内容は結構適当な所があります。
〈大室財閥〉
・大室彦兵衛(1832~)
大室財閥の創設者。現在の京都府長岡京市生まれ。1859年、彼が27歳の時に、日米修好通商条約の締結により横浜など5つの港が開港した事を機に、横浜への出店を思い立つ。翌年、彦兵衛商店を開店。大室財閥では、この時を開業年としている。
その後、海運・銀行・保険などに進出するも、戊辰戦争以来軍との関係が薄い事から、軍需という巨大な需要を逃している。代わりに、内務省などとの繋がりを有しており、その方面での需要を確保している。
財閥全体の方針としては、「拡大と社会奉仕」を掲げている。
彼は生涯、妻・「はや」との間に3人の息子と1人の娘を儲けた。親の顔としては、子に対して教育に熱心であり、社会教育についても、大室系の企業ではなく他の企業で学ばせている。その為、子供に対して厳しいと見られるが、家族だけには子煩悩な面を見せる。
日露戦争によって、彼は死に対して否定的になる。そして、社員に対し「死して殉ずるより、生きて祖国の為に行動せよ」と考える様になる。
・大室久兵衛(1808~1875)
彦兵衛の父。彼は地元の名士であり、豪農や庄屋を営んでいた。また、寺子屋の運営を任されており、子供たちに対する教育が熱心だった。これが、彦兵衛が独立する要因となる。
・大室長兵衛(1828~1868)
彦兵衛の兄。久兵衛の後継ぎとして期待されていたものの、体が生まれつき多少弱く、遷都のショックで亡くなってしまった。亡くなった当時、3人の息子と1人の娘がいたが、長男の素行不良が目立った為、家長が仲兵衛に回った。
・大室仲兵衛(1830~)
彦兵衛の兄であり、長兵衛の弟。長兵衛が亡くなった事で、後継ぎのお鉢が回ってきた。尤も、彼は後継ぎとしての才覚が無い事を自覚していた為、彦兵衛との間で農家と庄屋を分割し、仲兵衛は農家を継いだ。
〈日林財閥〉
・高田邦久(1832~1909)
日本林産の初代社長であり、日林財閥の創設者。
1832年に広島藩の藩士の家系に生まれる。彼の家系が広島藩の林業に携わっていた事から、彼も家業に関わった事で林業に関する知識を有している。戊辰戦争後、新政府の官僚となり、政府きっての林政通となる。
その後、鉄道の開業や鉱山の開発で山の木が無くなり、中下流域で川の氾濫が増えた事を機に官僚を辞め、日本全国の植樹と植樹した木の伐採を行う事を決意した。同士数人で始まり、資金の多くも鉄道会社や鉱山会社からの借り物でスタートした。
個人事業で始めた植林と伐採の事業は、1898年に設立した日本林産に移行した。この時、古参の同士が去ったものの、更なる出資を得られた事で社員は増加した。この時、邦久は社訓として「長期的に考えて行動せよ」と定めている。
日本林産設立後、更なる規模の拡大や新規事業の進出を実行、これにより財閥化への目処を立たせた。しかし、この時の激務が原因で倒れてしまい、そのまま回復する事無く1909年2月16日に76歳で亡くなった。
・高田博久(1860~)
邦久の長男であり、日本林産の2代目社長。
父・邦久の遺書により社長に就任、就任当初は父の路線を踏襲した。
〈日鉄財閥〉
・大内輝常(1861~)
元・日本鉄道の社員であり、日本鉄道興業の社長。尾張藩出身。
彼が他の5人と東京で会った事が日鉄財閥形成の発端となり、社長就任の理由となった。
・佐田幸甫(1858~)
元・甲武鉄道の社員であり、日本鉄道興業の副社長兼電気部部長。小田原藩出身。
彼は甲武鉄道時代に電車の整備をしていた経験があり、甲武鉄道が最初に買収された事からこの役職となった。
・阪田孝右衛門(1863~)
元・関西鉄道の社員であり、日本鉄道興業の金融部部長。大阪の商人出身。
実家は有力な両替商であったが、明治維新後に廃業してしまった。しかし、親族は他の両替商や金融機関に入る事に成功、この伝手を生かして金融業の強化に乗り出す。
・文田清喜(1859~)
元・山陽鉄道の社員であり、日本鉄道興業の車輛部部長兼機械部部長。中津藩出身。
蒸気機関車や船舶の整備士という経験からこの役職に就いたが、整備と製造の違いは大きく、田川清助の助けを借りた。
・加西清兵衛(1860~)
元・九州鉄道の社員であり、日本鉄道興業の倉庫部部長兼荷物部部長。博多の商人出身。
実家が呉服店であり、反物などの仕入れのネットワークを生かし、荷物取扱量の増加を狙う。
・田川清助(1865~)
元・北海道鉄道の社員であり、日本鉄道興業の土木部部長。米沢藩出身。
彼の実家が大工であり、彼自身も北海道鉄道時代に工事の監督の経験をしていた。また、彼の兄が海軍機関学校の教官をしている事から、彼の兄の伝手を使って海軍から機関や電気などの技術提供を受けた。