架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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26話 昭和戦前④:日鉄財閥(4)

 1920年頃から、再び鉄道ブームが到来した。第一次世界大戦による資材の高騰によって中断されていたが、大戦景気によって日本の経済力・資本力は大きく向上した。また、それに伴って都市の人口も増大した。これにより、都市近郊部の鉄道、特に電気鉄道の計画が大量に出現した。また、関東大震災によって、都心から郊外に人が移動した事もこれを助長した。

 日鉄もこの動きを逃さず、「これだ」と狙った会社に出資し傘下に収めた。出資対象は、北は北海道から南は九州まで、都市間鉄道から地方のローカル線まで多岐に亘った。

 

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 鉄道会社への投資だけで無く、車輛製造部門の拡大も活発に行われた。特に大きなものが、福岡鐵工所、東洋車輛、雨宮製作所の買収である。この3社は共に鉄道車両メーカーであるが、史実では、福岡鐵工所を除いて昭和恐慌による地方鉄道の経営悪化によって新規受注が無くなった事によって経営が悪化、倒産している(福岡鐵工所については詳細不明)。

 福岡鐵工所は、福岡駒吉が設立した会社である。軽便鉄道向けの石油発動機搭載の機関車「駒吉機関車」を開発・製造したメーカーで、一部のマニアには知られていると思われる。

 東洋車輛は、東急の五島慶太や京阪の太田光凞など鉄道界の大物が出資して、1922年に設立された会社であるが謎が多い。というのも、第一次世界大戦後に設立された為である。それでも、鉄道界の大物がバックにいる事による信頼は大きかったのだろう。設立翌年には、戦後不況で傾いた同業他社の枝光鉄工所を吸収したが、昭和恐慌などで地方鉄道の経営が傾いた事で車輛の受注は減少し、東洋車輛は倒産した。

 雨宮製作所は、日本の鉄道王雨宮敬次郎が1907年に設立した「雨宮鉄工所」が源流である。地方鉄道向けの客車や気動車の製造で知られていたが、昭和恐慌後はこちらも東洋車輛と同様の道を歩んだ。

 日鉄は、この3社を1926年頃から子会社化した。日鉄が出資・建設した鉄道会社向けに汽車や客車の製造を任せたり、気動車や電車の共同開発を行うなどして、密接な関係を築いた。これにより、史実で減少した地方鉄道向けの車輛の受注を日鉄経由で獲得した3社は、経営状態は史実よりもマシな状況となり、多少傾きつつも倒産する程では無くなり、日鉄の庇護の下存続した。

 その後、1938年に日鉄と大室の統合の一環で、3社は日鉄本体に吸収された。それと連動して、製造現場の合理化によって、大阪(旧・福岡鐵工所)と枝光(旧・東洋車輛)を閉鎖して三田尻に、深川(旧・雨宮製作所)を閉鎖して千葉にそれぞれ設備や人員などを移転させている。

 

 勿論、地方鉄道向け以外にも、国鉄(当時は鉄道省だったが、分かり易さを重視して「国鉄」とする)向けの車輛の製作も行っている。地方鉄道向けに蒸気機関車の製造を行っていた為、8620形や9600形を数両製造している。1927年には、2両の中型電気機関車を自主製作し鉄道省に納入した。この機関車は後に「ED19」と改称された。この事から、国産の電気機関車の製造に日鉄も加わり、EF52形電気機関車の製造の共同メンバーに加わった。その後も、ED16形やEF53形などの製造にも携わった。しかし、電動機については、出力の関係から大室電機製のものが採用された。

 

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 車輛製造部門が活発になっているのと同じく、電気・機械部門も活気づいていた。車輛メーカーである事と海軍からの支援がある事を生かして、モーターや発電機などの重電部門については強く、それ以外の弱電(家電など)についても、第一次世界大戦中から自力で開発を行ってきた。特に、鉄道向けにもなる電球や扇風機の製造については高い評価を受けていた。

 電機産業は不況の中でも大きな打撃を受ける事は無く、比較的安定して成長した。不況後は軍拡によって、通信機やエンジンの製造で車輛に遅れながらも活況に沸いた。

 一方、造船部門については、大戦後の不況や軍縮によって受注が激減した事で、買収した造船所の内、尼崎と戸畑を閉鎖して三田尻に集約させた(同時に、戸畑造船所の跡地に電機工場を新設)。それでも、利益を上げられない為、車輛や電機の下請けを行ったり、当時新兵器と目された航空機への参入を行うなど、造船部門は中核にならなかった。

 しかし、航空産業への参入は結果的には成功した。当初は試行錯誤を繰り返しながらも技術力を高め、海軍との繋がりから水上機や飛行艇の開発を任される様になり、後に愛知航空機や川西航空機に並ぶ中堅航空機メーカーの一角を占める様になる。

 商社部門は不況によって大打撃を受けたものの、他の部門が活気付いていた事から損失の穴埋めが出来た。しかし稼げていなかった事から、以降の日鉄財閥では商社部門への注力が二の次になっていった(造船部門も稼げていなかったが、航空産業への参入による将来性から資金が投入され続けた)。

 

 金融部門も活況に沸いていた。鉄道向けの投資事業は日本各地で行っている事から大量の資金が必要となり、銀行は預金集めと運用に、証券会社も運用に注力していた。

 日本鉄道銀行の支店網は、国鉄の大型駅の駅前を中心に存在している為、本来の人の動きとは異なる位置にあるが、東京市や京阪神など大都市の支店が多い事や新市街地の整備などで国鉄の駅付近に人が集まる様になると、この欠点は次第に薄れていった。それ処か、新市街地の住民の預金を集め易い位置にいる事で、日鉄銀行に多くの預金が集まった。こうして大量に集まった預金を、株券や債券などで運用した。特に、国債や金融債の運用が多い事から、安定した資産作りを行い資金量を増加させた。これにより、日鉄銀行の信頼は高まり、地方での預金の獲得に成功した。

 日鉄證券は、日鉄銀行との共同店舗で全国に展開された。こちらは、銀行と比較して法人向けの資産運用が多く、地方の視点も多い事から、地方財閥の資産運用も行った。特に大きかったのは、日林財閥との取引に成功した事である。これにより、大口の取引相手を獲得し、地方財閥と合わせて大きな顧客基盤を築く事に成功した。そして、運用する資産には相手がいる事から慎重な運用が求められ、堅実な運用が心掛けられた事で、昭和金融恐慌や昭和恐慌でも損失が出る事無く乗り切った。これにより、日鉄證券は野村證券に並ぶ巨大証券会社として知られる様になり、野村・日鉄・山一・日興・大和の各証券会社は後に「5大証券会社」と呼ばれる様になる。

 

 上記以外の部門についても、土木部門の日鉄土木は全国での日鉄が絡んだ鉄道の建設に関わり、大きな利益を上げた。倉庫部門の日鉄倉庫、運輸部門の日鉄運送についても同様だった。そして、新参の損害保険会社「日鉄火災保険」は、鉄道会社との契約を増やして拡大していった。

 一方、海運部門の日鉄船舶輸送は、大手との競合や不況の影響によって利用者が増加せず、常に赤字を出していた。既に大手が主要航路に参入し、地方航路も既存会社によって運行されている現状では、新参者には不利であると判断され、1934年に大室船舶に全て譲渡した。




日鉄が投資した鉄道会社については、番外編で別途説明する予定です。

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