架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:戦後の日本の鉄道(中国・四国)

〈中国〉

・改正鉄道敷設法第94号(『広島県広島附近ヨリ加計ヲ経テ島根県浜田附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「広浜線」だが、この世界の広浜線は鉄建公団が計画していたルートを通っている。つまり、広島~三段峡は可部線では無く、直線を多用した高規格路線で建設された。その為、非電化ながら高速運転が可能で、高性能ディーゼル車輛の投入もあり、広島~浜田を1時間程度で結ぶ事に成功し、他の陰陽連絡特急の代替という意味で出雲市・米子・益田への延長も行われた。

 

 広浜線計画が動き出したのは、1953年の事だった。この世界では、終戦後から朝鮮戦争までに日韓関係が極端に悪化し、一時は戦闘状態になった。この事から、日本は日本海側の警備を強化すると同時に、山陰の交通網の整備を行う必要が生じた。有事の際は、山陽や関西から山陰に兵力を送り込む必要がある為である。

 計画の中で、中国地方の中心都市で、軍都としての性格を持つ広島と、山陰で他路線との接続が無い浜田を結ぶ広浜線計画が注目を浴びた。広浜間の輸送量は多く、古くから鉄道の整備が要望されていた事もあり、この機会に建設を行う事が決定された。

 1958年、広島側と浜田側の両側から広浜線の建設が開始した。同時に、可部線の延伸計画は白紙となった。中国地方における最重要路線と目された為、資金・人員・機材の投入は最優先された。その後、工事は国鉄から鉄建公団に引き継がれた。中国山地を貫くルートの為、区間の殆どはトンネルとなり、難工事の連続で時間が掛った。それでも、予算面で優先された事から工事は中断する事は無かった。

 そして、1977年5月に広島~三段峡~浜田が一挙に開業した。これにより、国・沿線の悲願だった広浜線は開業した。

 

 広浜線の開業によって、鉄道による広島山陰間の大幅な時間短縮に成功した。高速運転に適した軌道、広島~浜田・益田の特急「いわみ」と広島~米子の特急「しんじ」の運行開始によって、今まで芸備線・木次線経由だった陰陽連絡が、広浜線経由になった事で1時間以上の短縮となった。これにより、高速バスや伯備線ルートに押されがちだった広島からの陰陽連絡が息を吹き返した。

 その後、国鉄民営化も難無く乗り越え、JR西日本の路線となった。民営化後も、広島からの陰陽連絡線としての性格は変わらず、宅地開発が進んでいる広島側では通勤・通学輸送も増加した。また、西風新都に広浜線が通っている事で開発が進み、2001年には人口が約7万人と当初目的程では無いにしても、史実より開発が進んだ(2016年3月末で5万数千人)。

 

 一方、広浜線の開業で割を食ったのが、三江北線と三江南線だった。広浜線の方に注力した事、山陰側の接続が江津と中途半端な事から、南北両線の接続工事が遅れた。1970年から開始されたものの、1980年に国鉄再建の煽りを受けて工事は中断された。その後も工事は再開される事は無く、南北両線は共に第一次特定地方交通線に指定された。存続運動も空しく、1987年までに廃止となった。

 

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〈四国〉

・改正鉄道敷設法第102号(『愛媛県松山附近ヨリ高知県越知ヲ経テ佐川ニ至ル鉄道』)の開業

 この路線は、四国山地を貫いて松山と佐川を結ぶ路線である。佐川からは土讃線に乗り入れて、高知に至る。松山と高知を最短で結ぶ路線として計画された。

 

 史実では計画以上は進まなかったが、この世界では宿毛に軍港が置かれた事、四国全体の産業力が強化されている事が事情を変えた。四国全体から、「鉄道だけで各県庁所在地を結んで欲しい」という要請が来た。国鉄としては、四国だけ優遇する訳にはいかなかったが、地元出身の政治家の圧力もあり、1957年に四国3線の建設を決定した。その一つがこの102号で、仮称で「松高線」と命名された。

