架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:この世界の日本製旅客機の開発事情

 この世界の日本の旅客機は、三菱重工が開発した「MC-2(史実のYS-11だが、旅客機としての設計が徹底されている)」が国産旅客機を独占していた。ここに至る経緯は、日本空軍初のジェット戦闘機F-86のライセンス生産の競争に負けた事に始まる。

 史実では、F-86のライセンス生産は新三菱重工業が行っていたが、この世界では各社競合の末、富士重工業が行った。当初は、三菱重工がほぼ確定と見られていただけに、三菱重工の敗北感は凄まじいものだった。その屈辱をバネに、三菱重工は単独で国内向け旅客機の開発に着手した。

 

 この世界では、GHQによる航空行政への介入は戦闘機や爆撃機を対象としていた為、練習機や輸送機については研究・開発・製造は自由に行えた。尤も、予算面や資材、他の部門の復興の関係があった為、各社の研究は進んでいないか時間が掛っていた。

 その中で、三菱は技術保持や戦後の旅客機需要の増加、輸出を見越して双発輸送機の設計を行っていた。三菱は、陸軍の九七式重爆撃機や九七式重爆撃機を基に開発された旅客機「MC-20」、海軍の一式陸上攻撃機に四式双発重爆撃機「飛龍」の設計・製造を行っていた為、大型双発機のノウハウは充分にあった。

 そうした中で、1949年に三菱重工は30人を乗せられる双発旅客機「MC-1」を開発した。性能こそ平凡だったが、当時日本空軍が保有していた輸送機の置き換えに最適だった事、扱いやすい事がうけて、大量発注が行われた。

 尤も、MC-1の成功が、F-86のライセンス生産権を逃す結果にもなった。MC-1の大量製造で、生産ラインに余裕が無いと見られたのである。

 

 半ば自業自得な面もあるが、兎に角三菱重工は1955年、より大型の50~70人用の旅客機の設計に着手した。ノウハウはあった為、1959年に試作機が完成し、1960年に初号機がロールアウトされ「MC-2」と命名された。量産機は日本航空から始まり、国内の航空会社各社に納入された。また、手頃な大きさ、価格の安さ、予備部品の供給能力の高さなどから、国外、特に米州や東南アジア向けの輸出も多数行われた。

 MC-2に対抗する様に、1957年に川崎が音頭を取り、他の航空機メーカーとの共同設計が行われた。しかし、ノウハウの差、他社との調整、他の生産機との調整に手間取り(当時、富士重工は戦闘機、大室重工は哨戒機、川崎は練習機、新明和工業は飛行艇の設計・生産で忙しかった)、1959年に開発が中止された。この中で大室重工が設計の大部分を引き継ぎ、これが後のリージョナルジェット参入の切欠となった。

 

 その後、4発機型やジェット化版などMC-2の改良型が数多く試作され、1975年に「ボーイングMC-3」が世に出た。MC-3はMC-2のジェット機版として開発され、MC-2や海外製の小型機の置き換えが主なターゲットだった(史実でも、YS-11のジェット化案は存在した)。

 MC-3の開発に当たり三菱は、ボーイングとの共同開発とアメリカでの現地生産、その為の合弁会社設立の交渉が行われた。これは、ジェット化に当たり、開発費や生産費の高騰、ジェットエンジンに関するノウハウの蓄積、ボーイングの販売ルートの活用、貿易摩擦の解消など様々な目的があった。

 ボーイング側としては、小型ジェット機の需要の小ささ(当時、ビジネス機と大・中型旅客機の中間のニーズが小さかった)とそれに伴う利益の小ささ、三菱側の技術力に対する疑問、未だに根強く残る反日感情などから、余り乗り気では無かった。

 それに対し三菱は、合弁会社の持株比率をボーイング:三菱で7:3とする事、社長はボーイング出身者とする事を切り出した。日本政府としても、YX構想(日本独自の旅客機開発計画)が失敗した際の保険として考え、三菱を側面から支援した。アメリカ政府も、安全保障の面から日本との付き合いを強化する方針を取った為、ボーイングは大筋で同意したが、同時に「販売時の名称を『ボーイングMC-3』とする事」を条件に追加した。これに対して三菱は二つ返事で同意し、1971年に共同開発に合意した。

 

