架空の財閥を歴史に落とし込んでみる   作:あさかぜ

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番外編:日林-日鉄による東北開発

 明治維新以降、東北地方の開発は他の地域と比較すると遅れていた。戊辰戦争中、東北地方の多くの藩が新政府に抵抗した事から、その後も睨まれていた。一応、鉱山や林業の開発は行われたが、未だに手付かずの山林は多く残っていた。その為、東北地方の開発は低調であり、戦前では大規模な開発が殆ど行われなかった。

 第一次世界大戦前、東北地方を襲った冷害の対策として、東北地方の抜本的な開発を行おうと、1913年に「東北振興会」が設立された。しかし、何ら具体的な行動を起こせないまま1927年に解散してしまった。つまり、東北地方の大規模な開発の機会が失われたのである。

 第一次世界大戦中の影響から、日本では重化学工業が発展し、特に窒素や苛性ソーダなどの化学工業が発展した。これらの事業は、大量の電力を必要とする。その為、水力発電とセットで設立される事が多かった。急峻な山岳が多い東北ではこれらの産業に有利と考えられるが、それらの工場の多くが南九州や北陸、朝鮮に設立された。これらの地域も東北同様、急峻な山が多く開発が遅れている地域であるが、ここでも東北地方は開発から残されてしまった。

 

 この状況が転換したのは昭和恐慌以降の事だった。昭和恐慌とそれに続く農村恐慌によって、農村部、特に東北は荒廃した。有名なのは、欠食児童や娘の身売りであろう。それくらい、酷い状況にあった。その後、三陸地震や凶作などが相次いで発生し、政府は東北の復興を目的として1936年に設立されたのが「東北興業」だった。議会で定められた法律に則って設立された為、特殊会社に分類されるが、発行した株式の半数は東北地方6県が、残りの半数は民間企業が保有する形態だった。

 東北興業の目的は、化学工業の新興や農村工業化の促進などの5項目に亘った。これにより、東北地方の復興と工業化が進むかと思われたが、時期が悪かった。

 

 東北興業が設立した1936年は、2.26事件のあった年であった。その年から日本の軍国主義化は急速に進み、軍事費が増大した反面、他の事業についての支出は低下した。この煽りを受けて、東北開発の予算も削減された。また、目玉とされた「化学工業の新興」は、会社側の都合で低調だった。

 これの代替として、東北の化学工業に出資する形態が取られた。これ以降、東北興業は投資会社としての性格を強め、化学、機械、製紙など投資先は多岐に亘った。

 これにより、当初の目的とは異なる形ではあったものの、東北地方の工業振興は図られた。

 

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 この世界では、1926年に東北振興会に日林財閥と日鉄財閥が関与した事から、史実とは異なる歴史を歩む。

 日林財閥が、日本鉄道(現・JR東北本線など)沿線の植林事業から始まったという経緯から、東北地方の奥州地域についてはある程度の情報を持っていた。日鉄財閥は、その日本鉄道の後身企業である事から、やはり奥州地域の情報は持っていた。そして、その縁から両者の繋がりは当初から深かった。

 これらがあり、両者は東北振興会に参画した。この頃には、東北振興会は開店休業中の状態であり、情報量から太刀打ち出来なかった為、必然的に両者が主導権を握った。

 

 1927年、日林と日鉄は東北振興会を「東北拓殖」と発展的に解消させた。東北拓殖は株式会社形式を取り、半数を日林と日鉄が、残る半数を東北6県の有力企業や資本家が保有した。東北拓殖の目的は次の通りである。

 

・林業や鉱業の開発

・化学工業の設置

・農村・漁村の工業化

・電力開発

・農地を含めた土地開発

・上記に付随する交通機関の整備

 

 第一の「林業や鉱業の開発」は、未だに残る豊富な森林資源や、未開発の鉱物資源の開発を行うものだった。現状では、日林財閥によって森林資源の開発は行われており、釜石や小坂に代表される鉱山の開発も進んでいた。

 しかし、開発は一部であり、未だに手付かずの場所も多かった。特に、岩手県の東北本線と太平洋に挟まれた山岳部は、豊富な森林資源や鉱物資源が望めるものの、交通機関が乏しい事から開発が進んでいなかった。

 東北拓殖は、第六の「交通機関の整備」と連動して道路や鉄道の建設を行い、未開発の資源の開発を行った。これにより、資源の運搬路としてだけで無く、課題だった地方交通網の拡充を行った。

 

 第二の「化学工業の設置」は、急速に発展する化学工業を東北に誘致して、東北地方の開発と国富の増強を目指したものである。これは、第三の「農村・漁村の工業化」と第四の「電力開発」とも連動している。

 つまり、化学工業を設置し、化学肥料や農薬を生産する。これを農村に販売し、農業生産力を強化する。増産された農産物を加工し、軍や都市部に販売する。また、漁村に水産加工場や製薬工場(肝油などは薬になる)を設置して、工業化や衛生の強化を図る。そして、化学工業で使用する電力を賄う為、ダムを建設して電力開発を行う。これが、大まかな構想である。