 工事は1960年に開始され、松山側から始まった。この区間は平地である事から順調に進み、1965年に松山~森松~砥部が開業した。尚、松高線の開業に合わせて、並行線の伊予鉄道森松線が廃止となった。

 砥部~佐川は四国山地を貫く区間の為、長大トンネルが連続する事となった。長大トンネルが多い分、工事も長引き、異常出水などがあった事から、一時は工事中止も検討された。

 それに対し地元は、松山と高知を最短距離で結ぶ路線である事から工事の継続を希望した。国鉄としても、松山と高知を結ぶバス路線が四国内で数少ない黒字路線である事から、建設を続ける価値はあると判断し、工事が継続した。そして、1981年4月、砥部~西佐川が開業して、松高線は全通した。

 

 松高線は当初の目的から幹線として建設され、松山側の輸送量の多さから特定地方交通線に指定される事は無く、地方交通線として存続した。その為、民営化の際にJR四国の路線としてスタートを切った。

 松山市の通勤路線としての性格がある事、松山と高知を結んでいる事から利用者はそれなりに多い。一方、砥部~佐川は山岳地帯である事からローカル輸送は少なく、沿線に石鎚山や仁淀川を抱えている事から観光路線として活用する事が検討されている。

 

 松高線全通後、早速松山~高知の急行「によど」の運行が開始された。この時、車輛の手配が付かなかった事から、キハ55系で運用された。その後、急行の特急への昇格によるキハ58系の余剰が出た事で、順次キハ58系に切り替えていった。

 JR化後、暫く「によど」は急行のままだったが、1990年に2000系特急型気動車の増備が始まった事で、余剰になったキハ181系とキハ185系が運用に入った。それに伴い、「によど」が特急に昇格した。

 松山と高知の都市間輸送、沿線への観光輸送で利用頻度は比較的高く、松山で「しおかぜ」と、高知で「南風」と接続するダイヤを組む事で、利用頻度の向上に努めている。

 

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・改正鉄道敷設法第103号(『愛媛県八幡浜ヨリ卯之町、宮野下、宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道 及宮野下ヨリ分岐シテ高知県中村ニ至ル鉄道』)の一部開業

 103号で開業した部分は、『宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道』だけである。このルートは、宇和島から宿毛を経由して中村に至るルートで、宿毛線に相当する。

 史実では、1964年に宿毛~中村が工事線に昇格し、1974年から工事が開始した。その後、ある程度まで工事が完了した所で国鉄再建法が施行された。これにより工事が中断したが、この区間を土佐くろしお鉄道が建設した事で、1997年に宿毛線として開業した。

 一方、残る宇和島~宿毛は、工事が行われなかった事で引き取られる事も無く、そのまま未完成に終わった。

 

 この世界では、宿毛に軍港が置かれた事で、103号の建設気運が高まった。

 宿毛に軍港が置かれた経緯として、今まで使用していた呉が瀬戸内地域の発展で大型艦、特に戦艦や大型空母の入出港が難しくなった。それを解消する目的、及び四国への軍港誘致運動から、1955年に海軍としても馴染みのある宿毛に新たな軍港を建設する事が決定された(1966年に完全稼働)。

 軍港が置かれる事が決まった事で、軍関係者や建設者の人口が増加し、それを当てにして商売をする人も増加した。これにより宿毛市の人口が急増し、鉄道を求める声が急増した。その結果、1957年に四国3線の一つとして宇和島~宿毛~中村が決定した。

 決定後、速やかに宇和島~宿毛の建設が行われた。1963年末に、中村線の窪川~土佐佐賀の開業と同時に宇和島~宿毛が開業し、「宿毛線」と命名された。これに合わせて、高松~宇和島の準急「うわじま」が1往復に限り宿毛まで延伸した。

 その後、残る宿毛~中村の工事も進められ、中村線の土佐佐賀~中村の開業に遅れる事約1年、1971年8月に宿毛~中村が開業したが、この区間は中村線の延伸として開業した。その為、宇和島~宿毛が「宿毛線」、窪川~中村~宿毛が「中村線」となった。

 

