架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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久しぶりに本編の更新となります。久しぶりの為、内容に矛盾や構成のおかしさなどがあると思います。


27話 昭和戦前⑤:大室財閥(18)

 満州事変後、日本の軍国主義化は進んだ。5.15事件、2.26事件によって政府は軍部の統制力を事実上失い、軍部の独断を追認するだけの存在になろうとしていた。

 

 一方、満州事変によって設立された満州国の存在は、「満蒙は日本の生命線」と言われた事から大々的な開発が行われた。この動きは本国にも波及し、満州の開発景気に沸く事となった。

 また、世界恐慌からの立ち直りが他の列強より一歩早かった日本は、経済の回復も早かった。強引な為替レートの変更によって輸出の伸びが著しく、日本製の綿製品が世界中に広まった。

 日本は緊張を孕みながらも、戦前最後の平和の中にあった。

 

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 この様な中、大室財閥が取った行動は技術力の向上だった。これは、大室財閥が音頭を取った事で米独から大量の工作機械を導入し、それによって生産力の向上は見られたものの、基礎工業力の低さから来る技術力の不足は残っていた。特に、精密機械や電機、自動車や航空機、それらの心臓であるエンジンの技術力は米独に及ばなかった。そして、次世代の主力兵器と目された航空機の開発にも影響を及ぼすだろうとして、1920年代から進められていたこれらの研究が強化された。

 

 精密機械や電機については、大室電機がAEGから技術提供を受けている事から、パテント料を上積みすれば新しい技術を獲得出来た。実際、これによって高品質の真空管のノウハウを獲得している。それ以外にも、新型のラジオや通信機の製造方法も獲得し、軍への納品を行った結果良好と判断され、大口の顧客の獲得に成功した。これにより、通信機器の生産量・生産額は急増し、1938年には通信機器部門の利益だけで他の部門の利益の合計に匹敵するまでになった。しかし、このままだと通信機器に注力し過ぎて他の部門への注力が難しくなる恐れから、1939年に通信機器部門と通信機器と関係が深い電波機器部門を「大室通信産業」として独立させた。

 また、納品した通信機を載せて航空機で使用する実験が行われた結果、航空機に通信機を載せると連携がし易いと判明し、以後、軍用機には通信機の配備が行われた。以降も航空機と通信機の相性の研究が行われ、その最中に、雑音が混ざりにくい方法が判明するなど、この後の戦争に大いに役立つ研究が行われた。

 

 航空機についても、AEGから技術提供を受けた。AEGは1917年に航空機産業に進出したが、ベルサイユ条約によってドイツ企業による航空機開発が禁止された。これを受けて、AEGは戦前から関係にあった大室財閥に「技術者の派遣と保有する技術の提供を条件に航空機産業を引き継いでほしい」と交渉した。大室財閥としては、航空機の有用性が不明であった事から当初は渋ったが、AEG側の熱意と陸海軍の航空機用の予算が組まれた事から航空機の将来性に賭け、この話を受け入れた。航空機用エンジンの技術を、当時国内で増加しつつあった自動車の生産にも流用出来るのでは考えられた事も、賛成した理由にあった。

 これにより、AEGの航空機部門の技術者が大挙して来日した。加えて、ファツル航空機製造やアルバトロスなどの他の航空機メーカーもこの話を聞きつけて来日する者もいた。大室財閥側も、1922年に大室重工業に新たに航空機部門を設立して、来日した技術者を中心に大室重工の技術者や設計者などと共同して、航空機開発がスタートした。

 しかし、大室重工側の用意が不足していたのか、最初の数年は機体の設計やエンジンの開発に終始する事となった。ドイツの技術者達が、本国から苦労して(連合国の目を盗んで密輸した程)航空機の現物を運んできたのだが、リバースエンジニアリングが限界だった。航空機など見た事も触った事も無い日本人の技術者達にはしょうがないのかもしれないが、これから先の事を考えると厳しかった。

