架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:戦後の日本の鉄道(九州②)

〈九州〉

・福博電鉄の設立(架空)

 福博電鉄は、香椎から博多港を経由して姪浜に至る「臨海線」と、博多から鳥飼を経由して姪浜に至る「山手線」、鳥飼から分岐して七隈を経由して橋本に至る「七隈線」の3路線を保有している。

 臨海線は、博多臨港線を基に福岡港から姪浜まで延伸した。その際、ウォーターフロントとして開発された百道を経由して、地下鉄に並ぶアクセス手段として整備が計画された。

 山手線は、1983年に廃止となった筑肥線の博多~鳥飼~姪浜が基となっている。沿線には繁華街は少ないものの、団地や学校が複数存在し、利用者は決して少なくない。

 七隈線は、史実の地下鉄七隈線の別府~橋本とほぼ同じルートを通る。違いは、地下鉄では無く路面電車で整備された事である。

 

 福博電鉄の設立前、福岡市の人口は増加しており、筑肥線の旧線の沿線の開発が進みつつあった。現状の輸送量ならバスでも充分だが、開発が進めばバスでは輸送量不足となる。そうなれば、再び鉄道の整備が浮上する可能性があるが、一度廃止した路線の復活や新線建設は費用と時間が掛かり過ぎる為、そうなる前に対処する目的で1980年に福岡市と西鉄が中心となって「福博電鉄」が設立された。

 設立当時は「二重投資」と批判されたが、それに対し福博電鉄とその出資者である福岡市と西鉄が、「バスや地下鉄以外の新たな都市交通手段を形成する」、「新しい路面電車のモデルケース」と主張して批判を相手にしなかった。

 福博電鉄設立後、国鉄に筑肥線の旧線の引き取りに関する交渉が行われた。国鉄としても廃止になった後のことまでは関与しない為、すんなりと決着した。その後、電化設備の設置、交換設備の増設、車庫の建設、既存の駅の改良、新駅の設置、車輛の発注が行われ、将来を見据えて複線用の路盤の形成も行われた。

 新駅の設置は、平尾(筑前高宮を移転の上で改称)と小笹の間に「平和」、小笹と鳥飼の間に「梅光園」、昭代(西新から改称)と姪浜の間に「南庄」(事実上、1941年に廃止となった筑前庄の復活)が設けられた。また、平尾以外に博多もやや南側に移転となった。これらの駅は、路面電車の高さに合わせる為、ホームの嵩下げ工事が休止後に行われた。

 1983年3月の休止後(廃止だと免許の取得で面倒になる為、休止扱いとなった)、福博電鉄に移管された博多~姪浜の改良工事が行われた。工事は順調に進み、1983年12月に全線が開業した。

 

 山手線の開業は、バスや自家用車に頼る沿線の交通網を変えた。当時、交通渋滞が深刻になりつつあった城南線の混雑が緩和された。アクセスが改善された事は沿線の開発を加速させ、それに伴い学校が増加した。

 その後、福岡大学や住宅地へのアクセスを目的に鳥飼~七隈~橋本が計画され、新線開業に先駆けて2001年8月に全線複線化が行われ、2002年2月に「七隈線」として開業した。これに伴いダイヤの改正が行われ、博多~鳥飼は朝夕毎時12本運行し、姪浜発着と橋本発着が6本ずつとなった。データイムも毎時8本運行され、鳥飼~橋本の区間列車が毎時2本運行され、博多~姪浜に接続するダイヤとなった。

 博多と繋がっている事、沿線に学校が多い事から、両線は通勤・通学の足として利用されている。

 

 山手線開業前の1983年6月、香椎~福岡港の博多臨港線の旅客化と福岡港~百道浜~姪浜の延伸が計画された。今度のは空港線との完全な並行線な為、ルートの選定や需要の想定は慎重に行われた。その結果、「ウォーターフロントの開発が予定通りに進めば、鉄道が必要となる需要が生まれる」とされ、早急な整備は必要とされなかったが、導入区間の整備は進められた。

 その後、1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の開催、1993年の福岡ドームの開場などの大型開発があり、バス輸送では限界になる場面の多々見られた。その為、1995年に臨海線の建設計画が開始され、JR貨物に博多臨港線の旅客化に関する協議が行われた。JR貨物としては「貨物列車の運行の邪魔にならない程度であれば」という条件で許可した為、臨海線計画は前進した。1996年に博多港~百道浜~姪浜の特許も申請し、1998年に認可が下りた為、同年末に工事が開始した。1997年にダイエーグループが資本参加した事もあり、工事は急ピッチで進められた。その結果、1999年5月に香椎~福岡港~百道浜~姪浜が開業した。

 

 臨海線の開業によって、ウォーターフロントへのアクセスが向上したが、利用者は想定よりも少なかった。理由は、福岡市の繁華街である中洲、交通の要衝である博多、その両方である天神を経由していない為だった。一応、天神と中洲から徒歩で行ける場所に臨海線の駅は存在するが、他の路線と接続が無い事が敬遠された。

 それでも、天神北や福岡港でのバスとの接続を考慮した駅の設置や、バス・地下鉄との連絡乗車券の存在から少しずつ利用者は増加していき、現在では博多・天神とウォーターフロントを結ぶ第2ルートとして活用されている。また、シーズン中には、福岡ソフトバンクライオンズの選手による案内がされるなど、更なる利用者の増加策が行われている。

 

