架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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東海については、最初に国鉄と公営鉄道、次に私鉄と分けて投稿します。


番外編:戦後の日本の鉄道(東海)

〈東海〉

・改正鉄道敷設法第60号ノ2(中津川線)の開業

 中津川線は、飯田から木曽山脈を抜け、中津川に至る路線である。「60号ノ2」となっている理由は、後述の佐久間線に当たる改正鉄道敷設法第60号、『長野県辰野ヨリ飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道 及飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』の後半『飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』が先に計画されていた。後に終点を中津川に変更した事で1961年に60号ノ2が追加されたが、60号の後半部分についてはそのまま残された。

 追加後の1966年から工事が始まるなど、結構優遇されていた中津川線だが、用地買収の遅れや機械の故障によるトンネル工事の遅れ、並行する中央自動車道の開通、中央新幹線構想などによって、地元の中津川線への熱意が薄れていった。また、中津川線用に組まれた予算が他線に流用されるなど工事が遅れる要因もあった。

 その後、国鉄再建によって中津川線の工事が中止となった。工事の進捗度が高くなかった為か、受け皿としての第三セクター会社は設立される事は無く、用地は日本国有鉄道清算事業団に譲渡されて事実上消滅した。

 

 この世界では、機械の故障が無かった事、予算の流用が無かった事から、1978年時点で神坂トンネル(木曽山脈を貫くトンネル)以外の工事は完了した。その後、神坂トンネルの調査が完了した所で国鉄再建法が制定された。その為、中津川線の工事は中止されたものの、伊那谷と名古屋の鉄道による連絡を実現したいという地元の熱意により、1986年に第三セクター「中央アルプス鉄道」を設立した。中央アルプスは、路線が貫く木曽山脈の通称に由来する。

 中津川線の工事も再開され、1995年に全通した。中央本線と飯田線を結ぶ路線の為、最初から電化での開業だった。同時に、名古屋~飯田・岡谷・上諏訪の特急「恵那山」が設定された(これに伴い、豊橋~飯田の臨時急行「伊那路」は廃止。代わりに、豊橋~飯田の本数増加)。恵那山用に、373系電車が多数量産された。

 

 全通後、中津川線の工事中に発見された昼神温泉と中津川温泉、沿線に近い馬籠宿などの存在から、観光利用は多かった。また、伊那谷に抜ける最速ルートの為、名古屋への通しの利用客も多かった。

 しかし、中央新幹線のルートと重複している事から、開業後は優等列車は消滅すると見られた。その為、開業予定の2027年までに余剰金を100億以上積み立てる事を目標に、慎重な経営を行っている。

 

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・佐久間線の開業

 佐久間線は、二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天浜線)の遠江二俣(現・天竜二俣)から分岐し、船明、横山を経由して、飯田線の中部天竜に至る路線である。「佐久間線」の名称の由来は、恐らく中部天竜が初代・佐久間を名乗っていた事に関係するのだろう。

 佐久間線は、改正鉄道敷設法第60号の前半部分の一部として計画された(残る区間は、飯田線と天竜浜名湖鉄道、遠州鉄道で実現)。古くから計画はあったものの、工事の開始は1967年と遅かった。結局、1980年の国鉄再建の煽りを受けて工事は中止となった。中止時点で、路盤は約50%が完成しており、起点から約11㎞地点の遠江横山までは主要工事の多くが完了していた。実際、遠江二俣~遠江横山の第三セクターによる開業も検討されたが、黒字への転換は不可能とされて断念している。

 

 この世界では、光明電気鉄道が磐田~見付~遠江二俣~船明を開業させた為(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(東海)』参照)、遠江二俣~船明については戦前から開業している。その為、戦後は船明~遠江横山~中部天竜の工事となった。

 史実通り、1967年から工事が開始されたが、1974年には早くも船明~遠江横山が開業した。残る区間の工事も進められたが、国鉄再建によって工事は中断された。また、佐久間線そのものも第一次特定地方交通線に指定された為、延伸処では無くなった。

