架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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13話 明治後期③:日林財閥(2)

 会社設立後、植林と植林した木の伐採だけでは採算に乗らないと邦久は判断した。その為、更なる拡大と新規事業への進出が計画された。具体的には、

 

・未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収

・他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ

・製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給

・新規事業への進出

 

の4つである。

 1つ目の「未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収」は、未開発の山林が多かった東北地方と北海道で中心に行われた。東北地方は、戊辰戦争の影響もあり開発が低調だった。『白河以北一山百文』と言われた程、東北地方の開発が遅れていた。一応、殖産興業の流れから、鉱山とそれに付随する産業の開発、鉄道の敷設こそ進んだが基本的に産業は農業と林業であり、関東や京阪神、東海などの地域とは比較にならない程遅れていると言わざるを得なかった。

 しかし、それによって山林の買収がしやすい事でもあった。そして、東北は秋田杉や津軽ヒバ、会津桐など有名な木材の産地であり、奥羽山脈など山岳地帯が多い為、木材の供給源としては有力な場所だった。そして、この買収が計画された時期(1900年代前半)は、日本鉄道や官営鉄道の奥羽本線が開業していた事から、輸送路が整備されていた事も大きかった。

 もう一つの北海道も、当時の日本でほぼ唯一の入植地(台湾は日清戦争で獲得したものの、治安の問題があった)であり、開拓が急速に進められた時期であった。その為、森林を切り開き開拓をするというスタイルで、平野部の開発が進んだ。一方、まだ内陸部の開拓は進んでおらず、急峻な山岳地帯が多い事から、大量の木材が眠っていると見られた。しかし、当時の北海道の鉄道は北海道炭礦鉄道と北海道鉄道(共に後の函館本線)しか無く、内陸部や太平洋側には鉄道が通っていなかった。その為、その地域での交通は徒歩や河川、船舶となった。

 これらを加味して、北海道への進出は沿岸部を中心に進出しつつ、本格的な進出は鉄道が整備されてからという事となり、暫くは東北での足場固めとなった。勿論、東北・北海道以外でも、林業が盛んな四国や中国山地、紀伊半島や中部地方内陸部の山林を買収した。これにより、日本林産及び社長の高田邦久は「山林王」と呼ばれた。

 

 2つ目の「他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ」は、そのままの意味である。1つ目の事と連動しており、当時、日本各地に張り巡らされた民間鉄道の沿線で経営を行い、枕木の供給や貨物輸送への協力を条件に出資してもらう事を考えた。これにより、巨大な資金を手に入れると同時に、日本各地に営業拠点を有する事となる。鉱山会社に対しても、治水面での利点や売り上げの一部を渡す事を条件に出資してもらう事とした。

 この時の民間鉄道は、関西鉄道(現在の関西本線など)や山陽鉄道(現在の山陽本線など)、九州鉄道(現在の鹿児島本線や佐世保線など)など現在の幹線路線を敷設しただけに、資本力も巨大だった。そして、出資者も元藩主や公家などがいる事から、信頼性も高かった。鉄道会社側としても、需要が急増している木材の輸送に関われる事は増益になるとして、各社の金額の多寡はあっても出資に応じてくれた。これにより、鉄道沿線での営業範囲は広がった。

 一方、鉱山会社からの出資は、中小規模のものが多い事や経営者の無理解などにより多くを得られなかった。最も期待した三菱や三井からの出資を受けられ無かった事も大きかった。しかし、鉄道会社からの出資が多かった事から、この事は大きなマイナスとはならなかった。

 

 3つ目の「製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給」は、20世紀に入って製紙業が勃興した事と関係する。明治以降、洋紙の需要が高まり、19世紀までに王子製紙と富士製紙という戦前の巨大製紙会社が設立された。当初は襤褸切れを原料としていたが、次第にパルプを原料とする様になった。日本林産はここに目を付けた。つまり、原料を売り込む事で巨大な需要に乗っかり利益を得るというものだった。

 または、巨大な需要があるのだから、自前で進出すればその利益を自分のモノに出来るという考えもあった。これは、王子・富士の両社は自前の山林を持っている事から、売り込む事は難しいとされた事に由来する。

 その為、邦彦は両者の意見の折衷案を出した。つまり、「中小の製紙会社向けに原料を売り込むと同時に、自前の製紙会社を設立、機を見て売り込み先を合併する」というものである。この考えにより、1902年に日本林産内に製紙部を設立し、製糸業に進出すると同時に、中小の製紙会社に対してパルプの売り込みを積極的にかけた。これが功を奏し、3社の製紙会社が日本林産の事実上の傘下に収まった。その後、1926年に日本林産製紙部が「日林製紙」として独立し、子会社製紙会社を取り込んだ。

 

 4つ目の「新規事業への進出」は、製紙業以外の分野への進出である。当初から、枕木や建材への加工は行われていたが、当時の日本で持て囃される様になった西洋家具、合板の製造に進出する事が計画された。これは、付加価値の向上、機械的な加工が製紙業と比較して少ない事から、製紙業よりも進出しやすいとされた。特に、西洋家具の製造は、木工細工の技術を応用出来ると考えられた為、より容易であるとされた。

 これを受けて、1902年に日本林産内部に木工部が設立された。当初の製品は、加工の甘さや接着剤の不備で失敗作が多く、木工部は赤字続きであった。その為、初期には廃止の計画さえあったが、技術の蓄積や本物の西洋家具を見本として制作する事で、独自に洗練された製品を世に送り出す事が出来る様になった。ここで製造された西洋家具は、鉄道会社や鉱山会社の貴賓室や社長室などに置かれる様になった。

 尚、この時の接着剤の不備から『自前で強い接着剤を作れないか』と考える様になり、後の木材化学への進出の始まりとなる。

 

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 日露戦争は、日林財閥にとって躍進の時だった。戦争という巨大な需要が発生する現象が起こり、ほぼ同時期に植林した木々が伐採可能になった事が重なり、会社設立以来最大の利益を叩き出したのである。そして、この利益を使って負債の処理を行っている。急速に規模が拡大した事で利益を拡大出来たが、同時に負債も拡大した。この負債によって、日本林産そのものを潰しかねないと邦久は考えた。その為、利益を上げている内に負債を処理する必要があると考えた。

 この考えは当たり、日露戦争後による不況で多くの企業が減益や倒産に陥る中、日本林産は減益となったものの、会社が大きく傾くまでには至らなかった。ここに邦久の慧眼があったと言えるだろう。

 

 しかし、日本林産の社長であり多角化戦略を打ち出した高田邦久は、1909年2月12日に76歳で亡くなった。彼の遺書により、後継者に息子の博久を指名し、社員は息子を支える様にとされた。

 息子の博久は、財務状況を考えた上での拡大多角化路線という父の路線を踏襲した。これにより、日本林産は地道ながらも拡大を続けられた。


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