架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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22話 大正時代⑧:日鉄財閥(3)

 第一次世界大戦後の不景気によって、多くの国内企業の経営が傾く事となった。勿論、日本鉄道興業もその例外では無かったが、他の企業程大きな影響を受けなかった。その理由は、輸出に頼る企業の構造をしていなかった為であった。

 

 元々、日鉄は鉄道会社への投資や車輛・電機製造、つまり金融業と重工業を主軸とする企業である。加えて、取引相手の多くが鉄道会社向けであったが、第一次世界大戦によって資材や地価の高騰や労働力不足などが重なり鉄道の建設が低調となり、それと連動する形で日鉄の活動も低調となった。

 しかし、何もしなかった訳では無かった。金融力の強化や鉄道以外の取引相手の構築を目的に、繊維や商社など他業種にも出資した。特に注力したのが、電機や造船などの重工業と商社だった。

 重工業を傘下に収めれば、自社の電気部の生産力や技術力の向上に繋がり、商社を傘下に収めれば、販売ルートの新規開拓などもし易くなると見られた。実際、この時の出資攻勢によって、造船所3か所(千葉・尼崎・戸畑)、電機会社2社、商社4社を子会社化し、他にも多くの企業で主要株主に名を連ねた。また、自前での造船業参入を試み、1916年に三田尻(現在の防府市)に造船所の建設を開始した(稼働するのは1919年)。

 これにより、「日鉄財閥」と呼べるまでに巨大化したが、基本方針は「電気器具の国産化」で変化は無かった。今まで多くの企業を傘下に収めてきたのはこの方針を実現する為であり、流れてしまったものの大室財閥との交渉に応じたのもこの為だった。

 実際、傘下に収めた造船所や電機会社と共同で、電球の製造から大型発電機の試作に至るまで、電機に関するあらゆる研究開発を行っている。

 

 この為、日鉄は輸出については殆ど行っていない。その為、輸出によって利益を上げられなかったが、逆に戦後に大量の在庫を抱え込む事による赤字に悩まされる事は無かった。それ処か、値下がった鉄材を大量に購入する事で、大戦中に凍結された鉄道の建設再開を促進させた。

 それでも、多くの会社の株を保有していた事から、それらの株価の下落によって含み損が発生した。それに対し、子会社や事業の整理、株や遊休資産の売却によって赤字を圧縮し、1920年にはそれらの赤字を全て消した。

 尚、この時の整理の一環で、子会社化した企業は全て日鉄本体に吸収され、関連会社の半数は傘下に収めた(残りの半分は、株を手放した)。その為、日鉄本体は車輛・機械・電気・商業・造船の5つの事業部を内包し、子会社に損害保険や海運会社が加わった。また、土木部が「日鉄土木」、倉庫部が「日鉄倉庫」、荷物部が「日鉄運送」として独立し、関連会社の同業者を吸収した。

 

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 第一次世界大戦後、大戦によって凍結されていた路線の建設が再開された。特に、武州鉄道(1919年に中央軽便電気鉄道から改称)と相模中央鉄道の建設には力が入れられた。これは、東京市の巨大化に伴う人口の急増と、それと連動した郊外の都市化を考えての事だった。このまま建設を先延ばしにすれば、都市化が進行し人口が増加する。これは、鉄道会社にとっては乗客増による増収が見込める反面、これから建設する鉄道会社にとっては、地価の高騰による建設費の増加となる。そうなる前に、土地の買収を終わらせる必要があった。

 日鉄が大量の資本投下を行った事で工事は早く進み、武州鉄道は1924年に岩淵町~蓮田間が開業し、相模中央鉄道も1925年までに平塚~半原間(厚木経由)・平塚~大山間(伊勢原経由)が開業した。

 

 日鉄のテコ入れによる工事の促進は、偶然にも関東大震災によってその正しさが証明された。関東大震災によって、第一次世界大戦後以降下がっていた木材と鉄の値段が高騰、人口の郊外への移動による地価の高騰によって他の関東の路線の工事が滞る事態が起きた。

 しかし、日鉄が建設に関わった路線はこの影響を最小限に留め、完成が大きく遅れる事は無かった。また、工事費の増大による負債の増大の影響も小さかった事は、その後の会社運営に良性の影響を与えた。

 

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 関東大震災で東京が灰燼に帰しても、日鉄に出来る事は多くなかった。元々、鉄道向けの投資事業と車輛製造を目的に設立された会社の為、復興の為に資材を供給する事や救援物資を運び入れる事も難しかった。

 それでも、自らの出来る範囲でやれるだけの事はした。政府への寄付、住宅の復旧、鉄道施設の復旧、車輛の供給などをしたが、日鉄にとってはこれが限界だった。

 

 むしろ、日鉄が活気づくのは帝都復興ではなく、帝都近郊の都市化の進行だった。関東大震災によって、人口が都市部から郊外に移転した。これにより、東京市西部と北部の人口は急増し、今まで農村だった城南地区や武蔵野などの郊外の人口も増加した。これに伴い、これらの地域に鉄道を敷こうとする動きが出た。再び「鉄道ブーム」が到来したのである。この動きに日鉄も乗り、幾つかの会社に出資するなどした。


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