 一方、残る区間の工事の8割は完了しており、沿線からは開業して欲しいという声が大きかった。全通する事で、静岡と長野南部の連絡、天竜川の観光開発の促進などが果たされる為である。

 

 1987年に、二俣線・見付線(磐田~見付~豊岡。元・光明電気鉄道)・佐久間線は第三セクター「天竜浜名湖鉄道」に転換された。同時に、日本鉄道建設公団から天竜横山(三セク転換の際に遠江横山から改称)~中部天竜の譲渡が行われ、工事も再開された。この区間の開業は1992年となった。

 佐久間線の全通後の1996年、静岡と浜松から飯田・諏訪方面の優等列車として特急「天竜」が設定された。天竜の名称は、飯田線と長野を結ぶ急行列車の名称として使用されていたが、1986年に廃止された。その名称を、静岡と飯田線を結ぶ特急として約10年ぶりに復活した。当初は1995年に運行開始する予定だったが、車輛の増備が追い付かなかった為、1年間後倒しとなった。

 特急運行と同時に、掛川~天竜二俣~中部天竜と磐田~豊岡については直流1500Vの電化が行われた。これは、同時に運行が開始した中央アルプス鉄道の特急「恵那山」との車輛の共用化の為である。しかし、普通列車についてはディーゼル車のままとなり(京都丹後鉄道と同じ)、優等列車に限り電車で運行する事となった。

 

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・越美線の全通

 越美線は、美濃太田から関、郡上八幡、北濃、九頭竜湖、越前大野を経由して福井に至る路線として計画された。現在の越美北線と長良川鉄道(旧・越美南線)、未成区間の北濃~九頭竜湖になる。

 越美線は、南線の方が開業が早かった。1923年に美濃太田~美濃町(現・美濃市)が開業し、1934年に北濃まで開業し、現在の形が成立した。一方の北線は、1960年に南福井~越前大野~勝原が開業し、九頭竜湖には1972年に到達した。

 以降、延伸は行われる事は無く、国鉄再建によって未成区間の工事は中止となった。越美南線は第二次特定地方交通線に指定され、1986年に第三セクター「長良川鉄道」に転換となった。これにより、越美線計画は終了した。

 

 この世界では、越美北線の開業が5年早まった。また、越美北線の九頭竜湖延伸の際、越美南線の九頭竜湖延伸も同時に行われた。同時工事の為、工事は長引いたが、1970年に勝原~九頭竜湖~北濃が開業した事により、越美線は全通した。

 

 全通によって、東海と北陸、特に福井と金沢を結ぶ新たなルートが完成した。開業によって、名古屋~北濃(高山本線経由)の急行「おくみの」の終点が福井に変更された。1972年3月のダイヤ改正(ヨンナナサン)では、名古屋~福井・金沢(太多線・越美線経由)の特急「くずりゅう」が設定された。これに伴い、米原~金沢の急行「くずりゅう」は「おおの(金沢市内を流れる大野川に由来)」に名称が変更され、「おくみの」の一部が「くずりゅう」に変更となった。以降、ダイヤ改正の度に「おくみの」は「くずりゅう」に変更され、1985年3月のダイヤ改正を以て「おくみの」は全廃となった。

 国鉄民営化後、「くずりゅう」は高山本線の特急「ひだ」と共にキハ85系が投入された事により、高速化が実現した。現在は、名古屋~福井が6往復、名古屋~金沢が4往復、合計10往復が運行されている。

 

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・改正鉄道敷設法第72号ノ2(瀬戸線)の一部開業と環状線化

 瀬戸線は、1962年の鉄道敷設法の改正の際に追加された。ルートは、70号ノ2(現・愛知環状鉄道の岡崎~瀬戸市と、未成の瀬戸市~多治見)の瀬戸市から分岐して高蔵寺に、高蔵寺~勝川は中央本線の複々線化、勝川で分岐して稲沢に至るものだった。また、名古屋方面の支線として、小田井から分岐して枇杷島への路線も追加された。

