架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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12話 明治後期②:大室財閥(11)

 日露戦争によって被害を受け、国から補償を受けられず、自社の被害の補償を行った事で、大室財閥全体の傷は大きかった。しかし、この行動が大室財閥の信頼を上げる結果となり、後の躍進に繋がったと言えるだろう。

 私財をなげうって補償をした事が、『社員を家族の様に大事にしている』と捉えられた。一方、『国が補償しなくても、大室さんなら補償してくれる』というスケベ心がある者もあったが、これはこれで取引相手や保険の契約数、融資先の増加に繋がった。

 

 日露戦争後の大室財閥が行った事は、発生した被害の穴埋めとその為の拡大、組織の近代化の2つだった。

 日露戦争によって、彦兵衛商店が保有していた船舶に被害が生じた。目立つものでは、大室丸型貨客船の3番船「築地丸」が沈没し、その他大小合わせて4隻が沈み3隻が損傷を受けた(内、1隻が修理不可と判断され廃船)。この被害の穴埋めと老朽化が著しかった船舶の一新、海外航路の開拓を目的として、3千トン級の貨客船を10隻近く建造する計画を立てた。

 勿論、これだけ大量に建造するには資金や資材が不足する上に、所有している堺造船所の現状では造船能力も不足しており、ノウハウも不足していた。その為、他の造船所に発注を依頼する事も考えた。当時、日露戦争後の不況によって造船所の能力を持て余し気味だった為、交渉が纏まれば発注する予定だった。

 能力では最も高かった三菱の長崎造船所(後の三菱重工業)は、自社向けの船舶の建造やライバル企業向けの船舶は造れないという意向で発注されなかった。しかし、長崎造船所に次ぐ能力を有する川崎造船所(後の川崎重工業)や、鉄船の建造能力がある東京石川島造船所(後の石川島播磨重工業)と横浜船渠(後に三菱重工業が買収)が発注に応じてくれた。これにより、堺造船所と川崎造船所で3隻ずつ、石川島と横浜船渠で2隻ずつ発注された。

 これらの船は1910年から次々と就航し、彦兵衛商店が保有していた旧式船舶を次々と更新した。これにより、積載量の増加と輸送速度の向上による経費の削減、海外航路(東アジア・東南アジア航路)への進出が可能となった。

 

 彦兵衛商店の海運部門の両・質の両面で拡大したが、商社部門についてはそれ程拡大しなかった。元々、軍との繫がりが弱かった為、兵器の輸入や軍への納品が少なく、高田商会や大倉組の様に、軍と密接にある商社の様な急速な拡大をしなかった。それでも、鉄道用資材や工作機械などの輸入を手掛けた事、国内の取引相手を囲い込んだ事で緩やかではあったが拡大を続けた。

 

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 1908年、彦兵衛商店は組織改革を行った。それは、

 

・彦兵衛商店は「合名会社大室本店」と改称し、商社部門と海運部門を分離、銀行や保険などの株式を保有する純粋持株会社とする。

・商社部門は「大室物産」、海運部門は「大室船舶」と命名し株式会社化する。

・それ以外の銀行や保険などの子会社も株式会社化し、大室本店の傘下に収める。

 

の3つだった。目的は、組織の近代化と有限責任とする事で事業を守る事だった。

 今までの形態では、組織の拡大と柔軟な対応が難しくなるとの彦兵衛の判断からだった。彦兵衛自身は大室本店のトップに収まり、大室物産と大室船舶の社長には、彦兵衛商店時代からそれぞれの部門のトップが引き継いだ。

 また、有限責任とする要因に、皮肉な事に日露戦争後の補償と関係する。補償の影響で、彦兵衛自身の資産は大きく減少した。彦兵衛商店と大室銀行などは、多少の出費はあったものの財務状況は悪化しなかった。しかし、当時の彦兵衛商店は彦兵衛が無限責任を負っていた。その為、仮、ここで彦兵衛が破綻していていた場合、彦兵衛商店も破綻した可能性があった。それを回避する為、今回の分離策が採られた。

 

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 彦兵衛商店の組織改革と同じ年に、日露戦争後の補償の一環として、貯蓄銀行と弱体保険への進出が行われた。これは、戦争によって夫や息子を亡くした家族が困窮するのを抑える目的に行われた。当初は、社会事業の進出も考えられたが、彦兵衛の資産が減少した事でこの時は出来なかった。

 

 貯蓄銀行は普通の銀行と異なり、法人などの大口需要を対象とせず、市民を対象とした零細な需要を対象とする。その為、預金の下限額も低く設定されており、預金の使用目的も国債や金融債などの証券に限られる。彦兵衛は『僅かな預金でも将来の安息を』と考え、貯蓄銀行への参入を実施した。

 行名を本店が置かれている場所(大室本店内)から「築地貯蓄銀行」と名付け、同じ大室財閥系の第百二十六銀行や東亜生命保険などの支店網を活用して、京浜・京阪神地区での活動を行った。また、大室財閥の各企業と同じ様に、他の貯蓄銀行を買収する事による規模の拡大と預金集めに余念が無かった。これにより、規模の面では日本有数の貯蓄銀行として名が知られる様になったが、当初の目的であった戦争未亡人などを対象とした預金集めは上手く行かなかった。

 

 もう一つの弱体保険は、戦争から帰還し除隊した兵士を対象とした。一般的な生命保険では、重傷を負った人や病気の人は加入出来ないという欠点があった。それを穴埋めする目的で、弱体保険の設立を目指した。

 社名は「日本弱体生命保険」として、本社は東亜生命保険本社に同居する形となった。当初は、弱体保険のノウハウが無かった為、海外から弱体保険会社の社員を雇って指導してもらう事や、海外の書籍で学ぶといった事から始まった。数年に及ぶ教育の結果、当初の目的だった退役兵士を対象とした保険加入は少なかったが、今までの生命保険では入れなかった人も入れるという事から、その様な人を対象とした加入者が増加した。

 

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 大室財閥は、1908年の組織改革を以て近代的な組織に生まれ変わった。基幹事業として、彦兵衛商店時代からの商社と海運業、拡大を続ける銀行や各種保険の金融業、躍進著しい造船業が挙げられる。

 同時に、日露戦争の悲惨な現状を知り、弱者に対する支援も打ち出した。銀行や保険の整備、社会事業への進出に代表される。

  1912年7月30日、明治天皇崩御。この出来事を以て「明治」という時代は終わり、「大正」へと進む。




今回の内容は雑となってしまい、見にくいかと思います。
今回の内容を簡単にすると、

・船舶の自社発注と外注の実施
・彦兵衛商店分離、財閥化
・社会的弱者に対する事業の開始

と言ったところでしょうか。

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