架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:戦後の日本の鉄道(東海②)

〈東海〉

・名古屋鉄道の名古屋付近の別線複々線化と瀬戸線の本線接続

 名古屋鉄道(名鉄)の名鉄名古屋は3面2線しか無い駅だが、毎時20本以上の列車を捌くターミナル駅である。ターミナルで、これだけの本数を捌くのに2線しかない理由は、左右の土地が無い為である(東側は近鉄、西側は地下鉄東山線。)。その為、拡張はほぼ不可能であり、何とか遣り繰りしている所である。

 名鉄名古屋は、名鉄の前身である名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)の直通の為に設立された。両社は1935年に合併したが、西部線(旧・名岐の各線)のターミナルは押切町、東部線(旧・愛電の各線)は神宮前と、名古屋のターミナルが分散していた。両者の統合の為、国鉄の名古屋に隣接した場所に新ターミナルを建設し、そこへの路線を建設する事となった。これが現在の神宮前~名鉄名古屋~枇杷島分岐点(当時、同じ場所に枇杷島橋があった)となる。西部線側は1941年8月に開通し(この時、枇杷島橋~押切町が廃止)、東部線側も1944年9月に開通した事で、名鉄の一体化は実現した。

 尤も、線路は繋がったものの、電圧の違い(西部線は600V、東部線は1500V)から直通出来ず、金山(1945年7月に金山橋に改称。1989年7月に現在地に移転の上で金山に戻す)で乗り換える必要があった。西部線が昇圧するのは1948年まで待たなければならなかった。

 

 この世界では、東枇杷島~押切町が廃止になった後も、名鉄が用地を保有し続けていた。名古屋の用地が狭く、将来の増発に対応出来ない可能性がある為、柳橋(名古屋市内で名古屋駅近く。名古屋市電に乗り入れる形だが、名岐のターミナルだった)を経由して神宮前に至る路線が計画された。

 1950年代、高度経済成長によって名鉄の輸送量は増加した。それに伴い、名古屋本線の新名古屋(2005年1月以降は名鉄名古屋)付近の輸送量は限界になると見られた。その為、1968年に枇杷島分岐点~押切町~柳橋~金山橋の別線複々線が計画された。

 同時に、瀬戸線の名古屋本線接続、大曽根~堀川の急カーブやガントレット(単複線。単線並みのスペースに複線分の線路が敷いてある。スペースの関係上、すれ違いは不可能)の解消を目的に、大曽根~堀川の地下化と堀川~明道町の新設が計画された。当初は、瀬戸線単独での栄乗り入れ構想だったが、後に新線との共用に変更された。

 この計画に対し、名古屋市は難色を示した。建設中だった2号線(名港線全線と名城線の金山~栄~大曽根)と計画中の3号線(鶴舞線)との並行線になる事、計画中の他の地下鉄との調整が必要になる為だった。名鉄と名古屋市、両者の協議の結果、1971年に次の様に決定した。

 

・名鉄は、枇杷島分岐点~押切町~明道町~柳橋~金山橋と堀川~明道町の免許を取得する。免許区間は、起点と終点及びその周辺以外は全線地下で建設する。

・名鉄は、枇杷島分岐点の改良を行い、新線から名古屋本線、犬山線両線に通行可能となる様ににする。

・名鉄は、瀬戸線の大曽根~堀川を立体交差化する。

・名鉄は、保有している八事~赤池の免許を名古屋市に譲渡する。

 

 1972年に、名鉄は上記の免許を取得した。名古屋本線の混雑の緩和が最大の目的の為、工事は1975年から開始した。最大のボトルネックとなる枇杷島分岐点については、庄内川橋梁は1958年の架け替えで放棄した旧橋梁の跡地を再利用する事で複々線化を行った。旧橋梁に再び橋梁を架け、名古屋本線を再びそちらに移し、新線は現在線を通る事となった。

 当初、新線は名古屋本線から犬山線に、新線から名古屋本線に分岐する事が可能と予定していたが、その場合、名古屋本線と犬山線、新線の分岐地点の信号待ちという問題は解消されない事から、新線は犬山線の別線複々線とする事が決定した。新名古屋から犬山線方面に、柳橋から名古屋本線方面に行く事が不可能となるが、混雑緩和と線増、ボトルネックの解消にはこれしか無かった。

 先に、大曽根~堀川~明道町~柳橋が1978年に開業し、枇杷島分岐点~明道町と柳橋~金山橋は1982年に開業した。この内、堀川~明道町は瀬戸線の延伸となり(起点は明道町となる)、金山橋~柳橋~枇杷島分岐点は新たに「押切線」と命名された。

