架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:戦後の日本の鉄道(九州)

〈九州〉

・改正鉄道敷設法第110号ノ3(『福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「油須原線」であるが、法律上だと油須原が起点となる。史実では、漆生~上山田~豊後川崎が開業した為、漆生が起点となっている。

 この路線により筑豊南部の横断線が形成され、田川線と合わせて苅田港への輸送ルートを形成するもととされた。この路線が計画されたのが1953年の改正と新しく、石炭の需要が増加した時期と重なる事から、重要度は高いと見ていい。

 

 史実では、1966年に漆生~嘉穂信号場~上山田~豊後川崎が開業した。この内、漆生~嘉穂信号場が漆生線の延伸、嘉穂信号場~上山田が上山田線の既存線、上山田~豊後川崎が上山田線の延伸扱いであった。

 開業したものの、エネルギー革命によって沿線の炭鉱の多くは閉山していた。また、モータリゼーションの進行もあり、開業区間での利用者は少なく、既存線と新規開業線とで運行が分断されていた。

 残る豊前川崎~油須原の工事も進められたが、炭鉱の閉山によって存在意義が失われた為、1970年代前半には一時工事が中断された。その後、苅田港に工場が誘致され、筑豊にも工場が来る事となり、工事が続行された。これにより、国鉄再建法の施行による工事中止時点で土地収用の9割、路盤の6割、軌道敷設の4割が完了していたが、肝心の他の国鉄線との合流部分での工事が進んでいなかった。国鉄が赤字確実の油須原線を引き取りたくなかったからだが、これにより油須原線の全通は絶望的となった。既に開業していた区間も特定地方交通線に指定され、1986年4月に漆生線が、1988年9月に上山田線が廃止となり、油須原線計画は完全に消滅した。

 

 この世界では、1953年の鉄道敷設法改正時に110号ノ3が『福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道 及上山田附近ヨリ分岐シテ福岡県長尾附近ニ至ル鉄道』となった。後半の部分は、上山田と桂川を結ぶ鉄道の事を示す(史実でも計画は存在した)。これが追加された理由は、朝鮮戦争にあった。

 朝鮮戦争によって九州北部に数度空襲を受けた。これにより、折尾と博多の両駅が被災し、鹿児島本線が不通となった。筑豊本線や鞍穂線がバイパスの役目を果たす筈が、折尾駅が被災した事で筑豊本線も不通となった為、鞍穂線だけで両線のバイパスを行わなければならなかった(鞍穂線については『番外編:この世界の戦時中に開業した鉄道』参照)。鞍穂線そのものの規格は高くない為、輸送量がパンクしてしまった。

 幸い、折尾の復旧が迅速に行われた事で筑豊本線の再開がされたが、今回の事例から、海岸付近を通る鹿児島本線及び産業地帯である北九州工業地帯を通らない小倉~博多のバイパスが計画された。そのルートとして、110号ノ3と110号(『福岡県篠栗ヨリ長尾附近ニ至ル鉄道』。現在の篠栗線)が選ばれた。

 1957年に篠栗線の延伸工事と油須原線の工事が開始された。途中、豊後川崎~油須原の用地買収に手間取ったものの、緊急性や重要性の高さから、相手への高額な補償で短期間で決着させた(史実では数十回の交渉でようやく解決)。これにより、建設費用が増加したものの、早期開業が実現する事となった。

 その後、1966年3月に桂川~臼井と上山田~豊後川崎が開業した。この時、桂川~臼井は上山田線の支線扱い、上山田~豊後川崎は上山田線の延伸扱いとされた。残る区間も、1968年5月に篠栗~桂川、漆生~嘉穂信号場、豊後川崎~油須原が開業して全線が開業した。こうして、油須原線は全線開業したが、豊後川崎~油須原も上山田線の延伸扱いとされた。

 

