架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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21話 大正時代⑦:日林財閥(4)

 1918年11月11日、イギリス・フランスなどの連合国とドイツなどの中央同盟国との停戦が成立した事によって、第一次世界大戦は実質的に終わった。その後のパリ講和会議によって正式に第一次世界大戦が終わり、世の中は戦時から平時へ移行しつつあった。

 

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 急に戦争が終わった事で、今まで大戦で儲けていた企業が急速に傾くなど、戦後の不況が少しずつ見えてきた。

 しかし、その様な中でも、日本林産の活況は暫く続いた。第一次世界大戦の終結によって軍需物資などの需要は大きく減少したが、今度は復興用の資材の需要が高まると睨んだ為である。日林の主要商品は木材であり、建築資材として利用される。それはヨーロッパでも変わらなかった。特に、戦場になったフランスやドイツでは木造住宅が比較的多かった事から、膨大な復興需要があった。そこに、日林も乗っかる事で大きな利益を生み、ヨーロッパの復興が一段落着く1921年頃まで日林財閥は拡大を続けた。

 また、大戦中に融資した財閥や成金が戦後の不況によって没落した後は、彼らが融資の担保としていた山林を始めとした各種資産を貰い受けた事で、保有する山林の拡大は更に進んだ。そして、この時に幾つかの鉱山や炭鉱を獲得した事で、大戦中に検討された燃料資源の自給手段が整う事となった。

 その保有した鉱山の運営を行う会社として、1921年に「日林鉱山」が設立された。扱う資源は主に石炭であり、他に鉄鉱石や黄銅鉱などがある。この時、石炭は自前で使うが他の鉱物資源は使用しない為、売り込み先を求めていた。有力な企業が現れなかった為、小規模な取引になったが、ある出来事が切欠でこの状況は変化した。

 

 1921年以降、日林の売り上げは落ち込んだものの、それは平時に戻った事による反動と言えた。新興財閥や成金の多くは没落したものの、日林は大戦中からの多角化によってその傷は小さかった。加えて、発展の可能性がある化学産業や、安定した需要がある窯業を抱えている事は、日林の発展を約束したと言えるだろう。

 その様な状況で、あの日がやってきた。

 

 1923年9月1日、関東大震災が発生した。これにより東京と横浜は灰燼に帰し、東京湾沿岸と相模湾沿岸も壊滅的被害を受けた。その後、復興計画が立てられたが、予算不足などから大幅に縮小せざるを得なかった。そこに、各財閥や日本全国から約15億円が寄付金として政府に寄付された事で、一度破棄した原案を改定した案に変更して復興が始まった。

 この復興に日林も参加した。寄付金として1000万円を出し、復興用の木材も格安で大量に供出すると約束した。この2つによって日林は一時的に大きな赤字を抱えたものの、大きな社会的信頼を獲得する事に成功した。信頼は新たな取引先を生み、国内の土建業者や各種木材工業から長期的な取引を獲得出来た。そして、この時大量に木材を放出した事で、国内の林業従事者で問題になっていた外材(外国産、特にアメリカ産の木材。安価)の進出を一定程度止める事が出来たという、日林としては予想外の事も起きた。

 

 これらの結果、日林は資産の拡大こそ微々たるものだったが、社会からの大きな信頼を獲得し、数多くの取引先も獲得出来た。取引先の多くは個人経営や中小規模だが、一番の大物が大室財閥だった。この時の出来事から、日林と大室財閥はお互いに主要取引先とする様になった。

 具体的には、大室製鉄金属の原料を日林鉱山から購入する、大室重工業と日林木工による小型エンジンに関する共同研究、大室化成産業と日林化学工業による薬品や化学繊維などの共同研究など、蜜月と言える程のものとなった。

 

 また、日林は財閥とは別の「大室」と関係があった。それは、大室本家が進出した事業を受け継いだ事である。

 

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 以前、大室家が本家(長兄と次兄の血族)と分家(彦兵衛の血族)に分かれたのは述べただろう。本家を継いだ仲兵衛は、その後も農業に従事し、農業や農学に関する本を出すなどしていた。この事が東京農林学校(東大農学部などの源流)の目に留まり、1888年に仲兵衛は農林学校の教授として雇われる事となった。

 

 代理とはいえ家長が居なくなった大室本家、では誰が家を継ぐのかという家督争いが起きそうだが、予め家長は長兄の長男である長緒に決められていた。家長となった1888年当時、彼は33歳だった。