 

 押切線の開業と瀬戸線の延伸によって、本数の増便、孤立していた瀬戸線との接続が為された。一方、計画時に懸念された新名古屋から犬山線方面の消滅という問題があったものの、本数の増加による輸送量の増加と新名古屋の混雑の緩和という課題を解消した事は大きな成功と言えた。また、柳橋が名鉄の新ターミナルとして整備され、新名古屋と地下道で接続もされた。

 その後、1990年に金山~神宮前の複々線化が完了し、神宮前~枇杷島分岐点の複々線化が完成した。これにより、名鉄の計画は完成し、輸送力の強化が完了した。

 

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・名鉄鳴海線の開業

 鳴海線は、名古屋本線の鳴海から分岐してに至る路線である。この路線の始まりは、鳴海球場へのアクセス線として計画された。

 この世界では、名鉄がプロ野球チーム(名鉄レッドソックス。国民野球連盟(ナ・リーグ)所属)を保有しており、その本拠地が鳴海球場だった。しかし、鳴海球場は鳴海から離れており、徒歩で約9分掛かった。球場へのアクセスの為、1951年に鳴海~鳴海球場前の免許を申請した。免許は翌年に認可され、1953年に工事が開始した。特に難所になる場所が無かった為、余り時間が掛らなかったが、シーズン開始前に開業させたかった為、工事は急がれた。そして、1954年2月に開業した。

 その後、新海池公園への観光輸送の為、1956年2月に鳴海球場前~新海池公園が開業した。延伸以降、新海池公園は名古屋の桜の名所として知られる様になる。

 一時は、新海池公園から赤池、三好、豊田市への延伸も計画されたが、名古屋本線の混雑を助長させる事から、計画止まりとなった。この計画は、後に名鉄豊田線と名古屋市営地下鉄鶴舞線で実現する事となる。

 

 開業後、基本的に沿線の通勤・通学輸送に徹していたが、シーズン中で鳴海球場でゲームがあるときに限り、臨時列車が多数運行された。開業した年は名鉄がリーグ連覇し、1953年から6年連続リーグ優勝するなど、名鉄黄金時代と重なっていた事もあり、連日超満員だった。

 尤も、リーグ6連覇を達成したものの、その全てで日本シリーズで敗退しており、特に開業した1954年は中日ドラゴンズとの日本シリーズで4勝3敗で惜敗している為、名鉄としては非常に歯痒い思いをしていた。名鉄2度目の日本一は1968年まで待たなければならず、それまで7度日本一を逃した(詳しい戦績は『番外編:この世界でのプロ野球の状況(2リーグ分立直後~1970年代)』参照)。

 

 その後、鳴海線は球団と共に歩み続けたが、バブル終息後の景気の後退やバブル期の投資の不良債権化、モータリゼーションの進行にJR東海との競合などにより、名鉄の体力は低下していた。その為、不採算部門については廃止や縮小となり、球団もその一つだった。

 当時、レッドソックスはAクラスの常連だったが、1988年以来リーグ優勝から遠ざかっていた。また、所属していたナ・リーグの興行面での不振(テレビ中継が少なかった)から、人気も同じ名古屋の中日ドラゴンズに移っていた。

 その事から、名鉄は球団運営の熱意を失っており、球団を他社に売却する事となった。奇しくも、同時期に近鉄も球団の売却を発表した。

 2004年のシーズン終了後、レッドソックスはライブドアに売却となり、本拠地も宮城県に移して「仙台ライブドアレッドソックス」として新たなスタートを切った。球団の本拠地では無くなった事で、鳴海球場も解体される事となり、翌年から解体工事が開始した。

 

 球団が移転し、球場が消滅したが、鳴海線は廃止とはならなかった。沿線の開発は進んでおり、通勤や通学の足として長年活用されていた。廃止にする事は名鉄としても考えておらず、鳴海球場前が「鳴海公園」と改称して存続した。

 

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・近鉄久居線の開業

 近鉄久居線は、名古屋線の久居と大阪線の伊勢石橋を結ぶ路線である。この路線は、1943年に廃止となった中勢鉄道を引き継ぐ形で建設された。

 

 中勢鉄道は、岩田橋と伊勢川口を阿漕、久居、石橋経由で結んでいた。全通は1925年だが、最初の区間である久居~聖天前は1908年に開業した。因みに、会社としての中勢鉄道の設立は1920年で、それ以前は大日本軌道の伊勢支社だった。

 その後、1928年に参宮急行電鉄(近鉄の前身の一つ。大阪線の桜井~伊勢中川、山田線全線、名古屋線の津~伊勢中川)の傘下に入り、津~伊勢中川の免許申請時に活用された。

