架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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20話 大正時代⑥:日林財閥(3)

 第一次世界大戦によって、日本全体が好景気に沸いた。物資は、売りに出せば売れる時代だった。この流れに、日本林産も例外では無かった。

 

 邦久の跡を継いだ博久は、当初は父の路線を踏襲したが、第一次世界大戦が始まってから暫くして、事業のより一層の多角化に計画した。具体的には、畜産業・食品加工業・造船業への進出だった。

 勿論、博久のこの早急な多角化には反対意見も多かった。慣れない職種への参入、急速な拡大による歪みの懸念などから、参入規模の縮小や拡大速度を緩める声があったものの、第一次世界大戦による木材需要の急速な拡大によって莫大な利益を得られたという現実もあり、徐々に反対の声は小さくなった。そして、1915年から多角化は実行される事となった。順に見てみよう。

 

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 畜産業については、当時日本林産が保有していた森林の内、平地の山林の一部を牧場に転換し、そこで家畜を飼い、肉や革などを卸すというものであり、食品加工業はその延長線上にある。これは、ヨーロッパで膨大な食糧需要が発生した事、日本の発展による食肉需要が拡大した事、小岩井農場の成功を見ての事だった。

 牧場の候補地として選ばれたのは、宮城県の王城寺原と蔵王山麓だった。この理由は、大都市圏に近い事(=消費地から近く、交通の便が良い事)、雨が多くない事、気候が穏やかな事が挙げられた。

 早速、この2か所の地権者と交渉を進めたが、その過程は比較的好調だった。王城寺原側は、軍の演習場が存在する事から既に広大な土地が利用不可能となっており、日林側も立地としては好条件だったがあまり期待していなかった。しかし、地主らは『この辺りの土地は痩せ気味で、丘陵部の開発も難しい』事から、それらを活用出来る畜産業に賛成した。蔵王山麓側も同様だった。その為、土地の収用や開発は地元の好意もあって進んだが、肝心の家畜の導入をどうするかが問題だった。

 

 国内に家畜は居たが数が充分ではなく、海外から導入するにしてもヨーロッパからは不可能だった。その為、ダメ元で陸軍に相談したら、条件付きで家畜(馬・羊・豚)を譲ってくれた。これは、軍馬や革製品などの供給源を欲していた陸軍と、畜産業への進出を目論んでいた日本林産の思惑が一致した為だった。その為、陸軍は「主要卸先は陸軍にする事、有事の際の家畜の徴収に応じる事」を条件に、日本林産への家畜の譲渡が実現した。

 こうして、場所とモノが揃った事で、1917年に王城寺原と蔵王山麓に牧場が開設、運営組織として「日林牧場」も設立された。尚、食品加工業への進出は食肉の調達や加工する人の手配などが付かなかった事から1919年まで待たなければならず、牛の導入も1921年になってからだった。

 

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 造船業は、木造船への参入であり、漁業の近代化や活性化を睨んでの事だった。当時の漁船の多くは木造船であり、近海漁業が盛んならばその需要に食い込めるのではと判断した。また、邦彦が「森が豊かなら、魚が多く獲れる」と偶然耳にした事も関係している。

 また、この頃になると、家具の製造加工技術も向上し木材の加工技術も向上した事から、造船業への参入もその延長として見られた。

 尚、第一次世界大戦によってヨーロッパ製の高級木製家具の輸入が途絶した事から、その代替品として国内で家具の大量受注も得られた。大戦によって俄か成金が増加した事で、金持ちとしての見栄えを求めたのか、その様な連中からの発注か急増した。

 

 その為、1915年に日本林産木工部が分離独立して「日林木工」が設立された。日林木工には家具製造部門と造船部門が同居しており、木材の加工・組み立て・製造が一貫して行われる。工場は、今までは東京の越中島に置かれていたが、造船部門の設置と製造量の拡大に伴い手狭になった。その為、地方の工業化と原材料の調達のしやすさという意味から長万部、仙台、松山への増設が行われた。これらの工場が稼働するのは1917年になってからである。

 この後、漁船の建設のその流れから漁師の囲い込みを行い、自前の水産会社を設立する事となるが、それはもっと後の事となる。

 

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 そして、父の代からの悲願でもあった化学への進出がされたのもこの頃だった。木造船の造船を行うに際し、水の中に長時間浸かっても剥がれない接着剤が必要になると考えた。しかし、当時の日本では水に強い接着剤が存在しなかった事から、造船への参入と同時に自前での調達を行おうとしたのである。そして、接着剤の技術を用いれば、他の化学の分野への参入や大型木造品の製造も出来るなどのメリットも多かった為、積極的に行おうとした。

 先ずは、水に強い接着剤の技術を得る為に、海外の企業との技術提携が計画された。しかし、第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国は自分達の事で手一杯で、提携や技術提供は難しいと見られた。特に、技術先進国のドイツは敵国となった為、不可能であった。

 その様な中で、イギリスのブリティッシュ・ダイスタッフ社(以下、BD社。後のインペリアル・ケミカル社)が提携に応じてくれた。これは、BD社の生産能力が需要に追い付かなくなった事から、一部生産の外部委託という形で成された。それだけで無く、染料や薬品の技術までも供給してくれた事は、後の拡大に役立った(インペリアル・ケミカル成立後は、火薬やアルカリなどの技術も提供してくれた)。

 

 こうして1916年に設立されたのが、化学部門の「日林化学工業」である。尚、前述の経緯から日林化学はBD社との合弁(出資比率は、日林:BD社が2:1)となった。この後、日本の軍国主義路線が強まると共に、日林化学が日林財閥の主要企業に登り詰める事となる。

 

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 畜産・食品・造船・化学に進出したが、それ以外の多角化も博久の代から進んでいた。博久が亡くなる少し前に、金融・窯業への進出と製紙業の拡大が計画された。博久はそれが実現する前に亡くなってしまったが、1910年には金融事業の「日本林商銀行」が、窯業の「日林陶器」が設立されている。また、製紙業の拡大はこの時はされなかったが、第一次世界大戦によって急速に拡大した。

 金融業は他の財閥も行っている事であり、当時のトレンドの様なものである為、特に詳しく掘り下げない。しかし、窯業は少々特殊な例だろう。

 

 日本林産が日本中の山林を購入した際、他に資源が無いか調査した。その際、幾つかの山からは粘土鉱物(カオリナイト、モンモリロナイトなど)が発見された。これらは陶磁器の原料である。陶磁器の需要は高く、当時の日本の主要輸出品の一つであった為、窯業への進出が検討された。

 その結果、「日林陶器」が設立された。製造拠点は、仙台に設けられた。当初は、技術不足や設備不足で満足に作れなかった為、有田や瀬戸などから職人を呼んだりした。この地道な技術力向上と第一次世界大戦による需要の発生によって、日林陶器の製品が世界中に出回る事となった。また、この時期に西洋食器などの生産も行われ、日本陶器(後のノリタケカンパニーリミテド。TOTOや日本碍子の母体)や名古屋製陶所(後の鳴海陶器)に並ぶ陶器メーカーとなった。

 

 尚、窯業に進出するに当たり、燃料をどうするかが議論された。燃料には石炭が望まれたが、日本林産では石炭を扱っていなかった為、外部から調達するしか無かった。その為、日林陶器と製紙業が拡大するにつれ、自前での調達を考える様になった。この考えは、第一次世界大戦後に実現する事となった。


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