好きとか、嫌いとか。ちょっと、今まで感じた事のない感覚に、全く頼りにならないフェイトには相談できないし、家族に話すにはちょっと怖い。それで、はやてに相談してみれば、
『なんや、なのはちゃんもちゃんと恋できてるやん』
あ、私、彼の事が好きになってたんだ。
すとん、とその事実を認識してしまった。そしてそれを自覚してから、妙な恥ずかしさが心の中に生み出される様になった。しかも気づけば何時の間にかはやてに嵌められる様に教導する事を約束されていて、しかもしかも相手は彼だ。
あの彼だ。カルディナだ。
嬉しいのだ。嬉しい事は間違いないけど、未知すぎる経験に恥ずかしさが脳内を占めている。本当にちゃんと教導できているの? お仕事で来ているのか? 大体頭の中が会う約束をするときは空っぽになっていて良く覚えていない。そんな自分がここまで良くやれたものだと思う。しかしそれを打ち壊したのが娘だったとは。
「まさかヴィヴィオに後ろから刺されるなんて……」
あ、でも、
「ヴィヴィオが居なかったら……たぶん、教える事はなかった……かな」
ぶくぶくぶく、と膝を抱えながら湯船に顔を半分沈めた。皆は私の事を勇者の様に扱うけど―――ちがう。そうする必要があったから、そうしなければいけないから。その時出来るのは自分だけだから。だから実行しているだけだ。そこまで立派な……人じゃない。
好きって言葉一つ、自分の口から言えないような女なのだから。
なのに、バレちゃった。
「どうしよう……ばれちゃった……もう、まともに顔を見れないよ……」
両手で顔を覆い、その手の中に熱を感じた。羞恥から顔が赤くなり、考えれば考える程熱を持つのを感じていた。だって、こんなこと初めてなのだ。こんな風に、誰かの事を考えてそれで一緒に居たい、と思えるのは。そしてそれを考えるだけで胸がどきどきするのは。これ、少女漫画で見た事がある、と冗談を口にする余裕さえない。
だけど、だけど……もしも、
もしも、同じ気持ちだったらどうしよう?
「……ううん、流石に気持ち悪いよね。私みたいな人じゃ」
戦ってばかりだし。それ以外に特技がないし。子持ちだし。そんな人に好きだって思われても困る……よね?
ばしゃり、と水を顔にかけて、嫌な気持ちを洗い流す。だけど、どうしても、期待してしまう。
「レックスさん……カルディナ、さん」
名前を呼ぼうとすると凄く恥ずかしい。だけど同時に、それだけで不思議と、幸せに思えてしまう。あぁ、駄目だ。ヴィヴィオがそれを口にしたせいで、教えちゃったせいで意識するのを止められない。ズシリ、と好きだって気持ちが心に突き刺さっているのを自覚してしまう。今まではなんとか隠せていたのに。もう、まともに隠せるような気がしない。
「また、教導で顔を合わせなきゃいけないのにこんなのじゃ拷問だよ……」
でも、また会いたい。そう思ってしまっている自分がいる。はやてはそこら辺、自覚したら負けや……って言っていた。その言葉の意味を良く理解出来る。確かに、こうなってしまえばもはや白状しているのも一緒だ。それにあんな醜態を晒して逃げて来ちゃったのだ、もう完全にバレている。
……どうするのだろうか?
連絡、してくるのかな。
……冗談、と、片付けられちゃうのかな。
助かるけど……それは、なんか……嫌だ。
「複雑……」
勘違いとか、冗談で済まされるのは、嫌だ。ちゃんと私を見ていて欲しい。ちゃんと私の想いを知って欲しい。恥ずかしいし、怖いけど、知って欲しい。この気持ちが嘘じゃない事を。だけどそれはつまり、告白するという事でもある。
告白……。
「むーりー……」
想像しただけで死にそうになる。それにダメだ、自分が誰よりもそれを認めようとしないのを解っていた。妥協が出来ない。まだ、家庭を持って落ち着く事が出来ない。まだ、教導官としてやらなくてはならない事がいっぱいある。だから告白して、受け入れられたとして、一緒に居る事は……難しい。
高町なのはである限りは。
「うん、はやてちゃんに相談しよう。レックスさんと引き合わせたのははやてちゃんだし」
呟き、自分の事でやる事を決めた。これが後回しにする行いであり、少し、逃げている自覚があるのはあった。それでも少し、冷静になって、誰かに相談できる時間が欲しかった。そうやってやる事を決めれば一直線、
折れず、曲がらず、貫く。
それが不屈のエース、高町なのはのスタイルだ。
気持ちを軽く切り替えた所で風呂から上がり―――その後で、はやてに連絡を入れた。
そして聞かれた。
レックスと―――そして自分自身と向き合う為の舞台を用意してくれると。
彼が、私を本気で欲していると。
だから空から落とす、と。
星光を掴みに行く、と。
私が彼を意識していたように、彼もそうだった。
だけど譲れないものがあった。譲れないものがある。
だから―――ぶつかるしかなく、その場所を整えてくれる、と。
私は、ある種の絶望感と覚悟と共にはやての言葉を飲み込んだ。カルディナ・レックスという男の実力は、全てにおいて私を下回っているという事実。彼の実力で私を倒す事は無謀だという事実。そして私が一切、手加減を出来ないという不器用な女である事実。
だけど、それでも、
私を叱ってくれた彼なら―――止めて、落としてくれるかもしれない。
そんな絶望と希望を抱きながら、私は好きな人と戦う事にした。
冬コミでの購入、ネットでの購入もありがとうございます。予想外の数が売れていてびっくりの中、元は後から加筆するならどんなものかなぁ、と思いつつ日ごろのお礼を込めてつかささんに送ったものを短編として公開という事で。元々公開予定はなかったけどつかささんに公開したほうがいいと言われたので、一般公開へ。
なのはさんは可愛い。