 高速電鉄の参急と軽便鉄道の中勢鉄道では競争にならず、他にも国鉄名松線の存在から、中勢鉄道の存在価値は無くなりつつあった。1942年に岩田橋~久居が廃止となり、翌年には残る久居~伊勢川口が廃止となった。

 戦後、近鉄は名阪間の直通運転の際、伊勢中川でのスイッチバックを解消する為、久居~川合高岡の免許を申請し、1959年に取得した。しかし、用地買収や雲出川橋梁の問題から、伊勢中川の北側に短絡線を設ける事になった。免許も1963年に失効した。

 

 この世界では、中勢鉄道の廃止は史実通りだが、久居~石橋に限っては休止扱いとされた。これは、将来的な改軌が実現した際、名阪間のルートとする為だった。

 戦後、当時1067㎜だった名古屋線の1435㎜への改軌工事と同時に久居~石橋の建設も行われた。休止から10年以上経過しており保全も充分で無かった事、軽便鉄道規格から改修する必要があった事、建設途中に伊勢湾台風により一部路盤が崩壊していた事から時間が掛ったが、1959年11月に久居~伊勢石橋が開業し「久居線」と命名された。

 

 久居線の開業により、名阪特急の高速化が実現した。ネックだった伊勢中川でのスイッチバックが解消された事、5㎞近く短縮された事から、5分程度だが時間短縮となった。これにより、名阪間で最速2時間を切る列車が運行される様になった。

 

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・伊豆箱根鉄道駿豆線の下田延伸

 伊豆半島への鉄道の敷設は早く、1898年に豆相鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)が三島町(現・三島田町)~南条(現・伊豆長岡)を開業した事から始まる。その後、1924年までに現在の駿豆線の形が完成し、1922年に改正された鉄道敷設法の第61号に『静岡県熱海ヨリ下田、松崎ヲ経テ大仁ニ至ル鉄道』が組み込まれるなど、伊豆に本格的な鉄道が敷かれようとした。

 しかし、伊豆半島の地形の複雑さ(平地が海岸と山の間に僅かにあるのみ、断層地帯や軟弱地盤が多いなど)、昭和恐慌と重なり緊縮財政が取られた事から、当初予定されていた熱海~下田の複線による開業は取り止めとなり、1935年に熱海~網代が、1938年に網代~伊東が開業した。単線だったが、最初から全線電化だった。

 戦後、伊豆半島の観光開発が計画され、伊東から半島南部の下田までの鉄道が計画された。東急がこの計画に先んじており、1961年12月に伊豆急行として実現した。

 実は、西武も伊豆箱根鉄道を通じて、同じ区間に鉄道を敷こうとした。しかし、東急が計画を出した後に計画した為、内容は余り詰められたものでは無かった。その為、西武は伊東~下田の路線に参入する事は無かった。

 伊豆急開業後、東急と西武は子会社を通じて伊豆半島の開発競争を行う事となる。

 

 この世界では、西武が伊東~下田の路線の計画の失敗後、駿豆線の延伸という形で修善寺~土肥~松崎~石廊崎~下田の免許を1960年に申請した。東急への対抗意識もあるが、西伊豆の交通路の改善という目的もあった。

 これに対し、東急は猛反発した。現在建設中の伊東下田電気鉄道(1961年2月に伊豆急行に改称)の並行線になるだけでなく、第二期線の下田~石廊崎(史実では未成)と完全に重複する事が理由だった。加えて、東伊豆以上に平地が少ない西伊豆に路線を敷設して費用や採算は大丈夫なのかという疑問もあった。

 西武は、グループの総力を以て駿豆線の延伸に取り組むとして、この免許の認可を願い出た。沿線も、東伊豆にだけ鉄道が敷かれるのは不公平という意見もあり、西武の動きに賛成した。

 その後、伊豆急と伊豆箱根の両社の協議が行われ、1962年に次の様に決定した。

 

・伊豆箱根鉄道の修善寺~下田の免許を認可する。

・免許取得から4年以内(=1966年まで)に開業しなかった場合、免許は失効する。

・国鉄から買収の要請が来た場合、それに応じる事。

・伊豆急行の下田~石廊崎の計画は破棄する。

・下田駅は伊豆急・伊豆箱根両社の共用とする。これに伴い、伊豆急下田駅は駿豆線延伸の暁には「伊豆下田駅」と改称する。

 

 1963年、伊豆箱根は修善寺~下田の工事を開始した。伊豆急以上に地形が厳しい事、路線が長い事(伊豆急は約45㎞、駿豆線の延伸線は約70㎞)から、工事は難航した。区間の多くがトンネルとなり、地上区間の多くも高架になるなど費用が嵩んだ。