 計画では、70号ノ2と合わせて、岡崎~瀬戸市~高蔵寺~勝川~稲沢のルートを形成し、貨物列車を名古屋に通さない事を目的とした。

 因みに、城北線のルートは、中央本線建設時の名古屋ルートの候補に挙がっており、1910年代から20年代に名古屋市街地の拡大によって中央本線で市街地が分断された際、路線の付け替えとして城北線ルートが検討された事があった。付け替えは実現しなかったものの、稲沢操車場(1925年稼働)へのルート、中央本線と関西本線のスルー走行の可能などから、鉄道省としては検討に値するものだった。瀬戸線計画は、この検討の具体化というべきだろう。

 1976年から工事が開始されたものの、この頃には既に鉄道貨物の衰退は著しく、1980年に国鉄再建法が制定された後も建設が続けられたが(瀬戸線はC線(主要幹線)として建設された。それ程重要と見做された)、需要が見込めない(4,000人/日(1日の利用者が4,000人)が基準であり、瀬戸線は3,600人/日と見込まれた)として1984年に工事が中止となった。

 現在、勝川~小田井~枇杷島はJR東海の完全子会社である東海交通事業の城北線として実現しているが、勝川では中央本線と線路が繋がっておらず、全線が複線だが非電化であるなど孤立した存在となっている。

 

 この世界では、東西の交通網が貧弱な名古屋北部の整備が建設目的に加えられ、新守山~味美の支線も追加された。史実同様、1976年から工事が始まり、1990年に新守山~味美~小田井~枇杷島がJR東海の「城北線」として開業した。JRの路線となった理由として、需要が見込めるとされた事(4,100人/日と見込まれた)、名古屋環状線構想の実現があった。

 城北線の開業によって、今まで不便だった名古屋北部の東西の交通が改善された。名鉄との接続は悪いものの、今までバスや自家用車に頼っていた人が利用する様になり、沿線の開発も進んだ。その後、1993年に枇杷島~名古屋~金山~新守山の城北線用の複線が開業した事で、「名古屋環状線(通称・名環線)」は完成した。

 

 因みに、勝川~味美と小田井~稲沢については開業しなかった。勝川~味美は一部高架が完成したが、貨物よりも環状線構築の方が優先された為、最終的に放棄された。

 

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・名古屋市営地下鉄桜通線の京阪名古屋線乗り入れ

 桜通線は、中村区役所から名古屋、今池、新瑞橋、野並を経由して徳重に至る19.1㎞の路線である。この路線は、他の路線と直通していないが、1067㎜・直流1500Vの規格となっている。また、ホームが全て島式で計画された事から、配備されている車輛は全て右側に運転席がある(通常は左側にある)。

 桜通線の正式名称は「名古屋市高速度鉄道第6号線」であり、名古屋市が計画した6番目の高速鉄道(地下鉄)となる。桜通線は、1972年に作成された都市交通審議会答申第14号で組み込まれた。計画では、七宝(現・あま市)から中村公園、名古屋、今池、新瑞橋、鳴海を経由して豊明に至る路線となっている。この内、鳴海と豊明は名鉄の駅からやや北側を通る事となっていた。

 

 この世界では、6号線計画の内、名古屋以西の計画は京阪名古屋線の乗り入れ計画に変更された。京阪名古屋線は、六地蔵から馬場、八日市、多度、佐屋、七宝を経由して名古屋に至る路線である。この路線は元々名古屋急行電鉄として開業し、その後紆余曲折を経て京阪の路線に収まった(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿②)』参照)。名古屋以西が京阪名古屋線として完成している為、中村区役所や七宝への路線は計画されなかった。

 その後、東山線の混雑緩和に加え、京阪名古屋線の名古屋市内乗り入れを目的に、6号線計画は立案された。開業スケジュールは史実通りだが、規格が1435㎜・直流1500Vという点が異なった。

 

 桜通線の開業で、名古屋市内への乗り入れが実現した。また、京阪側の希望で、久屋大通への有料特急乗り入れも実現し、大阪市営地下鉄谷町線の乗り入れもあり、大阪・淀屋橋と名古屋・栄を一本で行く事が可能となった。京阪の運賃の安さもあり、近鉄やJRとの競争力も充分だった。


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