 

 第五の「農地を含めた土地開発」も、第四の「電力開発」と連動している。

 ダムによる電力開発と共に治水を行い、下流域の氾濫を解消する。氾濫を抑えられれば、今まで開発できなかった氾濫域や湿地の開発が可能となる。ここを農地として開発したり、工場を誘致する事が目的だった。

 

 上記の開発は設立直後から行われたが、大規模過ぎた事で計画は僅かしか実行出来なかった。幾ら財閥の出資を受けたとしても、一民間企業が出来る範囲を超えていた。

 「林業や鉱業の開発」は、奥州地域では多少進んだが、出羽地域では殆ど進まなかった。「化学工業の設置」も、仙台周辺や三陸地域では行われたものの、1933年の三陸地震による津波によって岩手県沿岸部が被害を受けた。これにより、建設途中だった工場は完全に崩壊し、建設も放棄された。その為、「農村・漁村の工業化」「電力開発」「農地を含めた土地開発」も殆ど進まなかった。

 一方、「上記に付随する交通機関の整備」は多少行われ、東北鉄道鉱業、南部開発鉄道、岩手開発鉄道に関与した。

 

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 昭和恐慌や農業恐慌、三陸地震によって東北地方が荒廃すると、政府としてもこれを救済する必要があった。しかし、既に東北拓殖が事業を行っていた事から、新規に組織を形成するのは非効率的であった。その為、東北拓殖に政府が出資する事となった。

 

 これに対し、東北拓殖側は好意的であった。東北地方全体の救済を民間企業だけで行うのは限界があった。その上、自然災害の復旧費用も嵩み、事業の殆どがストップしていた。その為、政府からの出資は有難かった。

 当初、日林は奥羽日林電力との関係からこの案に難色を示したが、直ぐに撤回した。ここでごねたら政府の出資は無くなる可能性があり、現状(1935年)では電力事業が国有化される可能性が高いと見られていた為であった。それに、東北拓殖が純民営から半官半民になるが、日林は影響力を及ぼし続けられる事もあり、大きく反対する事も無くなった。

 これにより、1936年に東北拓殖は一旦解散し、資源開発や化学工業、土地開発などを行う「東北興業」と、電力開発を行う「東北振興電力」を新たに設立し、政府と東北6県からの出資を受け入れた(新設された会社の株式の内訳は、政府が1/3、東北6県が1/6、日林と日鉄が合わせて1/3、東北の有力企業と資本家で1/6)。

 

 その後の東北興業は概ね史実通り、投資会社としての性格を強めていった。実際、1つの会社が複数の巨大事業を行うには限界があった。子会社に事業を行わせるのが効率的であり、本体の負担も少なかった。そして、東北6県に木材、土木、製紙、機械、金属、鉱業など多数の事業に投資し、100以上の子会社を保有する様になった。

 

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 先に述べた東北鉄道鉱業と南部開発鉄道(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)』を参照)は、東北拓殖が出資していた訳では無い。東北鉄道鉱業は日林・日鉄財閥が直接出資していたが、東北拓殖は土地の収用や労働者の斡旋などを行い側面から支援した。

 

 一方、同様の目的で設立された「岩手開発鉄道」は、東北拓殖の子会社であった。目的は、内陸部の石灰石や森林の開発と交通網の整備だった。

 岩手開発鉄道は史実でも存在し現存している。1939年に盛~平倉の免許を獲得したものの、戦争によって工事が中断した。戦後に工事は再開し、1950年に盛~日頃市が開業した。しかし、平倉への延伸は実現せず、1960年に日頃市~岩手石橋が開業したのを最後に、以降の延伸は実現しなかった(残る免許は1976年に失効)。

 人家が稀な地域の鉄道である事から、旅客利用者は非常に少なく、1992年に旅客営業を終了している。しかし、岩手石橋に石灰の鉱山が存在する事で貨物輸送は非常に多く、岩手開発鉄道が存続出来る理由である。

 

 この世界では、1928年に史実と同じ理由で同じ区間の免許を申請し、翌年に免許を獲得した。そして、1930年に東北拓殖が中心となって「岩手開発鉄道」を設立した(東北拓殖が過半数の株を取得。残りは岩手県や岩手の有力企業が保有)。当時、当時はまだ国鉄が盛まで開業していなかったが(国鉄大船渡線の全通は1935年)、1932年から工事に着手した。こちらが先に開業して、国鉄に乗り入れてもらう事にしたのである。

 区間の殆どが山岳部の為、工事は時間が掛ったが、1941年に盛~平倉が開業した。日鉄が工事に関わっていなければ、もっと伸びていたといわれている。

 尤も、岩手開発鉄道は1944年に国有化された。これは、改正鉄道敷設法第9号(岩手県川井ヨリ遠野ヲ経テ高田ニ至ル鉄道)に概ね該当する事、沿線から産出される石灰石の存在、盛の海軍の人造ガソリンの工場(史実では気仙沼に建設された)の存在が理由だった。これにより、岩手開発鉄道線は「盛遠線」と命名された。


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