 MC-2の経験があった為、ジェット化した際の設計図の作成は早かった。実機の製造も早く、1973年には試作機が完成した。オイルショックによって一時は計画が止まったが、その後も開発が続けられ、1975年に完成した。量産初号機は、東亜国内航空に納入された。

 見た目は主翼の上にジェットエンジンを搭載した奇抜なデザインだが、性能は平凡だった。性能こそ平凡だが、コンポーネントはMC-2と共通化している事から価格は安く、部品供給も行い易かった。その為、MC-2を導入していた会社が採用する例が多かった。

 

 因みに、ボーイングMC-3と同時期に、小型ビジネスジェット「MU-300」の開発も行っていた。MRJの方に力が注がれていたが、ノウハウの蓄積があった為、史実より2年早い1976年に試作機が完成した。その後、1977年にFAA(アメリカ連邦航空局。ここで型式登録が証明されれば、ほぼ世界中で運用可能となる)の審査にも合格し、翌年に量産が開始された。

 その後、MC-3と共にアメリカでの生産、ボーイングの販売網に乗せる事が決まり、これに伴い「ボーイングMU-300」と改称された。FAAの審査に通ったのが早かった事、ボーイングのブランドがある事から、MU-300の売り上げは順調だった(史実では、1979年にFAAに送られたものの、同年に審査が厳格化した為、型式登録が1981年に遅れた。その間に、第二次オイルショックやアメリカ側の事情の変化などで、全く売れなかった)。

 

 リージョナルジェットのMC-3とビジネスジェットのMU-200、この2機種は三菱とボーイングにとって大きな利益を生み出した。

 MC-3は、販売時期が第二次オイルショックとアメリカの航空会社の規制緩和の時期と重なった。この2つにより、アメリカ国内ではローカル線を運行する航空会社が多数設立された。その為、小型機の需要が急速に増加した。需要にマッチしていた事とボーイングのブランドから、MC-3は丁度合っていた為、大量の受注が舞い込んだ。

 MU-200も、販売当初に100機近い仮契約が交わされた。その後、半数程は製造されたものの、残りはキャンセルされた。その後も、受注が低迷した為、80年代前半には生産中止も検討された。しかし、その直後にビジネスジェットの需要が急増した為、一気に稼ぎ頭となった。

 売り上げによって得られた利益は株主に還元される為、三菱とボーイングには大きな収益源となった。

 

 ボーイングは旅客機のラインナップは大型から小型まで揃っていたが、小型よりも更に小型であるリージョナルジェットやビジネスジェットについては持っていなかった。それを、この2機種で補完した為、ボーイングの旅客機部門の地位を不動のものとした。

 しかも、1980年代に制定されたバイアメリカン法(アメリカで使用する航空機には、アメリカ製部品を50%以上使用する事を義務付けた法律)にも、アメリカで現地生産している事、製造会社の株式の60%(1970年代後半にボーイングが10%を三菱に売却した)をボーイングが保有している事から、この法律もクリアした。

 

 これ以降、三菱とボーイングの蜜月関係が形成されていく事となる。その後、ボーイングは共同開発を行う際、日本企業、特に三菱系との連携を強化する方針を固めていった。

 現在では、2010年に「ボーイングBM-1(史実の三菱MRJ)」を生産しており、旅客機市場におけるボーイングの地位は盤石になりつつあり、三菱もそこの一枚噛んでいる。

 

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 三菱が順調に小型機部門で地位を固めていった頃、1970年代中頃から大室重工も負けじと参入した。大室重工は、アメリカの航空機メーカーであるマクドネル・ダグラス(MD社)にリージョナルジェットの共同開発を持ち掛けた。

 これに対しMD社は、「DC-9シリーズを基にする事」、「DC-9を始めとしたMD社の旅客機の生産の一部の肩代わりをする事」、「主力工場はアメリカに置く事」、「技術を全てMD社に公開する事」、「販売時の名称を『マクドネル・ダグラス』に統一する事」を条件とした。かなり足元を見られた内容であった為、当初は自主開発も検討されたが、当時、MD社の主力商品の1つであったDC-10の事故が相次ぎ、DC-10の改良型の開発がストップした。その対処に追われている中で、大室重工が技術公開以外の条件を全て飲んだ上で「DC-10の改良を手伝う事」を盛り込んだ。この話はMD社にとっても悪い話では無く、危機的状況にあっては技術公開どころでは無い為、1982年に両社の提携が正式に決定した。