 篠栗線と上山田線の延伸によって、博多と筑豊南部、田川線を通じて京築地域との連絡が行われた。博多~門司港(篠栗線・上山田線・田川線経由)の急行「筑豊」の運行が開始された。他にも、急行「ひこさん」が博多~大分・別府(篠栗線・上山田線・日田彦山線経由)に変更となるなど、福岡と日田・湯布院・大分への新たなルートの開発が行われた。

 ローカル輸送でも、博多と直接つながった事で、上山田線沿線の団地開発、工業団地開発は進んだ。同様に、田川線沿線の工業団地開発が進められた。これにより、炭鉱が閉山した後の人口減少は幾分緩やかとなり、輸送量の減少も緩やかとなった。

 それでも、国鉄再建時に上山田線と田川線は共に第三次特定地方交通線に指定された。その為、近い将来に両線が廃止になる事が決定された。それらの受け皿として、1989年に第三セクター「平成筑豊鉄道」が設立された。その後、1989年10月に伊田線、糸田線と共に転換された。

 因みに、漆生線の方は史実通りとなった。

 

 第三セクター転換後、増便と駅の増設が行われた。これにより利便性の向上が図られ、利用者が増加した事により黒字化した。

 また、桂川~上山田の博多への人の流れが多い事から、篠栗線への直通運転は維持された。直通以外にも、篠栗線の列車への接続を良くして、利便性の向上を行った。これにより、会社が別になった事による通し運賃の値上げはあったものの、利用者の増加が見られた。

 

 優等列車については、特急に格上げの上で存続した。これは、西鉄が史実以上に大きく、博多北九州間・博多熊本間で競合関係にあり、それに対抗する為、JR九州になってから門司港~博多~熊本の特急「有明」を増便したり、快速電車を多数走らせるなどした。その結果、鹿児島本線の容量が限界寸前となり、速度の遅い気動車が運行上のネックとなった。それを解消する為、比較的容量に余裕のある篠栗線・上山田線・日田彦山線経由が活用された。

 これにより、急行「ひこさん」は急行「由布」と統合して特急「ゆふ」として運行が開始された。また、本数も3往復から6往復に増便となった事で利便性が向上した。

 しかし、ルートの変更で運行距離が伸びた事(約5㎞増えた)、所要時間が延びた事(最大15分延びた)で、特急としての速達性は減少した。一方、英彦山という観光ルートを通る為、観光利用者が増加するという効果が出た。

 もう一方の「筑豊」も、特急に昇格の上で「ちくほう」と改称した。また、1日3往復から5往復に増便されたが、増便の2往復は博多~直方となった。

 

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・改正鉄道敷設法第111号ノ3(『佐賀県唐津ヨリ呼子ヲ経テ伊万里ニ至ル鉄道』)の一部開業

 所謂「呼子線」であるが、史実でも虹ノ松原~東唐津~唐津は筑肥線として開業している(この時、旧線の虹ノ松原~東唐津~山本は廃止)。また、西唐津~呼子についても、未成に終わったが路盤の多くは完成していたが、開業しても採算ラインに乗らないと判断されて開業しなかった。

 

 この世界では、第111号ノ3が鉄道敷設法に載ったのが1953年と早かった(史実では1961年の改正で載った)。理由はやはり朝鮮戦争で、沿岸部の警備強化と交通網の強化、沿線予定地域への補償を目的に追加された。その為、工事の着手も早く、1962年には工事が開始された。

 その後、工事は順調に進み、1975年に虹ノ松原~東唐津~唐津~西唐津~呼子が開業した。また、呼子線の開業時に筑肥線の虹ノ松原~山本は存続したが、東唐津を経由しないルートとなった。

 尚、呼子~伊万里の建設も一部で進められたが、国鉄再建時に凍結となり未成となった。

 

 呼子線の開業によって、長年の悲願である博多と唐津の中心街及び呼子が繋がった。これに伴い、博多~唐津・呼子の快速列車が運行された。本数こそ多くなかったものの、大幅な時間短縮がされた事で利用者は増加した。

