架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

104 / 112
前回(国鉄、公営鉄道)に引き続き、今回は私鉄系となります。


番外編:戦後の日本の鉄道(近畿②)

〈近畿〉

・南海和歌山港線の海南延伸と野上電気鉄道の南海との合併

 南海和歌山港線は和歌山市と和歌山港の1区間を結ぶ路線だが、かつてはこの区間内に3駅(和歌山市側から久保町、築地橋、築港町)置かれており、和歌山港から先も水軒までの路線があった。しかし、最大の目的だった木材輸送が行われず、利用客の少なさもあり、和歌山港~水軒は2002年5月に廃止となり、和歌山市~和歌山港の3駅も2005年11月に廃止となった。

 

 この世界では、木材輸送や四国との連絡に加え、和歌浦の観光開発、和歌山軌道線の輸送力強化、野上電気鉄道との接続を目的に、和歌山市~和歌山港~和歌浦~海南が計画された。1956年に和歌山市~和歌山港(初代、後の築港町)が開業したのを皮切りに、1965年に和歌山港~水軒が開業した。同時に、和歌山港は築港町に改称し、築港町~水軒の間に新たな和歌山港が開業した。

 その後、モータリゼーションの進行による和歌山軌道線の定時性の低下や道路の混雑の解消を目的に、1971年に水軒~和歌浦~海南が開業した。これにより、和歌山港線は全通し、合わせて水軒を近くにある名勝に由来する「養翠園前」に改称し、野上電鉄も経営的に苦しかった事もあり南海が「野上線」として買収した。

 

 和歌山港線の全通後、難波から和歌山港・和歌浦への優等列車が運行された。和歌山港では徳島へのフェリーが出ており、同じ南海の加太港や南急の深日港と共に、阪南・紀北から四国への玄関口となった。現在では、南急淡路線や明石海峡大橋の開通によって需要は大きく減少したが、高速道路と比較して運賃が安い事、関西国際空港と連絡している事を武器に存続している。

 また、和歌浦への観光にも活用された。古くからの観光地である和歌浦だが、高度経済成長期には大阪近郊の観光地として開発された。しかし、開発による陳腐化や観光の多様化によって観光客が減少した。和歌山港線の延伸によって多少緩和するかと思われたが歯止めはかからず、旅館の廃業が進んだ。

 しかし、大阪近郊と大阪から一本で行ける利点を生かし、会議やコンベンションなどの団体利用が可能な様に整備が行われた。これには、地元だけでなく南海も加わり、小規模ながら身の丈に合った再開発が行われた。

 これらが功を奏し、現在では日本全体の観光ブームも合わさり、観光都市としての整備と共に、和歌山港線の観光路線化が進んでいる。

 

 一方の野上線も、南海になった事で路線の整備が進んだ。老朽化が進んでいた設備の近代化が行われ、限定的ながら速度の向上も行われた。車輛の増備とそれに伴う増便、和歌山港線との直通によって、減少気味だった旅客輸送量の増加が見られた。

 現在では、モータリゼーションの進行や沿線人口の減少による旅客輸送量の減少によって、2000年代には貴志川線と共に廃止が検討されたが、両者の沿線住民が廃止に反対した事で、一転存続になった。その後、2006年4月を以て、貴志川線と野上線は南海や沿線住民、山陽電鉄傘下の岡山電気軌道が出資した第三セクター「和歌山鐡道」に移管となった。

 

____________________________________________

・阪急新大阪線・神崎川支線の開業

 阪急新大阪線は、十三と淡路を新大阪経由で結ぶ路線として計画された。また、新大阪~神崎川の支線も計画された。目的は、京都線の十三~淡路の混雑解消(この区間はカーブと踏切が多い)、大阪市北部の新たなターミナルとなる新大阪への乗り入れが目的だった。支線と合わせて、神宝線(神戸線と宝塚線)からの乗り入れも計画されたと思われる(当時、宝塚線の線別複々線として神崎川~曽根が計画されていた)。

