架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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今回も2部構成となります。最初は、国鉄系と公営鉄道です。


番外編:戦後の日本の鉄道(近畿)

〈近畿〉

・改正鉄道敷設法第82号(五新線)の開業

 五新線は、五条から阪本、十津川を経由して、新宮を結ぶ路線として計画された。目的は、沿線から産出される木材の輸送であり、他にも京阪神と紀伊半島南部との接続強化も理由にあったと考えられる(計画当時、阪和線は阪和電気鉄道であり、紀勢本線も全通していなかった)。

 改正鉄道敷設法施行時から載っており、戦前には建設が始まった事から、それなりに重要視されたのだろう。しかし、五新線はいきなり躓いた。起点をどうするかで地元が割れ、ルート策定に時間が掛った。その後、1939年に工事が開始するも、戦争の影響で工事は中断となった。戦後に工事が再開されるも、駅の設置を巡って再び地元が割れ、乗り入れを巡って近鉄と南海が介入するなど、混乱が続いた。

 そうしている間に、国産木材の需要減やモータリゼーションの進行、国鉄再建によって、1982年に工事は中断となった。その後、一部完成していた路盤を活用して道路に転用され、この区間を走るバスも設定された。しかし、利用者の減少や並行道路の整備などにより、2014年にルート変更という形で廃止となった。

 

 この世界では、1936年に工事が行われた。また、五条側のルートが異なり、大和二見が起点となった。これは、五条~大和二見~川端は既に開業している事、大和二見~川端の輸送量が小さく、工事の邪魔にならない事が理由だった。尚、阪本までのルートはほぼ史実通りとなる。

 工事の開始時期が早かった事があり、城戸までの工事は7割方完了した。しかし、戦争の影響から工事は中止され、用意されていたレールも全て他路線に転用された。

 戦後、五新線の工事が再開され、1957年には大和二見~川端~阪本が「阪本線」として部分開業した。その後、赤字92線(史実の赤字83線に相当。史実より開業路線が多い事、南樺太と千島に国鉄線がある事から、9路線増加した)に指定されるものの工事は進み、1972年には十津川温泉まで開業し、天王寺・京都~十津川温泉の急行「十津川」の運行も開始された。1981年には全線の路盤工事が完了し、後は線路を敷いて保安装置を設置するだけだった。

 しかし、残る十津川温泉~新宮の線路を敷設する時期と国鉄再建の時期が重なってしまい、延伸工事は凍結された。また、阪本線も第二次特定地方交通線に指定された事で、開業区間の存続すら危うい状況となった。その後、未成区間の受け皿兼開業区間の引継ぎを目的に、1985年に第三セクター「五新鉄道」が設立された。五新鉄道設立後、未成区間の工事が再開され、1988年4月の阪本線の五新鉄道の継承と合わせて開業した。

 

 開業後、急行「十津川」が新宮に延伸の際、特急に昇格の上、「くまの」に改称した。その後、十津川温泉や熊野速玉神社への観光ルートとして活用され、2004年に熊野が世界遺産に認定されると、そこへのアクセスとして活用された。これにより、「くまの」の増便と新型車両の導入、「南紀」の乗り入れ、新たな観光列車の導入が行われた。

 沿線人口の少なさから定期利用は少ないものの、観光利用の多さからそこそこの黒字を出しており、暫くは安泰と見られる。

 

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・なにわ筋線の早期開業

 なにわ筋線は、新大阪から北梅田、中之島を経由して湊町(現・JR難波)に至る路線である。長年、計画こそあったものの、建設費の高さから工事の着手に至らなかったが、近年ようやく工事開始の目処が立った。2019年現在の予定では2031年に開業する事になっている。

 なにわ筋線は、1989年に作成された運輸政策審議会答申第10号で盛り込まれた。これ以前にも、国鉄系の路線で大阪市内を南北に貫く路線は計画されており、1973年の都市交通審議会答申第13号に新大阪から松屋町筋を経由して、鳳・岸和田方面への路線が計画されていた。この路線は工事が行われる事は無く、その後の答申でも組み込まれなかったが、この路線がなにわ筋線の構想の基になったのではないだろうか。