 それでも、日本人技術者達はドイツ人技術者から貪欲に知識を吸収し、1928年には自作の航空機が完成した。結果は良好であり、直ぐに軍に売り込みをかけた。この時は採用されなかったものの、1932年に海軍が艦上攻撃機の後続機を計画していた為、そのコンペに参加した所、大室の機体が採用された。後に改良が加えられ、「九二式艦上攻撃機」として採用された(史実の九二式艦攻は海軍航空廠製)。性能が良く信頼性も高い九二式艦攻は、八七式艦攻や一三式艦攻の後続機として多数配備され、400機近くが生産された。

 九二式艦攻の成功は、大室重工の航空機メーカーとして歩む上での第一歩となった。これ以降、大室重工は海軍向けの機体の開発を行っていく(尤も、採用されない事も多かったが)。また、他社の機体のライセンス生産を行い、着々と生産のノウハウを付けていった。

 今までは堺工場で生産していたが、造船所の内部に設置した事から生産ラインが小さく、現状では九二式艦攻の生産数や他社の機体の生産に追いつかないとして、別の場所に航空機専門の工場を建設する事が計画された。1935年に新工場を徳島に建設する事が決定した。この頃には、航空隊の規模が急速に拡大し今後もその予定である事から、新工場の建設は急ピッチで行われた。同時に、工場への人員・物資輸送を目的とした鉄道も計画された。この工場は1938年に完成し、堺の生産ラインも全て徳島に移した。

 

 航空機の開発に連動して、自動車の開発も行われた。既に、トラクターやユンボなどの重機についてはデッドコピーながら生産経験がある事から、現在生産しているタイプより高性能な重機やトラックの生産が計画された。

 こちらは、生産経験がある事から大きく躓く事は無かった。加えて、航空機の研究でガソリンエンジンの研究開発が進んだ事で、高出力な自動車用エンジンの開発に成功した。しかも、航空機用エンジンのノウハウが活かされた事で、このエンジンの信頼性は高かった。これにより、パワーがあり扱いやすい重機やトラックが生産され、特に重機は小松製作所が太平洋戦争中に参入するまで(国内企業では)ほぼ独占だった。

 それだけでなく、他の自動車会社がこのエンジンを積みたいと相談してきた際、「勝手に模造しない事」を条件にこれを許可した。これにより、大室重工の自動車用エンジンが大量に生産され、『国内のトラックのエンジンの1/3が大室重工製』と言われる程のベストセラーになった。

 

 一方、自主研究による新技術の研究も盛んに行われた。特に大きかったのは、ディーゼルエンジンの製造だった。これは、航空機や自動車の増加に伴いガソリンの使用量が増加し、ガソリンが不足するのではと考え、軽油を使用するディーゼルエンジンの開発が行われた。この考えの下、船舶用の大型と自動車用の小型の2種類が計画された。

 しかし、ディーゼルエンジンの理論については持っていた(帝大との研究で獲得した)が、製造経験が無い事から、試作したエンジンは予定していた出力が出ず(計画の6割程度)、故障も頻発した。特に、小型ディーゼルの方は精密な加工を要する事から故障が顕著だった。それでも、帝大との共同研究や航空機用エンジンで培った工作精度の向上などによって、ようやく1934年に大型の、1937年に小型の満足のいく性能を発揮するディーゼルエンジンが完成した。

 これらのエンジンを載せた試作品として、1937年に初の大型ディーゼル船「吉野丸」が竣工し、同年にはディーゼルトラックが数台生産された。運行の結果、成績は良く、経費も2割近く削減される事が判明した。

 一方、頻繁に整備を要求する事、今まで使用していたエンジンとの違いから来る高い整備コストなどから、少数生産は不利であり、整備体制を充分に整えないとコストは高く付くと判明した。これにより、現状での全船舶のディーゼルエンジンへの転換や、既存エンジンとディーゼルエンジンの並行配備は見送られる事となった。それでも、運用成績そのものは良好であった事から、ディーゼルエンジンの研究は続行された。


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