架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

14 / 112
もう一つ、私はある『if』を考えていました。それは、『もし、鉄道国有法で買収された鉄道会社が解散せず、新たな事業を行ったら』です。
これは、「北海道炭礦鉄道」が買収された後、残った炭鉱業などを行う「北海道炭礦汽船(北炭)」に改称して存続した事から考えたものです。北炭が残ったのは他の事業があった為ですが、北炭が残れるのならそれらより大規模な日本鉄道や山陽鉄道、九州鉄道なども存続出来た筈と考えました。
そこで、今回考えたのが、日本鉄道や山陽鉄道などが合併、新しい事業を行う会社に改編するというものです。有力会社が何社も合併した為、北炭より大規模となります。


14話 明治後期④:日鉄財閥(1)

 日鉄財閥とは、日本の中小財閥の一つである。「日鉄」とあるが、戦前の国策製鉄会社「日本製鐵」やその後身の「新日本製鐵」とは関係無い。この「日鉄」は、「日本鉄道」から来ている。つまり、東北本線や常磐線を開通させた日本鉄道が、路線を国有化された後に他の業種へ参入した事から始まった。尤も、名称こそ日本鉄道だが、会社の母体は中央本線の新宿~八王子を開業させた甲武鉄道であり、日鉄も「日本鉄道興業」の略である。

 

___________________________________________

 

 日本鉄道以外にも甲武鉄道や関西鉄道、山陽鉄道や九州鉄道、北海道鉄道など当時の有力民間鉄道が前身となっている。それらが、1906年3月に制定された鉄道国有法によって同年10月から翌年にかけて買収され、鉄道会社としての使命を終えた。

 しかし、この中で日本鉄道の大内輝常、甲武鉄道の佐田幸甫、関西鉄道の阪田孝右衛門、山陽鉄道の文田清喜、九州鉄道の加西清兵衛、北海道鉄道の田川清助の6人が偶然にも同時期に、『このまま会社を解散させるのは惜しい。この資金と基盤を基に何か新しい事業を行おうではないか』と考えた。6人が一堂に会したのは1906年2月の事で、鉄道国有法が制定される可能性があると知り、会社から『政府の情報を細かく伝えよ』という命を受けていた。これにより、6人が東京に集まった。東京の宿場で彼らは偶然出会った。ここで、自分達の所属や考えを話し合った。

 ここでお互いの考えている事が同じだと判断し、もし買収された場合は新事業を打ち立てようではないかと画策した。同時に、他の被買収鉄道会社も統合させて、日本全国に展開しようとする事も構想された。その為、6人は鉄道国有法制定後から他の買収予定会社に『鉄道が買収された場合、残った会社を地域発展の為に使わせてほしい』とお願いした結果、多くの会社が了承してくれた。その条件として、株主に加わる事と社員を入れる事だったが、6人としても人手が欲しかった事から快諾した。

 

 1906年10月1日、北海道炭礦鉄道と甲武鉄道の買収から始まり、翌年の10月1日までに17社が買収された。他の5人が所属する日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、北海道鉄道、関西鉄道も17社に含まれた。この為、2月の会合で話し合った事が実行された。

 最初に買収された甲武鉄道を「日本鉄道興業」に改称してスタートした。その社長に大内輝常が就任した。彼は日本鉄道所属だが、改称時に日本鉄道を退職して就任した。彼が他の5人を纏めた為推挙された。その後、日本鉄道や関西鉄道なども合流し規模を急速に拡大した。

 事業内容は重工業、土木建設、金融事業、鉄道以外の運輸事業の4つを柱とする事が決められた。

 1つ目の「重工業」は、元鉄道会社という事から車両の整備の経験を活かしたものだった。また、甲武鉄道が電車を運用していた事から、電気機器の製作も含まれる。その為、社内に車輛部、機械部、電気部の3つの部門が設立された。

 尤も、官営鉄道は民間鉄道を買収した事で大量の車輛を確保しており、車輛が統一されるまでの数年間は発注が無い事は分かっていた。その為、蒸気機関車の技術の応用と電車の技術を利用して、ボイラーと発電機の製造に着手する事となった。工場は、上野の機関区の一部を借りた。