 それでも、西武グループの資金力の大きさから何とか工事が進み、期限もある事から工事は急がれた。そして、1966年11月に修善寺~伊豆下田が開業した。

 

 開業によって、沿線の観光開発は進んだ。湯ヶ島温泉に土肥温泉、堂ヶ島温泉など多くの温泉地を有しており、石廊崎などの景勝地も多数存在する為、東京からの優等列車が多数運行された。その後、伊豆急・伊豆箱根両線に直通する優等列車の整理が行われ、伊豆急経由は「伊豆」、伊豆箱根経由は「あまぎ」と命名された。その後、急行から特急に格上げの際、「伊豆」は「踊り子」と改称された。

 一方、駿豆線の延伸以降、東急・伊豆急と西武・伊豆箱根の対立は激化した。対立そのものは、両者が伊豆への進出を構想した時点から始まっていたが、共に下田への路線を有した事、バス路線の競合から、史実以上に対立が大きくなった。東海自動車を巡るバス部門の競争もあり、伊豆半島の交通は複雑化した。この競争が終結するのは、大型観光が減少したバブル景気の終息後となる。

 

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・岳南鉄道の大規模化

 伊豆箱根の鉄道線は、現在は大雄山線と駿豆線の2路線だが、1963年まで三島と沼津を結ぶ路面電車も運行していた。廃止の原因の最大のものはモータリゼーションだが、1961年の集中豪雨で途中の橋梁が流されて一部区間が休止になった事が発端になったと考えられる。モータリゼーションが進みつつある中、道路の改良も行う必要があり、併用軌道の路面電車は改良するのに邪魔となる。それならば、復旧するよりも廃止にした方が良いと考えたのではないだろうか。

 一方、駿豆鉄道(1957年に伊豆箱根鉄道に改称)は1948年に鈴川(現・吉原)~吉原本町の免許を申請した。これは、吉原にあった日産自動車の専用線を基に旅客化するものだった。この免許線は、1949年に岳南鉄道(2013年に鉄道部門を岳南電車に移管)として開業する事となる。この経緯から、岳南鉄道は元々伊豆箱根系だが、1956年に富士山麓電気鉄道(1960年に富士急行に改称)系列となった。

 また、岳南鉄道は途中の日産前(2005年にジヤトコ前に改称)から分岐して身延線の入山瀬までの免許を保有しており、終点の岳南江尾から沼津方面に延伸する計画があった。しかし、資金不足から実現する事は無かった。

 

 この世界では、1948年に駿豆鉄道が三島~沼津~江尾~吉原本町~富士と鈴川~吉原の免許を取得した。目的は、戦後に申請された私鉄線と同じく国鉄線の混雑の緩和に加え、内陸部の住宅・工場開発、軌道線の改良などであった。取得後、免許を新会社の「岳南鉄道」に譲渡した。新会社設立の際、沿線に工場がある日産自動車にも出資を依頼して、株式は1:1となった。その後、本州製紙の成立(1949年に旧・王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙に分割)によって、本州製紙にも出資を依頼した事により、駿豆鉄道:日産自動車:本州製紙が1:1:1となる様に増資が行われた。

 鈴川~吉原本町については、専用線の転用によって翌年には開業した。ここまでは史実通りだが、大企業からの出資により財政基盤が整った岳南は、積極的な延伸が行われた。1950年に吉原本町~江尾、1951年に江尾~井出、1952年に吉原本町~本市場(本市場から身延線に直通して富士に乗り入れ。富士の東京側に工場がある為、直接富士への乗り入れが出来なかった)、1953年に井出~沼津が開業した。軌道線の改良も、1956年に全線専用軌道化によって達成し、同時に岳南鉄道への売却も行われた。これにより、岳南鉄道は当初の予定通り全線開業し、三島・沼津と吉原・富士の都市間鉄道となった。

 

 全通後、沿線に工場が多数設立された。それに伴い貨物輸送の大規模化が進み、収入の多くを占める様になった。工場が多数設立された事で沿線の宅地開発も進み、旅客輸送も大きくなった。

 また、沿線に工場が設立され専用線が敷かれる度に、その企業から出資を仰いだ。これにより、岳南鉄道の株式は多様化し、1970年時点で伊豆箱根が30%、沿線に工場を持つ大企業で合計45%、金融機関が15%、残る10%が沿線自治体や個人株主という株式構成となった。




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近鉄久居線追加。中勢鉄道がそのまま近鉄に吸収されていればこうなっていたかも。

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