架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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3回目は、第三セクターとなります。


番外編:戦後の日本の鉄道(関東③)

〈関東〉

・三田線の延伸という形での埼玉高速鉄道の設立

 この世界の埼玉高速鉄道は、三田線の西高島平から埼玉県に入り、西浦和、指扇を経由して、埼玉空港(桶川にあるホンダエアポートを拡張し民間用空港としたもの)に至る路線となる。史実のルートは、武州鉄道を経て東武赤羽線として実現している。この路線は、三田線の延伸、開発が進んでいない東北本線の西側の開発を目的としたものだった。

 計画は、1972年に作成された都市交通審議会答申第15号の6号線の項目に『高島平~戸田市西部~浦和市西部~大宮市西部』が入った事から始まる。1985年の運輸政策審議会答申第7号でも「2000年までに整備する事が妥当だ」とされ、1987年に西高島平~美女木~西浦和~指扇の免許の申請が行われた。免許は1990年に認可され、翌年に「埼玉高速鉄道」が設立された。

 工事は1993年から始まった。着工開始がバブル景気が終結した後である事、自治体や住民との協議から、建設には時間が掛った。

 しかし、建設中に2002年にワールドカップが日本で開催されると決定された事、その試合会場として指扇に大規模なサッカー場(後の埼玉スタジアム)の建設が決定された事から、2002年までに開業する事が決定された。これにより工事の促進が行われ、2002年2月に西高島平~指扇が開業した。ワールドカップが開催する3か月前の事だった。

 

 開業によって、今までバス中心だった地域の交通体系に鉄道が加わった。しかし、沿線の人口が余り多くない事、ルートの西側の多くが荒川の為、開発の余地が少ない事から、当初予想されていた輸送人員とはならなかった。

 それでも、戸田競艇場や各種公園、さいたま市桜区役所に埼玉スタジアムへのアクセス路線として、一定の需要の獲得には成功した。また、バス路線の再編もあり、今まで東北本線や埼京線、東武東上線を利用していた客を一部獲得している。

 

 西高島平~指扇建設中の1999年、桶川市にあるホンダエアポートを拡張し、「埼玉空港(仮)」として首都圏第3空港化する事が決定された。これは、高まる需要に羽田・成田両空港の容量が追い付かなくなる事、今後増加するであろう格安航空会社やビジネスジェット用の空港の整備を目的としたものだった。

 埼玉高速は、埼玉空港への乗り入れを検討した。まだ建設中の路線が開業していない事、埼玉空港の需要の関係から検討止まりだったが、開業後の2006年に指扇~埼玉空港の免許を申請した。埼玉高速は、埼玉空港の需要は鉄道が必要になる程増大すると見込んだのである。

 免許は2010年に認可され、同じ年に埼玉空港が開港した。埼玉県は関東の中心にある事から、他県への移動が行い易かった。その為、国内の新興航空会社や格安航空会社を中心に、羽田や成田から移ってくる路線もあった。それに伴い、埼玉空港の利用者は増加の一途を辿った。

 空港の利用者の増加に伴い、付近の道路の渋滞が酷くなった。その解消の為、埼玉高速の延伸は急がれた。2012年に工事がスタートし、2017年3月に指扇~埼玉空港が開業した。

 

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・北総開発鉄道と千葉県営鉄道北千葉線の統合

 北総開発鉄道(2004年に北総鉄道に改称)は、千葉ニュータウンと都心を結ぶ事を目的とし、京成高砂~新鎌ヶ谷~小室が計画された。一方の千葉県営鉄道北千葉線も、千葉ニュータウンと都心を結ぶという目的では北総と同じだが、印旛・成田ニュータウン方面への延伸も盛り込まれており、本八幡~新鎌ヶ谷~印旛松虫(現・印旛日本医大)が計画され、印旛松虫~成田が検討された。2つの路線が計画された理由は、千葉ニュータウンの開発が大規模に行われる予定だった事(初期計画では34万人が入居予定)、前述の目的の違い、都心への乗り入れの違い(北総は京成・浅草線ルート、北千葉線は新宿線ルート)と考えられる。

 2路線が計画された千葉ニュータウンのアクセス線だが、開発直後にオイルショックが到来した。これにより経済成長は事実上終了し、首都圏への人口流入も鈍化した。物価の高騰もあり、ニュータウンの開発は縮小する事となった。

 こうなると、2路線敷設する計画は過剰なものとなり、整理する方針となった。当時、新宿線の延伸が遅れていた事、本八幡~新鎌ヶ谷の用地買収が遅れていた事から、北千葉線の計画は凍結される事となった。

 その後、バブル時代に再度北千葉線を建設する雰囲気が出たものの、バブル崩壊によってその構想も頓挫した。北総との調整もあり、2002年3月に免許が失効した。

 

 この世界では、京成高砂~新鎌ヶ谷~成田と本八幡~新鎌ヶ谷が「北総開発鉄道」として最初から一本化してスタートした(京成高砂~新鎌ヶ谷が鎌ヶ谷線、本八幡~新鎌ヶ谷が北千葉線、新鎌ヶ谷~成田が印旛線)。これは、直通する浅草線と新宿線の軌間が共に1372㎜で共用が可能である事が理由だった。