 しかし、運用や整備の経験はあっても製造の経験は無かった為、試行錯誤の繰り返しだった。ボイラーは、圧力不足で規定以上の馬力が出なかったり、造りが甘くて破裂するなどのトラブルが多発した。発電機の方も、直ぐに破損したり出力不足が相次いだ。その為、一時は閉鎖も検討されたが、海軍から技術者を呼び指導してもらう事で問題の解決に乗り出した。これは田川清助の考えであり、彼の兄が海軍機関学校で教官を務めていた事から実現した。海軍側としても、機関の製造元は多い方が良いと判断した。

 これにより技術的問題は解決し、海軍とのパイプを作る事に成功した。これが後に、造船や航空機産業に手を出す事に繋がった。

 

 2つ目の「土木建設」は、建設こそ行わなかったが、その後の補修についてのノウハウがあった。それと、当時建設に関わていた人を集める事で、土木事業への進出を図った。鉄道建設では必須となるトンネルや橋梁、駅舎などの建設・補修経験を生かして、今後増加するであろう鉄道建設や道路建設、大型建築に関わろうというものだった。その為に内部に設立されたのが土木部だった。

 この事業は早くから結果を出した。鉄道建設は、鉄道国有化と私設鉄道法の基準の厳しさによって新規の鉄道事業者が一時的に減少したが、1910年に制定された軽便鉄道法によって再び鉄道ブームが到来、ほぼ同時期に軌道条例に基づき路面電車により都市間輸送を行う路線が多数計画される軌道ブームも到来した。この2つのブームが重なり、多くの受注を獲得する事となった。これにより、土木部が設立当初の日鉄の一番の稼ぎ頭となり、他の部門への注力が可能となる程だった。

 因みに、この軌道ブームで誕生したのが、関東では現在の京急、京王京成、関西の阪神、阪急、京阪の各社となる。

 

 3つ目の「金融事業」は、鉄道会社向けに出資する目的があった。その為、内部に金融部が設立された。金融部の目的は、鉄道会社向けの融資と鉄道会社が発行した株式の引き受けだった。上記の鉄道ブームと軌道ブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かないと思われた。

 しかし、鉄道の免許こそ大量に交付されたが、会社として設立されていないものも多数あった。加えて、以前の鉄道ブームにもあった「実際には建設する気は無く、免許を他の会社に売る事を目的に取られた免許」が多数あると見られた為、出資には慎重だった。その為、この金融事業が拡大するのはもう少し後の事となる。尤も、この時既に将来有望な会社や路線を幾つかリストアップされている。

 

 4つ目の「鉄道以外の運輸事業」は倉庫業、小口の貨物輸送の2つを指す。倉庫業は、大規模な鉄道駅には貨物駅も併設される事があり、その為の倉庫の運営となる。小口の貨物輸送は、町や村から駅へ、またはその逆の輸送を担当する事となる。これらを目的とした「倉庫部」と「荷物部」が設立された。

 この事業も土木部並みとは言わないものの成功した。倉庫部は、町の貨物駅に付随する倉庫は小規模かつ短期間の使用の為赤字だった。一方、鉱山や港湾の貨物駅だと、大量のモノを長期間保管する必要がある事から大きな需要があった。加えて、それらの利用者が大口の顧客である事も大きな利点だった。

 荷物部は、貨物量の増加によって利用者も増加した。しかし、倉庫部と比較すると小口の利用者が多い事から、利益は倉庫部と比べると小さく伸びも小さかった。

 

 この4つの事業によって、日本鉄道興業は重工業、土木、金融、陸運をそれぞれ抱える大規模な企業となった。そして、幾つかの偶然と必然によって日本鉄道興業の発展の礎が築かれた。その様な中で明治は終わり、大正に入る。

 

___________________________________________

 

 尚、日本鉄道興業はその前身(日本鉄道や山陽鉄道など)の影響で、日本林産の株を所有している。この事から、両社は事業の分業体制(日本林産は第一次産業と軽工業、日本鉄道興業は重化学工業、金融などは並立)が取り決められた。




6人の日本鉄道興業内での役職

大内輝常(元・日本鉄道):「社長」
佐田幸甫(元・甲武鉄道):「副社長」兼「電気部部長」
阪田孝右衛門(元・関西鉄道):「金融部部長」
文田清喜(元・山陽鉄道):「車輛部部長」兼「機械部部長」
加西清兵衛(元・九州鉄道):「倉庫部部長」兼「荷物部部長」
田川清助(元・北海道鉄道):「土木部部長」

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。