 

 リージョナルジェットの方は、基となったDC-9の設計を活用した為、順調に進んだ。また、大室重工との共同開発もあり、新技術の活用も早かった。DC-9との違いとして、座席配置が2-2となっている(DC-9シリーズは3-2)。その為、胴体が少々小さくなっており、乗客数も1クラスで90人とDC-9の初期型とほぼ同数となっている。

 1986年に「マクドネル・ダグラスMD-9J」として生産されたこの機体だが、アメリカの航空業界の変化に見事にマッチしていた。当時、航空業界の規制緩和によって地域航空会社が多数設立された。その為、小型機の需要が急増しており、既に生産が行われていたボーイングMC-3と共にMD-9Jの多数の発注が舞い込んだ。また、DC-9のコンポーネントを一部活用している為、価格の安さや生産設備の流用が可能になるなど、MD社にとってのメリットも多かった(MD-9Jの開発により、機体の大きさで重複するボンバルディアCRJ700以降の大型シリーズの受注が伸び悩む)。

 これにより、MD社は再びボーイングとの競争力を持つ様になった。また、大室重工との共同開発によって他の機種の開発も進み、DC-9を基にしたMD-80シリーズ(共同開発はMD-87から行われた)、MD-90シリーズは史実よりも1年早く生産が開始された。

 その後も、1996年に生産が開始されたMD-95(史実ではMD社のボーイング吸収後に「ボーイング717」として完成)でDC-9の系譜の集大成となり、航続距離を延長したMD-96、胴体短縮型のMD-97、胴体延長型のMD-98が生産されたが、この頃になると、原設計のDC-9の設計の古さが目立ってきた。エンジンを最新型にしたり、グラスコックピットを採用したり、複合素材を利用して軽量化を行うなどの近代化を行ってきたが、そろそろ限界に近付いた。

 

 その為、新設計の小型旅客機の設計が行われた。新型機は、「1つのシリーズとその改良型で、MD-80・90シリーズとMD-9Jを全て賄う」という考えの基で計画され、計画の基となるのは140~170人乗せられる小型機で、200人乗せられる胴体延長型、90~120人乗せられる胴体短縮型も同時に計画された。

 これらは、MD-95が生産される前の1994年から設計がスタートしたが、完全な新設計となるとどうしても時間が掛かった。また、小型旅客機とリージョナルジェットの設計の共同化はどうしても難しく、1998年に小型機とリージョナルジェットに分割、胴体の外側を既存機の応用とする事で効率化と設計時間の圧縮が行われた。

 これが功を奏し、2002年に小型旅客機が「マクドネル・ダグラスMD-14」として完成した。機首や胴体はMD-90シリーズの流用だが、エンジンの設置方法が今までの胴体後方に設置する方式から主翼に吊り下げる方式に変更した為、主翼の設計と着陸装置が変更となり地面とコックピットとの距離が高くなった。エンジンの設置方法が変更となった為、尾翼の設計も変更され、丁字型から通常の形に変更となった。

 MD-14だが、ボーイング737シリーズやエアバスA320シリーズと比べると遅く参入した為、販売はやや苦戦した。しかも、2001年の同時多発テロによる航空需要の冷え込み、2005年の原油価格高騰などにより、新規購入が抑えられた事も販売の低迷に繋がった。

 一方、小型機そのものの需要が増加していた事、原油価格の高騰により燃費の良い機体の需要が増加した為、新規参入会社や機体の買い替えでの需要が存在した。特に、DC-9シリーズを保有していた航空会社での買い替えが多く、顧客の引き留めに成功した事から、MD-14シリーズの生産が続けられる事となった。それでも、737やA320のシェアは大きく、日本とアメリカ以外での需要が少ない為、売り込みを強化している。

 

 MD-14に遅れる事2年、2004年にリージョナルジェットが「マクドネル・ダグラスMD-15」として完成した。こちらもMD-14と同様、MD-9Jの機種と胴体を流用しつつ、主翼と尾翼、着陸装置を変更している。

