架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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19話 大正時代⑤:大室財閥(15)

 1923年9月1日、東京で大地震が発生した。「関東大震災」である。この地震により、東京だけで無く横浜も灰燼に帰し、神奈川県沿岸部や千葉県の東京湾沿岸部は津波による大被害を受けた。死者・行方不明者は10万人以上、被害総額は推定45億円という甚大な被害だった。

 

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 この地震によって、東京を始め南関東で大きな被害を出した。大室財閥もそこを拠点としていたが、財閥全体の被害は死者と行方不明者が200名前後、京浜地区の建物の大半は全壊か半壊、被害総額3億円と大きな被害を受けたが、大室家の人物からは奇跡的に死者は出なかった上、重要な書類の損失も少なかった。これは、当時の大室財閥の本社機能を大阪に移していた為だった。

 大室財閥の本社は1874年に建てられた木造建築であるが、建てられてから40年以上経過している。加えて、築地にある事から、塩を含んだ風の影響で老朽化が著しかった。その為、1914年から本社の建て替えが計画され、本社機能が東京から大阪に移転しており、主要人物もそちらに移っていた。

 尤も、建て替え計画は、計画が立てられた直後に第一次世界大戦が始まってしまい、そちらへの注力と資材の高騰で計画が中断した。戦後に計画が再開した後も、建物の設計案や建設場所(現在地に建て替えるか移転するか)で決まっていなかった。

 それでも、東京は重要拠点であり、銀行や商社などは東京に本社を置き続けていた事から、被害が発生する事は避けられなかった。それでも、重要人物が軒並み消えたり、資金や物資が消失するなどして機能不全に陥らなかった事は不幸中の幸いと言えた。

 

 この大地震を契機に、大室財閥は更なる拡大をする好機と見た。大震災からの復興が、第一次世界大戦後の不景気を吹き飛ばす機会になると考えた。復興には膨大な資金や物資が必要となり、それらの供給を行う事で受注も得ようというものだった。その為に初めに行った事が、政府への寄付だった。寄付金の額は4000万円であり、その内訳は大室家名義(実際は忠彦・匡彦・淳彦の3兄弟)で1000万円、大室財閥の各企業で合計3000万円だった。

 これは、先述した目的もあったが、純粋に政府への寄付でもあった。そして、この大室財閥の動きが日本の主要の財閥による寄付運動に繋がる事になるとは、流石に予想していなかった。三菱や三井、安田が1億円、住友や大倉などが5000万円、その他の財閥も1000万円以上寄付し、日本各地からも寄付金が集まり、都合15億円が政府に寄付された。

 この額に日本政府は喜んだ。当初、復興予算は30億円と目されたものの、野党や長老からの反対で5億円にまで削減されてしまった。そこに15億円が来たのである。政府予算と合わせれば20億円となり、当初予算に届かないものの大規模な復興計画が可能となったのである。

 帝都復興院総裁後藤新平は、当初の復興案から多少縮小したものに変更して復興を始めた。これにより、史実では実行されなかった計画(大規模な区画整理や100m道路の建設)の一部が実行された。この計画には批判も多かったが、後の太平洋戦争や戦後の高度経済成長期に後藤の正しさや先見性が評価される事となった。

 

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 関東大震災への復興に関して、大室財閥でも様々な動きがあった。それは、「資材の供給の強化」と「復興に関係する事業への進出」、「新本社社屋の建設」である。

 

 「資材や機材の供給の強化」は、復興で必要となる木材や鉄鋼、重機(ダンプやユンボなど)などを調達、自作する事だった。

 特に重視したのが、重機に関してだった。この部門では、財閥はおろか日本全体が弱い為、満足な重機を調達する事が不可能だった。その為、アメリカから大量の重機とトラックを輸入した。当初は、フォードやゼネラル・モーターズなどからライセンス権を獲得したかったが難しかった為、製品の輸入に変更した。それでも、輸入した重機の修理やリバースエンジニアリングを行う事でノウハウを付けていき、後に大室重工業の主力生産品の一つにまでなった。

 また、復興用資材として、鉄鋼は自前(堺鉄鋼金物、1920年に「大室製鉄金属」に改称)だけでは不足する為アメリカから輸入し、木材も日本林産から大量に購入した。

 この時初めて大室財閥と日林財閥が接触する事となり、以降も化学や機械における連携が行われる様になった事が、後の中外グループ設立の発端となった。

 

 また、復興には資材だけで無く、建物を建てる事も必要である。その為、「復興に関係する事業への進出」として建設業への進出も検討されたが、当時の建設業はまだ個人の仕事という傾向が強く、既存の土木会社からの反対が強かった。その為、協力的な土木会社に出資し影響力を高めるだけに留めた。その中には、明治初期に築地の本拠地を建てた竹田直市が創立した竹田組もあった。後に、これらの土木会社は合併し「日東建設」となるが別の話である。

 

 最後の「新本社社屋の建設」は、当初の築地に新社屋を建設するという案は撤回され、別の場所に移転となった。具体的には、西新橋・虎ノ門付近になった。移転の理由は、築地が手狭になった事と沿岸に工場が多数建てられ、その排煙などの影響を受ける事からだった。その為、築地より内陸で程近い西新橋・虎ノ門が選ばれた。

 また、新社屋の設計も一からやり直しになった。条件として、「関東大震災クラスの地震が来ても倒壊しない事」、「極端に華美にせず、実用重視である事」が求められた。その結果、新古典様式の8階建てのビルとなった(見た目は「住友ビルディング」の大理石版)。

 これだけ巨大な建物となると完成までに時間が掛かり、設計も含めて7年も要した。そして、完成した1931年6月から順次、大室財閥の各種企業の本社機能がこの「大室本館ビルヂング」に移転した。

 

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 第一次世界大戦後の反動不況、関東大震災に巻き込まれながらも、大室財閥はそれらにも耐えた。それどころか、関東大震災の復興需要に応えられた事、新技術への足掛かりを掴んだ事から、更なる拡大すら見込めた。

 その様な、日本にとっては厳しい状況、大室財閥にとっては未来に可能性がある状況で、ある大事件が起きた。1926年12月25日、以前から体調を崩していた大正天皇が崩御。ここに「大正」が終わりを告げた。同時に、皇太子殿下が践祚、ここに「昭和」が始まった。


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