 

 この世界では、南急の開業による泉州・紀北の開発の加速とそれに伴う人口の増加から、大阪のキタとミナミを結ぶ需要が大きかった。史実では他の路線より輸送量が少なかった大阪環状線の西側区間も、早い段階から混雑状態だった。その状態で、阪和線や関西本線からの直通列車を運行するのは難しい事から、なにわ筋線の早期整備が検討された。

 しかし、時機が国鉄再建と被っていた為、国鉄単体での整備は不可能だった。また、なにわ筋線の計画は存在しても、建設の根拠となる答申が存在しない為、宙に浮いた状態だった。なにわ筋線が答申に盛り込まれるのは1989年まで待たなければならず、実際に工事が始まるのは1998年だった。当初は1995年に開始予定だったが、阪神淡路大震災と片福連絡線(現・JR東西線)の工事の遅れによって延期された。

 工事開始は遅れたものの、関西国際空港の開業による需要の増加、景気後退が緩やかな事による急速な需要減が無い事から、工事は比較的スムーズに進んだ。そして、2009年6月に「なにわ筋線」として開業した。

 

 なにわ筋線の開業によって、今まで大阪環状線を経由していた特急列車がなにわ筋線経由となった。これにより、大阪環状線より短い距離で走行する事、大阪環状線内のノロノロ運転が解消された事で、5分以上のスピードアップになった。

 また、ビジネス街・中之島と開発が期待される北梅田を結んでいる事から、直通運転も多くがなにわ筋線経由となった。これは、大阪環状線の慢性的な遅れの解消にも繋がった。

 

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・京都市電の存続

 史実では、京都市電は1970年から段階的に廃止が行われ(それ以前にも部分的な廃止はあった)、1978年に全廃となったが、この世界では路線の廃止は行われず存続した。それ処か、唯一1067㎜で残った北野線、トロリーバスに転換された梅津線を1435㎜規格に改良したり、御池通に路面電車を新設したり、洛西ニュータウンを経由して長岡天神に至る路線を新設するなど、拡大著しかった。これらは、京阪京津線と京都電気鉄道(史実の嵐電と叡電に相当)との直通があってこそだった。

 

 史実でも、叡電(当時は京福電気鉄道叡山本線)と市電が直通運転をしていた事があった。これは、叡電の宝ヶ池(1954年まで山端)に競輪場があった為だが、直通運転は競輪が開催される日に限られ、車輛規格の違いやパンタグラフの違いなどから1955年に終了となった(競輪場は、後に市営のギャンブル禁止により1958年に閉鎖)。

 他にも、京津線の京阪三条と市電は線路は繋がっていたが、直通運転は実施されなかった。だが、貨物輸送(し尿輸送)で利用された。

 

 この世界では、戦後及び自然災害からの復旧の際に、京津線と京都電鉄が市電側に規格を合わせる形で復旧した。これは、京都市内への乗り入れ強化が目的であり、京都電鉄は国鉄の京都と連絡して観光輸送の強化に繋げたいという考えがあった。京都市としても、特にデメリットが無い為、両社の動きに反対はせず、直通運転も恒常的に行われる様になった。

 これにより、京津線、京都電鉄の利用者増加が見られた。京津線側は、線路が繋がっている石山坂本線とも直通が行われ、沿線への観光輸送や京津間の都市間輸送に活用された。

 特に大きかったのは京都電鉄であり、比叡山、鞍馬山、高雄山、愛宕山と言った京都市の観光名所と京都駅が繋がった事で、そこへの観光輸送が活発になった。その為、この地域の観光開発が進められ、観光シーズンには臨時便が増発された。市電側もこれに合わせ、増便や増結運転に対応した。

 

 両社の存在から、市電の廃止は難しかった。「地下鉄にして輸送力を強化する」という案もあったが、建設費と乗り入れ先の設備改良の為の費用の関係から採算が取れないと判断され、オイルショックなどの影響もあり、廃止は白紙となった。その後、路面電車の復権などがあり、京都市の例は大都市における路面電車の在り方の一例となった。