 新大阪線の免許は1961年12月に認可され、土地の接収も開始された。十三~新大阪の接収は概ね完了したものの、残る区間の接収が進まなかった。他にも、同時着工の予定だった十三と淡路の高架工事が、周辺土地の収容の遅れから進まなかった事、新大阪の開発が遅れていた事、地価の高騰による建設費の高騰などの要因が重なり、工事は完全にストップした。

 それでも、阪急は免許を保有し続け、2003年になって漸く新大阪~淡路と新大阪~神崎川が失効した。残る十三~新大阪は、なにわ筋線の新大阪ルートとなるか、四つ橋線の十三・新大阪延伸に活用されるかで分かれている。

 

 この世界では、宝塚乗り入れをした阪神、名古屋乗り入れをした京阪との差別化から、阪急は新大阪線・神崎川支線の開業に熱が入った。その為、新幹線計画が動き出した1957年から免許の申請を行った。熱意が伝わったのか1959年には免許が認可され、翌年には工事が開始された。同時に、十三と淡路の高架工事も着手した。早くから工事に着手した為、1964年までに予定線の土地の収容が完了した。新幹線の開業には間に合わなかったが工事は順調に進み、1969年に十三~新大阪~淡路が開業し、同時に十三と淡路の高架化も完了した。その後、1971年には新大阪~神崎川が開業し、予定線が全線開業した。

 

 新大阪線の開業によって、今までネックだった踏切とカーブが緩和された。新大阪線を走るのは優等列車に限定されたが、高速化と緩急分離が実現した。

 また、神崎川支線の開業により、京都線と神宝線の直通が恒常的に行われる様になった。今までは、十三で折り返し運転を行っていたが、折り返しの手間がネックとなっていた。新大阪線・神崎川支線の開業によって折り返す必要が無くなった事で、1951年に休止した神京特急及び1968年に廃止した宝京特急は復活した。

 現在では、定期運行以外に、訪日観光客の増加から嵐山方面の列車が運行される様になった。また、一部の普通電車も新大阪線経由で運行されるなど、当初の形とは異なる変化を遂げつつある。

 

____________________________________________

・近鉄学研都市線の開業

 近鉄学研都市線は、東生駒から関西文化学術研究都市(学研都市)を経由して新祝園に至る路線であり、史実のけいはんな線の生駒~学研奈良登美ヶ丘に相当する。東生駒が起点だが、全列車生駒まで乗り入れを行っており、生駒~東生駒は複々線化している。この路線の目的は、学研都市内の交通だけでなく、京阪間の運行も視野に入れていた(現在、けいはんな線の新祝園又は高の原延伸は計画止まりだが存在する)。

 学研都市線の計画は、学研都市の構想が固まった1980年代後半から始まる。京都や大阪から学研都市への輸送、新たな京阪間のルートの形成を目的に生駒~学研都市~新祝園が計画された。1989年作成の運輸政策審議会答申第10号でも「2005年までに整備するべき路線」とされ、1996年に免許の認可が下りた。免許が認可された同じ年、免許を近鉄や沿線自治体が共同出資して設立した第三セクター「奈良生駒高速鉄道」に譲渡して、1998年から工事が開始した。工事は順調に進み、2005年3月に全線が開業した(施設の保有は奈良生駒だが、運行は近鉄)。

 

 学研都市線の開業後、奈良線と東大阪線から直通運転が行われた(この世界では、大阪市営地下鉄が直通運転に積極的で、中央線が奈良線と同じ規格で建設された)。奈良線は東大阪線は1:2の比率で直通運転が行われ、学研都市から難波・本町へのアクセスが飛躍的に向上した。同様に、京都線からの乗り入れも行われ、二層建ての運行も行われた。

 また、1992年に廃止となった阪京特急が復活した。かつての阪京特急は、大和西大寺でのスイッチバックがネックであり、利用者の少なさもあり廃止となった。それが、学研都市線の開業によりスイッチバックの解消や距離の短縮、学研都市への直通ルートの形成から、京都~難波の運行が再開した(停車駅は、難波、上本町、鶴橋、生駒、精華学研都市、新祝園、近鉄丹波橋、京都)。但し、通勤ライナー的な意味合いが強く、朝夕の運行が多く設定された。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。