 その後、1983年3月に福岡市営地下鉄(「空港線」の名称は1993年に付けられる)との直通運転が開始され、天神や中洲など福岡市の中心街への乗り入れが行われた。2社跨ぐ事から通しの運賃は値上げとなったが、電化した事で高速化され、福岡市への中心街へ乗り入れした事で利便性が向上した。これらにより、寧ろ以前より利用者が増加した。

 

 現在では、存続した勝田線(但し、1993年3月に吉塚~志免が廃止となり、代わりに福岡空港~志免が開業)と共に福岡市への通勤・通学路線として活用されている。また、呼子への観光路線としても活用されており、福岡空港~呼子のホリデー快速が土日祝日に運行されている(同様に、筑肥線全線が電化されている為、福岡空港~伊万里のホリデー快速も運転)。

 

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・改正鉄道敷設法第119号(『熊本県高森ヨリ宮崎県三田井ヲ経テ延岡ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「高千穂線」であるが、気になるのは起点が豊肥本線の立野では無く、高森になっている事である。立野~高森の開業は1928年で、119号は改正鉄道敷設法となった時から載っている(=1922年から存在する)ので、立野起点でも良いと思うのだが、当時工事が行われていた事から高森起点としたのだろうか。

 高千穂線は、立野~高森が高森線として、延岡~高千穂が高千穂線として開業した。残る高森~高千穂の工事もある程度進んでいたが、高森トンネルの掘削中に誤って水脈を切ってしまった事で異常出水が発生、これにより工事は中断され、地域への補償をする事となった。しかも、トンネル事故の時期が1977年に発生した為、中断中に国鉄再建法が施行されて工事が中止された。

 その後、高森線は第一次特定地方交通線に、高千穂線は第二次特定地方交通線に指定されて廃止となり、それぞれ「南阿蘇鉄道」、「高千穂鉄道」として第三セクター化したが、高森~高千穂は完成する事は無く未成に終わった。

 

 この世界では、未成の原因となった高森トンネルの工事が無事完了した。その為、全線の工事は問題無く完了したものの、線路を敷く直前に国鉄再建法が施行された為、高千穂線の全通は絶望視された。

 しかし、福岡・熊本から宮崎への最短ルートになる事、阿蘇外輪山や高千穂などの観光地がある事から、全線開業すれば主要路線になると考えられ、第三セクター化による開業が計画された。その為、1983年に高千穂線と高森線の沿線を中心に第三セクター「阿蘇高千穂鉄道」を設立して、高千穂線と高森線の受け皿と高森~高千穂の工事再開が決定した。

 そして、1986年4月に高千穂線と高森線が阿蘇高千穂鉄道に移管され、同時に高千穂~高森が開業した。これにより、高千穂線計画は実現した。

 

 第三セクターという形で実現した高千穂線だが、全通後は沿線の観光開発が進められた。阿蘇下田と日之影に温泉設備を設けたり、高千穂を観光センターとして改修したり、白川水源に近い場所に駅を設けるなどした。また、優等列車の運行も行われ、立野~延岡の快速「かぐら」が運行された(停車駅は、立野、阿蘇下田、白水高原、高森、高千穂、天岩戸、日之影、槇峰、川水流、延岡)。

 熊本・宮崎への直通列車の運行はJRになってからであり、1989年4月に熊本~南宮崎(阿蘇高千穂鉄道経由)の特急「たかちほ」が運行された(阿蘇高千穂鉄道内の停車駅は高森、高千穂、日之影)。この列車は、熊本で特急「つばめ」と「有明」と接続するダイヤが取られており、乗り換えを有するものの、日豊本線経由の「にちりん」より時間面で有利だった。また、観光地を通る事からこちらが優先される様になり、「にちりん」の運行形態の変更もあり、2000年には1日8往復となった。現在も、接続列車が九州新幹線に変更されたものの、その運行体系が続いている。


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