 

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・大阪市営地下鉄と私鉄の直通拡大

 大阪市営地下鉄(現・大阪市高速電気軌道)は、2019年3月現在、8路線の地下鉄(御堂筋線、谷町線、四つ橋線、中央線、千日前線、堺筋線、長堀鶴見緑地線、今里筋線)を運行している。直通運転も3路線(御堂筋線、中央線、堺筋線)行われているが、堺筋線以外は1435㎜・直流750Vの第三軌条方式となっている(架線が無い代わり、路盤に電流が通っているレールが敷かれている)。JRや大手私鉄との規格が異なる為、直通運転が殆ど行われていない。

 これは「市営モンロー主義(市内交通は市が単独で行う、という考え)」に基づくもので、私鉄との乗り入れは最初から考えに無かった。この考えは戦前までは機能したが、これは「市電による収益」という前提があってこそ成立する考えの為、戦後にモータリゼーションが進行すると機能しなくなった。この時点で市営モンロー主義は事実上破綻し、以降は京阪の淀屋橋乗り入れや近鉄の難波乗り入れなどが実現していったが、近鉄と阪神の難波延伸線との並行線である千日前線が整備されるなどの混乱が残る事となった。

 

 この世界では、戦前に大阪電気軌道四条畷線の梅田延伸を認めた事で(詳しくは、『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿)』参照)、私鉄の市内乗り入れには大阪市に有利な条件が提示されれば比較的寛容になった。

 その後、大阪市が地下鉄整備を進めると、そこへの乗り入れをしたいと私鉄各社が申請を行った。また、1958年に作成された都市交通審議会答申第3号もあり、この時点で市営モンロー主義は放棄され、私鉄との積極的な直通運転の実施に転換した。

 

 谷町線は、守口市~太子堂今市~天王寺となり、守口市からは京阪本線に、天王寺からは南急泉北線に乗り入れる。また、車両基地設置の面から、太子堂今市~大日は史実通り建設する。天王寺以南は、南急との乗り入れの為、建設しない。

 四つ橋線は、西梅田~難波元町~なんばとなり、なんばから南海本線・高野線に直通する。四つ橋線用のなんばのホームは地下に設置し、南海側も新今宮~なんばに地下新線を建設する。四つ橋線が南海と直通する為、難波元町~大国町は建設されず、梅田~淀屋橋~難波~大国町は御堂筋線の複々線化で対応する。また、阪堺電鉄が大阪市に買収されなかった事から、住之江公園へのルートが史実のルートでは無く、国道26号線・国道479号線経由に変更となる。

 中央線は、区間・乗り入れ先は史実通りだが、乗り入れ先の東大阪線(長田~石切)と共に、奈良線・梅田線と同じ規格で建設される。

 堺筋線は、天神橋筋六丁目(天六)~恵美須町となり、天六から阪急千里線・京都線に、恵美須町から南急本線に直通する。南急との直通の為、恵美須町~天下茶屋は建設されないが、利用者の低迷や踏切の解消を理由に、南海天王寺支線は史実通り廃止となる。

 当初は、千日前線も阪神と近鉄と直通する計画だったが、難波駅の構造や特急直通問題、平野延伸計画などから大阪市と阪神・近鉄との意見の擦り合わせが上手く行かず、目的の違いもあり、両者整備の方向で決着した。但し、大阪市は阪神・近鉄の難波延伸線を反対しない事を表明した為、阪神の難波延伸線は順調に工事が進み、1976年に西九条~難波が開業した(全通時期の早さから、路線名は西大阪線のまま)。

 

 これらの開業により、大阪市でも東京都の様に大規模な直通運転が行われた。他社線との直通する為、利用者が史実以上に増加した。その為、早期の長大編成化や高頻度運転の実施が行われた。