 こちらも、リージョナルジェットの需要が増加している事もあり、受注が相次いでいる。特に、アメリカと日本、及び両国の影響力が強い地域ではMC-3とその後継機であるBM-1とシェアを争っており、競合他社(ボンバルディアやエンブラエルなど)は苦戦を強いられている。

 

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 小型機・リージョナルジェットの共同開発が進んだが、中・大型機の方でも共同開発が行われた。特に、MD社の主力商品の1つである大型機のDC-10は、ボーイング747に次ぐ大型旅客機としてそれなりの発注を得ていたが、設計ミスがありそれが原因となる事故が数件発生した。また、原油価格の高騰、ボーイング767の生産開始、エアバスA300の登場、双発機での長時間の洋上飛行が可能になった事などの要因もあり、DC-10の受注が減少傾向にあった。その状況を打破する為、1984年にMD社と大室重工によるDC-10の双発機版の設計が開始された。

 原設計がある為、設計ミスの手直しと尾翼の改良が主な改良点となった。また、技術革新により、低燃費のエンジンやグラスコックピット化が行われた。基本的には手直しの為、開発期間は短くする事が出来、1988年には試作機が完成した。性能は充分と判断され、翌年には「マクドネル・ダグラスMD-11」として納入が開始された。

 

 MD-11は、DC-10を使用していた日本航空や新規発注の日本エアシステム、日本インターナショナル航空(旧・日邦東西航空。2002年にJASと経営統合)を始め、多くの航空会社に納入された。ライバルのボーイング767と777、エアバスA300シリーズにA330などと共に、中長距離における大型機としての地位を確立した。

 現在、オリジナルのMD-11-10、胴体延長型のMD-11-20、胴体短縮型のMD-11-30、-20の更なる胴体延長型のMD-11-40の4種類の生産が行われており、MD社の主力商品となった。

 

 MD-11の成功の一方、MD-12の方は苦戦した。

 MD-12は一言で言えば「MD社版エアバスA380」であり、総2階建ての機体として1991年から計画された。これは、DC-10の改良が限界に近付いた事、当時計画されていたボーイングとエアバスの超大型旅客機への対抗(エアバスの方はA380として実現)からであった。また、機体の巨大さやMD社の経営が不安定になりつつあったことから単体での開発は不可能とされ、台湾を始めとしたアジア諸国との共同開発が行われた。

 しかし、MD社の経営悪化、それに伴う計画の遅れや受注の見込みが無い事から計画は途中で破棄された。その後、1997年にボーイングに合併された為、計画は完全に消滅した。

 この世界では、MD-12計画はその後も続けられた。大室重工や台湾の航空産業との連携で開発が進められたが、完全新設計である事、開発予算の高騰から当初予定の1997年の初就航は叶わなかった。結局、2002年に試作機が完成し、2004年に量産機の初納入が行われた。

 

 MD-12のローンチカスタマーは日本インターナショナル航空や台湾航空を含めて数社だが、MD-11の様に多くの受注を得られなかった。最大の原因として、時期の悪さにあった。

 MD-12が初飛行した前年にアメリカ同時多発テロが発生し、航空需要が急激に減少した。その為、航空会社は新規導入を抑制する様になり、特に大型機については顕著だった。

 また、この頃から双発機の性能が向上し、多発機を導入する意義が薄かった。特に、お膝下であるアメリカでの受注が皆無だった事が大きかった。

 その為、MD-12は80機程度の生産で終了してしまい、その後の航空需要の変化もあり、日本インターナショナル航空は2020年までに就航を終了する予定となっている。

 

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 上記以外の面では、小型機の開発が盛んに行われている。前述の三菱重工に加え、戦前からの航空機メーカーである川崎重工や富士重工、中小メーカーである昭和飛行機工業や立川飛行機などが合同して設立した「新日本航空工業」、戦後に参入した本田技研工業などが存在する。

 尤も、国内での小型機の需要は高く無い事から、海外向けが殆どとなる。最近では、新興国への売り込みや国内での需要の掘り出しを行っている。

 

 大型機では、ボーイングやエアバスなどの大型機メーカーの下請け・孫請けの関係は史実通りとなっている。

 しかし、日本の技術力の高さ、他に生産が可能な国が無い事などから、日本への依存度は史実よりも高い。その為、日本の意見をより聞く様になっている。

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