 宿毛線と中村線の全通により、今まで鉄道空白地帯だった宿毛と中村に鉄道が通り、両者が繋がった。そして、松山、高知、高松から宿毛への優等列車の運行が開始された。

 沿線人口が比較的多い事、優等列車の多さから来る観光輸送の多さがあるにも拘わらず、国鉄再建時に宿毛線は第二次特定地方交通線に、中村線は第三次特定地方交通線に指定された。その為、沿線では両線を残そうと、早くから受け皿となら第三セクターが立ち上げられた。1987年には「土佐くろしお鉄道」が設立され、1988年4月に宿毛線と中村線を引き受けた。

 

 第三セクターに転換後も宿毛線と中村線の重要性は変わらず、岡山・高松から宿毛への優等列車は多数運行された。ローカル輸送は沿線人口が比較的多い事から決して少なくなく、寧ろ第三セクター化した事で高頻度運転や短距離運転の実施などで、運行の柔軟性は向上した。これにより、国鉄時よりローカル輸送量の増加に成功した。

 

 一方、予土線の方は厳しかった。沿線人口が少ない上に、北宇和島~江川崎は戦前に開業した区間である事から、規格が低く速度が出せなかった。全線開業が宿毛線・中村線より遅れた事もあり、松山と高知の連絡路線としての目的が失われた。その為、全線した時からローカル輸送しか行われなかった。

 国鉄再建時に特定地方交通線に指定されそうになったが、沿線の道路整備が進んでいない事から民営化後も存続した。現在、四万十川の観光路線として活性化をしているが、宿毛線・中村線の存在から何時廃止になってもおかしく無い状況となっている。

 

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・改正鉄道敷設法第107号(『高知県後免ヨリ安芸、徳島県日和佐ヲ経テ古庄附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「阿佐線」であり、御免から安芸、奈半利、室戸、甲浦、海部、牟岐を経由して羽ノ浦に至る路線である。徳島線が山ルートだとすれば、阿佐線は海ルートとなる。予定線の内、御免~奈半利が土佐くろしお鉄道阿佐線、羽ノ浦~海部が牟岐線、海部~甲浦が阿佐海岸鉄道阿佐東線として開業し、残る奈半利~甲浦が未成となった。

 

 この世界では、1957年に建設する事が決定した四国3線の内の一路線として阿佐線が選定された事で、1960年から工事が開始された。東側は牟岐~野根の、西側は御免~奈半利の工事が始まり、1971年に牟岐~野根が開業し、この区間は「阿佐東線」と命名された。阿佐東線の開業に遅れる事2年、1973年に御免~奈半利が開業し、この区間は「阿佐西線」と命名された。

 残る奈半利~野根の工事も行われたが、7割完了した所で国鉄再建法が施工され、工事は中断となった。また、開業した阿佐東線が第一次特定地方交通線に、阿佐西線が第二次特定地方交通線に指定された事で、阿佐線そのものの存続すら危ぶまれた。それを解消する為、阿佐線の未成区間の引き受け、阿佐東線・阿佐西線の受け皿として、1986年に第三セクター「阿佐海岸鉄道」が設立された。

 設立後、奈半利~野根の建設が再開された。その後、1987年に阿佐東線・阿佐西線を引き取り、自社線としての運行が開始された。両線が繋がるのは1993年になってからだった。

 

 阿佐線の全通後、高徳線・牟岐線の優等列車の運行が一部変更となった。牟岐線・阿佐東線に乗り入れていた特急「うずしお」が徳島で運行が分離され、徳島~高知(阿佐くろしお鉄道経由)の特急「むろと」が新たに設立された。徳島と高知を結ぶ優等列車は既に「よしの川」が存在するが、ルートの違いや観光地の存在から重複しなかった。

 また、ローカル輸送としては、御免~安芸が高知市への通勤・通学路線として機能しており、それ以外の区間も利用者はそれなりに多い。また、鉄道の存在が過疎化を緩和させている面もあり、実際、室戸市の人口流出は鉄道開業以降緩やかになっている傾向にある(史実の室戸市は、北海道以外で最も人口の少ない市となっている)。