 この世界でも、オイルショックが発生し、それに伴い千葉ニュータウンの計画も縮小された。しかし、大きく縮小しなかった。これは、既にある程度開発が進んでいた多摩ニュータウンは縮小させる代わり、千葉ニュータウンに注力する方向になった為である。実際、オイルショック以降、千葉ニュータウンは住宅一辺倒から、職住一体や緑園都市、文教都市としての開発に変更された。

 オイルショック後、ニュータウンへのアクセス線は北千葉線に注力する事となった。当時、京成線は筑波や宇都宮方面の輸送力強化への対応に追われていた為、本線と押上線の輸送力強化は難しかった。その様な中で、鎌ヶ谷線を建設するのは更なる輸送力不足を引き起こしかねないとして、北千葉線の方が優先された。

 建設は緩やかにだが進んだ。これに伴い、乗り入れ先の新宿線の工事も進められ、1987年には本八幡への延伸の目処が立った。だがその前に、「ニュータウンのアクセス線」という目的を果たす為、1977年に北初富~小室が開業した(新京成と直通の為)。その後、1982年に小室~千葉ニュータウン中央が、1985年に千葉ニュータウン中央~印西牧の原が、1987年に本八幡~新鎌ヶ谷が開業した(同時に、新京成の乗り入れ終了)。

 

 新宿線との乗り入れが始まった事で、千葉ニュータウンのアクセスは飛躍的に向上した。以降、延伸が進み、1992年に印西牧の原~印旛日本医大、1998年に印旛日本医大~成田ニュータウン中央~京成成田が開業した。また、京成側の輸送力強化の目処が立った事、成田空港へのアクセスの強化を目的に、2008年に京成高砂~新鎌ヶ谷が開業し、同時に社名を「北総鉄道」に改称した。これにより、北総開発鉄道時代の構想が全て完了した。

 

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・東葉高速鉄道の改正鉄道敷設法第50号(『千葉県船橋ヨリ佐倉ニ至ル鉄道』)に沿う形での開業

 この世界では、成田空港の建設の際に軍まで動員された。ベトナム戦争後という事もあり、これに対する政府と軍の批判は大きかったが、反対派の過激派に極左が関わっていた事が発表されると、政府・軍に対する批判は弱まった。その後も問題が無い訳では無かったが、成田空港(当時は新東京国際空港)は当初の予定通り1978年3月に開港した。その後、順次拡張が進められ、1998年、2008年、2016年に滑走路の追加の使用が開始された。その為、2019年現在、4本の滑走路を有する国内最大級の空港となった(内訳:4000m×2、3200m×1、2800×1)。

 成田空港が当初の予定通り開港し、その後の反対派の妨害が小規模だった事(開港前に極左の危険性が日本全体に広がり、支持者が急速に減少、残りは徹底的に処断された)、史実以上に京成の営業圏が広い事から、史実にあった京成の経営危機は小さいものだった。それでも、ニュータウン関係への投資は大きかった為、オイルショックから数年間は無配状態となった。

 

 東葉高速の計画が固まったのがこの頃であり、増大するであろう船橋~佐倉の輸送力強化と成田方面に注力したい京成の線増を目的に、1972年に作成された都市交通審議会答申第15号に5号線(東西線)の千葉方面の終点が佐倉とする事が決定した(史実では勝田台まで)。1979年に、営団が保有していた西船橋~勝田台の免許の受け皿を目的に(当初は営団が建設する予定だったが、東京都から出る事が問題視された)、「東葉高速鉄道」が設立された。同時に、勝田台~佐倉の免許も申請された。

 1984年から工事が始められた。先述の通り、成田空港開港後の問題は最小限であり、千葉県の収用委員会が機能停止になる事も無かった為、土地の収容は順調に進んだ。それでも、路線の長さやバブル景気の終焉による景気の緩やかな後退によって、史実と同じ時期(1996年4月)に開業となった。

 

 開業した東葉高速だが、開業時期の遅れから運賃の高騰は避けられなかった。それでも、土地収用が早かった事からその分は運賃に反映されなかった為、史実程高くはならなかった。また、開業によって沿線の開発も行われる様になり、状況の改善は進んできている。

 また、東葉高速の開業によって、京成は優等列車の増便が行われた。京成は東葉高速の株を保有しているが僅かであり、ライバルとしての側面が強かった。その為、京成としては勝田台・佐倉からの通しの利用客が流れるのを防ぐ為、1998年から快速急行が設定された。

 

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・多摩都市モノレールの全通

 この世界の多摩都市モノレールは、立川~多摩ニュータウン~町田の路線として計画された。これは、南北の交通が貧弱な多摩丘陵の輸送改善、多摩丘陵を貫く京王・西武・小田急の各線の接続を目的としたものだった。立川から北側は、西武立川線として上北台~玉川上水~立川が整備されている為、検討すらされなかった。

 その後の会社の設立までは史実通りであり、1998年に立川~多摩ニュータウンが開業した。以降、2001年に多摩ニュータウン~並木(小田急相武線との乗換駅)、2010年に並木~町田が開業した。これにより、当初の予定線が全線開業した。

 

 モノレールの開業によって、今までバスに頼っていた多摩丘陵の南北の交通が改善された。尤も、初期費用が嵩んだ為、財務状況は火の車だった。その為、減資に返済期限の延長、固定資産税の減免など、なりふり構わない再建を行った。これにより、財務状況は改善し、2012年度には純利益ベースで黒字化も達成した。また、延伸した地域の再開発によって大型商業施設が誘致されるなどして、旅客輸送の方も増加傾向にある。

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