 私鉄、特に京阪、南海、南急は梅田直通というメリットが大きく、大阪のキタのターミナルに乗り入れる事が出来た事は、長年の悲願の実現となった。

 一方、直通運転の増加により、直通先の影響を自社線が受ける事にも繋がった。これの解消の為、信号や保安装置の強化、乗り入れ先との連携強化に繋がり、後に9社3局(9社:京阪、阪神、阪急、近鉄、南海、南急、山電、神鉄、京都電鉄。3局:京都市、大阪市、神戸市)で使用出来る共通乗車券の発行に繋がった。

 

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・神戸市営地下鉄の早期開業と拡大

 神戸市の地下鉄は、神戸市営地下鉄と神戸高速鉄道の2社並立状態となっている。開業時期だと神戸高速の方が早いのだが(神戸高速:1968年全線開業。神戸市営:1983年に新長田~大倉山開業)、目的の違い(神戸高速:市電の高速化、神戸市内の各私鉄のターミナルの接続。神戸市営:バス路線の混雑緩和、ニュータウンへの足)、整備時期の違い(神戸高速:戦前の計画の延長。神戸市営:1969年の都市交通審議会答申第11号)から、並行路線となってしまった。

 

 この世界では、神戸市が音頭を取る形で、神戸市内の各私鉄のターミナルの接続と路面電車の代替を目的に、神戸市が地下鉄事業を行う事が決定した。そして、次の5路線が計画された。

 

・東西線:阪神元町~新開地~西代

・山手線:阪急三宮~湊川~西代~新長田

・南北線:湊川~新開地~神戸

・西神線:新長田~名谷~西神中央

・海岸線:王子動物園~新神戸~三宮~神戸~和田岬~新長田

 

 上記5路線の内、東西線は阪神と山電と、山手線は阪急と、南北線は神鉄と直通する路線とする計画の為、第1期線とされた。西神線は、山手線と直通して計画中の須磨ニュータウン、西神ニュータウンへのアクセス線とする予定とされ、第2期線と位置付けられた。海岸線は、残る海岸部の交通網の整備、新幹線との連絡を目的とし、こちらも第2期線とされた。この内、東西線、山手線、西神線は1435㎜・直流1500Vで建設する事が確定しており、南北線も1067㎜・直流1500Vで建設する事が確定していた。

 この時、海岸線の規格は決まっていなかったが、路線全体の輸送量の小ささから、リニア地下鉄方式で建設する事が決定した。また、新神戸~王子動物園は阪急の反対によって取り消しとなり、代わりに新神戸~谷上が計画された。この建設の為、阪急と神鉄の共同出資で「北神急行鉄道」が設立しされた。

 1958年から工事が行われ、早期開業と直通の実現の為、急ピッチで建設が行われた。これにより、1968年4月に東西線と南北線が開業し、同年8月に山手線も開業した。その後、1977年から1985年にかけて西神線が開業し、海岸線も1988年に新神戸~三宮~神戸が開業したのを皮切りに(同時に、北神急行も開業)、阪神・淡路大震災による工事中断を経て、2002年にか全線開業した。これにより、神戸市の地下鉄計画は全て完了した。

 

 神戸市営地下鉄の開業で、各私鉄は神戸市中心部への延伸が実現した。また、阪神と山電は戦前からの悲願である一体化が実現し、早速梅田~神戸~姫路・岡山の直通列車が運行された。この為、両社の車輛の規格統一、有料特急の運行が行われた。

 また、阪急も神戸市中心部への乗り入れが実現し、西神線開業でニュータウンの利用者の流入による輸送量増加などが見られた。西神線開業時、沿線にあるグリーンスタジアム神戸に阪急ブレーブスの本拠地を移す案があったが、阪神タイガースや大洋ホエールズとの競合や差別化からこの案は実現しなかった。代わりに阪急は西京極に移る事となり、グリーンスタジアムには大洋ホエールズを買収したオリックス・ホエールズが移ってくる事となった(移転を機に「オリックス・ブルーウェーブ」に改称)。

 神鉄も、新開地・神戸延伸によって、中心部への乗り入れが実現した。三宮延伸は叶わなかったが、そちらは北神急行・海岸線ルートで実現した。


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