 現在では、風光明媚な沿線風景から観光路線としての売り込みが行われている。

 

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・高松琴平電気鉄道塩江線の復活

 塩江線は、仏生山から塩江温泉に至る路線である。この路線は、恐らく日本唯一の標準軌の気動車を運行していた。

 

 史実では、1941年に廃止になって以降、復活する事は無かったが、この世界では讃岐急行電鉄(讃急)が高松~琴平でライバルとなっている事、讃急の観音寺延伸が現実味を帯びた事から、対抗意識や讃急の勢力圏外である塩江温泉の開発が行われる事となった。そして、塩江温泉へのアクセスとして、塩江線の復活が検討された。

 1952年、琴電は仏生山~塩江の免許を申請した。この区間は戦前に廃止にした為、再び線路を敷くには免許を取る必要があった。1954年には免許の認可が下り、翌年には工事が開始した。廃止から10年以上経っている事、自然災害で一部路盤や橋脚が崩壊している事などから、工事の進捗は早いとは言えなかった。それでも、新線を建設するよりかは工事は進み、1958年4月に仏生山~塩江温泉が開業した(開業に合わせて、塩江から「塩江温泉」に改称)。

 

 開業後、高松築港~塩江温泉の急行列車が運行された。高松から行きやすい観光地として塩江温泉の開発は進み、宇高連絡線の存在もあり、関西からの観光客も増加した。また、戦前からの歓楽街としての整備も行われ、愛媛の道後温泉に並ぶ四国有数の温泉街となった。

 開業によって沿線の宅地開発も進んだ。高松都市圏の拡大に合わせて沿線の開発も進み、1970年代から観光輸送より通勤・通学輸送の方が多くなった。

 また、塩江線の開業や讃急の存在から、国鉄の高松駅への乗り入れが行われた。1982年に瓦町~琴電高松が地下線で開業となった。これにより、地上線の瓦町~高松築港は廃止となった。

 

 現在では、観光路線、通勤・通学路線として以外に、高松空港へのアクセス路線としての性格を持っている。1989年末に高松空港が沿線に移転し、空港へのアクセスルートして俄かに注目された。建設当時から検討されていたが、需要の面から建設には慎重だったが、利用者がそれなりに多く需要が見込める事から1994年に高松空港への分岐線の免許が申請された。1998年に免許が認可され、2001年には工事が開始されたが、工事開始の時期と高松空港の発着便の減少の時期、及び琴電の民事再生法適用と重なったのが拙かった。一時は建設中止も検討されたが、利用者の減少が小さかった事、琴電再建の切り札とされた事から建設は一時中断とされた。その後、再建が完了した2006年に工事は再開され、2009年に岩崎~高松空港が開業した。

 開業によって、琴電高松~高松空港への快速電車が運行された。停車駅の少なさ(琴電高松、瓦町、栗林公園、仏生山、川東、高松空港)や高頻度運転、運賃の安さから、バスより利用者が多かった。これにより、空港連絡バスが減便したり廃止になるなどの効果が出た。




この世界でのJR四国の特急(2017年を想定)
〈予讃線〉
・しおかぜ:岡山~松山・宇和島・宿毛
・いしづち:高松~松山・宇和島・宿毛
・宇和海:松山~宇和島・宿毛

〈土讃線〉
・南風:岡山~高知・窪川・中村・宿毛
・しまんと:高松~高知・窪川・中村・宿毛
・あしずり:高知~窪川・中村・宿毛

〈高徳線〉
・うずしお:岡山・高松~徳島・小松島港

〈徳島線〉
・よしの川:高知~徳島・小松島港
・剣山:松山~徳島・小松島港(愛徳線経由)

〈その他〉
・によど:松山~高知(松高線経由)
・むろと:高知~徳島(阿佐海岸鉄道経由)

※小松島線は廃止になっていない。中外グループの徳島市への工場進出、南急の徳島延伸などで徳島市とその周辺部の人口が拡大した為、小松島線の輸送量も増大した。

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