 仲兵衛は、現在のまま続くとは思っていなかった為、継いで3年後に兄の子供(息子3人、娘1人)と自分の子供(息子2人)を半々に分け、半分は京都の、もう半分は大阪の取引相手の所に奉公に出した。これは、社会の厳しさを学ぶ為と経済感覚を身に着ける為の彼なりの教育方法だった。

 この教育は概ね成功だった。長緒と長作(長兵衛の次男)、一仲(仲兵衛の長男)は経済的才能を身に着け、長緒は実家を継ぎ、長作は大阪の取引相手の婿養子として、一仲も京都の取引相手の婿養子となった。また、マサ(長兵衛の娘)も大阪の取引相手の跡取りに嫁いだ。

 一方、長治(長兵衛の三男)と次仲(仲兵衛の次男)は、才能が発揮されない処か、奉公先で問題ばかり起こした事で相手から絶縁一歩手前の状態となった。その事で、この2人は一族から破門された。

 

 さて、実家を継いだ長緒だが、長兵衛が亡くなった時のガキ大将ぶりは完全に無くなり、今では民と農業について考える地元の名士としての顔となった。これは、先の仲兵衛の教育もあるが、父と祖父の事を聞いて自らの今までの行いを恥じた事も影響した。彼は実家を継ぐと、精力的に物事を進めた。特に進めたのは、治水事業と商品作物の栽培の奨励だった。

 治水工事は言うまでも無いが、商品作物は今までの茶や染料だけで無く、綿や麻などの繊維植物と薬草も栽培する事を行った。これは、勃興した繊維業や製薬業への原料を納入する事で農民の現金収入を増やそうとした事、あわよくば自らそれらに参入しようという目論見だった。

 

 そして、この目論見は現実のものとなった。1900年に、取引先との共同出資で繊維会社「京師繊維」と製薬会社「京師薬品」が設立された。また、翌年には種苗会社「長緒種苗」と染料会社「長緒染料」、食品(水飴)会社兼持株会社「長緒商店」を設立し、京師薬品の業務に農薬や肥料の生産も追加された。これは、土地や農産物など多くの資産を持っているが、それらを活用しない事は宝の持ち腐れだと判断した事、大室財閥(彦兵衛商店)の成功を見て焦った事から来ていた。

 これらの企業は時代と共に成長し、第一次世界大戦によって繊維や食品がバカ売れした事から、設備の拡張を続けた。特に、長緒商店が生産する冷やし飴は国内向けではあったが、甘味が安価に飲める事が受けて大ヒット商品となった。

 しかし、野放図に拡大した事で戦後に設備を持て余す事となり、拡張の為の負債も大量に抱えて、首が回らない状態だった。この様な中で大室財閥の助けを借りようとしたが、長緒が『奴ら(大室財閥)助けを借りずに再建する』と一点張りだった。

 

 この時助け舟を出したのが、主要取引先だった日本林産だった。日林は、今まで持っていなかった農業やそれに付随する事業を手にする事が出来る事、比較的大きな財閥との繫がりを持つ事が出来る事などから、救済する事となった。長緒商店もこの事に二つ返事で回答した。この結果、1919年に日本林産は長緒商店を傘下に収めた。

 これによって、長緒商店グループの破綻は免れたが、上層部の責任は免れなかった。長緒を始め各社の幹部は全員クビ、財産の多くも負債の穴埋めを理由に供出された。各企業も日林側の企業に吸収されるなどして再編成された。

 

 その後、残った大室本家の者達は、ある者は日林に頭を下げて入り込んだり、ある者は他の企業に一従業員として働いたり、ある者は残った土地と影響力を使って実家で農業をする者などして離散した。

 

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 こうして、日林は大室との太い繫がりを構築して「大正」を過ごし、「昭和」へと向かう事となる。




「長緒商店」グループのその後

「長緒商店」:保有する株式は全て日本林産に譲渡。食品事業は1919年に設立された「日林食品」に吸収。冷やし飴などのヒット商品は存続。
「京師繊維」:他の繊維会社と統合し拡大するも、名称はそのまま。
「京師薬品」:日林化学工業から製薬部門を譲渡される。
「長緒種苗」:日本林産の種苗部門と統合、「日林種苗」と改称
「長緒染料」:日林化学工業に吸収。

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