架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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日露戦争の回となる為、人の生死に関する記述があります。また、海軍に対する批判もある為、気になる人がいるかもしれません。その点を注意して下さい。


11話 明治後期:大室財閥(10)

 1904年、日露戦争が勃発した。この戦争は事実上の総力戦となり、日本は官だけでなく民もその力を総動員した。戦争は1年以上続き、最終的に日本はロシアに勝利した。しかし、薄氷の上の勝利であった。ロシアと揉めた朝鮮半島は日本の勢力圏となり、ロシアから南樺太と遼東半島を含めた南満州の権益を獲得し、オホーツク海での漁業権を獲得した。しかし、外債を含めた国債の大量発行によって大量の借金を作り、当てにしていたロシアからの賠償金が無かった事から、日露戦争後の日本は借金返済に悩まされる事となった。

 

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 日露戦争中に大室財閥が行っていた事は、日清戦争時と同様に兵員・物資の輸送に加えて、国債の引き受けだった。しかし、前回と異なり今回は大室財閥もそれ相応の被害を受けた。それは、ロシア海軍の通商破壊だった。

 日露戦争時、ロシア海軍は二手に分かれていた。遼東半島の先端部の軍港旅順に太平洋艦隊(旅順艦隊)が、ロシア極東の港湾都市ウラジオストクに巡洋艦を主力とした高速艦隊(浦塩艦隊)が置かれていた。日本海軍の目は、戦艦を多数有する旅順艦隊に向けられていた。陸軍が満州方面に進む上で、補給路の確保や後方の安全という意味では旅順艦隊が邪魔だった。一方、浦塩艦隊はそこまで重要視されなかった。主力艦が巡洋艦が数隻しか無かった為だった。

 しかし、日本海軍は浦塩艦隊の対処に手間取った。旅順艦隊への対処に注力し過ぎた事で、浦塩艦隊にまで手が回らなかった為だった。そのツケは大きかった。主戦場となる南満州への兵員・物資輸送で使用していた日本本土から朝鮮半島までの海路が、浦塩艦隊によって何度も襲撃された。それによって、南満州に送る予定の物資や兵員が途中で沈められるといった事が多発した。それだけでも問題だったが、更なる問題として浦塩艦隊が日本沿岸に出没し、航行中の船舶の撃沈や拿捕が発生、極め付けは東京湾付近にまで進出した事だった。これに対し国民は激怒し、海軍の無能を呪った。最終的に、浦塩艦隊は蔚山沖の海戦で壊滅的打撃を受けた事でその後の活動は低迷した。

 

 戦争が終わった後、彦兵衛は現状に不安を感じた。その理由は2つあり、海軍が浦塩艦隊にいいようにされた事を気にしていない現状への不安と、船舶や人員に被害があったのに補償が無い事だった。

 彦兵衛は戦争後、『海軍がバルチック艦隊を破った事を祝うのは良いが、浦塩艦隊にいい様にやられた事を忘れているのではないか』と考える様になった。確かに、ロシアの本国艦隊であるバルチック艦隊を相手に日本海軍は大勝した。しかし、浦塩艦隊にいいようにされていた事は、この大勝利の陰に隠れてしまった。彼は経験から、負け戦から学んで次に備える事が重要である筈と考えていた。つまり、浦塩艦隊に撃沈された常陸丸の悲劇を繰り返さない様に、通商護衛を充実させるべきではと考えた。実際は、日本海軍は日本海海戦の勝利から艦隊決戦を重視する事となり、通商護衛については二の次とされた。

 彦兵衛はこの状態に冷や水をかける為に、日本政府と軍部に「通商護衛の充実」という意見を出した。そして、単独では簡単にあしらわれる事を見越して、日本郵船を含めた撃沈された船舶の持ち主と連名で提出した。

 これに対して、軍部の意見は分かれた。海軍の多くは、日本海海戦の勝利から艦隊決戦思想に移っており、この意見に歯牙にも掛けなかった。

 一方、陸軍と海軍の一部はこの意見に賛成した。陸軍は、常陸丸事件の記憶が鮮明であり、あれが無ければ満州での苦戦は和らいでいたのではと考えていた。海軍の賛成派も、自分達の不手際で海路が分断され国民から批判された事から、それを避ける為にも通商護衛に力を注ぐべきではと考えた。

 これにより、陸軍と海軍、海軍内の艦隊決戦派と通商護衛派に分裂し、あわや組織の分裂という事態に成りかねなかったが、両軍の重鎮と時の政府が仲裁に乗り出し、解決策も取られた。それは、「鹵獲したロシア艦をロシアに売却し、その浮いた維持費や人員で護衛部隊を創る。艦艇の多くは旧式艦艇とし、主力艦隊の艦齢を一新する」という、艦隊決戦派と通商護衛派の両者の面子を立てたものとなった。勿論、ロシアの軍事力の復活への恐れや海軍拡張を唱える者の反対もあったが、それについては軍の重鎮と政府の圧力で潰した。

 こうして、通商護衛部隊の設立がされると思われたが、戦後不況によってこの動きは低調だった。この動きが再び大きくなるのには、第一次世界大戦まで待たなければならなかった。

 

 もう一つの「船舶や人員に被害があったのに補償が無い事」については、国会でも問題になった事案だった。朝鮮半島や南満州だけでなく日本近海も戦場となり、一般人にも被害が発生した。加えて、開戦となってロシアから退去させられた日本人の存在もあり、彼らの補償問題をどうするべきかに政府は直面した。

 最終的には、1909年に退去者に対する救恤(補償金や見舞金など)だけが決定し、船舶やそれに付随する被害については補償されなかった。政府の言い分としては、「金が無い、被害もよく分かっていないから補償出来ない」というものだった。政府の言い分も分からないでは無かったが、だからと言って一切の補償無しというのは納得行く筈も無かった。

 彦兵衛は、終戦後から沈んだ自社の船舶の遺族や被害を受けた会社に対する補償を自費で行った。国が行ってくれないのなら、自分が行うしかないと考えた為だった。足りない資金は、自宅や自分名義で所有する土地を売却するなりして工面した。大室銀行や大室火災保険、東亜生命保険はこの事態に憂慮し、彦兵衛の反対を押し切る形で彼に資金援助をした。

 

 彦兵衛はこれ以降、『国の為に死ぬのも奉公だが、自らが持つ知恵を生かして、国に尽くす為に長生きする事もまた一つの奉公』と考える様になった。そして、社員の死に対して敏感になる様になった。




この話で歴史が変わりました。史実では、旅順艦隊の着底した艦やバルチック艦隊の鹵獲艦を日本海軍の籍に入れましたが、この世界では、それらの艦艇はロシアに売却し、その分の資金や人員を通商護衛部隊に投入しています。また、海軍主力艦艇の整備が多少早まります。
民間からの要請で動くのかと考えましたが、事態を深刻に考えた重鎮(陸軍の大山巌や山縣有朋など、海軍の山本権兵衛など)が賛成した為、反対派も矛を収めざるを得なかったとしました。都合が良すぎると考えていますが、この世界の日本は多少甘く設定している為、細かい点は見逃して下さい。

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