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・琉球鉄道の設立

 戦前、沖縄県(沖縄本島)の鉄道は、沖縄県営鉄道、糸満馬車軌道、沖縄軌道、沖縄電気の4社が運行されていた。

 沖縄県営鉄道は、沖縄本島で最大の鉄道網を構築しており、那覇を起点に与那原、嘉手納、糸満へ延びていた。

 糸満馬車軌道は、那覇と糸満を結んでいた。沖縄県営鉄道と並行線だったが、沖縄県営鉄道は北側の内陸部を、糸満馬車軌道は南側の海岸部を走行していた為、競合関係とはならなかった。

 沖縄軌道は、与那原と泡瀬を結んでいた。与那原で沖縄県営鉄道と連絡しており、沖縄本島東部のを通っていた。

 沖縄電気は、那覇と首里を結ぶ路面電車だった。沖縄県営鉄道とは一部で並行線の関係だったが、こちらは市内を経由していた。

 1920年代後半が沖縄県の鉄道のピークで、1930年代に入るとバスの運行が開始された事で、鉄道は大打撃を受けた。特に、輸送量が少なかった糸満馬車軌道と沖縄電気は大打撃を受けた。これにより、沖縄電気は1933年3月に休止(同年8月に廃止)、糸満馬車軌道も1935年に休止(1939年に廃止)となった。

 一方、沖縄軌道はサトウキビ輸送の存在から廃止とはならず、沖縄県営鉄道はガソリンカーの導入やバス路線の開設で対抗した。

 しかし、太平洋戦争後期の沖縄空襲で施設に大損害を受け、1945年4月からの沖縄戦で軌道は完全に破壊された。戦後、琉球政府による鉄道復活計画が立てられたものの実現する事は無く、2003年に沖縄都市モノレールが開業するまで、実に半世紀以上もの間、沖縄県に本格的な鉄道は存在しなかった。

 

 この世界では、大規模戦闘が本土にまで来なかった為、大規模な本土空襲や艦砲射撃が発生しなかった。その為、沖縄戦は発生しなかったが、東アジアの要衝である事から米軍基地は設置された。それでも、大東亜戦争の終わり方が停戦である事、アメリカ軍の施政下に無かった事から、史実よりも基地は少ない(嘉手納、那覇港、伊江島。全て日米共用)。

 その後、沖縄県内で「沖縄にも本土並みの鉄道を」という動きが出た。これは、遅れている道路整備の代替、沖縄本島内の南北格差の解消、北部の開発促進を目的としたものだった。沖縄県と県内の有力企業が出資し合い、1952年に「琉球鉄道」が設立され、以下のルートが計画された。

 

・琉球本線:那覇港~那覇~嘉手納~具志川~名護

・与那原線:那覇~与那原~具志川

・糸満線:那覇~豊見城~糸満

 

 琉球本線は、沖縄県営鉄道嘉手納線を基にしており、県営鉄道の頃からの計画であった名護延伸を果たすものだった。これにより、沖縄本島南部最大の都市にして県都の那覇と、本島北部の主要都市である名護が結ばれ、南北交通の改善と沿線の開発を進めるものとされた。

 与那原線は、沖縄県営鉄道与那原線と沖縄軌道を基にしており、琉球本線が西側を経由するならば、与那原線は東側を経由して那覇と具志川を結ぶ。こちらも沿線の開発を目的としており、琉球本線のバイパス的性格もあった。

 糸満線は、糸満馬車軌道を基にしている。これは、このルートの方が沿線人口が多い事、沖縄県営鉄道のルートだと与那原線と並行線になる事から、このルートに変更された。

 1953年に3路線の免許が申請され、1955年に認可が下りた。翌年には工事が行われ、沿線からの支援があり、1960年には琉球本線が開業した。2年後の1962年には与那原線と糸満線も開業し、全線が開業した。

 尚、沖縄軌道と沖縄県営鉄道だが、共に工事が開始された1956年には廃止となり、用地は琉球鉄道建設に流用された。

 その後、嘉手納から読谷へ、具志川から与那城、名護から本部への延伸が計画されたが、沿線人口の少なさや、後述するバス会社の再編によって計画止まりに終わった。

 

 琉球鉄道の開業によって、沖縄本島の交通網は大きく変化した。一時期を除いて戦前から拡大していたバス路線は、鉄道の開業によって南北間の路線は大打撃を受けた。かつての様な軽便鉄道であれば輸送量や高頻度運行で対抗して打ち負かしたが、今回の様な高速鉄道だと時間と輸送量の点で太刀打ち出来なくなった。

 実際、琉球本線が開業してから数年で那覇~名護のバス路線は1日数往復を残して全て廃止となり、与那原線、糸満線が開業した時も同様だった。これ以降、バス会社は駅を中心に路線網を再編する事となった。

 バス路線の再編以外にも、那覇~嘉手納・与那原・糸満の宅地開発や工業開発が進んだ。現地資本の育成だけでなく、本土資本の企業進出が進み、人口増加もあり、沖縄県の税収は拡大した。

 現在では、通勤・通学以外に軍用貨物の輸送に利用されている。また、観光列車を走らせるなど、観光客をターゲットとした施策も実行している。

 

 因みに、那覇都市モノレールは史実通り存在するが、開業が1980年代後半と早い。これは、那覇空港と那覇市内を結ぶ路線が必要だった事、那覇~首里の中量輸送システムが求められた事から、早い段階で実現された。

 その後、浦西方面の延伸が2000年代前半に実現し、2010年代後半には東風平方面の分岐線が計画されている。


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